A midnight dinner

 パタリと扉が開いた。
 リザは両手いっぱいに抱えたサラダやキッシュパイの入ったデリの紙袋を持ったまま、無理やりにキッチンの扉を閉めた。暗闇に手探りして照明のスイッチを探し当てたリザは、真っ先に壁の時計を見上げる。
彼女がロイに予告した来訪の予定時刻は、とっくの昔に過ぎている。リザは手に持った食料をとりあえず全て机の上に置き、鞄を肩から下ろす。そして、冷えきった手を胸の前でこすり合わせながら、傍らの椅子に崩れ落ちるように座り込んだのだった。

 この日、珍しくペーパーワークを真面目にこなした上官と彼の部屋で夕食を共にする約束を交わしたリザは、定時に上がる彼を見送った後、何だかんだと溜まった雑事を片づけ、最後に総務課へと足を運んだ。出来上がった書類を提出すれば、彼女の一日の仕事は終わるはずだった。しかし、リザはそこで予定外の仕事に時間を食う羽目になる。
 なんと彼女が提出した書類の書式が全くの不備であり、その再提出の為に一から書類を作り直す必要が生じてしまったのである。最初に総務から渡された書式が昨年のものであったというのが大本の原因だった。
しかし考え方によっては、書式の確認をせずにそれをそのまま使用した彼女自身にも責任の一端はあるとも言える。そんな結論に達したリザは何も言わずに足りない資料を探し、明朝までに必要であるというその書類をもう一度頭から書き直したのだった。頭の固い総務の担当者と不毛な会話を繰り広げ、激しい抗議をする労力よりも、黙って書類を作り直す労力を彼女は選んだ。どちらにしろ、書式の不備以外にも資料の不足があるのだから、作り直さなければならないのは同じなのだ。リザは、そう割り切って、淡々と仕事をこなした。
 おかげで彼女が東方司令部の敷地を出る頃には、細い猫の爪のような三日月は中空で冴え冴えと凍り付いた夜の街を照らしていて、時計を見るまでもなく夜がとっくに更けてしまったことを知らせていた。ロイに電話を掛けて残業が入ってしまったせいで訪問が遅くなることを知らせようかとも思ったが、軍の回線をそんな私用に使う事は憚られたし、一階の外線室まで行く時間を考えれば書類の作成にその時間を回す方が得策だと彼女は判断し、それを控えた。
まったく、こんな日に約束などするのではなかった。リザは頬を切る冷たい空気の中に、大きな真っ白い溜め息を一つ吐いた。そして、街灯の光に照らされる夜道にヒールの踵で八分音符のスタッカートを刻みながら、腹を空かせて彼女を待っているであろう男の元へと急いだのだった。

 ようやくロイの家にたどり着いたリザは、真夜中のキッチンに一人座り込み、とりあえずの休息を自分に許した。予定外の仕事は彼女の疲労に拍車をかけ、いつもならてきぱきと食事の準備にかかる彼女も、流石に今日は直ぐには動き出す気になれなかった。
 人気のない部屋の空気は冷たく、静まり返った部屋の中には時計の秒針の音だけが響き、普段なら彼女がドアをノックすれば必ず出迎えてくれる筈のこの家の主は未だ姿を現さない。待ち草臥れて眠ってしまったのかもしれない。リザはそう考え、外気と同じくらい冷たい男の家の合い鍵を凍りついた手の中で弄んだ。鈍色に光るその鍵を彼女は常に持ち歩いているけれど、実際に使うのは本当に久しぶりで、彼女は意味もない気恥ずかしさを感じた。
 数えるほどしか使ったことのないこの部屋の合い鍵をロイから手渡されたのは、もう随分と昔のことだ。まだ彼女が彼の副官になって間もない頃、いきなりロイから預かって欲しいと差し出された合い鍵に彼女は仰天した。最初はそれを拒絶したリザだったが、上官に不測の事態が起きた時に副官として対応する為にと言われれば、従わないわけにはいかなかった。
