黎明 Side Riza

 軍人であるリザの朝は早い。
 東方司令部で一番偉い人になった上官の増えていく仕事を効率よく処理するため。
 突発の変更に早めに対応するため。
 そこに様々な理由をつけることは出来るが、単純に彼女は誰もいない朝の司令室の凛とした空気が好きだった。
 いつもは騒然と人が行き交う司令室もこの時間だけは静寂に満ち、誰もいない空間はこれから始まる全てを受け入れる準備をしているように見える。特に普段は雑然としているロイのデスクに金色の朝の光が差す光景は、厳かなものに見えることさえあった。
 だが、普段の彼女はそんな感傷はおくびにも出さず、堅物の副官の顔でただ黙々と仕事をこなしている。
 
 今日も今日とて非番明けの彼女の朝は早い。
 今朝は天気もいい。部屋の換気をしたら休みの間に溜まった書類を片付け、今週のスケジュール調整を済ませてしまおう。
 そう思って司令室の扉を開けたリザは、思いがけない人物の姿をそこに見た。
「准将閣下?」
 誰もいない筈のそこにいたのは、彼女の上官ロイ・マスタング准将であった。
 清々しい朝の光の中、眩しげに目を細めたロイは彼女を見やるとペンを走らせる手を止めた。
「ああ、君か。早いな、何か緊急の用件でもあったか?」
 少し驚いた様子のロイに向かい、リザはさっと敬礼の姿勢をとった。
「おはようございます、サー。何もありません、ただ休みの間の仕事を処理してしまおうと思って早めに出勤しただけです」
「相変わらず真面目だな」
 茶化すようなロイの言葉を流し、リザは彼に問い返す。
「そう仰る准将こそ、こんな朝早くから何をしておいでですか?」
「何って職務を果たしているだけだが」
 訝しげなリザの問いに、ロイは当然のこととばかりに答えてみせる。リザは小さくため息を吐いた。
「雨でも降らせて無能になるおつもりですか?」
「心外だな、私の勤勉ぶりを認めてもらえんとは」
 リザは肩をすくめることでロイの言葉を受け流し、彼のデスクへと歩み寄った。
 あの『約束の日』から数年、准将となって東部に戻ってからのロイの職務は多忙を極めていた。それでも、時々思い出したかのように顔を出すロイのサボり癖に、リザは相変わらず頭を痛めている。
 だが、この日のロイの言葉に偽りはなかったようで、彼のデスクの上には任官証明の書類が整然と並べられていて、彼がそれにサインを入れ続けていたことを物語っていた。彼女がデスクの状況を目にしたことを確認したロイは、お返しのように肩をすくめてみせる。
「この任官証明の山を明日までに片付けろと言ったのは君だろう」
「確かに申し上げましたが」
 何か裏があるのではないかと疑うリザに、ロイはストレートに答えを寄越す。
「来月のシン国訪問までの諸々を鑑みるに、明日と言わず本日中に仕上げるべきだと判断したまでだよ」
 ロイの言葉にリザは緊張感を露わにする。
「そちらの件で何か問題が?」
「現状ではノーだ。だが、気になることが幾つかある」
 そう言ってロイは机上にあった書類の束を彼女に渡して寄越した。受け取った彼女の指先はすぐに一定のリズムをもって書類のページを繰り始める。
 彼女の様子を確認したロイの方も、どうやらサインを入れる作業を再開したらしい。彼の愛用する万年筆が紙の上でカツカツと小さな音を立て始めた。
 静かな朝の部屋にロイのペンが走る音とリザがページを繰る音だけが響く。
 規則正しいリズムは互いに重なり合い、まるで心地好いハーモニーのように部屋の空気を満たしていく。そのリズムに合わせるように、リザは読み取った資料から思考を組み上げていく。
 だが、彼女の指先が書類のちょうど真ん中のページを繰ったその時、不意にロイのペンの音が止まった。
 彼女が書類から視線を上げれば、ロイはペンを顎に当てて思案顔を作って彼女を見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。大したことではないんだが、少し気付いたことがあってね」
「何でしょう?」
「この任官証明にサインを入れていて思い出したんだが」
「有望な新人でもいましたか?」
「そうじゃない」
 ロイは実務一辺倒のリザの返事に微苦笑を浮かべると、少しだけ表情を真面目なものに変えた。
「今年で君が私の副官になって、ちょうど十年じゃないか?」
 ロイの言葉にリザは驚いて、頭の中を整理してみる。すると確かに今年はリザが軍人になってちょうど十年目にあたる年だった。
 彼から任官証明を受けとったあの日から、もう十年も経ったのか。
 様々な思い出が瞬時にリザの脳裏を駆け抜けた。
 今朝ここでロイと二人きりの時間を持った偶然の理由を見つけたような気がして、リザはロイを見つめる。
「よく覚えておいででしたね」
「いや、君と似た名を書類の上に見つけて、記憶をたどってみただけだ。偶然だよ」
 手品のタネを明かすようにそう言って、ロイは少し遠くを見るような眼差しで彼女を見た。それは、彼もまたリザと同じように過去に思いを馳せた証のように彼女には思えた。
 眼差しの深さとは裏腹に淡々とした口調でロイは言う。
「十年、長いようで存外短かった」
「同感です」
「君にも随分と世話をかけた」
「そうですね」
 リザの返答に彼は苦笑する。
「そこは否定しないのか」
「否定した方がよろしかったでしょうか?」
「いや、いい」
 ロイはわざとらしく嘆息すると、僅かに肩をすくめてみせた。
「とりあえず、君に撃ち殺されることなく東部のネズミ算のてっぺんまで来られたことは、評価してくれてもいいんじゃないか?」
 戯言めいたロイの言葉に隠された様々な想いを受け、彼女は静かに微笑んだ。ここに辿り着くまでに彼が払った代償の大きさと重さの全てはリザだけが知っている。そう、彼が彼女の父の弟子になってから、軍人としてこの地位にたどり着くまでの全てを彼女は見てきたのだ。
 だから彼女はロイの行く末を共に謀る優秀な副官として、焔の錬金術を託した継承者として、冗談めかした言葉のオブラートに包んで彼の道を未来へと向ける。
「閣下がこの国のてっぺんまで行かれた時に考えます」
「また随分と長くなりそうなお預けだ」
「道半ばの評価で満足なさるのですか?」
「まさか」
 手厳しいリザの言葉にロイは不敵な笑みを浮かべた。
「となると、次の十年迄にある程度の目処はつけておきたいところだな」
 十年前のあの日から変わらぬ焔を宿した眼差しが彼女を射抜く。
「ついてきてくれるか」
「お望みとあらば」
 任官されたあの日に言った『地獄まで』という言葉を、リザはあえて繰り返さなかった。言わなくても彼は分かっている。そう思えた。それに、そうではない未来をこの人なら作りあげてくれるのではないだろうか、という希望をこの十年でリザは感じることが出来るようになっていた。
 朝の光が徐々に明るさを増し、二人のいる執務室を包み込んでいく。すべてが光に満ち、あまりのまばゆさにリザは眼がくらみそうになる。
 ああ、これからここでこの国の未来が作られるのだ。
 光に満ちた、未来が。
 リザは感慨深い思いで光に照らされるロイを見つめる。
「よろしく頼む」
 改まったロイの言葉に、彼女は彼と同じ不敵な笑みを浮かべてみせた。
 返すべき彼女の言葉は、いつだってたった一つ。
「何を今更」