其の二 夜と帽子と珈琲と

「まったく。将軍閣下は私のことを一体何だと思っておいでなのかね?」
「そうですね。使い勝手の良いナイト、辺りだと思っていただいているのではないでしょうか」
「ナイト? この荒い使われ様は、まるでポーンだと思うがね」
「あら、よろしいじゃありませんか。最終的にはクィーンになれますよ?」
「クィーンでは困る。一つ足りない」
 そう言って不敵に笑うロイは、礼装の腰に下げていたサーベルをガシャリと音を立てて外した。リザは彼の手からそれを受け取ると、現時点では不穏当な彼の発言に対するコメントを避け、その代わりに少しだけ肩を竦めてみせた。
 今日一日腰にぶら下げていた重たい飾りとこの数ヶ月間その肩にのし掛かっていた重責とから解放された男は、彼女のジェスチャーに微かな苦笑を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。その代わりに彼はいかにも分かり易く肩の力を抜くと、誰にも見せることもなく己の中に溜め込んでいた疲労を大きな溜め息と共に吐き出した。
 ようやく吐き出された男の澱を、リザは律儀にサーベルと一緒に受け取ると、クローゼットのある彼の寝室へと足を向けた。
 余程疲れていたのであろう。そんなリザを横目に、ロイはそのまま帽子もコートも脱がず、どかりとソファーにその身を投げ出した。彼の乱暴な座り方にソファーのスプリングが軋み、抗議の声を上げる。だが、ロイはそんなことには頓着せず、面倒そうに視線を動かしただけであった。
 移動した彼の視線の先、いつも彼が深夜の読書の楽しみを預けるサイドテーブルには、本が入った沢山の封筒が手付かずのままで山積みになっていた。注文したものの忙しさにかまけ、封を開ける暇さえなかったそれらに、彼は少しの間視線を止める。だが、今の彼の瞳には活字を追う余裕さえないらしく、ロイはそのままソファーに身を沈めると瞳を閉じてしまった。
 いつもなら喜んで飛びつくであろう大好物の書籍にさえ興味を示さぬ彼の疲労を思い、リザは音を立てぬよう静かに彼のサーベルを片付ける。そして、副官の顔のまま彼のプライベートの空間にいる違和感を解消するべく、軍服の上衣を脱いだ。
 堅苦しい軍服を脱ぐと少しだけ疲労も和らぐような気がして、リザは小さな安堵の溜め息を漏らし、扉の隙間からそっとソファーに沈むロイの姿を振り向いた。
 ロイはさっき彼女が見た時と寸分違わぬ姿勢のまま、ソファーに寝そべるように座っていた。かっちりと髪をオールバックに決め、すっきりと礼装を着こなしているくせに、ふにゃりとだらしなくソファーに沈む男の姿は、言外に彼女への彼の信頼を告げているようであった。
 本当に仕方のない人だ。先に重たい礼装を脱いでしまってからくつろげば良いものを、横着をして。
 そう思いながらも、自分の前でだけは少し油断した姿も少し疲れた顔も垣間見せてくれる男の姿に、少しだけ口元の緩む自分がいる。
 きっと仕方がないのは自分も同じなのだ。
 そう思いながらリザは苦笑し、少しの間だけ彼の横着を大目に見ることに決めた。彼女はリビングに再び足を踏み入れると、彼の後ろ姿に向かって呼びかけた。
「大佐、すみませんが、着替えにお部屋をお借りいたします。終わりましたら珈琲を淹れて参りますので、それまでに大佐もお着替えを済ませていらして下さい」
「ああ」
 唸るような低い返事と共に、彼は片手を上げてみせる。それを合図に、リザは久方ぶりに二人で過ごす穏やかな時間の準備の為に、リビングを後にしたのだった。
 
 彼らがこのような平和なプライベートの時間を共に過ごすのは、数週間ぶりのことであった。否、プライベートに限らず、彼らが軍務においても三言以上の言葉を交わす時間を持つことさえ、久しぶりと言って間違いないだろう。
 この数ヶ月、彼らは数年ぶりに自国が迎え入れた国賓の警護に心身を削る日々を送っていた。特に直近のこの一ヶ月は、お祭り騒ぎで陽気に染めあげられ浮かれた街の空気の中で、如何に暗殺やテロを防ぐかが軍の最重要の課題となり、軍人である彼らはその揺れに振り回される形で、毎日胃をキリキリさせる日々を過ごしてきた。
 しかも、今回の任務において、珍しく彼らは別行動を取らざるを得ない状況にあった。
 ロイはグラマン中将の供として忙しくあちこちを動きまわり、リザは狙撃班の指揮下で要人の警護に当たり、日中の二人は言葉を交わすどころか顔を合わすことのない日もあるほどであった。それは彼らの国を背負った責務であり、彼らが粛々と自らの仕事をこなすのは、当然の事であった。
