軍帽二十番勝負 其の十一 サーベルアーチ   ― 夜の綻び ―

 他人の結婚式というのは、基本的に退屈なものだ。ましてや、それが自分と直接関係の無い人間の結婚式であるなら尚更。
 リザは長い長い退屈から解放された安堵の溜め息をつき、硬いコンパートメントの椅子に身を沈める。ずっと立ちっぱなしだったせいで、ヒールの中に詰め込んだ足はぱんぱんに浮腫んでいる。ようやく座れた安堵にリザは小さく伸びをした。
 そんな彼女の疲れを隠さぬ様子に、ロイは苦笑をすると静かに言った。
「遅くまで付き合わせて、すまなかった」
「いえ、中佐の護衛は私の任務ですから」
「任務って、君ね。今日はプライベートなのだが」
「任務です。その証拠に我々は礼装を着ているではありませんか」
「参ったね、君には」
 ロイはそう言いながら、彼女の向かいの椅子に自分も腰を下ろした。彼が座ると同時に列車は大きく揺れ、続いて車内アナウンスが狭い室内に響いた。
「この列車は、定刻を一〇分遅れてセントラルを出発致しました。終点のイーストシティ到着は、二十三時三〇分を予定しております」
 この分では、帰宅はどうやら深夜になりそうだ。リザはそう考え、堅苦しい礼装の徽章を肩から外した。
  
       §

 出張でもないのに、彼らが揃って礼装でセントラルにやってきた理由。
 それはロイの親友であるマース・ヒューズの結婚式に参列する為であった。
イシュヴァール殲滅戦の頃から続く許婚との長い交際をようやく成就させたヒューズは、身内だけを集めた小さなパーティーを開くことを計画していた。だが、人懐こく人望の厚い男の結婚式が、こぢんまりと済むわけも無く、気付けば彼の結婚式は大きなレストランを借り切ってガーデンパーティーを行わねばならない規模のものになってしまった。
 悪友から二人宛の招待状を受け取ったロイは、リザにその内容を告げた。彼女は僅かに悩んだが、結局はそれを受け入れることにした。
 勿論、ヒューズの結婚を祝う気持ちもないではなかったが、数度しか会ったことのない男が結婚することより、人が多ければ多いほど様々な問題が起こり易くなることの方が、彼女には気になった。特にここ数ヶ月、ロイがイシュヴァール人の残党に狙われる事件が幾度か起こっていて、それがまたリザの心配の種を増やしていた。
 護衛の為に。
 そんな理由で、彼女は副官として彼に同伴することを任務の一環と捉えた。ロイの方もいつもの彼女との距離を尊重するように、それを苦笑で受け入れた。
 ただ、彼女に断られるものと思っていたらしいロイは、彼女の出席を単純に喜んでいるようだった。そんな彼の姿に胸の奥に某かの痛みを感じたような気がして、リザは出席の返事を書くロイの姿から視線を逸らしたのだった。
 そんな諸々の事情の下、リザは彼と共に礼装に身を包み、セントラルへと向かった。

 そんな不純な理由で参列した結婚式であったので、壁の花になるしかない彼女は暇を持て余す場面も多々あった。だが、その一方で心に残るシーンを幾つも目撃したこともまた、事実であった。
 気の置けない仲間の集ったヒューズの結婚式は、部外者であろうと努めるリザにさえ居心地の悪さを感じさせず、その場にいる皆が笑顔になってしまうような温かなものであった。
 特に初めて会ったヒューズの妻・グレイシアは、見るからに穏やかで優しそうで、砂糖菓子のように愛くるしい女性だった。常に笑顔を絶やさず、分け隔てなく見知らぬ客の相手もし、リザも一目で彼女に好感を抱くほどだった。ふわふわと花のようなドレスに身を包んだ彼女には、淡い春の色の幸せがよく似合っていた。
 散々聞かされていたヒューズの惚気ももっともだと思いながら、リザはデレデレになって溶けてしまいそうなヒューズの幸福を見守った。悪友をからかうロイが、悪友の幸福を自分のことのように喜んでいることも彼女の表情を緩ませた。
 その一方で、『結婚式』という非日常の場がリザの胸に小さな波風を立てたことも、また一つの事実であった。特に新郎新婦の付き合いがイシュヴァール殲滅戦のころからだ、という情報は、ロイとの再会がイシュヴァールであったリザの胸に小さくはない棘として突き刺さった。
 ヒューズ夫妻と彼らとでは立場が違うのだから、同列に考える方が間違っている。そう理性は彼女に訴える。だが、感情の方は彼女の思い通りにコントロールされてくれない。
