dawn purple 3

もう何度、この夜を繰り返してきただろう。
夜明けに向かって走る自転車の荷台に揺られながら、リザは感慨深い想いで目の前で揺れる広い背中を見つめた。
明け方の冷たい空気の中で息を切らして、この地方で一番偉い筈の人物は必死の形相で彼女を乗せた自転車を漕いでいる。
「准将?」
「何だね?」
真っ白い息を吐きながら、ロイは振り返りもせずに彼女の呼びかけに答えた。
徐々に急になっていく上り坂を大人二人分の重量を乗せてペダルを踏む行為は、流石に鍛え上げた彼にもきつい運動量だろう。
だが、敢えてリザは素知らぬふりでロイを急かす。
「そろそろ六時が近いのですが。少し急がれた方が良いのではないでしょうか?」
「君ね、無茶を言わないでくれ。君のその大きなお尻を乗せているのだから、これ以上スピードを上げるのは至難の業だ」
リザは返事の代わりに、伸び上がって背後からロイの頬をつねりあげた。
「痛い、痛い。やめろ、リザ!」
「どの口ですか? そんな失礼なことを言う口は。それに、大体が最初に無茶を言い出されたのは、准将閣下でいらっしゃいますでしょう?」
「すまん、すまない。私が悪かった!」
ロイの頬から手を離し、彼女は胸の中に渦巻いている文句を一息に吐き出した。
「ですから、『お車をお出しします』と申し上げましたのに」
「車なんか出したら、SPが気付いて付いて来てしまうじゃないか」
「それが今の貴方の立場でいらっしゃいますしょう? SPも振り切って、こんな時間にお忍びでお出かけだなんて。ご自身がV.I.Pでいらっしゃるというご自覚を、いつになったら持っていただけるのですか?」
「だが、こんなもの、SPを引き連れてぞろぞろ見に行くものでもあるまい」
「そうはおっしゃいますが」
「それに、君という一番頼もしい護衛がいてくれるのだから、問題あるまい」
のらりくらりと言い訳をするロイに、更に容赦なくリザは小言を続けようとする。
だが、彼女の敵は一枚上手だった。
「ああ、やっと下りだ。リザ、黙らないと舌を噛むぞ?」
ロイの言葉と共に自転車はがくんと前傾になったかと思うと、急加速を始める。
リザは勢い、彼の背中に鼻をぶつける羽目になる。
ロイは笑って被ったハンチングが飛んでいかないように、片手で頭を抑えている。
「准将!」
寒さと衝撃に鼻の頭を紅く染めるリザの抗議もどこ吹く風、下り坂の加速を利用してロイは強制的にリザのお小言を封じた。
幾つになっても、否、どれだけ偉くなっても、この人は変なところで子供っぽいままなのだ。
諦めの表情を浮かべたリザは、自転車の荷台に揺られながらいつかと同じ夜を越えていく。
ノーブレーキの凄まじい勢いで坂道を下る自転車は、寒風に髪をなびかせる二人を目的地へと運ぶ。
そう、新しい朝を迎える場所に向かって。

今日は彼らがこの地に戻ってきて、初めての年越しの夜だった。
この一年間、准将となったロイの日常は多忙のひと言に尽きた。
今までのサボリ癖も何処へやら、まさに謹厳な姿勢で彼はイシュヴァール政策に挑む日々を送っていた。
それは彼自身が望んだ贖罪の道であり、ひとつの人生の目的であるのだから当然のこととも思えた。
だから、リザは大晦日のこの日、まさかロイがあの場所へ自分を連れ出すとは思ってもいなかったのだ。
あの、この世のものとも思えぬ、美しい景色の見られる場所に。
リザは初めてあの場所に行った時のことを、今でも昨日の事のように思い出すことが出来た。
あの場所で初めて彼と共に初日の出をを見たのは、もう四半世紀近くも前のことであった。
父の目を盗んで夜中に家を抜け出すなんて、当時の彼女にはとてつもない大冒険であった。
あの時、彼と一緒になら何処まででも行ける気がした。
その予感に導かれるまま、彼女は今日この日まで彼の傍らで共に生きている。

「しかし、着慣れない服だと動きにくいことこの上ないな」
リザの回想を破るロイの声が、不意に前方から聞こえた。
いつの間にか坂を下り終えたロイは、ゆっくりとペダルを踏みながら彼女の様子をうかがうように話しかけてくる。
無頓着なように見えて、やっぱり気遣いの細やかな上官の二面性にリザは苦笑する。
「だいたいが准将が我が儘をおっしゃるからです。せめて、変装くらいはしていただきませんと」
「そうは言うがね、君。既成のコートなど着るのは何年ぶりか、覚えていないくらいだ」
確かにロイの着るものは、オーダーメイドの仕立ての良いものばかりだ。
だから変装の為とは言え、こんな風に寸法の微妙に合わないものを着るのは気持ちが悪いのだろう。
リザは贅沢な色男の背中を見上げ、笑って答えた。
「スーツを着ておいででない准将のお姿を拝見するのも、何年ぶりか分からないくらいですから」
「確かに」
ブルーカラーの男達が着るようなラフな服装に、ツイードヘリンボーンのコートを羽織ったロイは、自分の姿をしげしげと見下ろす。
「このコートが少し大き過ぎるんだ」
「急遽ご用意したのですから、文句を言わないで下さい。貴方、だいたい目立つんですから。また狙撃されたら、どうなさるんですか」
「ああ、すまない。君には苦労をかけるな」
急に素直に謝罪の言葉を口にするロイに拍子抜けし、リザは微かに笑った。
「そうおっしゃるくらいでしたら、最初から私の言う通り、お車でお出かけ下されば」
「だが、譲れるところと譲れないところはある」
「本当に、貴方という方は」
「諦めたまえ」
「ええ、とっくに諦めております。ですから、こうしてお付き合いさせていただいているじゃありませんか」
「感謝するよ」
戯れ合いのような会話に久しぶりに肩の力を抜き、リザはしらしらと白み始める前方の空をロイの肩越しに見つめた。