どうにも鍵を受け取らざるを得ないロイの理屈にリザは渋々ながらもそれを受け取ったが、結局、頑なにそれを使うことはしなかった。ロイの方も渡せばそれで満足したのか、それ以上は何も言わなかったし、リザの部屋の合い鍵を寄越せと言い出したりもしなかった。
ただ一度、彼女が部屋を訪れた折、ロイは焔の錬金術に関する暗号が記された研究ノートが詰まった本棚を指し、冗談めかして
「私に万一のことがあったら、この本棚の最下段の書類は全て燃やしてくれ」
 と言っただけであった。彼の最大級の信頼と愛情を示す言葉に、リザは男が最初に言った言葉を愚直に信じる振りをして、敬礼をもってそれに答えたのだった。
すっかり自分の持ち物の一部として馴染んでしまった合い鍵を眺め、リザは二人の距離を思う。
『お互いに束縛はしない』
『仕事に私情は持ち込まない』
 そんな暗黙のルールを胸に、二人は互いの家を行き来する。いっそ一緒に住んでしまえば、という話がロイの口から出たこともあったが、リザはそれを拒否した。受け入れてしまえば、際限なく流されてしまいそうな自分が怖かったからだ。
 上官と部下であることが大前提である以上、どこかに線引きが必要だという彼女の意見に、ロイはどこか諦めたようになおざりな賛同を示し、それ以降その話が蒸し返されることはなかった。そして二人は奇妙な共同生活の真似事を、こうして繰り返している。
 近過ぎず、遠過ぎず。手放すことは出来ず、手に入れることも出来ず。上司と部下でありながら、それ以上踏み込んだところでは躊躇い足踏みをしてしまう二人の間には、何某かの約束があるわけではない。だからこそ、どうにも動かせない距離に、二人は立ち竦んでいるのかもしれない。あるいは、立ち竦む振りをして、真剣に考えることから逃げているのかもしれない。
 例えば、一見幸福そうに睦みあっている時でさえ、リザは彼の手が無意識に、彼女の背の火傷の痕を避けていることに気付く事がある。そんな時、彼女は幸福の中に、少し醒めた感覚を取り戻してしまう。リザが副官になってから、ロイは彼女の背の事を、不自然なほど頑なに口にすることがない。きっと彼女に対する罪悪感に、彼は未だ苛まれているに違いない。リザは己の肉体が、ロイに苦しみをもたらす事に、哀しみを覚える。そんな時、リザは鼻の奥がツンとなる感覚を隠そうと、彼との行為に溺れる。互いに見ない振りをすることによって平穏が保たれるなら、それでいいと思いながら。これもまた、二人の暗黙のルールなのかもしれない。
 リザは自分の考えに憮然として、要らぬ思考を振り切った。疲れていると、どうしようもないことばかり考えてしまう。彼女は手の中の鍵を鞄の内ポケットに放り込むと、美味そうな匂いを漂わせる机の上の紙袋に視線を移し、それから改めて壁の時計を見上げた。
 どう考えても、夕食を取るにはもう遅すぎる時間だ。リザはそう考え、改めてこの家のどこかで眠っているであろう男を思う。
ここしばらく、ろくに休みも取れず、今日だって視察と会議を目一杯詰め込んだスケジュールの中で、明日が二人の休みが重なる日だからとロイが必死にデスクワークをこなしたことをリザは知っている。だから、リザもなるべくなら残業などしたくはなかった。どちらかの部屋で夕食を共に取るということは、彼らにとってはある種特別なことであるのだから。
 手作りの食事を一緒に食べるという行為は、彼らに家族という幻影を見せてくれる。家族というものに縁の薄い彼らが最も身近に共有するそれは、ロイの修業時代のホークアイ家での食卓の風景だ。だから、彼らが家の中という閉じられた空間に於いて二人で囲む食卓は、彼らの原風景であり、彼らの日常に与えられるかりそめの平和の象徴であるのかもしれない。束の間の安らぎと無防備な己をさらけ出せる時間は、修羅に生きる彼らの欠くベからざる大切な安息のひと時なのだ。