結局、その棘は結婚式が終わってもリザの心から抜けないままとなり、彼女の心にチクチクと切ない痛みをもたらした。そしてリザは薔薇色の幸福のお裾分けを抱えた心に一点の染みを刻んだまま、ロイと共にイーストシティに向かう列車に乗り、夜汽車で帰路に着いたのだった。

       §

 汽車が加速するに連れ、ガタガタと揺れは大きくなった。日常を取り戻すべく、お祝いモードを頭の中から追い出したリザは、勤務予定を記した小さな手帳を開く。ロイはすっと乗り出してその手元を見つめて、彼女に確認する。
「君も私も明日は非番だな?」
「はい。ですが、明後日は朝から二つ会議が入っていますから、遅刻なさらないで下さいね」
「ああ、分かった、分かった。そんなにすぐに現実に引き戻さないでくれ」
 サボり魔の上官に釘を刺す彼女の言葉に、ロイはおざなりな返事と抗議の声を一緒にあげた。そして、固い椅子に深く座り直すと、リザに倣って自分も肩の徽章を外した。外した白い徽章を感慨深く眺め、ロイは祝いの高揚の名残を惜しむように言った。
「しかし、明日を非番にしておいて正解だったな。遅くなるとは思っていたが、流石にここまでとは思わなかった」
「お酒が入ってからが長かったですから」
「あれだけの人数が揃えば仕方あるまい」
「特にトラブルもなく済んで良かったかと」
 あくまで副官の口調で話を通そうとするリザに、ロイは苦笑する。
「そんな馬に蹴られるようなことを、誰がするというのかね」
 暢気なロイの様子に、リザは眉間に皺を寄せる。
「そうはおっしゃいますが、中佐。先週、査察先で狙撃されたことをもうお忘れですか?」
「もう済んだことだし、良いじゃないか。酒も料理も美味かったし、花嫁も綺麗だった。ヒューズなぞには勿体無いくらいの花嫁だ。君もそう思うだろう?」
 リザは薄く笑うことで彼の言葉に対するコメントを避け、視線を落とすとスケジュール帳を閉じた。ロイは彼女の返事がないことを気にしていない様子で、徽章に続いてサーベルも外しにかかっている。どうやら佩刀したままだと、汽車の椅子には座りにくいものらしい。
 ロイが手に持ったサーベルを目にしたリザは、今日の結婚式で一番印象的だった出来事を思い出し、思わず副官の顔を崩してしまった。彼女の反応に不審そうな顔をするロイに、リザはしまったと思ったが今更取り繕うことも出来ず、彼女は頭の中で無難な質問を作り上げると彼に尋ねた。
「そう言えば、同期の方々とお作りになったサーベルアーチ。あれはどなたの発案だったのですか?」
 ロイは手の中のサーベルを眺め、少しその刃を引き出すと眩しそうにそれを見た。
「アレクセイ・イワノフ。アーチのしんがりの右側に立っていた金髪の男だ。サーベルアーチをくぐったカップルは幸福になるという言い伝えがある、と式の直前になってから言い出してね。奴があんな企画をしたせいで、我々は特に着る必要のない礼装を着る羽目になった。それがどうかしたか?」
 ロイは綺麗に鍛えられた刀を鞘の中に戻すと、丁寧に己の傍らに置いた。リザは彼のその姿の上に、ほんの数時間前の光景を思い出す。
 結婚の誓いを終えた新郎新婦がいったん退場する段になった時、厳かな様子の軍人達が彼らの前に整然と立ったのであった。何が起こるのかとざわめく客たちの前で、新郎の友人である礼装の彼らは、儀式ばった様子で二列に向き合って並ぶ。そして号令と共に一糸乱れぬ動作でサーベルを捧げ、白刃に反射した陽光で幸福な二人の前に光の道を作ったのであった。
 続いてかけられた号令で更に高く捧げたサーベルは、新郎新婦の前に白刃のアーチを作り出した。絶妙の角度で掲げられた刃からは真っ白な光が二人を祝福するようにアーチの中に降り注ぎ、美しい光景にその場に大きな拍手が巻き起こった。そして。厳かな雰囲気の中、新郎新婦は友人達の祝福を受け取ったのだった。
 勿論そのメンバーにはロイも含まれていて、だからこそ彼は親友の結婚式という最もプライベートな場に礼装で参加したのだ。きちんとオールバックに髪を整え、生真面目な顔でサーベルを捧げる彼は、隊列の中でも特に人々の目を引いた。
 夜色の瞳の危険さと、ほつれた前髪の艶、そして、研ぎ澄まされたサーベルと同等の鋭利な空気をまとった姿。それら軍人としての彼を彩る空気は結婚式の場に相応しくないものであったが、女達は一様にその危うさに目を奪われていた。
