其の六 夜明けの月

「折角の早起きすら、まさかここに来て無駄になるとはな。まったく、やってくれるな」

「仕方がありません、主賓がいなければ式典は始まらないものです」

「すべてあちらの思惑通りに事を運ばれた上に、下らんパフォーマンスにつき合わされるこちらの身にもなって貰いたいものだがね」

 ロイは不機嫌を隠そうともせずそう言うと、堅苦しく一番上までボタンを留めていた礼装の上衣の前を開けた。

 長いコートの裾がふわりと翻り、リザは男の不機嫌を受け止めながら、ダイニングテーブルに向かって歩いてくるロイの着崩した礼装姿に少し見惚れてしまう場違いな自分の感情に蓋をする。そして、不機嫌な表情で所在無くうろうろと歩き回る上官の姿に副官の顔をして肩を竦めると、リザはそれ以上の彼を宥める言葉を諦め、口を噤んだのだった。

 

 半月前、数年ぶりにアメストリス国に迎えた国賓の警護において、テロリストによる暗殺計画を暴き、めざましい活躍をした彼女を含めたマスタング組の面々は、ロイの上に対する熱心な働きかけの甲斐もあって、全員揃って勲章を授与されるという名誉を得た。己の目的の為に上を目指すロイは己の出世に熱心であるのと同等かそれ以上に、己の部下の働きに報いることにも熱心であった。だから、彼はこの日の叙勲を普段以上に心待ちにしていた。

 ところが、そんな彼の努力を全く無にしてしまうような出来事が起こった。その授与式の直前になって、上層部のとある人物の鶴の一声で、ロイ以外のメンバーの叙勲が全て白紙になってしまったのだ。

 ネームバリューのある『焔の錬金術師』の叙勲は政治的パフォーマンスに有用であるが、平の兵士に勲章を与えることにメリットはない、というある意味非常に分かりやすい、そしてとても下らない判断が為されたことは火を見るよりも明らかであった。

 当然ロイは話が違うと猛烈な抗議を行ったが、彼の主張はあっさりと却下され、やり切れぬ理不尽と不機嫌を引きずったまま、ロイは今日の式典に一人臨むことになったのだった。

 ところが式典の当日になって、ロイを不機嫌に陥れた当人がセントラルからの汽車の遅延のせいで、定刻までにイーストシティに到着できなくなったという連絡が入ったのだ。おかげで授与式の開始時間が数時間後ろにスライドする事になり、出立直前に電話でその連絡を受けたロイは元々抱えていた怒りを更に膨らませ、こうして動物園の熊のようにダイニングをうろつき回っている。

 

「ああ、もういっそのこと仮病でも使って、式典を欠席してやろうか」

莫迦をおっしゃっていないで、お掛けになってはいかがですか? よろしければ、もう一杯珈琲をお淹れ致しますから」

 まるで子供のようなロイの言葉をいなし、リザはダイニングの椅子から立ち上がるとシンクに向かった。言っているだけで、彼がそんな莫迦を実行しないことくらい分かってはいた。だが、先日からの彼の憤りを考えれば、彼女は彼を怒ることは出来なかった。

 リザ自身は特に叙勲に興味はない。むしろ、勲章などどうでもいいと思っている。ロイがきちんと昇進してくれ、副官としてその傍らに付いていくことが出来れば、彼女には何の問題もないのだから。

 ただ、彼がブレダやハボックといった自分の部下達の働きにきちんと報償をもって報いたいという気持ちは理解しているし、彼のそういった律儀さは彼の美徳だとも思っていた。

 荒れるロイを宥めようと、珈琲をドリップする準備を始めようとするリザの背後に男の気配が立った。ポットに手を伸ばそうとする彼女の行動を制止するように、背後からロイの手が彼女の細い身体を抱きしめた。

 リザは動きを止め、背中に感じるロイの体温と腹に巻き付く逞しい腕を受け入れる。ロイは己の怒りを静めるように大きく息を吐くと、そんな彼女の耳元で溜め息混じりの声でこう言ったのだった。