 それがようやく、今日の最後の式典をもって終了したのだ。
 緊張とすれ違いの日々が終わったことにリザは肩の荷を下ろした思いで、彼に誘われるままロイの部屋を訪ったのであった。
 
 私服へと着替えを済ませたリザは、丁寧に豆を挽き珈琲をドリップし始めた。細く湯を注ぐと香ばしい珈琲の匂いが立ち、リザは自身もその香りに目を細めた。
 部屋中に広がっていく香りは、きっとリビングにいるロイの元にも届き、もうすぐ彼女が珈琲を手にリビングに戻ることを、彼に予告してくれるだろう。そうすれば彼も流石に重い腰を上げ、彼女にお小言を喰らわされる前に着替えを済ませるに違いない。
 そんな計算をしながら、リザは時間を稼ぐためにわざとゆっくりと珈琲を淹れた。リザとて好きこのんで彼に小言を言っている訳ではない。彼女だって共にいる時間は彼を叱りつけたりせず、心穏やかに過ごしたいのだ。
 だが、リザがマグカップを両手にリビングに戻っても、ロイはまだ彼女が台所に立った時と同じ体勢のまま、ソファーに座り込んでいた。
 流石に少し呆れた口調になり、リザは彼の前にマグカップを置きながら、結局はお小言を垂れることになる。
「大佐、いい加減、お着替えになられては如何ですか? 礼装が皴になってしまいます」
「ああ、構わん」
「少しは構ってください。それに、お着替えになられた方がくつろげますから」
 だが彼女にそこまで言われても、ロイは立ち上がろうとしなかった。
「頼むから、少し休ませたまえ。私はもう堅苦しい儀式だ警護だで、へとへとなんだ」
 確かに式典の最中に何かあれば、武闘派錬金術師である彼は火線の矢面に立たねばならなかったであろうし、それも見越した上で彼は重要な式典や警備の手薄になる移動の場には必ず国賓に同道することを強いられていた。日々続くそのプレッシャーは並大抵のものではなかっただろう。だから、そう言われてしまうと、リザには反論の余地もない。
 お小言を止め黙り込んだリザの様子に気を良くしたらしいロイは、顔だけを彼女の方に向け笑いながらふざけてみせる。
「それにムサい男が四六時中側にいては、休まるものも休まらなかったからな」
 彼らが別行動をしている間、ロイの傍らには護衛としてハボックが侍っていた。その事に対するロイの文句とも揶揄ともつかぬ言葉に、リザは憮然として答える。
「そうはおっしゃいますが、信頼できる護衛として彼以上の適任者は見つけられません」
 木で鼻をくくった様なリザの返事に、ロイは柔らかな笑いを苦笑に変えた。
「君は、直接言わないと分かってくれないのかね」
 リザは澄まして答えてみせる。
「それを言われませんよう、先にきちんと正答をしておくべきかと」
「それが、君の正答か」
 わざとらしく落胆した様子をしてみせるロイはようやくソファーから僅かに身体を起こすと、うんと伸び上がって傍らの読書灯の明かりをつけた。サイドテーブルの上に手を伸ばした彼は、適当に手に触れた封筒を手元に引き寄せた。
「まったく、本の一冊も読む暇も無く、粉骨砕身働いた上官に対する扱いがそれかね」
 封筒に書かれた差出人の出版社の名を眺めながら、ロイは子供のように拗ねてみせる。その礼装の凛々しさとミスマッチなロイの表情が可笑しくて、リザは思わず口元をほころばせた。
 そんな彼女の様子に目敏く気付いたロイはすっと手を伸ばし、立ったままの彼女の手を引く。男の力に抵抗せず、リザはぽすりと彼の隣に腰を下ろした。ロイは彼女の手を掴んだまま、膝に本の入った封筒を置き、再びソファーに身体を沈める。
 リザは少し躊躇ったが抵抗を放棄し、彼に倣ってソファーにその身をもたせ掛けた。ふわりと柔らかなクッションと、逞しい男の身体が彼女を受け止め、リザはその心地好さに自然と肩の力が抜けていくのを感じる。
 オレンジの読書灯の下で、二人は肩を寄せ合い、ぼんやりと宙を見つめる。何者にも邪魔をされることの無い時間が二人の間に満ち、久しく彼らから遠ざかっていた静寂と平穏を薄闇が包み込んでいく。
 室内には芳ばしい珈琲の香りが満ち、彼女の髪に染み付いた硝煙の臭いや、微かなロイの整髪料の匂いを消していく。繋いだままの指先に互いの体温が溢れ、リザはゆっくりと目を閉じた。
 ああ、結局疲れていたのは、自分も同じなのだ。