 リザもまたそんな女達の群れに紛れ、同様に彼から目を離せなくなっている自分を自覚した。
 サーベルの光が眩しいのか、ロイの姿が眩しいのか、分からないままにリザはその光景に見惚れてしまった。胸の奥が微かに疼いた。その時、一瞬ロイの視線が彼女の方を向いた気がした。リザはまるで彼に胸の奥を見透かされてしまったような思いがし、慌てて彼から視線を逸らしたのだった。
 さっきまで注意深く隠していた彼女のその時の感情は、ロイのサーベルの輝きの前にうっかり炙り出されてしまった。リザは不用意にこぼれてしまった自分の私的感情に蓋をすると、話を一般論に戻した。
「サーベルアーチというものを、私は今日初めて知ったものですから。何とも荘厳で美しいものですね」
 リザの言葉に、ロイは少し困ったように頬を片手で撫でた。
「私も初めてやったよ、あんなこと。結構気恥ずかしいものだ」
「よろしいのではないですか? ご夫妻は、とても喜んでおいででした。それに、威圧感を与えることが多いと言われる軍服が華やかな場であれほど映えるものなのか、と感嘆の声も上がっておりました」
 あくまでも客観的な感想に言葉を止めようと、リザは苦心して言葉を探す。そんな彼女の内心に気付いているのかいないのか、ロイはじっと彼女を見つめている。リザはポーカーフェイスを保ちながら、そんな彼の視線に内心で冷や汗をかいた。
「ならば、私は軍のイメージアップにも貢献したわけか。それなら付け焼き刃とは言え、練習した甲斐もあると言うものだ」
 ロイは茶化したようにそう言うと、少し真面目な表情になるとリザから視線を逸らし、窓側の壁にもたれ掛かった。いきなりロイが彼女に背を向けてしまったせいで、彼女は返事の言葉を飲み込まざるを得なくなってしまう。急に静かになったコンパートメントには、カタンカタンと汽車が枕木を踏む音だけが鳴り響く。
 いきなり訪れた静けさに、リザは不安を覚えた。今の会話で、彼女の心情が彼にばれてしまったのではないだろうか。
 様々な外的要因を解析するまでもなく、ロイの想いは彼女にも分かっている。今日は彼の親友の結婚式。イシュヴァール以来の付き合いの決着。そんな状況に刺激されたロイが、もしも何か決定的な一言を口にしてしまったら、自分はどうすればいいのだろう。
 彼女がロイの副官になってからずっと保たれてきた二人の危ういバランスが崩れることを、リザは何よりも恐れている。
 副官としての彼女を保つ為には、サーベルアーチを作るロイに見惚れてしまうリザの存在は必要ない。彼を守れるほど強くある為には、ウェディングドレスの美しさに心奪われてはならない。そして、ロイと共にある為には、彼のあの焔の眼差しを受け取ってはならない。
 なのに、何故、あんなことを言ってしまったのか。
 リザは和やかな会話の後に突如訪れた不自然なまでの静けさに、恐怖に近い感情を覚える。だからと言って、この静寂を破れば、それはそれで薮蛇になりそうにも思える。硝子に映るロイの顔は、茫洋と何を見ているか分からない。
 彼女は息を潜めて、ロイの次の一手を待った。
 窓の外にはポツポツと灯る街の灯が遠ざかり、郊外に近付くほど闇が全てを包み込んでいく。やがて、逸らした時と同じ様に唐突に窓の外の景色からリザへと視線を戻した彼は、口元を引き締める彼女と向き合った。
「そうだ。君に伝えておかなければならないことがあった」
「何でしょうか?」
 身構えるリザの表情に構うことなく、ロイは彼女とは逆にざっくばらんな様子で、思いもかけないことを言った。
「今日のパーティーの時に出た話なのだが、今度、私は大佐になるらしい」
「はい?」
 流石に予想外の話の展開に、リザは思わず間抜けな返事をしてしまう。
「正確に言うなら、多分、明日にも内示が出て私は大佐に昇進する」
「おめでとうございます」
 リザは辛うじて平静な声音を保つと、心の内で彼の話が仕事の方へと向かったことに、ほっと胸をなで下ろす。
「先日のテロリスト討伐の功績から、グラマン将軍が私を推してくれたらしい。あの喰えないお方に借りを作るのは少し怖い気もするが、まぁ、頂けるものは頂いておくとするよ」
「そんな大事なお話をパーティーの席でしていらしたのですか?」
「パーティーなんてものは、情報と謀略の温床だ。そんなことは、クセルクセスの時代から常識と決まっている」
「そういうものなのですか」