「すまない」

「何がですか? 愚痴でしたら毎日お伺いしておりますので、何を今更なのですが」

 彼の謝罪の意味を分かっていながら、リザは敢えてそれを受け流した。だが、ロイはそんな彼女の言葉をまるで聞いていないかのように言う。

「折角、君にも箔をつけてやれると思ったのだが」

「私自身は己の職務を果たしたまでのことですので、大佐さえきちんと栄達して下されば問題ありません」

「そう言うと思ったよ」

 ロイは苦笑し、言葉を続けた。

「だが、君だけじゃない。ハボックも、ブレダも、ファルマンも、フュリーも、だ。なかなか報いる機会がないと言うのに」

「昨日の慰労会で、皆、満足しております」

「ありがとう。だが、そういう問題じゃないだろう?」

 敢えて論点をずらすリザの気遣いを丁寧に脇に避け、ロイは彼女の耳元でまた溜め息をついた。リザは後れ毛をくすぐる男の吐息に刺激される劣情を隠し、自分の腹の上で重ねられた彼の手の甲の上に、さらに自分の掌を重ねた。じっと彼の言葉の続きを待つ彼女の沈黙の意味を理解し、ロイは溜め込んだ憤りを吐き出した。

「手柄とは独占されるべきものではない。昇進は席数のこともあるから、そうそう行えるものではないが、功労に対する表彰は志気を上げるにも忠誠心を育むにも大変に有用なのだ。乱発する必要はないが、きちんと活用すれば効果は絶大となる。それが、考えなしの莫迦の見栄のせいですべてが台無しだ。くだらない、全くくだらない。本来なら君だって私同様、今頃は礼装を着て式典に向かう準備をしている筈だったろう。それが通常の業務の予定さえすべて狂わされて、この有様だ」

 一息にそう言ったロイは、自分の手の上に重ねられた洗い晒しの彼女の白いシャツの袖口を摘んだ。シャツにスリットの入ったタイトスカートを合わせた普段着のリザは、ロイの言葉に黙ったまま肩を竦めた。

 直前になってのドタバタ劇で様々な予定が狂った結果、リザは結局スケジュールの調整がつかず、この日を非番にするしかなくなった。今日予定していたスケジュール以外も今日の突発の休みの影響を受け、彼女は明日以降その皺寄せに走り回らねばならなくなるだろう。

 だが、それも言っても詮無きことであった。

「仕方ありません」

「仕方ない、か。クソッ」

 ロイの憤りを肩口で受け止めたリザは、首を少し傾けるとコツリとロイの軍帽をかぶった頭に自分の側頭部をくっつける。ロイの手の甲を労るように撫でながら、リザは彼を慰撫する言葉を探す。

「我々は、軍人ですから」

「ああ、上には逆らえん」

 意気消沈してしまいそうな男の憂いを含んだ声に、リザは耳朶を刺激され微かに震えた。先程は隠しきった劣情が彼に知られたのではないかとリザは心臓を跳ねさせたが、ロイは己の思考に沈んでいるようで、彼女は胸をなで下ろす。

 ロイに抱きしめられて耳元で囁かれる行為に、彼女は本当に弱いのだ。それが、たとえこんな朝の光の中での行為であっても、ロイの愚痴を受け止めるという彼女の大切な任務の途中であっても、彼女はそれに反応する自分を止めることが出来ない。

 だが、彼女の好むロイの声に、こんな弱気な調子は似合わない。いつもの毅然とした艶のある彼の声が彼女に命令を下してくれないと、リザは安心して彼に身を任せることができないのだ。

 リザは意を決して男の腕の中でくるりと向きを変えると、真正面からロイと向き合った。強い憤りと憂いを秘めた彼の黒い瞳を覗き込んだ彼女は、いつも彼が彼女に対してするように、その頬を両手で優しく包んだ。

 意外なリザの行動に面食らった様子のロイを挑発的に見つめ、彼女は優しく囁いた。

「ですから、さっさと出世して下さい。そんな莫迦に横から茶々を入れられないほどに」

 ロイは彼女の言葉に目を瞬かせ、ゆっくりとその意味を咀嚼するように彼女を見つめた。彼女に頬を掴まえられたまま少し首を傾げてみせるロイに向かい、リザは優しい口調のまま凛とした表情で言葉を続けた。

「ついてきた我々に報いて下さるとおっしゃるのでしたら、それが一番の報償です」

 彼女の意図を察した男は仕方がないと言うように苦笑した。

「君のハードルは、本当に高いな」

 ロイは自分の頬に添えられた彼女の両手首を掴むと、わざとらしく眉をひそめ、難しい顔を作ってみせる。

「流石に上層部は遠いぞ?」

 だが、リザもその程度でひるむことはなかった。

「何をおっしゃっておいでですか。この国のトップを目指しておいでの方が」

「そう言われると耳が痛いな」

 苦笑するロイに、リザは畳みかけるように思いをぶつける。

「こんな些事に拘るより、もっと先を」

 リザはそこで少し息を継ぐとぐっと視線に力を込め、息の触れそうな距離でロイを見つめた。

「ずっと先を見ていて下さい」

 ふっと息を吐ききったリザは、じっとロイを見つめた。ロイはしばらく黙り込み、真っ直ぐに彼女の視線を受け止め、そして、くしゃりと破顔した。それと同時に彼は瞳の中の憂いを消し、いつもの彼の表情を取り戻す。

