其の五 生殺しスタンドナイト 

 常夜灯代わりの読書灯の下、ロイは己の部屋の中央でぼうっと立ち尽くしていた。彼が部屋の明かりを点ける事さえ億劫になっている理由は、疲れているからだけではなかった。

「大佐?お掛けになりませんのですか?」

 異常なほどの至近距離で、常に無く甘く可愛らしい声が彼の耳朶を吐息と共にくすぐった。それと同時に彼の肩に掛かる重みがぐっと増し、彼の礼装の肩章がその重みと一緒にずり落ちていく。

 なけなしの理性を総動員したロイは、昼間の憎たらしいほどのクールさが嘘のような酔っ払いに肩を貸したまま、彼女の問い掛けを無視して、とりあえず彼女の身をソファーに座らせようとした。

 ところが困った酔っ払いはロイの思惑を無視し、彼の首にしがみついてくる。仄かな硝煙の臭いとそれを上回るアルコールの臭いを振りまきながら、彼女はイヤイヤをするように首を振る。

「上官より先に、副官が着席するわけには参りません! 大佐が先にお掛け下さい!」

 そんなに首を振っては、さらにアルコールが回って大変なことになるのではないだろうか。そう考えながら、ロイは己の忍耐力をフルに働かせ、極力声の調子を抑えて彼女に至極当たり前の事実を教えてやった。

「この状態で座れるわけが無いだろう。いい加減離してくれないか、君」

 だが、半ば彼女を叱りつけるように吐き出された彼の言葉は、まったく酔っぱらいの耳には届いていないようだった。リザは彼の困惑をまったく意に介することもなく、きょとんとした顔で彼を見上げるばかりだった。

 常ならば眼光鋭い鷹の目が仔リスのそれのように愛くるしく見開かれ、吸い込まれそうなヘイゼルの瞳が彼の顔の至近で瞬いた。彼女の唇よりも雄弁な瞳に気圧される彼に対し、リザは全く心外だと言わんばかりに唇をつきだして文句を言う。

「私に何か問題がございましたか?」

「あるよ、ある。大ありだ。この酔っ払いめ!それから、上目遣いは止めたまえ」

「私といたしましては、大佐に酔っぱらいと呼ばれるほどに酒量を過ごしたつもりはございません。それから上目遣いと申されますが、大佐の方が私よりも背が高くていらっしゃるのですから、見上げなくては私は大佐とお話出来ないのです。その点をご考慮いただいた上で、命令を下していただきますようお願いいたします」

 理路整然と話しているようで、全く支離滅裂な彼女の言葉にロイは頭を抱える、そうしている間にもアルコールで体温の上がった彼女の身体はぎゅうぎゅうと押しつけられてくるし、酔いに潤んだ瞳はひどく挑発的に彼をねめつけてくるし、事態はますます悪化の一途をたどるばかりだ。ロイは己の理性と忍耐が決壊しないように必死に頭の中で素数を並べながら、彼女に聞こえるか聞こえないかの大きさの声でぼそりと呟いた。

「大分と過ごしすぎだよ、君は」

「そうでしょうか?」

 彼の苦労など知らぬと言わんばかりの様子で言ってのけるリザに、脱力したロイはがくりと肩を落とすと諦めの体で彼女に言う。

「もういい。とにかく座りたまえ」

「ですが」

 彼に追い打ちをかけようとするリザの言葉を途中で遮り、彼は酔っぱらいにも通じるであろう折衷案を提示することにした。

「分かった。私が先に座れば、君に否やはないわけだな?」

「イエス、サー」

「では、私が座れば君も座るな?」

「イエス、サー」

「では、一二の三で座ろう、いいな?」

「イエス、サー」

「……まったく、なんだってこんな」

「何かおっしゃいまして?」

「いーや。ほら、一二の三」

 ぼすん。

 ご機嫌な様子でにこりと笑ったリザを支えながら、ロイは仕方なく、彼女と共に自分もソファーに沈み込む。ふにゃりと寄り添ってくる柔らかな身体を片手に抱え、ロイは事の顛末に頭を抱えた。

 

 半月前、数年ぶりにアメストリス国に迎えた国賓の警護において、ロイは彼の部下達と共に国賓に対する暗殺計画を暴き、これを阻止した。めざましい活躍をした彼らマスタング組の面々は、全員揃って受勲の栄誉を受ける栄誉を得た。基本的に面倒見の良い彼としては、部下の功労に応えるべく、その祝賀会の代わりとして、自腹で部下達の慰労の為の飲み会を行ったのだった。

 だが慰労会の当日、諸般の事情でお偉方との面談に臨まねばならず、礼装のまま一人遅れて飲み会の席に到着したロイが見たものは、すっかり出来上がった部下達の姿であった。羽目を外すにも程がある、としか言い様のない状況を目の当たりにしたロイは、その時点で自分が酔っぱらうことを諦めた。そして、何だかもう酔って訳が分からなくなっている莫迦どもを片付け、支払いを済ませ、慰労会をお開きにしたのだった。

