寒夜に霜を聞く如く サンプル

第一夜

 寒い夜は酷く感傷的になることがある。
そう、例えばこんな風に眠れない夜には。
 リザは冷たいシーツの中ですっかり冷えてしまった爪先を丸め、ころりと寝返りを打った。
 いつもと同じデスクワークや会議に加え、今日は遠方への上官の査察の運転手を務めたこともあり、身体は綿のように疲れきっている。
 だから、彼女は早めにシャワーを使い、早めにベッドに入ったのだ。それなのに、眠りの精は彼女の上にその羽を広げてはくれず、リザはさっきからころころとベッドの中で寝返りを繰り返している。
 こんな日に限って仔犬はベッドの下に潜り込んで出てこないし、普段なら深夜でも数台は車の通る表通りからも何の物音も聞こえてはこない。枕元においた目覚ましの秒針が動くカチカチという音だけが、彼女の世界を満たす唯一の動くものの気配であった。
 まるで夜の中にたった一人でいるような気がするほどに、世界は静寂に満ちている。リザは闇に目を凝らし、枕元の時計を確認する。
 〇二〇五。
 残業中なら二六〇五と読む時間だ。ここまで遅い時間まで残業することは、最近は滅多にない。明日も通常の勤務だというに、これでは職務に支障が出かねない。早寝早食いが身上の筈の軍人が、いったい何をしているのだろう。
 リザは自分自身に呆れながら、本当は胸の奥ではその理由に思い当たっている自分に気付かない振りをする。それでも心は正直で、意識は彼女の胸の奥底にあるものをカチカチと動く秒針の上に映し出す。
 〇二〇五。
 通常のバーなら、既に店じまいをしている時間だ。ここまで遅い時間まで飲み歩くなら、彼は何処かに泊まってくるかもしれない。今夜、彼が会うと言っていた女の名は何といっただろう。
 そこまで考えて、リザは自分の推論を否定する。
 いや、きっとそれはありえない。彼自身、今夜の会合に文句のようなものを言っていたし、明日は通常通り出勤しなければならないから、流石にこの時間には帰宅しているだろう。そういうところだけは、生真面目な男なのだ。
 だから。
 リザは思う。
 だから、きっと彼は今夜ここに来ることもないだろう。彼は何も言わなかった。何か言い掛けたが、結局は何も言わなかったではないか。
 リザは自分にそう言い聞かせながら、また寝返りを打った。
 大体が、「独り寝が良い」などと、好まなければ一人で寝ることなどないから言えるのだ。そのくせ、あの男はリザの都合も聞かずにやってきては、ベッドを占拠するのだから堪ったものではない。
 いつだって、彼らの間に約束はない。彼女はただ彼の言葉を待つだけだ。リザの部屋への訪問の可否を問う彼の言葉を。リザの方から彼を誘うことはない。
 暗黙の了解、それが彼らのルールだ。
 今までも彼らはそのルールの中で、表向きは上官と部下の顔をして上手に関係を築いてきた。
 長過ぎる付き合いの中に多少のマンネリズムを感じたり、惰性を疑ったりすることもある。でも、彼女がロイを求めていることは確かだし、その逆も確かだと彼女はきちんと感じることが出来ている。
 これ以上、何を求めると言うのか。莫迦なことを考える暇があるなら、眠らなくては。
 だが、そう思えば思うほど、眠りは彼女から遠ざかっていく。秒針はゆっくりと、だが容赦なく時を刻んでいく。リザは深い溜め息を零すと時計から目を逸らし、もう幾度目か分からぬ寝返りを打った。
 かちりと短針が移動する音がした。
 〇二〇六。
 昼間、車中で繰り広げられたイレギュラーなロイとの会話が彼女の脳裏に浮かび、彼女の心を揺らし始める。

