真夜中のライン

夜の空気は、冷たく澄んでいた。
リザは闇の隙間を縫うように静かに歩く男の背中を間近に見ながら、人気の無い公園を歩いていく。
スリーピーススーツの上着の前を開けた男は、いつもより少しだけ隙のある空気を漂わせ、リザはその雰囲気に寄り添うように、アルコールの混じった吐息を夜に隠し、プライベートの穏やかな時間を噛み締めた。
ガス燈の微かな灯りがロイの姿を朧に闇の中に照らし、リザはほろ酔いの男の緩やかな足取りをなぞる様に、足音を忍ばせて彼の背を追う。
ここ数日の彼の不機嫌がアルコールによってようやく解けたようで、リザは張り詰めていた自分の気持ちが緩んでいくのを、その穏やかな背を見ながら感じていた。

ここ数週間、ロイもリザもとある事件に振り回され、心の休まる暇も無かった。
リザはその中でも、地味ながらバックアップとして重要な任務を任されていた。
この事件に関わっている間、リザが過剰に被る危険を彼は怒り、勝手にそれを引き受けた彼女と彼の間には険悪な雰囲気が醸し出されていた。
ロイは彼女の無茶を叱り、重責を被るのは自分だけで十分だと主張し、言う事を聞かない彼女に頭をかきむしっていた。
そのくせ、なんだかんだ言いながら、作戦の成功の後には慰労だと言ってこんな風に彼女のケアをしてくれる。
リザは前方を歩く男を改めて見る。
久しぶりの二人きりの夜、彼らは共に食事を取り、美味い酒を飲み、仕事とは無関係の他愛のない会話を楽しんだ。
それだけで、彼女は十分報われる。
しかし、ロイは彼女を案ずる事を止めない。
二人の小さな距離は、そんな部分で縮まらない。
それでも、こうして歩く夜は、リザに幸福と充足を与えてくれる。
だから、重圧から解放され少しだけアルコールを過ごしたリザは、こうやって帰り道の途中の小さな遠回りをロイに許されている。

と、不意にロイが闇の中に、立ち止まった。
どうしたのだろう? 
不思議に思う彼女の前で、ロイはすっと屈みこんだ。
次に立ち上がった彼の手の中には、折れた木の枝が握られていた。
彼は何をしようとしているのだろう? 
ロイの意図がさっぱり読めないリザは、棒切れを手に意外なほど真面目な顔をして地面を見る男を黙って見つめた。
また、地面に練成陣でも描いて何か練成し、彼女を驚かせる気なのだろうか?
そう考えるリザの目の前で、男はリザを見て、自分の足元を見て、何か考えていたかと思うと、不意に二人の間の地面に一本のラインを引いた。
いぶかしげにラインの向こうに立つロイを見つめるリザに向かい、彼は少し寂しげな顔をして笑い、何かを手放すようにぱっと彼女に向かって両の手のひらを広げてみせた。
ガス燈の灯りに照らされた白い地面に一本引かれたラインは、黒々と夜の陰影に浮かび、ロイとリザの間を隔てた。

リザは思わず身震いした。
酔った彼女の瞳には、まるで、そのラインが彼と彼女を隔てる深い溝のように映った。
ロイに置いていかれるような強烈な不安が、リザの中に湧き上がる。
彼はまだ怒っているのだろうか。
彼女を安全圏において、独りで行ってしまおうとでもするような男の姿にリザの心は凍り付く。
戯れのように引かれたラインが、彼女の胸をかき乱す。
そんな彼女を見つめ、ロイは静かに笑っていた。
穏やかな哀しみを湛えたロイの笑みは、彼女の無茶を叱った彼の諦念と、結果の責任を独りで負おうとした彼の覚悟を改めて見せつけられるようだった。
リザは必死に彼に追いつこうと、思わず小走りでロイの後を追いかけ、細い棒切れで引かれたラインをふわりと飛び越えた。
だが、ロイは笑みを浮かべたまま、距離を詰める彼女からするりと一歩引いてしまう。

はっとする彼女の前で、ロイはまたすっと一本のラインを地面に引く。
頼りない一本のラインが、またロイとリザの間を隔てる。
リザはまたロイを追い、ちっぽけな木の棒が作ったラインを飛び越える。

酔ったロイは笑みを浮かべたまま、またラインを引いた。
リザは泣き出しそうな思いで、そのラインを飛び越える。

ロイの手が、またラインを引こうとした。
独りで何もかも背負い込んで、リザを置いて行ってしまいそうな男の腕にリザは我を忘れてしがみつく。
その反動でロイの手からカランと静寂を破る音を立て、棒きれが転がり落ちた。
ロイは、それでも静かに笑っていた。

「置いていかないで下さい」
リザはただ必死で、そう一言だけ言った。
意味など無い酔っ払いの戯れかもしれなかった。
それでも、リザはそんな風に流してしまうことが出来なかった。
彼女に腕の動きを封じられたロイは、しばらく黙り込んだままリザの背後に幾本も引かれたラインを眺め、ぽつりと言った。
莫迦だな、君は」
そう言って、ロイは自由な方の手でゆっくりと彼女の頭を撫でた。
その言葉は、ロイの無意味な行動にむきになる彼女の子供っぽさをたしなめる様にも、ひた向きにロイに付いて行こうとするリザの愚直さをたしなめる様にも取れる曖昧さでリザの耳に響く。
リザはその両方の意味でロイの言葉を受け取り、俯いたまま小さく呟いた。
「何を今更」
ロイはその言葉に、ぎゅっと彼女の華奢な身体を抱きしめると、彼女の頭上で「本当に君は莫迦だな」と呟くと、その頭頂に静かに口付けを落とした。
リザはその唇の温もりを受け止め、すっかりアルコールの冷めた瞳でロイを見上げ、夜の空気の冷たさではない震えを、そっと身体の奥底に隠したのだった。

Fin.

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【後書きのような物】
 インテで配布させて頂いたペーパーのSSです。宵っ張りイヤイヤ期の甥っ子(ちょっと鉄ヲタ)に邪魔されて、推敲の時間も取れなかったので少し手を入れました。イメージは、真夜中の影踏み哀歌。ある意味『静かな哀しい夜』。だって、影のない真夜中の影踏みは、永遠に終わらないのですから。

お気に召しましたなら。

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