oversleep

静かな朝の空気を破る、鳥のさえずりが聞こえた。
微かな音にロイは眠りの渦から引きずり出され、眉間に皴を寄せながら薄目を開けた。
カーテンの向こうには眩いばかりの太陽が輝き、夜明けから随分と時間が経っている事を彼に知らせている。
ああ、もう少し眠りたい。
休日の惰眠ほど幸福なものはないというのに。
ロイはぼんやりとシーツの隙間で眠りの余韻を噛み締めながら、外の明るさに抵抗するように寝返りを打った。
しかし明るい陽光は部屋中に満ち、彼を解放してくれない。
彼は渋々シーツの海から顔を出し、目を瞬かせた。
ぼんやりと窓の外に目をやれば、そこには日常の中で蓄積された疲労を取るだけで終わってしまうのが口惜しくなるほどの、穏やかな景色が広がっている。
ロイは目覚めに抵抗する事を止め、枕元に置いた銀時計に手を伸ばす。
〇九四五を指す時計の針に、ロイは徐々に目覚めて動き出す頭の中に引っ掛かるものを思い出す。
ああ、そう言えば、今日は彼女と約束があったのだ。
ロイはもそもそと起き上がりながら、今度こそはっきりと目覚めた頭で現状を確認する。
約束の時間は一〇〇〇。
彼女のことだから、恐らく誤差プラスマイナス三〇秒の範囲でこの家にやってくるに違いない。
彼に残された時間は十五分。
着替えて、髭をあたり、朝食は諦めるとして、ギリギリ何とか間に合うだろう。
ロイは素早くそう計算すると、ベッドから起き上がった。
たとえロイが寝坊したとしても、彼女は小言の一つはこぼすだろうが、彼が身支度を整える時間位は待ってくれるだろう。
しかし、それでは彼の伊達男の矜持が許さない。
ロイはバタバタと洗面所に向かい、顔を洗い、髭を剃り始めた。

ここ東方に戻り、准将に昇進してからの彼の忙しさは破格のものであった。
当然のことながら、蓄積する彼の疲労はその忙しさに比例して増大し、彼女とプライベートで共に過ごす時間はその忙しさに反比例して少なくなっていた。
その大切な時間を無駄にしては、折角もぎ取った休日も意味がなくなってしまう。
しかし、身だしなみを整えるのに、手を抜くわけにはいかない。
ロイは剃り残しがないか顎を撫でて確認しながら、鏡を覗き込んだ。
頬を撫でながら、ロイは己の側頭部の凄まじい寝癖に気付く。
ひょろりと外に向かって跳ね上がる黒髪は、ブラシをかけるだけでは、元に戻ってくれそうもない。
濡れた手で押さえつけ、何とか体裁を整えようにも、彼の毛は彼に似て大変強情であるらしく、まったく彼の思う通りにはなってくれない。
時間があれば、シャワーでも浴びればいいのだが、そうも言っていられない。
仕方あるまい。
ロイは洗面台に置いた、整髪料を手に取った。
休みの日までわざわざ髪をセットする事は普段しないのだが、今は彼にとっての緊急事態だ。
四の五の言っている暇はない。
ざっと、いつも通りの准将の顔を作るオールバックに髪を整え、ロイはそれで何とか寝癖を誤魔化すと、慌てて寝室へと舞い戻る。
ベッドをざっと片付け、着替えをし、出かける準備をするのに、残り時間は十分を切っている。
彼の体裁を整えるには短すぎる時間に、ロイはクローゼットの手近にあったスーツを取り出すと、時計の針と競争するようにワイシャツに袖を通し、ネクタイを結び始めたのだった。