 だが、時刻は既に深夜に近い。こんな時間になってしまっては、食べることを楽しむどころか、食事を取るという行為が栄養を摂取するために行う義務にすら感じられてしまう。ましてや、目の前に並ぶのは、美味いとは言え他人が作った出来合いの料理。だから尚更、そんな風に感じてしまうのだろう。
 リザはそんなことを考えつつ、かじかんだままの手をこすりながらノロノロと立ち上がる。疲労のせいか散漫な思考に陥ってしまったが、何はともあれ食卓の用意をしなければなるまい。それが終わってから、ロイを起こしに行けば丁度良いだろう。リザは手を洗うと、目の前に並ぶ袋に入ったままの食料たちを盛りつける皿を探すため、キッチンの一角へと向かった。
リザは勝手知ったる棚の中から、二枚の皿とサラダを入れるボウルを選び出す。シンプルな白い食器ばかりが並ぶ殺風景なロイの家の食器棚では、食器を選ぶのに迷うこともない。彼女は手早くサラダとバゲットを皿に盛りつけると、キッシュパイを余熱状態にしたオーブンに放り込みタイマーを合わせ、キッチンを後にした。

 まずは寝室をのぞき、ロイがそこにいないことを確認したリザは、真っ直ぐにリビングへと歩いていった。ベッドにいないとなると、男の居場所は、そこしか考えられなかった。きっと、読書をしているうちに、いつものソファで転寝してしまったに違いない。
 軋むドアをなるべく静かに開け、リザは淡い橙色の読書灯が照らし出す薄闇に目を凝らす。なかなか闇に目が慣れず、リザはそっと彼に向かって呼びかける。
「大佐?」
 自分では小さな声のつもりだったのに、静かな深夜の部屋に彼女の声は不自然な大きさで響いた。リザは自分の声に驚いてぎゅっと口を噤む。しかし、彼女の呼び掛けに返事はなく、リザはそっと足音を忍ばせて部屋の片隅へと手探りで近付いていった。
 リザの予測通り、ソファの読書灯とは反対側の暗い片隅で、黒髪の男は闇に埋もれて眠っていた。彼にしては珍しい黒いシャツに黒いズボンを着た姿は、まるで夜の迷彩を纏っているかのように見え、何から身を隠しているのかしら、とリザは思わず笑ってしまう。
笑いは疲れで凝り固まった彼女の心を僅かに解し、リザは柔らかな微笑を浮かべたまま、彼の足下に落ちている分厚い錬金術の専門書と読書用の銀縁の眼鏡を拾い上げた。ロイの膝の上から滑り落ちたに違いないそれらの品をサイドテーブルの上に置くと、リザは闇に半ば隠れた男の顔を見つめた。
 電球の淡い光の作る影の下で眠るロイは、ひどく疲れているように見えた。おそらく光の陰影のせいで、眼の下の隈が余計に濃く見えるせいだろう。まぁ、あれほど重たい本を落としても気付かずに眠っているのだから、多分本当に疲れきっているに違いない。
最近、デスクワークが多くて残業が続いた上に、先週は管轄区内でテロ組織の関わる事件が起こった所為で、彼の休暇は潰れてしまった。久々の休日を迎えたともなれば、眠ってしまうのも当然だろう。
あまり遅くならない内に夕食をとってもらいたいと思う気持ちと、ここまで疲れきっているものを起こしたくないと思う気持ちが綯い交ぜになり、リザは彼に声をかけることが出来なくなってしまう。自分で起きてくれないかしら? そんな無茶なことを考えながら、彼女はお行儀悪くソファの肘掛けの部分に腰を下ろし、無防備に眠る男の姿を見下ろす。
 自分の肘で腕枕をして眠っているロイは半ば口を開け、あまり何も考えていなさそうな暢気な寝顔をリザの方に向けている。頬に少しだけ生え始めている無精髭が妙に似合わない気がして、リザはまじまじと男の顔を覗き込んだ。
 いつも近くで見ている筈の男の姿は、眠りの中にいるとまた別人のように見えるから不思議だ。もともと丸顔で童顔なロイではあるのだが、こうして眼を閉じている姿は、例え草臥れ果てて眠っていようとも、更に若く見える気がする。普段の意図的に策士を気取った表情が消えるせいだろうか? だから髭が似合わなく見えるのか、とリザは納得する。