「全く、君には敵わない」

 クツクツと喉の奥で笑ったロイは、彼女の大好きなゾクリとするような艶のある声で低く呟いた。そして彼女の右の手首を掴んでいた手を離すと、その手で彼女の顎を掴まえ、不意打ちに彼女に口付けた。リザはいつもの調子を取り戻した甘い男の声にゾクゾクと背筋を震わせながら、バランスを崩さぬよう自由になった右手で腰に当たるシンクの縁に手をつき、自分の上にのしかかってくるロイの体重を受け止めた。

 貪るような性急さで彼女を求めるロイの唇。

 彼女の細い腰を抱く大きな手。

 彼女の言葉をきちんと受け取ってくれる柔軟さ。

 彼の上官としての度量。

 それらがこんな風に惜しみなく与えられるのなら、彼女は勲章など必要としないのだという事実を彼女は改めて実感する。

 口付けはますます深くなり、リザはシンクの上で仰け反るように口中を愛撫するロイの柔らかな舌を受け止める。だが、彼の軍帽のつばが彼女の額に当たり、どうにもくすぐったくてリザはキスに集中できない。それがもどかしくても、彼女に抗議する余裕も与えてくれぬロイは、傍若無人に彼女を味わい続けた。

 やがて、ようやく彼女の唇を堪能したらしい男の唇が離れると、リザは不服な表情にあらわにしロイに抗議した。

「大佐、軍帽のつばが、おでこに当たるのですが」

「ああ、すまない」

 彼女の言葉に素直に軍帽を脱いだ男に、リザは不服の表情を崩さぬまま更に抗議の声を上げる。

「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」

「君は私にどうしろというのかね!」

 ロイは彼女の言葉にまた意表を突かれたらしく、困ったように笑った。彼女に翻弄されることすら楽しむ余裕を取り戻したロイは、上半身をひねり、手にした軍帽をダイニングテーブルの上に投げた。

 両手で乱れたオールバックを撫でつけ、ロイは澄ました顔で彼女に問う。

「これで、どうだね?」

 いつもの不敵な表情の戻った男をリザは更に弄ぶ。

「いいえ、こちらの方が」

 そう言うや否や、リザはクシャクシャと男の整えた髪形を崩してしまう。

「君!」

「髪形を整え直すお時間は、たっぷりございますでしょう? 上層部が勲章の代わりにくれた余暇の時間なのですから、有効に活用するべきかと思うのですが」

 そんな言葉と共に、彼女は自らロイに口付けた。口付けと同時にくつろげた彼の礼装の襟元に指先を滑り込ませたリザは、先程までは隠していた劣情をその瞳に露わにし、彼の喉仏を指先でそろりと撫でる。彼がいつも彼女にするように、リザの指が彼の劣情を引っ掻いた。

 礼装できっちりと整えた真面目な国軍大佐の顔を崩され、いつもの童顔をさらした男は、またリザに意表をつかれて目を丸く見開くと、口付けの隙間に熱い息を微かに零した。

 彼の吐息の焔にチリチリと胸を焼かれ、短い口付けに唇を離したリザがニコリと微笑むと、ロイは完全にお手上げのポーズで彼女に言う。

「まったく、君には敵わない」

「何を今更」

 会話の隙間に、男の指が彼女のスカートのスリットの中に忍び込む。リザはその指に熱い吐息を強要され、クシャクシャにかき混ぜたロイの髪に指を埋め、整髪料の香るその黒髪の頭を己の胸に抱き寄せた。彼の指先が、吐息が、彼女をゆっくりと開いていく。

 ロイが再びオールバックに整えた髪を軍帽の下に隠すまで彼の時間は彼女のものであるのだと、蠢く指が彼女に教えてくれている。だから彼女は得る筈であった勲章の代わりの報償をロイから受け取るべく、式典が始まるまでの思いもかけぬ余暇のひとときに、熱い吐息をこぼして彼の指と声に溺れ、朝の光に背を向けた。