overcome

怪談。
怖い話。
七不思議。
何故、そんな話題になったのか誰も覚えていない。
酒の席での他愛のない話など、大抵がそんなものだ。
強いて言うならば、夏を思わせる蒸し暑い夜の空気が、夏には少し早いその話題を呼び寄せたのかもしれなかった。
しかし、このメンバーでこんな話題で盛り上がるとは全くの予想外だった。

大の大人が雁首そろえて、まったくどうしたものだろう。
リザは口元に残るビールの泡を指先で拭いながら、そう考えて微かに苦笑する。
そんな彼女の耳に、彼女と同じくそういった話題には乗りそうもない人物の、意外なほど興味津々といった体の声が響いた。
「では、第三宿直室には本当に“出る”のですか?」
真面目な声音の中に僅かに不安の色を滲ませるファルマンに向かい、指先で燃え落ちる煙草を灰皿に押しつぶしながら、ハボックはしたり顔で話を続けた。
「本当かどうかは俺も見てないから何とも言えんが、目撃者は多数いるって話だ」
「僕も聞いたことあります。寝てたら壁の中から男の上半身だけが出てきて、目があったら金縛りになるって」
「私が聞いた話は、音もなくドアが開いて次の瞬間ベッドサイドに血塗れの男が立っていて金縛りになるという話だった」
「俺が聞いたのは、大佐とほぼ同じッス、ただし男は血塗れじゃないッスけど」
「血塗れで壁から見下ろされたら、かなり怖いだろうなぁ」
「なんとも様々な説があるのですね」
感心したように頷くファルマンは、どうやら『第三宿直室の怪』を己の頭脳の中への分類収納を完了させたものらしい。
なるほど、歩く捜査ファイルである彼は、こんな情報もファイリングしているのか。
リザは変な感心をしながら、怪談で盛り上がる男たちを眺める。

珍しく定時に職務から解放されたチーム・マスタングの面々が、こうして酒宴を開いた理由をリザは知らずにこの場に参加している。
彼女が事務方に書類提出から戻ってきた時には、既に宴会の開始時間が決まり、会場までが押さえられた後であった。
おおかた給料日前の寂しい懐を抱えた部下が上官を巻き込んだと言ったところだろうと推察しながら、それをスルーしようとした彼女は上官命令の名の下に飲み会に巻き込まれてしまった。
特に用があるわけでもないし、さっぱりしたチームの面々と飲むのは時にであれば楽しい。
それに、上官を酔い潰すことを使命のように遂行する莫迦二人もいることだから、お目付け役も必要だろう。
リザはそんな考えで自分を納得させ、こうして莫迦話の真ん中で冷たいビールでひたすら喉を潤していた。

さっきまで男たちは食堂の新メニューの品評をしていた筈だった。
しかし、彼女がビールとチーズを楽しんでいる間に、いつのまにか話は脱線し怪談話が始まっていた。
まぁ、暑い時期には怪談とビールが定番なのは仕方ない。
そして、血生臭い事件が多い軍部は、そういった類の話に事欠くことはない。
リザとしては、美味いビールが飲めればそれでいい。
特にそれが自分の懐を痛めずに飲めるものであるのなら、尚更。
リザは男たちの会話を適当に聞き流しながら、ウェイターを呼び、追加のビールをオーダーする。
そんな彼女の右手から同じく追加のビールを頼んだブレダが、ついでのように彼女に問うてきた。
「中尉も何かないですか? 士官学校で聞いた話なんかでもいいんスけど」
「……そうね」
ずっと黙っているリザに気を使ってくれたのであろうブレダに向かい、リザは顎に指を当て考えるポーズを作る。
「ああ、そうだわ。新月の真夜中に士官学校の校庭を走る人影の噂なら聞いたことがあるかしら」
「あ、それ、俺たちの頃にもあったッス。初代の校長の銅像が走ってるって話でしたっけ」
「嘘」
初耳であるハボックの言葉の内容にリザは思わず笑ってしまい、ビールに噎せそうになった。
あの禿頭の銅像が走っていたら、それは怖いと言うより面白すぎる。
「そんな話、初耳だわ」
「マジすか? 俺らの頃はそうだったよな、ブレダ
「ああ。あと、訓練中に死んだ学生の霊だって話もあったっけ」
レダの言葉に、リザは口の中のビールが苦みを増した気がした。
実地訓練と称して彼女らの学年が駆り出されたイシュヴァールでは、沢山の同期生が命を落とした。
それさえ覚悟して士官学校に入ったとは言え、彼らが無念のまま校庭を走っていると思うと流石に辛い。
リザは自然な流れで話題を変えようと、ロイに話を振った。
「大佐の頃はどうでした?」
「ああ、銅像が走る噂なら私の頃にもあった。そう言えば、物好きな同期が正体を確かめに行ったという話を聞いたことがある」
彼女の内心を察したのか、ロイは自然に話を明後日の方向に逸らしてくれた。
思いがけないロイの言葉に部下たちは、興味津々で身を乗り出した。
「え、正体分かったんスか!」
「どうだったのでしょう。気になります」
部下たちの視線を一身に浴びたロイは、手元のビールを飲み干すと思い出し笑いをしながら彼らの疑問に答える
「それが、新月だから真っ暗で何も見えなかったそうだ。莫迦莫迦しい話だ」
「意味ないじゃないですか」
「ブーブー」
まったく面白くも何ともないロイの種明かしに、男たちのブーイングが飛ぶ。