 そのこと自体は、別に構わない。軍の規格に当てはめるにはちょっと面倒で優秀な部下達を彼は信頼しているし、その働きに応えるのが上官の責務の一つだとも彼は思っている。それに、オフで多少羽目を外そうが彼の部下たちは職務にまでそれを引きずるような愚か者ではないし、次の任務の士気を高めるためにもガス抜きは必要なものである。自分が参加できなかったのは残念ではあったが、機会はまたいくらでもあるから、それも構わない。

 だがひとつ、どうにもならないことがあった。それは、普段は沈着冷静な筈の彼の副官であった。

 驚いたことに、彼女は相当酔っぱらっていた。

 責任ある狙撃班のリーダー的役割は、彼女によほどのプレッシャーを与えていたのであろう。少量のアルコールとその重責からの解放感が、彼女にアルコール摂取量の判断を誤らせたに違いなかった。

 彼の前では生真面目な副官の顔を滅多に崩そうとしない彼女の、おそらく彼に初めて見せるであろう酔いつぶれた可愛らしい姿は、様々な意味でロイにはどうにも困ったものとなる。だから彼は、早々に彼女を自宅に帰そうとしたのだ。だが、彼女は彼を解放してはくれなかった。結局自宅の鍵が見つから

ないと喚く彼女を連れて、仕方なくロイが己の自宅に向かったのは、既に日付が変わろうとする頃の事であった。

「中尉、水でも飲んで酔いを冷ますか?」

 酔っぱらいに手を出すことも出来ぬ素面の己を恨めしく思いながら、ロイは幸福そうに彼の首にしがみ付いたままの彼女に上を向かせた。

「中尉?」

 静かになったと思ったら、彼女はトロトロと酔いに任せて半分目を閉じてしまっていた。今にも眠ってしまいそうな彼女の様子に、彼は慌ててリザの身体を揺さぶった。

「おい、こら、中尉。頼むから起きてくれ。君も私も明日は仕事だ。いい加減私もこの堅苦しい礼装を脱いでベッドに入りたい。君だって折角のワンピースが皴になってしまっては、困るだろう?」

「いいんです。私は一度帰宅し、着替えてきていますから」

 何が良いのか、噛みあわない会話にリザはにこりと笑うと、ロイの胸にぺたりと寄り添ってくる。艶かしくアルコールに濡れた半開きの唇が迫り、ロイはあさっての方向に視線を逸らし、リザを引き剥がそうと空しい努力をする。しかし、リザは物珍しそうに彼のサーベルの吊り紐を弄ぶばかりで、一向に彼の困惑に気付いてもくれない。

「そう言えば、大佐はご帰宅なさらなかったのですか?」

「この格好でとりあえずあの場に駆けつけたのを見れば、言わずとも分かるだろう」

「ああ、そうですね。大佐は、礼装のままでいらっしゃいますものね」

 嫌みすら通用しない酔っぱらいはフニャフニャと笑いながら、彼女を振り解こうとするロイの手に抵抗し、ますますぎゅうぎゅうとその柔らかな身体を押しつけてくる。

 いくら礼装の硬い生地で肉体を鎧っていようと、その高い体温はダイレクトに伝わってくる。紳士であるところの彼は、煩悩と理性の狭間でグラつきながら、頭の中で今度は元素の周期律を唱え、酔っぱらいとの空しい攻防をいかに終わらせようかと思案する。

 だが、リザはじっと至近距離から彼を見つめ、思いもかけないことを言った。

「大佐?」

「何だね?」

「でも、やはり、礼装はいいです」

 ロイは突然の会話の飛躍に面食らい、まじまじとリザの顔を見つめ返す。

「……君は何を言っている?」

「ですから、今、大佐が着ておいでの礼装の話です」

「こんな見慣れた礼装の、どこが良いのかね?」

 至極当然なロイの問いかけに、リザは嬉しそうにクスクスと笑った。

「ストイックで凛々しい感じがして、男振りが上がる気がします。硬い生地ですとか、軍帽ですとか、オールバックにしていらっしゃるところですとか、いつもより、二割増し程に男前でいらっしゃいますよ。大佐」

 うっとりとそう言ったリザは、ほんのりと目元を染め、彼の礼装の胸元にそっと手を添えた。珍しくストレートにリザに容姿を褒められる照れ臭さに、ロイは思わず状況を忘れ、ごにょごにょと口篭った。