キンコーン。
一〇〇〇ジャスト、彼の家のチャイムが鳴った。
「相変わらず、時間厳守だな」
まるで一時間も前から起きていたかのような顔をしてロイは悠然とドアを開けると、扉の前に立つリザを迎え入れた。
元々軍人なのだから、短時間で準備を整えることには慣れている。
瀟洒なスーツを着こなし、きちりと櫛目の入ったオールバックには一筋の乱れもない。
完璧だ。
内心でそう考えながら、ロイはいかにも待ちくたびれた風を装う。
いつもの無表情を貫くリザは、済ました顔で「当然です」と答え、何故かまじまじとロイの顔を見上げてきた。
「どうかしたかね?」
頬にシーツのしわの跡でもついていたかと、内心でどきりとするロイにリザはふるりと首を横に振った。
「いえ」
リザは律儀に敬礼を一つすると、玄関の中へと入ってきた。
ロイは内心で首を傾げた。
「このまま、出掛けるのではなかったかね?」
「はい、そのつもりですが」
そう言いながら、リザはじっと彼を見つめている。
はて、髭の剃り残しでもあっただろうか?
否。彼女の視線は、彼の頬よりも更に上、彼の額の辺りを見ている。
ひょっとして、自分でも気付かぬ内に生え際が後退でもしているのだろうか?
ロイは、彼女の物言わぬ口よりも雄弁な眼差しに翻弄される。
とりあえず、体裁を整えようと、彼は己の疑問をいったん脇に避けた。
「とりあえず、珈琲でも飲んでいくかね?」
「では、私が淹れさせて頂きます」
いつもなら、それ程彼の家に長居することもない彼女が、珍しい。
はてさて、一体彼女は何を気にしているのだろう。
そう思いながら、ロイは玄関脇の姿見を横目でちらりと己が姿を確認する。
オールグリーン。頭の天辺から靴の先まで、何の問題もなし。
彼の空腹を知らせる腹の虫も、大人しい。
はてさて、他に何か問題点があっただろうか。
唯一の問題であった寝癖は、しっかり隠してあるというのに。
ロイは彼女の先に立って、キッチンへと歩きながら寝起きの頭脳をフル回転させる。

カツカツとヒールの踵を鳴らし、彼の後をついてくる彼女の足音がロイの耳に響く。
それは常の副官としての彼女からは、けっして聞こえない音だった。
ロイは己の疑問から、リザの存在へと思考を移した。
襟の高いジャケットが常の黒いタートルネックの代わりに彼女の首筋を隠してはいるが、その胸元は広く開いて普段のストイックな彼女を開放的に見せている。
いや、スカートを履いているだけで、彼女の存在は彼の中で副官から女性へと切り替わるのだ。
重たい軍靴を履きながら、音も立てず歩く優秀な軍人である彼女と、今の彼女は全くの別人だ。
たかが洋服一枚で変わるものなど、本当はない。
それは、彼と彼女の心が作り出す暗黙の了解であり、二人のけじめであるのだから。

そう考えたところで、ロイははたとあることに気が付いた。
立ち止まってクルリと振り向けば、リザは相変わらず彼の頭頂部を見つめている。
なるほど。
ロイは得心し、彼女の前で綺麗に整えたオールバックをくしゃりと崩してみせた。
「こういうことか」
リザは少し笑って頷いた。
オールバックは、童顔の彼が准将としての威厳を保つ為の、一つのアイテムなのだ。
彼女とて、折角の休みの日まで、准将の顔でいる彼を見たくないというわけだ。
寝癖よりも大事なものをうっかり忘れていたとは。
ロイは迂闊な自分を笑うと、きっちり着込んだスーツの上着を脱ぎ、彼女に渡した。
「寝癖がひどくて、どうにもならなくてな。シャワーを浴びる間、待っていられるか?」
「お待ちしている間に、ちょうど珈琲が入っているかと」
「ついでにトーストの一枚も焼いておいてくれると、ありがたいのだが」
「卵もおつけしましょうか?」
冗談でそう言う彼女に、ロイは真面目な顔で答える。
「サニーサイド・アップで頼む」
そう言って浴室に向かう彼の背に、呆れた彼女の声が届く。
「朝食を抜かれたので?」
「時間がなくてね」
更に彼女の声に微妙な棘が含まれる。
「准将、まさか寝坊なさったのですか?」
「すまない」
笑いながら彼女に謝って、ロイはさっさと浴室に逃げ込んだ。

折角そつなく寝坊を誤魔化したと思ったのに、こんな事でばれてしまうとは。
苦笑しながらロイは、頭から熱いシャワーの湯をかぶる。
目覚ましには丁度いい湯温と、思い掛けず彼女の手料理を朝から食べられる幸福に目を細め、ロイはザッと一〇分前に付けたばかりの整髪料を洗い流したのだった。

 Fin.

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【後書きのような物】
 新たなる萌えの為の助走。次に書くおまけが実は萌え本体になる予定、なのですが、これはこれで好きなんですよね。ちょっとした拘り、ちょっとした切り替え。真面目な彼らのケジメの証。そういうのもいいなぁと。

お気に召しましたなら。

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