 彼の言葉に懐疑的な返事をした彼女に向かって、ロイは笑った。
「ヒューズには悪いがな。ま、きちんとサーベルアーチも作ってやったし、無難な祝辞も読んでやったから、等価交換と思って貰おう」
「酷い親友ですね」
「悪友だから仕方あるまい」
 澄ました顔でそう言ってのけるロイに、リザは呆れた顔で肩を竦めてみせた。だが、そんな表情とは裏腹に、彼女は話が彼女の望まぬ方に行かなかったことに安堵していた。
「それで話は元に戻るが、とりあえず私の大佐昇進だが、明日が非番のせいで明後日以降の予定がいろいろと狂ってくるかもしれん。すまないが、その時は調整を頼む」
「承りました」
 リザは生真面目に答え、先程のスケジュールを書いた手帳を手に取った。ロイは「助かるよ」と言い添え、それから何かを思い出したかのように、窓の外へと戻りかけた視線を再びリザの上に固定した。
「ああ、それから少尉、もう一件」
「何でしょう?」
 リザがそう答えるより早く、ロイはさっと椅子から立ち上がった。あっと思う間もなかった。瞬く間に眼前に彼の手が伸ばされ、次の瞬間、油断しきっていたリザの頤を掴まえた男は強引に彼女の唇に己のそれを重ねていた。
 リザは驚きに目を見開いた。まさか、彼がこんな実力行使に出てくるとは思わなかったからだ。今までずっと紳士的な態度で、リザが望む距離を保ち続けてくれたロイがこんなことをするなんて。
 リザは一瞬呆然とし、そして我を取り戻すと己の顔をつかむロイの手を振り払った。今の現実をなかったことにしたい彼女は、ばくばくと跳ね回る心臓を隠しながら、静かに彼に言った。
「大佐、軍帽のつばがおでこに当たるのですが」
「ああ、すまない」
 ロイは何に対するのか分からない謝罪をすると、彼女の前に軍帽を脱いだ。混乱した彼女は、自分が彼を未来の称号で呼んでしまったことに気付いていない。それよりも、一筋二筋流れた前髪が彼の額に妖しい影を落とし、リザはその蠱惑的な光景に心奪われぬよう、強い言葉でそれを否定した。
「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」
「君は私にどうしろというのかね!」
 そう言ったロイは、それでも悪びれた様子もなくすとんと彼女の隣に腰を下ろした。
 逃げる暇も無かった。
 彼女はそのまま硬い椅子の上に押し倒された。
「それに予行演習で大佐と呼んでくれるのは嬉しいが、流石に気が早すぎる」
 冗談めかした言葉を吐きながら、ロイは彼女を押さえ付け、再び彼女の唇を奪った。
 先程の重ねるだけの口付けと違う、その深さにリザは震えた。舌が彼女の唇を割り、濡れた粘膜同士が触れ合った。彼女を内側を味わう男は、彼女の心の中にまで侵食してくるように思えた。
 抵抗しようにも、手足に力が入らなくなった。彼女の恐れていた事態を、彼女の肉体は甘い果実のように受け入れている。リザは呆然と自分の上にのしかかる男の姿を眺めた。
 その姿は、サーベルアーチを作った時に女達を魅了した彼の姿そのままであった。リザはその眩しさに目を細め、遂には観念してその瞼を閉じた。
 リザの抵抗が止んだことを知った男は唇を離し、カタカタと震える彼女を恐ろしいほどに優しい目で見つめる。
「君があんな目で見るからだ」
「何が、ですか」
 口付けだけで息を切らしてしまったリザは、それでも彼の言葉に問い返さずにいられなかった。そんな彼女に向かい、彼はまるで幼子を諭すように言った
「サーベルアーチを作った時だ。あんな目で見られてなお、己を律する事が出来るほど私は強い男ではない」
 リザは彼の言葉に震撼する。
 やはり、あの時彼と目が合ったと思ったのは、気のせいではなかったのだ。リザが彼を特別な眼差しで見つめていることを、彼は知ってしまった。そして、さっきの会話が彼に決定打を与えてしまった。
 リザは自分の失策に奥歯を噛み締めた。あの時、彼に見惚れてしまったのは失態だった。だが、それほどまでに、あの時の光は眩しかったのだ。
 ロイは得物を捕らえた獣のように、彼女を組み敷いたまま話を続けた。
「ずっと気付かないふりをしていた方が、私も楽だったのだ。それを君という人は」
 そんな言葉と共に、また口付けが落とされた。
 リザは視界の端に映るロイのサーベルを、恨めしい思いで見つめた。そして夜の闇を走る密室の中で、一筋の光に手を伸ばしてしまった自分を諦めたのだった。