「それは……、うむ、その、なんだ」

 そんな彼にリザは笑顔の大安売りをしながら、すぱんと言い放つ。

「馬子にも衣装とは、こういうことを言うのですね」

「君!」

 すっかりおだて上げられた頂点からすとんと落とされたロイが流石に文句を言おうとリザに詰め寄ると、彼女は邪気のない笑顔で彼の鼻先をぴこりと指で押した。

「大佐、軍帽のつばが、おでこに当たるのですが」

 どうやら詰め寄った拍子に、彼女の額に被ったままだった帽子のつばが当たったものらしい。コロコロと変わる話題と酔っぱらいに振り回されて、ロイはすっかり脱力し、鼻先に押し当てられた指を寄り目で見つめ、それから非常に楽しそうな目の前の酔っ払いを見つめ、そして、大きな溜め息をこぼした。

 そうなのだ。こんな酔っぱらいをまともに相手にしている時点で、自分が間違っているのだ。

 そんな当たり前の事実に、ロイはようやく気付く。

 酔っぱらいの相手をまともにすればする程、莫迦を見るのは自分なのだ。ロイはそう考えて苦笑すると、彼女の指を自分の鼻先から外し、理不尽な苦情を流すべく、昼間からずっと被りっぱなしだった軍帽を脱いだ。

「ああ、すまない」

「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」

 だが、大人になって酔っ払いに対処しようという彼の目論見は、彼女の再びの理不尽によって呆気なく振り出しに戻ってしまう。ロイはどう答えたものか困り果て、白旗を揚げる思いで彼女の言葉に悲鳴を上げる。

「君は私にどうしろというのかね!」

「さて、どういたしましょうね」

 ニコニコと笑いながら猫のようにロイにまとわりつく彼女は、すっかりくつろいだ様子で彼にもたれかかってくる。ロイはもうすっかりお手上げの体で、サイドテーブルの上に軍帽を投げ出すと、ソファーの背に両腕を乗せ、彼女にされるがままに背もたれの役目を拝領する。

 どうせ、彼女の酔いが醒めるまでの辛抱だ。そう思ったロイを、また彼女は呼ぶ。

「大佐?」

「何だ?中尉」

「お呼びしただけです」

 今度はどんな理不尽な言葉が彼女の口から飛び出すかと身構えていたロイは、素っ気ない彼女の返答に肩透かしを喰らった気分になる。

「……ああ、そうか。分かった」

 だが、いい加減諦めの境地に達した彼は彼女の言葉に逆らわず適当な返答をして、彼女をかわすに止めた。リザはピタリと彼に身体を寄せて、しばらくじっとしていたが、またしばらくすると不意に顔を上げ、彼の方を見つめてくる。

「大佐?」

「どうした?」

 先程までの艶めかしさとは裏腹な、子供の頃のリザを思い出させるような彼女の無垢な瞳の色に、ロイは知らず己の口調が柔らかくなるのを感じる。

「何でもありません」

 それに対する彼女の返事は、やはりまったく愛想のないものであった。だが、その愛想のなさは彼女の瞳の色同様、彼に昔を思い出させる音色を持っていた。

 だからロイは、また少しだけ優しい声で彼女をからかうように言葉を紡いだ。

「何でもないなら、呼ばなくても良いだろうに」

「ただの存在確認です」

 案の定ロイの茶々入れに少しむくれた顔でそう言ったリザは、子供のように彼の礼装の長い上衣の裾を指先で掴んだ。それは、普段の彼女が隠す不安定な一面のようで、ロイはそんな彼女を安心させようと、くしゃりとその髪を撫でた。酔っ払いに手は出せないけれど流石にこのくらいは許されるだろうと思いながら、彼は幼い子供に語りかけるように言う。

「そんなことをしなくても、私はどこにも行かないが?」

「いいんです。私が確認したいだけなんですから」

 ますますむくれたリザは、ぷいと彼から表情を隠すように彼の胸に頬を埋めた。

 笑ったり拗ねたり、まったく忙しいことだ。しかも、こんな可愛らしい彼女を前にお預けを食らう事は必定だと言うのだから堪ったものではない。相手をするのが大変な困った酔っ払いにロイは苦笑して、彼女の髪をまたそっと撫でる。

「分かったよ、君の好きにしたまえ」

 諦めや辛抱ではなく、優しさをもってとことん酔っ払いに付き合うことを決めたロイは、彼女に苦情を言われた前髪を手櫛でざっと整えた。そして、腕の下に潜り込む小さな温もりを受け止めながら、己の理性を試されるある意味幸福な夜を笑い、天井を仰ぐ。

「とんだ慰労を用意してくれたものだよ、君は」

 そんな彼の呟きは、アルコール混じりの彼女の呼びかけにかき消される。

「大佐?」

「なんだね、中尉?」さて、次の難問はなんだろう。そう考えながら、彼女が見せるどんな顔にでも対応できるように、ロイは彼女のアルコールに澄んだ瞳を覗き込んだ。