黎明 Side Roy

「ああ、終わった!」
 ロイは愛用の万年筆を置くと、うんと伸びをしながら言った。早朝からずっとサインを続けたせいで怠さを覚える腕の筋肉が、軋みをあげてほぐれていく。読み終わったらしい書類の束を膝の上でまとめたリザは、生真面目な表情で彼に視線を向けた。
「お疲れ様でした」
「君も非番明けにわざわざご苦労だった」
「まだ書類を一式読んだだけですが」
 リザの硬い返答にロイは苦笑し、もう一度大きな伸びをした。
 
 必要に迫られて自主的に朝から職務を果たしていたロイの目の前に、非番明けのリザが早朝出勤して来たのが小一時間前。途中少しの会話はあったものの、ロイはサインを書き続け、リザは書類を読み続け、まるで当たり前のように勤務時間外に彼らは真面目に働き続ける事態に陥っていた。
 とは言うものの、ロイが東方司令部の司令官になってからは、そういった事態も珍しいことではなくなっている。そうでもしないと、仕事が片付かない程に彼らの日常は忙しい。
 我ながら勤勉になったものだ。
 そう考えながら、ロイは笑って己の椅子から立ち上がる。サインを終えたらしばらく休憩する予定だった彼は初心を貫徹するべく、珈琲ポットを置いた棚に足を運んだ。
 だが、そんな彼の行動を勤勉な副官殿が見逃す筈はなかった。
「准将、珈琲でしたら私が」
 そう言って立ち上がろうとするリザを片手で制し、ロイは気障なウィンクをしてみせた。
「まだ勤務時間外だ、たまには私が淹れても構わんだろう?」
 彼がそう言うとリザは窘めるような表情を作ったが、それ以上の反論はせず素直に座り直すと再び書類をパラパラとめくりだした。
 以前なら頑なに『それは私の職務です!』などと言って絶対にロイの手から珈琲ポットを取り上げていたであろう彼女も、いつの間にか随分と融通が利くようになった。特にそれは彼が准将になって、ここ東方司令部に司令官として戻ってからは顕著に見られるようになった気がする。長い付き合いの中での変化は、こんなところにもあるのだ。
 共有してきた数多の出来事を思い返し、ロイは内心で微かに笑って両手にマグカップを持った。
「それで、君はどう思う?」
 ロイはカップの片方を彼女の前に置きながら頭を切り換え、今朝の本題を問う。
 彼女が非番の日にロイの元に届けられたその書類は、来月に迫ったシン国訪問の予定にキナ臭さを感じさせるものであった。彼女が彼と同意見なら、この案件は一考せねばならないと彼は思ってる。
 リザは「ありがとうございます」と言って一口珈琲を飲んでから、確認をするように幾枚かの書類をめくると慎重に口を開いた。
「そうですね。准将がご懸念を抱かれた点は分かったように思います」
「例えば?」
 ロイは傍らのデスクにもたれ掛かり、彼女に向けて続きを促す。リザは書類を閉じると表紙の『シン国訪問日程(仮)』とシンプルに書かれた文字から彼の方へと視線を向けた。真実を射抜く鷹の目が、彼を真正面から見つめる。
「とりあえずですが、日程があからさまにこちらの軍事演習に被っている点、マイルズ少佐をメンバーから外している点、准将閣下の出立日だけが明記されていない点、でしょうか」
 打てば響くような副官殿の回答にロイは満足して頷いた。
「概ね同感だ、君もそう思うなら間違いなさそうだ」
「概ね、とおっしゃいますと?」
「移動に汽車を使う予定が無い点、だ。折角の砂漠を渡る鉄道の完成をアピールするチャンスなのに、それを避ける理由は何だ?」
「確かに」
 リザは彼の言葉に納得するように頷くと、彼の手に書類を返して寄越した。
「それで、准将閣下となさいましてはこの案を突き返されるおつもりなのですか?」
「いや、ありがたく交渉の材料にさせて貰うつもりだ」
 ロイは不敵な笑みを浮かべると、受け取った書類の最後にあった余り紙で手慰みのように紙飛行機を折り始めた。
「准将閣下」
 冷ややかにロイを咎める彼女の声を聞き流し、ロイは簡単に折り上げた紙飛行機を手に窓辺に立った。
「風向きを読んでうまく使えば、こんな紙切れでも大きな成果を生む」
 ロイはそう言いながら、ガタンと音を立てて窓を開いた。
 爽やかな朝の風がふわりとカーテンを揺らし、ロイの頬を撫でた。ロイは彼女を手招きすると窓の外へと視線を向ける。
「狙撃手の君なら風を読むのもお手の物だろう」
 リザは不承不承といった様子で手の中のカップを置くと、ロイの方へと歩み寄る。
「焔を操られる准将こそ、風読みはお得意では?」
 リザはそう言いながら彼の傍らに立った。
 柔らかな風が彼女の後れ毛を揺らし、リザは眼を細めると窓の方へ手をかざす。
「西南西の風、三.五から四といったところでしょうか」
「概ね同感だ。紙の質料と形状から中庭は越えるかな」
「おそらく」
 ロイは頬に風を受けながら、彼女の横顔を見た。昔なら目くじらを立てるだけだったこういったお遊びにも、いつからか彼女は付き合ってくれるようになった。
 にもかかわらず、先刻交わした会話の中で「ついてきてくれるか」と言ったロイの言葉に、彼女は任官した時と同じ言葉を返して寄越した。
 長い付き合いの中さまざまな出来事が変えてきたものと、変わらず二人の間にあるものを噛みしめて、ロイは手の中の紙飛行機を空へと送り出す。
 ふわりと風に乗った白い飛行機は植え込みを越え、中庭目掛けて二人から遠ざかっていく。
 焔の軌道を読む為でもなく、ライフルの射程を読む為でもなく、なんでもない遊びのために彼らが読んだ風は、彼らの読み通り紙飛行機を運び、ぐんぐんとその飛距離を伸ばす。
 遠く、遠く、光の中へ。
 横風にも負けず、ひたすらに、ただひたすらに。
 ロイは眩しい想いで真っ白な飛行機を見つめる。ふと視線を横にやれば、リザもまた朝の光の中、僅かに目を細めて飛んでいく紙飛行機を目で追っていた。その横顔の穏やかさをロイは静かに噛み締める。
 やがて小さな飛行機は中庭の向こうの生け垣へと着地した。
「読み通りですね」
「当然だ」
 少し得意げに言うロイに向け、リザはにっこりと笑ってみせた。その笑顔には剣呑な何かが微量に含まれていて、ロイは長年慣れたその気配に僅かに姿勢を正す。
「では、准将。拾いに行きますよ」
「え?」
「片付けの出来ない司令官では下に示しがつきません」
 こういうところで厳しい副官の顔をするのも彼女の変わらないところだ。リザの言い様に、ロイは苦笑して了承の印の代わりに肩をすくめてみせる。
「副官殿の仰せのままに」
 ロイのふざけた物言いに、リザは少しだけ柔らかさを含んだ笑みを浮かべて言う。
「一緒に行って差し上げますから。休憩はそれでお終いです」
「分かったよ」
 二人は並んで微笑を交わし、そして共に扉に向かって歩き出す。
 今までと変わらず、これからもきっとそうであるように、その歩調を合わせて。
 開け放したままの窓辺のカーテンが、手を振るようにふわりと彼らを見送った。