しかし、それと同時に、幾つになっても変わらぬ男が無性に小憎らしく感じられ、リザはちょっとしかめ面を作ってみせる。リザなんて隈が出来ただけで、酷い顔になってしまうと言うのに。童顔って狡い。疲れのせいか下らない事が腹立たしく感じられ、リザは思わず呟いた。
「反則だわ」
 そう言葉に出して、リザは眠る男の髪に触れるか触れないかの距離に手を伸ばした。と、不意にロイの大きな手がぬっとつき出され、彼女の手首を掴んだ。
「きゃ!」
 吃驚して思わず声が裏返ってしまったリザを、悪戯な微笑で上目遣いに見上げ、ロイはソファの上で仰向けに転がった。そして彼女の手首を握りしめたまま、うんと一つ伸びをすると、まだ少し眠そうな声で彼女に問うた。
「何が反則なのかね?」
 リザはロイの問いかけを無視すると、自分の方から逆に質問を返す。
「大佐、いつから起きていらしたのですか?」
「今、君がその扉を開けた音で目が覚めた。少し横になるだけのつもりが、どうやら本格的に眠ってしまったらしい。すまない」
 ロイは彼女の質問に答えながらソファの上に起きあがると、その反動で握ったリザの手首を軽く引き、彼女の身体を自分の方へと引き寄せた。急な力の付加にリザは肘掛けの上でバランスを崩し、ロイの上に倒れ込むようにソファの座面へと滑り落ちる。
「危ないですから、お止めください!」
 フワフワしたクッションの上に落ちたのでは全く無意味な抗議を、真面目な顔でしてみせるリザに、ロイは笑った。
「大丈夫だ、私がきちんと受け止めるから」
 冗談とも本気ともつかぬ口調のロイに、リザは腹を立てかけたが、結局は彼を待たせた自分が悪いのだと次の言葉を飲み込んだ。そんなリザの様子を見たロイは張り合いがないなと肩を竦めて、リザの手首を握っていた手を離すと、そのまま彼女の手の甲の上からその手を握りしめた。男の手の中にすっぽりと収まってしまう形で握られた手は、その中で外気の冷たさを放散する。
「相変わらず、冷たい手をしているな」
 それに気付いたロイはそう言ってもう一方の手を差しだし、リザの反対側の手をそこに乗せるようにと促す。リザは少し躊躇ったが、結局何を今更とちょこんと己の手を彼の前に差し出した。
さっとリザの両手を捕まえ、自分の両の掌でサンドイッチにしたロイの体温は、先程まで眠っていたせいで常より幾分か高くなっている。おかげで、氷のように冷え切った彼女の手は、急速に解凍されていく。指先にじんわりと感覚が戻ってくると共に、リザは自分の肩からゆっくりと力が抜けていくのを感じる。
人肌の温かさは、冷えた身体だけではなく疲れた心も一緒に温めてくれるようで、リザはその心地好さに甘え、そっと男の肩に自分の頭をもたせ掛ける。リザは男の肩の付け根の少し窪んだ場所に頭部を預け、彼の心音を聞くこの体勢が好きだった。疲れた身体に、包み込まれるような男の温もりが染みた。
 控えめではあるものの珍しいリザからのスキンシップに、ロイはおや? と驚いた表情を作ったが、そのまま何も言わずにリザの重みを受け止めてくれる。そして、彼女の両手を包み込んでいた手を片方だけ離すと、彼女の肩を優しく抱いた。
「まったく、君も損な性分だな。適当に切り上げてくればいいものを」
 ロイは、リザの冷たい髪に頬を埋めるように囁いた。そういう器用なことが出来ないのがリザであるという事を分かった上で、敢えてそう言ってくれる理解者の存在に、リザは頬を緩めた。返事の代わりにリザは少しだけ首を横に振り、ロイの黒いシャツの肩口に顔を埋める。鼻に馴染んだ男の体臭に奇妙なほどの安堵を覚え、リザは口元に自然に笑みを浮かべていた。
 なぜ自分は寒いキッチンで一人でくだらないことばかり考えて、時間を無駄にしていたのだろう? リザは思う。