仕切り直しのように、フュリーが話を継ぐ。
「走ると言えば、セントラルの第五研究所の辺りで首なしの鎧が走り回ってるって話ありませんでしたっけ?」
「あー、あそこ閉鎖されてから変な噂ばっかり立ってんだよな」
「そう言えば、鋼の大将とアルフォンスがこっち来た時にも、首なしの鎧の幽霊が出るって噂が出たっけ」
「それは不思議でもないし、怖くも何でもないでしょう」
「我々には正体割れてますからね」
男たちは笑いながらアルコールを口にする。
「まぁ、でも、確かに首なし状態で会ったなら、分かっていても吃驚するでしょうし」
「確かに。だが、驚いても怖いとは思わんな」
うんうんと頷くロイに、ハボックが茶々を入れる。
「大佐はなんかないんスか? 怖い話」
「怖い話、なぁ」
今度はロイが顎に手を当てて、考えるポーズを取った。
考え込む体勢の彼の視線が、ふっとリザの上で止まった。
なるほど、書類を持って追いかけてくる副官が怖いというわけか。
彼の思考を理解したリザは少し腹立たしくなって、きっときつい眼差しで彼を見つめ返す。
慌てて彼女から視線を逸らしたロイは、無難な答えを求め、視線を宙にさまよわせる。
「最近は……、そうだな」
虚空に視線をさまよわせたロイは、ぽんと手を打った。
「ああ、先日行きつけのバーで同伴出勤のダブルブッキングをした時は、かなり恐ろしい思いをしたぞ」
「なんすかそれ、自慢スか」
「ブーブー」
男たちはロイの言葉に二度目のブーイングを送る。
レダとハボックは、ここぞとばかりにロイに対するビール攻撃を開始する。
ああ、いつもこんな風に彼は酔い潰されていたのか。
リザは半ば呆れ、半ば納得しながら、横目でその風景を眺める。

「おい、お前ら、上官をなんだと思っている!」
莫迦な男の声を聞き流し、リザは己の胃にアルコールを流し込む。
こんな莫迦をするから、いつも部下に酔い潰されるのだ。
自業自得だ。
「中尉、おい、こいつらを何とかしてくれ!」
「何でしょう、大佐。ビールが怖くなってこられましたか?」
リザは彼の助けを求める声を無視し、ウェイターが持ってきた新しいビールを手に取った。
「君ね」
反論しようとするロイを、いい加減酔いの回り始めたリザは真正面から睨め据えた。
彼女は一言ずつ文節を区切るように節回しを付けて、上官に向かって言い放つ。
「書類を持って追いかけてくる怖い副官ではなく、同伴出勤をして差し上げる可愛らしい女性に助けを求められては如何ですか?」
敢えてそう口にして、リザは手の中のジョッキを一息に飲み干した。
あっと言う間に彼女の体内に消えていくアルコールを見つめるチーム・マスタングの面々の表情が、徐々に強ばっていく。
彼女の鋭い眼光の矢面に立ったロイだけでなく、上官を酔い潰して叱責されることを恐れたブレダやハボックまでもがジョッキを置いた。
どうやら、彼女は結果的に上官が酔い潰されるのを防いでしまったらしい。
任務を果たしたような、残念なような、中途半端な気分で、リザは飲み干したジョッキをゴトリと机上に置いた。
どうやら、今夜の怖いものの一等賞はリザで決まりのようだった。