          §

「一四〇六。概ね予定通りの遅れだな」
 車の後部座席に乗り込んだロイは、懐から銀時計を取り出しそう言った。まだ見送りの人間が見ているというのに不躾なその態度は、彼が今回の査察に大きな不満を持っている事を如実に表していた。
「時間の余裕はとってあります。イーストシティへの帰着時間にさほど影響はありません」
 リザは当たり障りなく聞こえるように返事をすると、これ以上ロイが衆目の中で毒を吐かない内に急いで車のエンジンをかけた。
 ここのところの残業続きで今朝から彼は疲れた顔をしていたし、今回のイレギュラーの査察も半分嫌がらせに押し付けられた仕事だ。ある程度は仕方がないと思う気持ちと、こんなことで敵を増やすような真似をするなんて大人気ないと思う気持ちの狭間で、リザはこの街のシンボルである大時計をフロントガラス越しに見上げた。
 彼の言葉どおり、本来の予定から出発時間は三〇分近く押している。だが、こういった査察ではスケジュールは遅れるのが当たり前だ。次の予定を入れずにおいたから、帰路は急がなくても職務に支障が出ることはない。あるとすれば、ロイのデスクワークが遅れることくらいだが、そのくらいならリザがいくらでもフォローできるから問題ない。
 運転席のリザはこの後の予定を頭の中で組み立てながら、彼の言葉に返事をした。
「大佐、大人気ない行為はお止め下さい。大佐の歓待の為に時間が押したのです。あちらの好意ですから、仕方ありません」
「好意? 媚の間違いではないのか?」
 彼女の返事に、ロイはルームミラー越しに皮肉な笑みを浮かべてみせる。リザは彼の笑みともっともな言葉に、ただ肩を竦めてみせた。
 確かに彼の言いたいことはよく分かる。地方への査察など、言ってみれば権力へのおもねりと軍人への賄賂の温床でしかない。無駄な接待に時間を取られるくらいなら、彼は早々に帰宅して本に埋もれてでもいたいのだろう。
「あちらも仕事ですから」
「否定はせんのだな」
 ロイは苦笑して、身振りで彼女に車を出すように命じた。ゆっくりと車を発進させたリザは、ウィンカーを出して大通りを走り始める。ロイは後部座席に身を沈めて車の揺れに身を任せ、フッと小さな溜め息をついた。
明らかにロイは疲れた顔をしている。ここしばらく、彼はこういう表情をする事が多い。しかし、ここしばらくプライベートを共に過ごす機会が無い為、彼女はそんな彼に事情を追求することも出来ずにいる。なんとも歯痒い思いがしたリザは、車中というある意味仕切られた空間にいることを利用し、思い切って彼に聞いた。
「お疲れですか?」
 だが、疲れた顔をしたロイは、それでも彼女に向かって笑ってみせた。
「いや、大丈夫だ。そう言う君の方が疲れているんじゃないか? すまないな、この距離の運転を全て任せてしまって」
「いえ、これが私の任務ですから」
 リザは当たり前のこととそう答えたが、確かに長距離の運転は神経も使うし、楽なものではない。きっと、今夜は早々にベッドに倒れ込むことになりそうに思われた。だが、ロイがきちんとそのことに気付き、労いの言葉をかけてくれることに、彼女は幾許かの報いを感じる。それと同時に、彼女は彼が自分に上官の顔しか見せてくれないことを不満に思う。
 ロイはそんな彼女の様子に気付かず、銀時計に再び視線を落とした。
「任務、か。本来なら、私がハンドルを握るべきだろうが、この状況ではなかなかそうもいかない」
「本来、という言葉の意味をお間違えではありませんか? 上官に運転させて、平気で座席に収まる副官などおりません」
「そういう意味ではないのだがね」
 ロイが言わんとしていることはリザにも通じたが、軍服を着た彼女は答える言葉が見つけられない。どう返答したものかリザは考えたが、結局返事をせぬまま車を走らせた。
 車中に不自然な沈黙が満ちた。だが、ロイは彼女の返事がないことを気にする風もなく、じっと時計を見つめたままだ。中途半端に会話が途切れた居心地の悪さを感じながらも、リザはそんな彼の様子を窺い、副官として再び彼に言葉をかけた。
「何かありましたか?」
「何がだ?」
「ずっと時計を見ておいでですので」
「ああ。少し、な」
 ロイは視線を時計に落としたまま、言葉を濁した。リザは彼の言葉の歯切れの悪さに某かの含みを感じたが、極当たり前の副官の対応として念の為、彼に確認を取ることにした。
「この後に何かご予定でもありましたでしょうか? それでしたら、もう少し帰着時間を繰り上げるように調整致しますが」
 リザの言葉が聞こえていないかのように、ロイは視線を車窓に移す。何か考え込む時の癖で視線を遠くへと向けるロイの姿は、明らかにその横顔で彼女の質問に答えることを拒んでいた。
 プライベートには、口出しするなと言うことだろうか。何か彼女に聞かれては不都合なことでもあるのだろうか。それとも、さっきリザが彼の言葉に答えなかったことに腹を立てているのだろうか。あるいは、本当に疲れ果てて口をきくことも億劫なのだろうか。
 リザは彼の返事がないことに、様々な理由を考えたが、結局また口を噤むことを選んだ。
 彼から何も言われないのなら、彼女はこのまま行きと同じように安全運転でイーストシティまでの帰路をひた走るだけのことだ。リザはあくまでも副官の立場を貫く姿勢で、アクセルを踏んだ。
 車中に沈黙を乗せ、軍用車は土埃の立つ田舎道を走って行く。小さな街を郊外へ抜け、鉄道と平行して走るルートに乗れば、後はイーストシティまでは一本道だ。特に地図を確認するまでもないドライブルートに、リザは肩の力を抜いた。
 しばらく単調な道を走った頃だった。
「すまないが、もう少しゆっくりやってくれないか」
 不意に、後部座席のロイが口を開いた。