get over

「こう煮詰まっては能率が上がらん。三〇分仮眠を取るから、時間が来たら起こしてくれ」
そう言った男がさっさと書類を放り出し、ソファーに身を横たえたのは十五分程前のことだった。
彼女に返事をする暇すら与えず、ロイはあっと言う間に小さな寝息を立てていた。
どこででも眠れるのが軍人とは言え、そのあまりの早さにリザは苦笑するしかなかった。

東方司令部の最高司令官である彼の元には、様々な重要事から些事までが持ち込まれてくる。
今日も今日とて朝の早い時間に査察に出掛けた以外、彼は一日中司令部に缶詰になっていた。
たとえ真面目に働いても、一日が二十四時間では足りないくらいだ。
そうなると、畢竟削るのは睡眠時間ということになってくる。
だから准将閣下になってから、ロイは万年睡眠不足の日々を抱えている。
それでも、彼があまり文句を言わないのは、そこに彼のイシュヴァール政策に向ける覚悟があるからだと彼女は思っている。
それが、彼女が彼の仮眠を苦笑で許す理由であった。
ソファーの肘掛けに軍靴を履いたままの足をお行儀悪くのせ、もう一方の肘掛けを枕に眠るロイに毛布を掛けてやりながら、リザは彼の代わりに出来る仕事に手を付けた。
四〇分の仮眠を彼に与えることが出来ればいいと思いながら。

しばしの静けさが夜の執務室を支配した。
廊下を行き来する軍靴の足音。
リザの滑らせるペン先が紙を引っ掻く音。
ロイの寝息。
普段は聞こえない小さな和音が部屋を満たす。
リザは集中して書類仕事を進めていく。

面倒な計算に、彼女がメモ書きを破いたその時だった。
ヒュッと逼迫した呼吸音が、夜の静けさを裂いた。
リザは書類を繰っていた手を止め、そっとソファーの方を振り向く。
執務室に置かれた応接セットのソファーには、先程と変わらぬ体勢で彼女の上官がだらんと手足を空にはみ出させて眠っている。
気のせいかと思った。
しかし、続けて明らかにロイのものである低い唸り声が聞こえた。
意味をなさぬ声は直ぐにやんだ。

リザは壁の時計を見上げた。
彼の言った仮眠の終了の時間までには、今しばらくの猶予がある。
彼女が起こす前に勝手に起きたわけでも無さそうだ。
ならば、何が?
リザは手に持っていた書類を机上に置いて立ち上がると、眠るロイの元へと歩み寄った。

ロイは眠っていた。
ただし、眉間に大きな皺を寄せて。
何か嫌な夢でも見ているのだろうか?
そう考える彼女の目の前で、ロイの眉間の皺が更に深く刻まれた。
苦しげに浅い息が吐き出され、眠りの中で緊迫する彼の様子が伺えた。
哀しげにさえ見えるその表情に、リザは見覚えがあった。

彼の眉間に刻まれる皺を、何度も何度も彼女は見てきた。
今、彼女の目の前にある彼の眉間の皺と同じものを。
その度に、リザは夢に怯え苦しむロイを起こしてきた。
その度に、過去の殺戮への罪悪感に苛まれ、英雄と呼ばれる人殺しの日々を映す悪夢に追われ飛び起きる彼の姿を見てきた。
リザはようやく今日の査察地がイシュヴァール閉鎖地区であったことを思い出す。

わざわざ考えねば思い出さなくなる程に、今や彼らにとってイシュヴァールという土地は日常当たり前に関わり合う場所となっている。
過去の悪夢の蓋は、常に彼らの前に開かれた。
それでも、久方ぶりに訪れた現場の風化しても変わらぬ惨状は彼らの心を抉る。
現実の景色が、過去を呼び起こしたのかもしれない。
人殺しの、夢破れた裏切りの焔が舞う夢を。
彼女は急いで、未だ三〇分経っていない仮眠から彼を揺り起こす。

「准将」
「……うむ」
「准将?」
「……ああ、もう三〇分経ったのか?」
「いえ、まだです」
「そうか」
予定より短い仮眠に、ロイは文句を言わなかった。
やはり起こして正解だったのだろう。
リザは胸をなで下ろす。
そんな彼女に向かい、ロイはうんと伸びをすると彼女の予想通りの言葉を吐いた。

「起こしてくれて助かった」
「何か悪い夢を?」
「私はうなされていたのか?」
リザの問いかけに、ロイは答えの代わりに問いを返してくる。
リザは曖昧に頷いた。
あまり辛い話を蒸し返す必要もないと思い、彼女はわざと話題を変えようとした。
しかし、彼女が言葉を発する前に、ロイはほっと表情を崩し全く彼女の予想もしなかったことを言ったのだった。

「参ったな、この歳になって師匠に叱られる夢にうなされるとは」
「え?」

リザはあまりに予想外の彼の言葉に目を瞬かせた。
驚いた様子のリザに、ロイは然もありなんと言った表情で笑うと肩を竦めてみせた。
「そんな顔をしないでくれ、私自身情けないと思っているのだから」
「准将?」
「大事な考査で君の父上が描かれた構築式が解けなくてね。どんどん機嫌が悪くなっていく師匠の前で、だらだら脂汗を掻きながら唸っている夢を見た。焦りと恐怖で、口から胃が出そうな気分だった」
「はぁ」
思わず力が抜けて妙な相槌を打ってしまう彼女に、ロイは少しだけ情けない笑みを浮かべてみせる。
「幾つになっても、師匠は師匠なのだよ。仕方あるまい」
「いえ、そうではなく」
リザはそう言ってから、ふっと思い直して自分が彼を起こした本当の理由を口に出すことを止めた。

きっと彼はイシュヴァールの過去の惨状を目の前にしても、それを受け止め、己ものとして共に歩む覚悟を決めてしまったのだろう。
過去の罪悪感に浸っている暇などない程に、ロイはイシュヴァール政策を現実に片付けねばならない政治的問題として日々そこに住んでいた人々と向き合っている。
現実の問題として自分の手で贖罪の道を開くことで、深層心理に罪の意識だけを溜め込んで夢として表出させることをきっと彼は止めたのだ。
悪夢は手の届かない苦しみではなく、解決する為の現実と成り果てた。
それは現実には苦しいことでも、きっととても幸福なことなのだ。

リザはそう考えて口を噤んだ。
彼女の言葉の続きを待っていたロイは、肩透かしを食らって不審そうな顔をしている。
「どうしたね? 大尉」
「いいえ、何でもありません。とにかく、あちらの書類だけでも仕上げて下さい。でないと、父の代わりに私が准将をお叱りせねばならなくなります」
「ああ、怖い怖い。今は師匠より君の方が余程怖い」
「そう思われるのでしたら、さっさと起きて下さい」
「分かったよ」
そう言って、三十路を越えても師匠に怯える彼女の父のお弟子さんは、彼女の父が残した『錬金術は大衆の為に』という大いなる難問を解く為に再び執務机に向かったのであった。

 Fin.

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