 確かに彼らの関係は曖昧だ。しかし、こうして手の届くところにこの男は存在し、リザを慈しみ甘やかしてくれる。上官として時に厳しく彼女の前に毅然と立つ顔の裏に、男として包み込むように彼女を愛する顔を隠しながら。曖昧なものに無理に名前を付ける必要はないのだ。少なくとも、彼らの間に於いては。
 リザはさっきまで疲労のせいで負の思考の迷路に迷い込んでいた自分を莫迦莫迦しく思いながら、耳に流れ込む男の心地良いバリトンの声の響きに身を委ねる。
「で、用意周到な我が副官殿が、残業の配分をこれほどまでに見誤るとは、いったい何があったのかね?」
 肩を抱いていたロイの手が一瞬彼女から離れ、器用な指がパチンとリザの髪留めを外した。それは、ロイの前で彼女が『中尉』の肩書きを外す合図だ。ぱさりと肩の上に散るリザの金の髪を弄び、ロイは再び彼女に問う。
「何があった?」
 全面的に彼女の副官としての能力を信用する男は、無邪気なほどに率直に彼女にそう問いかける。
それは彼を待たせた理由を詰問する為でもなく、彼女の仕事の落ち度を追求する為でもなく、リザがいつも己の内部に溜め込んでしまう澱を払う為の行為なのだ。柔らかにリザの髪を撫でるこの男は、いつもこうして不器用な彼女を解放する。彼のそうした心遣いだけでも十分であるというのに、リザが口を割るまでは決して彼女を離してくれないことだけが、彼女には不満であった。もっともそれは、贅沢過ぎると言われても仕方のない不満ではあるのだが。
 頑なに口を閉じるリザの髪を、悪戯な男の指が無遠慮に引っ張り、とろけるように優しい声が彼女のファースト・ネームを呼ぶ。
「リザ?」
 彼は自分の声がどれほど効果的に彼女を籠絡するか、分かってこんな声を出すのだろうか。リザは思わず全面的に降参してしまいそうになる自分を叱咤し、毅然とした眼差しで彼を見る。
「リーザ」
 さらに甘くなる低い声は、『言ってしまえ』と言葉にするよりずっと効果的に彼女に口を開かせる力を持つ。ねっとりと蜂蜜のように耳元に流し込まれる声と吐息に、リザはふるりと身を震わせた。ああ、仕方がない。彼女は観念して、重い口を開いた。
「総務への提出書類に、ちょっとした不備があったものですから」
 リザはわざとボカした答えを返すが、ロイは追求の手を止めてはくれない。
「ちょっとした不備程度で君がここまで遅くなるとは、考え難いのだがね。私の方で何かミスがあったか? だったら、すまなかった」
 先回りで上官に謝られてしまっては、リザの方も正直に真相を答えるしかなくなってしまうではないか。まったくズルい人だ。リザは胸の内で文句にもならぬ文句を呟きながら、ロイにもたれ掛かっていた身体を起こしビシリと背筋を伸ばすと、副官の顔に戻り簡潔に事の真相を述べた。
「提出した書類の書式が、昨年度の形式だったものですから」
「受理されなかった、と?」
「はい。それから、一部書式の変更と共に項目の変更もありましたので、調べねばならないこともありました」
「それは君のミスかね」
「そうであるとも言えますし、そうではないとも言えるかもしれません」
「私は君と禅問答をする気はないのだがね」
 うんざりした顔で言うロイに、リザは至極真面目な顔で答えた。
「直接の原因ということでしたら、総務から回ってきた書類が元々間違っていた、と言う事になります」
「向こうの不備が原因なのだろう? なら、期限の延長を訴えても良かったのでは?」
「しかし、くだらない押し問答をするよりは、その場で再作成した方がよほど早いですし、あちらに貸しも作れます」
 リザの言葉に、ロイは信じられないと言うように、頭を振ってみせた。
「まさか、君。あの時間からあの書類を一から作り直したと言うのかね」