     §

「まったく散々だ」
「自業自得です」
結局、そのまま飲み会はお開きになり、いつも通り彼の護衛を務める彼女はロイと並んで歩きながら微かに笑った。
彼女の言い分に納得出来ない様子のロイは、更にぶつぶつと文句を言う。
「だいたいが、いつも奢ってやって潰されるのには納得いかん」
「仕方ありませんでしょう、皆、給料日前なのですから」
「そうは言うがね、君。奢るから付いて来いと言ったのは、確かに私だ。だから、あいつらが倒れるまで飲んでも構わない。だが、私を潰す必要はないだろうが」
リザは思いがけない彼の言い分に首を傾げた。
確かにロイは部下たちに対して気前の良い一面を持つが、普段、ロイの方から部下たちに声をかけるのは余程の事件の後の慰労の会くらいだ。
そんな暇があったら、彼はひとりで夜の街に繰り出している。
勿論、部下たちに乗せられて、財布として担ぎ出される時は別だが。
リザは覚えた違和感を、そのままストレートに彼に伝えた。
「こんな普通の日に大佐が彼等をお誘いに? 給料日前の彼等が、大佐を担ぎ出したのではなかったのですか?」
彼女の疑問に、ロイは少し動揺した様子を見せた。
ロイはじっと彼女を見、そして口元を押さえると呟くように言った。
「しまったな」
何がしまったと言うのだろう?
リザは彼の言葉の続きを待って、じっとロイを見つめた。
真剣なリザの眼差しに、ロイは彼女から視線を逸らして場を誤魔化そうとしたが、リザはそれを彼に許さなかった。
「大佐?」
彼女は静かな声で、彼に問う。
ロイはガシガシと頭を掻いて、何かを考える素振りを見せたが、やがて諦めたように大きく溜め息をついた。
「君は困ってしまう程に鋭いな」
「恐れ入ります」
澄まして答える彼女に、ロイは微かに苦笑した。
彼は立ち止まってじっと夜空を見上げ、そして彼女を見た。
じっとリザを見つめた男は、思い切ったように彼女に言った。
「七年前の今日、大総統令三〇六六号が発令された」
味気ない番号として彼の口から発せられた大総統令が何を意味するかを考えたリザは、一瞬の後その数字の意味するものを理解し愕然と目を見開いた。
大総統令三〇六六号。
それは、国家錬金術師を投入し、イシュヴァール殲滅戦を開始する為に発布された大総統令だった。
リザは自分が知らないイシュヴァールにおける彼の一つの分岐点となった日の存在に、目を見張った。
彼女の反応に苦く笑い、ロイはいきなり話題を変えるかのように彼女に問いかけた。
「さっき、奴らと怖いものの話をしていただろう?」
「はい」
条件反射のような彼女の相槌に、ロイはふっと夜空に視線を戻した。
ぼんやりと虚空を見るロイは、真剣な口調で呟くように言った。
「幽霊だとか、首無しの鎧だとか、そんなものは皆、空想の産物だ。莫迦莫迦しいだけで、怖くもなんともない」
リザは答えず、小首を傾げるにとどめる。
そんな彼女に、ロイは冗談めかした口調でぽつりと言った。
「私が怖いのは、私自身だよ」
思いがけないロイの言葉を聞きながら、リザは何となく彼の言いたいことを察して彼の言葉の続きを待った。
ロイは自嘲の笑みを浮かべ、静かに自問するように言葉を紡ぐ。
「大総統令が発令されれば、私はまた国民を殺すのだろうか。諾々と全てを受け入れるのだろうか。人間兵器と変わるのだろうか。そう考えると、私は私が恐ろしくなる」
ロイはそう言うと、彼女から表情を隠すように前を向き、また歩き出してしまった。
リザは慌てて彼を追いかけながら、グルグルと頭の中で思考を巡らせる。

きっと彼は過去の罪を思い、この日を一人で過ごすことを避ける為、飲み会を開いたのだろう。
今も彼は過去の自分を恐れているのだ。
自省をなくさないか、と。
過去を繰り返さないか、と。
あまりに生真面目な彼の思考に、リザは胸に溢れる苦いものを感じながら彼の背を追った。
リザは少し考えて、振り向かぬロイの背中に向けて言う。
「それは杞憂です、大佐」
「どうしてだね?」
驚いたように彼女の言葉に返事をするロイの背に向けて、リザは言葉を続けた。
「貴方は貴方自身を怖いとおっしゃいますが、例えそうであったとしても、それは問題にならないと私は思います」
「君は何を言いたい?」
彼女の言葉を計りかね、ロイは足を止め振り向いた。
リザは意図的に不敵な笑みを浮かべてみせると、不審そうな顔をした彼に向かい言い放った。
「銃を持ってどこまでも追いかけてくる、貴方より更に怖い副官がここにおりますから」
冗談めかした言葉に乗せて、リザは彼に提示する。
彼の負うものを彼女が共に負っていることを。
彼女が彼を糺す義務も権利も有していることを。
それは彼女の誓いであり、彼女のロイに捧げる想いであった。
ロイは呆気にとられた顔で彼女を見ていたが、やがてクツクツと笑い出した。
終いには声を殺せなくなったロイは、額を押さえて笑いながら夜空を仰いだ。
彼は掌で表情を隠したまま、彼女に言う。
「まったく、君には敵わない」
「恐れ入ります」
リザはまた澄ました顔で、彼の言葉に答えてみせる。
ロイは真っ暗な夜空を見上げたまま、じっと何かを考えているようであった。
だから、リザは彼が今の表情を彼女に見せなくてすむように、今度は自分が先に立って歩きだした。
すぐに体勢を立て直したロイは彼女に追いつき、二人は並んで夜道を歩き出す。
「ところで大佐、怖い副官の淹れた珈琲を飲まれる気はおありですか?」
「ああ、ありがたく頂戴しよう」
新月の闇がそんな会話を交わす二人の姿を人目から隠してくれるから、彼等はそっとその闇の中でだけ寄り添って想いを繋いだ。

 Fin.

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【あとがきのようなもの】
 611!

お気に召しましたなら。