Love-In-A-Mist

扉の中には、半分だけ朝が訪れていた。
朝靄の淡いブルー越しに日の光が半透明に射し、部屋の中に薄い夜明けを映す。
そんなカーテンの片側だけを開けた窓の下、男はくしゃくしゃになったシーツの海に半裸で沈んでいた。
締め切った部屋の中には薄いとは言え明らかな男の体臭が籠もり、リザは微かに眉をひそめる。
一度は起きたものの、二度寝に突入したと考えるのが恐らく正解だろう。
規則正しい男の寝息を聞きながら、リザは仮眠室へと一歩を踏み込んだ。

テロリストが起こした突発の事件のせいで仕事が押し、昨夜のロイは久しぶりのリザとの逢瀬と帰宅の両方を諦めることを余儀なくされた。
しかも、その余波でこの日の彼は仮眠室から面倒な式典に直行するという、強行スケジュールを抱える羽目に陥っている。
疲労した男はそれでも命令の名のもとに、リザを家に帰してくれた。
そんな気遣いをするくらいなら、仮眠室ででも彼と共に過ごせた方がリザにとってはチャラになったデートの埋め合わせになるのだが、ロイはそれを彼女に許してくれなかった。
少しのやるせなさと多大な欲求不満を抱え、リザは命じられたとおり帰宅した。
その代わり、翌朝彼女は少しだけ早起きをして、彼に命じられた通り、彼の自宅から靴から軍帽まで彼の礼装一式を抱えて、この東方司令部へと出勤したのだ。

仮眠室に入りベッドサイドに立てば、案の定ロイはまだ眠りの中にいる。
共に過ごすプライベートでの時間を失ったもどかしさと、疲れ切って眠るロイの姿に感じる個人的な感情を隠し、仕方のない上官の礼装を傍らの椅子の上に置いたリザは、いつもの調子で彼を呼ぶ。
「大佐、いい加減にお起きになって下さい。式典に遅刻なさいますよ?」
「もう出勤しているのに、どうやって遅刻するというのかね。君も一緒にもう少し眠っていけばいい」
彼女の想いを知ってか知らずか無責任に彼女を誘うロイに、リザは様々な意味を込めて嘆息する。
莫迦も休み休み言って下さい。礼装をお持ちしましたから、そろそろご準備を」
「ああ」
リザの小言に面倒そうな返事をしたロイは、寝惚けた顔でごろりと寝返りを打つ。
白いシャツが白いシーツに絡み、男の逞しい肉体が露になった。

『本来なら昨夜、あのシャツのボタンを外していたのは自分の指だった筈なのに』

シャツから覗く男の肌ににざわめく己の感情を隠し、副官の顔でリザは彼の背に叱咤の声を浴びせる。
「大佐」
「うむ、分かっている」
そう言うとロイはだらしなく着崩したシャツを引き摺りながら、枕もとの銀時計を探すように腕を動かした。
だが、彼の手は空を掴むばかりで、諦めた様子のロイは背中越しにぼんやりと彼女に問うた。
「何時だ?」
「〇八一五」
「まだ早い」
「早くはありません」
また眠ってしまいそうなロイに近付き、リザは無遠慮に彼の背中に鼻を寄せる。
引き締まった肌からは微かな石鹸の香りと彼の匂いがし、既に彼が入浴を済ませたことを彼女に知らせる。

『本当なら、その肌からは自分の匂いと彼の汗の匂いが交じって香っていた筈なのに』

リザは騒ぐ心を抑え、すっと彼から離れる。
彼女の確認行動の意図を察したロイは、苦笑しながら寝返りを打つと薄く目を開けた。
「シャワーは済ませた。流石にドンパチを繰り広げた煤臭いままの状態で式典に出るほど、私は非常識でもなければ、礼儀知らずでもないぞ?」
「失礼しました。では、どうぞお着替えを」
目の前に迫るロイの顔に一瞬覚えた内心の動揺を隠し、リザはポーカーフェイスを貫くと、ベッドから一歩遠ざかり小さな敬礼をしてみせた。
「まったく。副官の君は容赦がないな」
ロイはそう言うと、諦めたように硬いベッドから身を起こし、彼女が持って来た礼装に視線を移した。
「手間をかけてすまない、助かった」
「これも職務のうちですから」
かっちりと軍服に身を包んだリザは、半裸のロイに綺麗にプレスされたワイシャツを手渡しながら、ついでのように言い足した。
「お着替えになるのなら、出ていましょうか?」
「何を今更、君に隠すものがあるというのかね?」
疑問に疑問で答える形でリザの申し出を一笑に付したロイは、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
「ああ、すっきりせんな。寝たような寝足りないような、何とも言えん気分だ」
「とにかく起きて下さい。動き出せば何とかなります」
「君は疲労困憊の上官を労ってもくれんのかね。まったく、有能で容赦のない副官殿だ」
取り付く島もないリザの返事にロイは大仰に嘆いてみせながら、ざっと着ているものをその場に脱ぎ捨てた。
惜しげもなく鍛え上げた肉体を彼女の目に晒し、無意識にリザを翻弄するロイは、彼女の視線を気にも留めぬ様子で着替えを始める。