 緩やかに解されていく心の存在を感じながら、リザは着替えを済ませても、副官の鎧を脱げずにいた自分自身を自覚する。ロイは彼女とは逆に、礼装のまますっかり彼女に対してプライベートモードで心を解いてしまっている。
 相変わらず噛みあわない自分たちを胸の内で笑い、リザは温かで穏やかな閉じた空間に身を委ねる。束の間の安らぎは、彼女に先程までの小言も忘れさせた。男の強引な手に引き寄せられるままに、彼女はロイにその身を委ねる。
 その拍子に、礼装の時のみロイの胸にぶら下げられる幾つもの硬い勲章がリザの頬に当たった。そのいくつもの金属の冷たさは、彼がイシュヴァールの英雄という名を授けられ、彼らが上官と副官として共に軍で歩むようになった原点を思い知らせるようであった。リザはその金属の冷たさに、くつろいでいた自分の心が急速に冷えていくのを感じた。
 ハッとしてロイの横顔を見上げれば、彼はただ穏やかに彼女を見つめ返してきた。その表情は、彼女と共に過ごすひと時の安らぎを彼が切望していることを告げていた。
 リザは一瞬浮かんだ己の小さな感傷を振り切るように、男の為に静かな笑みを浮かべてみせた。彼女のその笑みを了承の印と取ったロイは、更に彼女の身体を己の方に引き寄せると、彼女の顎に手を掛けた。
 だが、被ったままのロイの軍帽が、彼らの口付けの邪魔をする。唇が触れ合う前にコツリとおでこにぶつかった軍帽のつばに、リザはもう一度笑ってみせた。
「大佐、軍帽のつばが、おでこに当たるのですが」
「ああ、すまない」
 ロイは自分が軍帽を被ったままでいた事をすっかり忘れていたようで、少し間の抜けた表情で額に手をやると、彼女を抱く手を解き、帽子を脱ぐと膝の封筒の上に重ねて置いた。
 リザは彼の手が軍帽を脱ぐために自分から離れた隙に、するりと彼の腕の中から逃げだしソファーから身体を起こした。彼女の行動が解せぬ様子のロイの手から本の入った封筒と帽子とを取り上げたリザは、座ったままの彼と向かい合うように立つ。そしてロイの前に身を屈めると、からかうように帽子を脱いだせいで少し乱れた彼の前髪に触れた。
「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」
 明らかに少し気を悪くした様子のロイは、唇を尖らせ少年のように反論する。
「君は私にどうしろというのかね!」
「そうですね」
 リザは如何にもわざとらしく考え込むポーズを取りながら、彼の手から取り上げた本と帽子をサイドテーブルの上に置いた。そして再びロイを振り向くと座ったままの彼の上に屈みこみ、悪戯な笑みを浮かべてみせる。
「まずはその堅苦しい礼装をお着替えいただいて、いつもの大佐に戻っていただいてから考えます」
 そうすれば、その胸の勲章に穏やかな時間の邪魔をされることもないだろう。彼はサーベル以上に彼を縛る堅苦しさから解放され、ゆっくりとくつろぐことが出来るだろう。上官と部下の顔を忘れた時間を迎えるために、それはロイにしてもらわねばならない必要事項であった。
 ロイは不機嫌な顔で前髪を一筋つまむと、クシャリと右手でオールバックの髪形を崩した。長く緊張感を伴う任務に携わってきた国軍大佐としての顔を崩した彼は、それと一緒に難しい表情を崩し、疲れた顔に穏やかな笑顔を浮かべて立ち上がる。
「まったく君には敵わない。すっかり、君の思い通りだ」
 礼装のコートの前を開きながら、ロイは肩を竦めてみせる。だから、リザは澄ました顔で彼の言葉をかわしてみせた。
「大佐には敵いません」
 カチャリと勲章のぶつかり合う音と共に、ロイは彼女の言葉に笑みを浮かべて長いコートを脱いだ。コートを受け取ろうと伸ばしたリザの手は、ロイの手に掴まえられた。
「大佐?」
「直ぐに着替える。少し待て」
 そう言って彼女を抱き寄せる男のしなやかな筋肉質の腕にリザは苦笑と共に身を委ね、今度こそプライベートの幸福を享受する。
 さっきよりも近い距離で見つめ合い、穏やかな笑みを交わした二人は、柔らかな読書灯のオレンジ色の光の下で口付けを一つ交わす。
 それを合図に、優しい夜がゆっくりと二人の静かな時間の幕を開けた。
 何ものにも邪魔されず二人だけの時を過ごす幸福は、また明日からの軍人としての二人の日々を支えてくれるだろう。
 そんな予感に背中を押され、リザは男の腕の中で、ソファーに身を沈めるような心地好さと安堵を味わいながら、珈琲の香りの漂う部屋でもう一つ口付けを受け止める為にそっとその瞳を閉じた。