この一年、彼が准将になってから、彼らは休む間もなく馬車馬のように働き続けてきた。
テロや暗殺の標的になることも数えきれず、様々な難題に頭を抱え、あの青い軍服を着ている限り気を抜く余裕さえ無い日々を彼らは共に走り抜けた。
それでも、あの血に塗れた日々を償う日を、ついに彼らは手に入れることが出来たのだ。
久方ぶりに心の鎧を脱ぐ、穏やかな時間をリザはしみじみと噛み締める。
「初めて准将にあの場所に連れて行っていただいてから、随分と遠くまで来てしまいました」
リザは感慨深く、想いを口に出す。
ロイは静かに彼女の言葉に答えた。
「ああ、随分遠くまで連れてきた」
「いいえ、私が付いて来ただけです」
ロイが苦笑した気配が、彼の肩口に漂った。
「相変わらずだと思っておいででしょう?」
「いいや、もう慣れた」
ロイは最後の坂道を上がる緩いカーブに力一杯ペダルを漕ぎながら、彼女の言葉に簡潔に答えた。
「ついに我々はこの地位までたどり着き、過去を贖うチャンスを得るまでに至った。それでも君はあの時から変わらず、私の後ろでこの夜を共に越えてくれる。それで十分じゃないか」
リザは同意の言葉の代わりに、そっと彼のコートの背中におでこを付けた。
ロイは笑って自転車のスピードを上げる。

「ああ、間に合いそうだ」
カーブを抜けた先には、いつかと変わらぬ群青の空と静かな湖面が広がっている。
自転車を停めるロイに背を向け、リザは目の前に広がる景色をゆっくりと噛み締めるように眺めた。
群青の空は刻々とまるで幾重にも折り重なるグラデーションの幕を引くように、一瞬たりとも同じ表情を見せず変化していく。
幾年経っても変わらぬ美しい景色は、やはりこの世のものとは思えなかった。
夜明け直前の急激な冷え込みに両手をこすり合わせ、リザは厳かな想いで夜明けを待つ。
淡いオレンジの今年最初の光が、彼女の白い息をキラキラと輝かせる。

その時だった。
突如、リザはふわりと暖かな空間に包み込まれた。
気付けば背中に男の温もりが触れ、彼女の身体は彼のツイードのコートの中に収納されていた。
「准将!?」
彼女の驚きの声を無視して、ロイは彼女を自分のコートの懐にすっぽりと抱え込んだまま、眩しげに朝陽に目を細めた。
「大き過ぎるコートにも、使い道はあるものだな」
コートの前立てを掴む手で、しっかりとリザを抱き締めた男はしらっとそう言ってのける。
「こんな恥ずかしいことはお止め下さい!」
「誰も見ていないのに、何を恥ずかしいことがあるものか」
「だいたいが貴方の為さることは気障なんです!」
「でも、暖かいだろう?」
「そう言う問題では」
「あー、全く君はうるさいな。黙らないと、もっと恥ずかしいことをするぞ?」
ロイの言葉に、リザはぴたりと黙り込んだ。
この男はやると言ったら、どんなことでもやってのける。

腕の中のリザの抗議が止んだことに満足し、彼はそれ以上彼女にちょっかいをかけることなく、彼女の頭上で白い息を吐いた。
そしてしっかりと彼女をコートの胸に抱いて、ただ黙って男は夜明けを待つ。
リザは彼の心音を聞きながら、新しい一年の始まりを彼と共に見つめていた。
二人は黙って光の屈折が作り出す幾百の青を映す空と水を眺め、新しい太陽の光を同時に頬に受けた。
暖かな生きている証のような、夜明けの光を。
それは彼らが子供の頃から変わらぬ景色であり、きっとこの国が出来る以前からのずっと変わらぬ自然の営みなのだろう。
こんな雄大な景色を見ていると、如何に自分がちっぽけな存在であるかを思い知らされる。
きっと、ロイは様々な想いや決意を込めて、新年をこの場所で迎えるのだろう。
変わらぬものを守る為に。

朝陽に照らされるリザの耳元で、穏やかな彼の声が響く。
「今年もよろしく頼む。優秀な我が副官殿」
リザは微笑んで、彼を肩越しに見上げ答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。准将閣下」
二人は一年を始める口付けを交わし、そっと小さな笑みを交わす。

道程は遠い。
それでも彼らはここまで来たのだ、と。

Fin.

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【後書きのようなもの】
Dawn purple」、「Dawn purple 2」に続いて、今年は准将&副官で。来年こそ、大将&副官?(笑)
彼らが自分の手で掴んだ新しい世界が、希望に満ち溢れたものになることを祈ります。
 旧年中はオンにもオフにもお付き合いいただき、ありがとうございました。本当に色々なことがあった一年でした。今年は穏やかに一年を過ごせることを、心から祈ります。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

お気に召しましたなら。
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