「はい、少々足りない資料を探すのに手間取りまして、遅くなりました。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
 淡々と答えるリザの返答の内容に、ロイは絶句している。普通に考えてそれは至難の業と言っていいことだった。十数ページに及ぶ書類を書き写すだけでも一苦労であるというのに、それに加えて真っ暗な夜の資料庫で資料を探していたとは。ロイは気色ばんで、彼女に言った。
「全く君は、どこまで生真面目なんだ。明日、ファルマンにでも協力させて、やり直せば良かったものを」
「大佐。明日は、私も大佐もお休みの筈では?」
 リザに揚げ足を取られ、更に不満そうな表情になるロイに、彼女は顔を上げて微笑んでみせた。やはり間近に見る無精髭の生え始めた男の顔には目の下に深い隈が存在していて、彼自身もリザと同等の、あるいはそれ以上の疲労の中にいることを物語っている。
それでも彼は残業で疲れたリザの身を思いやり、その苦労をすくい上げてくれている。それだけで、リザは十分報われている、これ以上何を望むことがあるというのか。
 そんなリザの胸の内も知らず、気を取り直したらしいロイは憤った口調のまま彼女に言った。
「明後日、総務に抗議しに行ってやる」
「大佐、もう済んだ事ですから」
「だが、君の方に間違いがあった訳ではないのだろう?」
「それは、そうですが……」
 今更言ったところで。そう思うリザの煮え切らない態度に業を煮やしたのか、彼はリザに向けて、文句を言ってみせる。
「大体、君も君だ。その場で文句を言えば良いものを」
「ですが、書式の確認を怠った事は私の落ち度であります」
「最初に間違った書類を渡したのは、向こうの落ち度だ」
「文句を言っても言わなくても再作成という結果が同じなら、余計な労力は使わない方が良くはありませんでしょうか?」
「まったく、君って人は!」
 匙を投げたと言わんばかりにロイは彼女から両手を離し、わざとらしく天を仰いでみせた。読書灯の光がロイのシルエットを淡く縁取り、彼の演技をスポットライトのように照らし出す。リザは微笑みながら、そんな彼に感謝の視線を送った。ロイはリザが己の中にしまい込んだ愚痴を引き出し、怒らぬリザの代わりに憤ってくれているのだ。
 そう、例えば今日のような事は、本当に日常茶飯事なのだ。何某かの小さなトラブルがあった時、それが余程の過失でない限り、どちらかが大人になって多少の理不尽を飲み込んでおけば、組織などそこそこに回っていくものだ。その分、他の案件で融通を利かせてもらったり、便宜を図ってもらったりするのだから、そこはお互い様なのである。
副官の仕事などというものは、そう言った理不尽を飲み込み、様々な部署との調整を続けるポジションに他ならない。しかし、そうやって事あるごとに飲み込み続ける小さな刺は、溜まり溜まって、いつしか大きなストレスの塊になってしまう。リザが飲み込むそんな小さな刺を、ロイはいつだってこうして吐き出させてくれるのだ。放っておけば、彼女がそれを自身の中に溜めたままにしておくことを、誰よりも彼はよく知っている。
「私は、そんなに酷い顔をしておりましたでしょうか?」
 感謝の言葉の代わりに、リザは彼にそう尋ねた。彼の気遣いを彼女が受け取った事を示す為に。ロイは芝居がかった仕草を止め、バレたかと言うように肩を竦めてみせると、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「そうだな、ご機嫌麗しいようには見えなかったかな」
 そう答えたロイは勢いをつけてボフンとソファの背もたれに身体を沈めると、彼女に手招きをしながら付け加えるように言った。
「ま、こんなに遅くまで働いて、ご機嫌でいる方がおかしいとも思うがね」