『何事もなければ、あの肉体に組み敷かれ一夜を過ごしていた筈だったのに』

リザは彼の肩甲骨の隆起と背中を覆う筋肉の動きを目で追いながら、己の中のざわめく女をなだめようと視線を落とす。
いつもは彼の方からリザへのアプローチをしてくるくせに、こういう時は割り切って無頓着な軍人の顔を貫くロイが小憎らしい。
だが、彼女のそんな感情にも気付かず、ロイはワイシャツを着ながら上官然とした態度で、リザに問いかけてくる。
「ここに居るついでだ。昨夜の事件の顛末に今朝何か進展があったなら、報告を頼む」
「アイ、サー」
文句を言いながらも動き出せば、彼のエンジンの始動は早い。
リザは胸の内に渦巻く不満を隠し、頭の中に収めてきた報告事項を口に出した。
「セントラルの軍法会議所には既に報告が回っています。テロリストの処遇については、こちらに一任すると」
「体のいい責任の押し付けか」
ロイは嘆息して今度は礼装を羽織り、その釦を閉じていく。
それと同時に彼の肉体の匂いは、クリーニングされた清潔な布の中に包み隠されてしまう。
リザはそっと横目で、彼の肉体が硬い礼装の上着の中に閉じ込められていく様を見守った。

軍服の礼装を身に着けていくことにより、彼は謹厳実直な国軍大佐の仮面を被ると同時に、その高い襟や白い手袋や長いコートの裾で己の雄を覆い隠してしまう。
屈強な骨格。しなやかな筋肉。高い体温。大きな手。雄を主張する体臭。彼女を誘う声。
それら男としてのロイを形作る様々な要素が、その軍服の下に隠されていく様を見ることが出来るのは、リザだけの特権であった。
あの禁欲的な軍服の下に隠されたものを知るのは、自分だけだ。
そう思うと彼女の中に隠された女は酷く昂る。
たとえ、そこが朝の司令部の中であったとしても。

しかし、リザのそんな揺らぎに男は気付かない。
彼の中の軍人としてのスイッチは、そう簡単には揺らがないのだ。

手早くサーベルを佩刀し、無造作に髪形をオールバックに整えてしまう男の姿を見つめ、リザは心の奥底にざわめく感情を押し隠す。
そして、勤勉な副官の顔で更に彼への報告を続けた。
「とりあえず、昨夜の件に関しては未だこれ以上の進展はありません。移送の打ち合わせには今しばらく」
「……参ったな」
その時、リザの報告を遮るようにロイの声が上がった。
「どうかなさいましたか?」
「いや、大した事ではないのだが」
何か報告の中に不手際があったかと身構えるリザに、ロイは軍帽をきっちりと己の頭に被せると小さく肩を竦めてみせた。
「靴が、な」
「靴がどうかされましたでしょうか?」
リザは彼の足元に置かれた黒い革靴を見る。
彼のクローゼットの中に礼装一式と一緒に置いてあったそれは、礼装時に彼が用いるもので間違いなかった筈だ。
そんな彼女の思考を見透かしたかのように、ロイは苦笑した。
「先日新調したのだが、少しサイズが合わなかったようでね。右の小指の爪が当たるんだ。流石にこの忙しさで、足の爪にまで気が回らなかった。君に伝えておかなかった私のミスだ。仕方あるまい」
リザは彼の言葉に小首を傾げてみせた。
「つまり、貴方の足の爪さえ処理してしまえば、問題ないということでしょうか?」
「まぁ、そういうことになるな」
「では、座って下さい」
そう言って、リザは軍服のポケットから小さなヤスリを取り出した。
「何故、そんなものを持ち歩いている?」
「私は狙撃手ですから。指先の手入れは基本です」
リザは淡々と彼に事実だけを告げると、彼の足元にひざまずいた。
彼女の意図を察したロイは少し考える素振りをみせたものの、直ぐに泰然とした笑みを浮かべ、椅子に腰掛けゆったりと足を組み、彼女の前にその爪先を差し出した。

礼装の手袋を身に着けながら彼女に靴下を脱がされ、ロイはくすぐったそうに笑う。
「足の爪くらい、自分で切れるものを」
リザは裸にした彼の足を手の中に収めると、ヤスリで静かにその爪を削り始めた。
部屋にざりざりと微かな音を響かせ、しばしの間をおいて彼女はロイに答えた。
「私は貴方の副官ですから」
そう言いながら、リザはそれが詭弁である事を自覚する。

彼女の上に君臨する男の、その社会的地位を最も象徴する威厳ある礼装。
その足元にひざまずき、その肌に触れる。
そんな事が出来るほど彼の近くにいるのは自分だけなのだ。
そして彼がそれを許すのも、自分だけなのだ。
そう考えながら自分も軍服で本心を隠し、副官の顔で澄まして彼に触れている。
その背徳感は、ぞくそくするほどのものであった。

そんな彼女の心の動きに、彼はようやく気付いたらしい。
彼女の頭上で揶揄するようなロイの声が響いた。
「命令もされていないのに、君も酔狂なことだ。そんなことをするから、私の狗などと呼ばれるのだぞ?」
「大佐のご命令があろうとなかろうと、必要があれば可能な限り何とでも対応いたします」
リザは、彼の言葉の矛先をかわすように副官の顔で答えた。
そんな彼女の答えに、リザの内面の女を弄ぶように男の声が低く囁くように被さってくる。
「ほう、命令とあらば君は何でもしてくれるのかね?」
「必要に応じて」
「ならば、この足に口付けろと言ったら?」
礼装の下に隠した男の本性が、その言葉の裂け目から彼女を挑発する。
「ご命令とあらば」
リザは礼装の隙間から覗く男としての彼に従い、忠実な狗の様にロイの足の甲にそっと口付けた。

触れるだけの彼女の口付けは未だ石鹸の香りの残る彼の骨張った皮膚の上を滑り、忠誠と服従の証を超えてロイを揺さぶった。
外ではパタパタと別の仮眠室の扉が開く音や、行き交う軍人達の慌しい足音が響き始めている。
だが、扉の中にいる二人の間には、何ものにも邪魔されぬ静けさと危うさが満ちてしまった。
ロイは彼女の誘惑に不敵な顔で笑うと、腕を伸ばしグイと彼女を引き寄せた。
そのまま白い手袋で鎧った手で彼女の顎を掴んだ男は、彼女の唇の上に強引な口付けを一つ落とす。
勢いで彼の頭から軍帽が落ち、一筋二筋乱れた髪が彼の額に陰影を落とす。
リザは自分が剥がした男の素顔に翻弄され、言葉を失くした。

だが、彼女の前に一瞬だけ雄の顔を露にした男は呆気ないほど直ぐに彼女から手を離すと、すっと片手でオールバックの髪を撫でつけ、再び軍人の仮面を被ってしまう。
そして落ちた軍帽を拾う為に身を屈め、そのついでのようにゾクリとするほど甘い声でリザの耳元で囁いた。
「そう、煽るな。続きは式典が終わるまでお預けだ」
ロイはそう言うと目深に軍帽を被り直し、その表情を隠すと、口元に笑みを浮かべたまま椅子に身体を沈めてしまった。
男としてのロイの反応に満足させられたリザは、静かに彼の足元から立ち上がった。
それを合図に腕を伸ばしベッドサイドに転がっていた銀時計を取り上げたロイは時間を確認し、最後の装備である靴下と靴を身に付け、国軍大佐ロイ・マスタングの顔を作り上げると、自身も椅子から立ち上がる。
「さて、時間だ。行くぞ」
「アイ、サー」
先程までのやり取りが無かったかのように、彼らは澄ました顔で仮眠室を出る。
軍服を着ることで纏う上司と部下の仮面の下に、男と女の本性を隠して。
扉を潜るロイの腰の辺りで、サーベルがシャリリと鎖の鳴るような音を立てる。
その音を耳に、リザはそっと己の狗の属性を隠すように朝靄の映る仮眠室の扉を閉めた。

Fin.
 
 **********
【後書きのようなもの】
 フェチアンソロジーの没原稿です。これを書いてる内に自分の中のフェチ魂が「もっとねちっこく、ピンポイントでいけ」と囁き始め、もう一本書いてしまいました。(笑)よろしければ、アンソロの方もご覧下さると嬉しいです。

「Private Heaven〜Roy*Riza Fetishism Anthology〜」
Private Heaven〜Roy*Riza Fetishism Anthology〜
 

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