 彼の誘いを無視して、リザはソファに斜めに座る形でロイの方を向き、そしてそのまま丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「君ね……プライベートでまで、その他人行儀なやり方は止めてくれないかね」
「ですが、仕事のことですので」
 堅苦しいリザの言い草に、ロイは眉をひそめてみせる。
「ここは私の家だ、執務室ではない」
「親しい間柄ですからこそ、こういった感謝の表現を疎かにしてはならないのではないかと思うのですが」
 いったん仕事の話になり、副官の顔に戻ってしまったせいで、あくまでも今をプライベートと割り切ろうとしないリザに、ロイは興醒めした様子を見せる。そして、彼女の感謝を受け流すと、仕切りなおしだとばかりにソファの背をポンポンと軽く叩き、もう一度彼女に自分の傍らに来るように促した。
「おいで、リザ」
 これで堂々巡りの言い合いはお終いだと言わんばかりのロイの態度に、リザは渋々ながら口を噤む。とその瞬間、気短な男は性急に腕を伸ばして少々乱暴に彼女を引き寄せると、倒れ込む彼女の身体を己の胸に抱き止めた。そして、彼女のおとがいを掴むと彼女の唇を己のそれで塞いだ。
「!?」
 驚きに目を見張る彼女の目の前に、男の長い睫毛が迫る。軽く唇と唇を触れ合わせる口付けは、すぐに彼女を貪る深いものへと変化する。優しさと情熱に満ちた口付けは、リザの中の女を暴こうと彼女をまさぐる。
 繰り返される不意打ちに男の胸を突き放し、顔を上げたリザは抗議の声を上げる。
「大佐、いきなり何を!」
「感謝の表現なら、これで十分だ」
 不適な笑顔で、ロイはそう言い放つ。赤面したリザは返す言葉もなく、彼の腕の中でそっぽを向いた。読書灯を背にしたお陰でロイからは彼女の姿は逆光になり、彼女が赤面しているのが見えないであろう事だけが、唯一の救いだった。リザは、悔し紛れに言う。
「危ないですから、急に手を引くのはお止め下さい」
「だから、きちんと受け止めるから大丈夫だと言っただろう?」
「そういう問題ではありません」
「では、どういう問題なのかね」
「ですから……」
 目の前でニヤニヤと笑うロイの姿に、彼女はようやく自分がからかわれていることに気付く。リザは微かに口を尖らせ、己の不満を男に知らしめた。それを見たロイは、クツクツと喉の奥で笑ってみせる。
「大体が、だね。私はこんな時間まで腹を空かせて、君を待っていたんだ。こんな美味そうなキッシュパイの匂いを嗅がされながら、君を目の前にして、どちらもおあずけを食らっている私を、君はちっとも可哀想だとは思ってくれないのかね? リザ」
 ふざけた口調で至極もっともな理屈を述べるロイに、リザは怒った顔を保っていられなくなる。
まったく、この男には敵わない。リザを甘やかしながら、それを負担に思わせない男のやり方にリザは降参する。確かに先刻リザがオーブンに入れてきたキッシュパイはすっかり温まったらしく、家中に香ばしいパイ生地と卵とクリームの匂いをまき散らしている。それに気付いた瞬間、リザは驚くほど自分もお腹を空かしていることに気付く。
「申し訳ありません。食事の準備はほぼ出来ていますので、すぐにでも……」
 そう言って立ち上がりかけたリザの手を引き、ロイは再び彼女をソファのクッションの中に引き戻す。
「大佐?」
 訝しげなリザの声に、ロイはひどく真面目な顔を作って静かに彼女の頭を見つめ、それからもう一度自分の胸に彼女をゆっくりと抱き寄せた。
「急がなくていい」
「ですが」
「確かに腹も減っているが、キッシュパイより、君のケアの方が優先順位が上だ。こんな遅くまで、面倒な仕事をしていたんだ。疲れているだろう? 少しゆっくりしたまえ」
 予想外のロイの行動に面食らうリザの頭を、大きくて温かな男の手が撫でる。その行為は、言葉以上に雄弁に彼が彼女を労ってくれていることを示していた。リザは何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言う必要がないことに気付き、そのまま口を閉じると、されるがままに彼に身を委ねた。
彼の腕の中は温かく、ひどく居心地が良くて、リザはすっと目を閉じると彼の胸に寄り添った。先程からの彼とのやり取りの中で、冷え切っていたリザの身体はすっかり温もりを取り戻していた。
 ロイは彼女の長い髪をすくように、ゆっくりとリザの頭頂部から背中へと手を滑らせていく。まるで機嫌の良い猫を扱うようなロイの手つきは、彼女を再び『中尉』から『リザ』へとシフトさせるかのようだった。
「遅くまでご苦労だった。ありがとう」
 素直にハイと言えないリザは、男の胸に頬を押し付けた。彼の方も心得たもので、それをきちんと彼女の返答と受け取り、彼女を抱く手に力を込める。そして、また彼女の背に優しく掌を滑らせる。
ロイがあまりに優しくリザの背を撫でるので、リザは自分がこのまま眠ってしまうのではないかと感じる。そんな彼女の頭上で、ロイの声が穏やかな会話を紡ぐ。
「ところで、今日のメニューは何だね。キッシュパイがある事は、間違いなさそうだが」
「それに、パンとコールスロー・サラダです。角のデリのものばかりで、申し訳ないのですけれど。もし、ご希望でしたら、簡単なスープでしたら直ぐにご用意しますが」
「いや、疲れているだろうに面倒を掛ける訳にはいかない。スープはいい。それにあそこの総菜は美味いから、気にすることはない」
「ありがとうございます」
 リザは睡魔を追い払おうと、頭を振った。これから、リザは彼と二人で温かな食卓を囲み、なんて事のない会話を交わし、空腹を満たす幸せを共有するのだから眠っている場合ではない。そう考えながら重たくなる瞼を必死で開けるリザの耳元で、ロイはくすりと笑うとこう言い足した
「それに明日は、待望の君の手料理が食べられるんだ。一日くらい何だって我慢するさ」
 リザは彼の手を背中に感じながら、そっとロイのほうを見上げた。今日、こんな時間まで彼に待ちぼうけを食らわせたお詫びになるのならば、どんなものでも彼のリクエストに応えたい。そう思って、リザは彼に小さな声で問いかける。
「何かご希望のメニューがございますか?」
「そうだな……寒くなってきたから、シチューか何か煮込み料理が良いかな」
 リザは少し考えて、彼が修行時代から好んだ料理の名を上げてみた。
「ポトフなどは、いかがでしょう?」
「ああ、それは楽しみだ」
 そう言ってロイが笑うと同時に、彼の腹がグウと盛大な音を立てて鳴る。情けない顔をしてみせるロイに、リザは思わず声をあげて笑った。
二人は顔を見合わせると、真夜中の夕食をとるためにソファから立ち上がった。ダイニングへ向かおうとリザが歩き出した時、後ろにいるロイの柔らかなバリトンの声が、不意に真剣な声音を作る。
「ああ、しまった。君に一番大切なことを言い忘れていた」
「なんでしょうか? 大佐」
 振り向いて、真面目な顔で問い返すリザの瞳を真正面から覗き込み、ロイは穏やかに微笑んで言った。

「お帰り、リザ」

 優しい夜の色の瞳に見つめられ、リザは気恥ずかしさを感じながらも、同時にこみ上げる幸福を噛み締め、微笑んだ。

「ただ今帰りました」

 ロイはにこやかに頷くと、今度は壊れ物に触れるように、そっとリザの頬を自分の両手で包み込み、慈しむような口付けを彼女の上に落としたのだった。

 

                      Fin. 

【あとがきのようなもの】
 611の日!

 10年前の冬コミ発行短編集「Midnight Chocolate」よりWeb再録。

当時お手にとって下さった皆様(まだ見て下さってる方がいらっしゃいましたら)、ありがとうございました!