Overhead

ソファーというものは、確かにベッドの代わりにはなるけれど、寝返りを打つには狭すぎる。
そんな分かりきったことを確認するように、ロイは身体を縮めるとゴロリと身体を半回転させた。
彼の小さくはない体を納めるにはどうにも寸足らずの疑似ベッドは、彼の動きに抗議するようにギシリと軋む。
だが、彼はそんなことは一向に意に介さず、無理矢理に膝を曲げ小さな座面の上で眠りに就こうと、ブランケットを鼻の下まで引っ張り上げた。
だが、目を閉じ、腕を組み、静寂の中に身を置いていると、また彼の思考はぐるぐると渦巻くモヤモヤとしたループの中へと戻っていってしまう。
「クソッ」
小さな悪態をついたロイは、もう一度寝返りを打った。
来客用のソファーが『ここは眠る場所ではない』と、さっきより大きな音でギシギシと抗議の声を上げる。
だが、ロイは仰向けに転がり足を肘掛けの上に投げ出して、その抗議の声を無視した。
白み始めた明け方の空の光はカーテンを通り越し、執務室の中にも淡い明るさをもたらし始めた。
ぼんやりと上を見上げれば、普段は見ることのない執務室の天井が目に映る。
まったくこんな週末に、何が嬉しくて徹夜の残業などしなければならないのか。
残業に苛立ち、狭いソファーに苛立ち、そしてこの事態を招いた根本的な原因に苛立ち、ロイは大きな溜め息をこぼす。
もし溜め息が目に見えるものであったなら、彼がこぼした溜め息は執務室の床を埋め尽くしていることだろう。
ロイはだらりと片腕をソファーから落とすと、視線を天井に向けたまま、もう一度呟いた。
「クソッ」
彼の唇からこぼれた幾度目か知れぬ悪態が、空虚な部屋に響いた。

押しつけられた仕事に、徹夜の残業。
そんなものは日常茶飯事である。
故に、ロイの悪態の原因はそんなところにはない。
勿論、家に帰って柔らかなベッドで眠れるに越したことはないが、彼とて軍人であるのだから必要があれば、別に床で眠ることさえ問題とは思わない。
そう、問題はもっと別なところにある。
ロイはまた寝返りを打つと、机上に置かれた書類の山を見つめた。
あの山を築き上げた人物が、今の彼の溜め息と悪態の生産理由を作り上げた張本人なのだ。
彼は数時間前の優秀な副官とのやりとりを思い出す。


「遅くなったな、送っていこうか」
帰宅するか、このまま司令部の仮眠室に向かうか、どちらを選ぶにも微妙な時間に深夜の残業は終わった。
二日続けて仮眠室の世話になったロイとしては、もう一泊指令部への滞在日数が増えようが今更どうでも良い。
だが、可能なら着替えやシャワーを済ませたいであろう女性の事情を考え、ロイは当然の申し出を己の副官に対して行った。
受け入れられるにしろ、断られるにしろ、それは彼にとっては至極当然のものである。
だが、彼女の返事は非常に剣呑なものであった。
「結構です」
リザは彼の方を見ようともせず、けんもほろろに彼の申し出を断った。
徹夜明けの不機嫌か、書類の不備でも見つけたか、明らかに彼女は不機嫌であった。
だが、いくら不機嫌でも物には言い様があるだろう。
ロイは寝不足の自分が彼女の不機嫌に引きずられるのを感じながら、少し尖った声で彼女に問いかけた。
「何だ、書類に不備でもあったか」
「まだ拝見しておりませんから、分かりかねます。ですから、こちらのチェックを終えるまで私は残りますから、大佐はどうぞご帰宅ください」
彼女の言葉に裏はないことは分かっている。
だが、その言われようでは、まるでロイのせいでリザが家に帰れないようではないか。
しかも、その状況で彼に彼女を置いて帰れだなんて、ふざけるにも程がある。
ロイはムッとしながら、尚も譲歩の姿勢を見せた。
「それはすまない。私も一緒にチェックしよう」
「結構です。それから、すまないと思われるのでしたら、ご自宅でお休みください。ここしばらくお帰りになっていないでしょう。お疲れがたまれば、ミスも増えます」
淡々と語られるリザの言葉は正論ではあったが、どうにもどこか棘がある。
徹夜明けの疲労、書類の期限に対する焦り、その辺りが彼女の言葉に棘を含ませているのだろう。
だが、昼夜を問わぬ連続勤務の後の徹夜明けのロイにもそれを許容する余裕はあまりなかった。
ロイは彼女の言葉の棘に苛立ちをかき立てられ、僅かに声を荒げた。
「何だ、その言いようは」
「事実です」
「事実にしても、もう少し上官を労う気持ちが」
「労っておりますから、お帰り下さいと申しております」
売り言葉に買い言葉とは、まさにこのことを言うのだろう。
こうなっては頑固な二人の意地っ張りが折り合いをつけることは難しい。
結局、不毛な言い合いの末、ロイは自身も帰宅し損ね、こうして執務室の来客用ソファーで窮屈な仮眠を取るはめに陥っている。


冷静に考えれば、彼女の意固地になり易い性格は分かっているのだから、もう少し譲歩すれば良かったのだ。
結局眠れないロイは、天上の染みの模様を視線でなぞりながらそう考える。
ロイも彼女も、ただ相手を家に帰して慣れたベッドでの穏やかな睡眠を確保させたいという思いがあっただけだ。
それが、徹夜明けの苛立ちに任せ、またつまらぬ喧嘩をしてしまっている。
毎度のことではあるのだが、いい加減自分も大人になるべきなのだろう。
ロイがそんな自省をしていると、不意に執務室の扉が開いた。
ロイは慌てて瞳を閉じると、眠ったふりをした。

まだ未明の執務室に入ってくる人間は、共に残業をした彼女以外にはありえない。
いくら胸の内で小さな反省会を開いていたとは言え、自分から折れて謝罪が出来るほどには、彼の苛立ちは治まってはいない。
感情とは厄介なものだ。
そう思いながら、ロイは部屋の床を踏む彼女の軽い足音を聞く。
どうやら、彼女は何らかの資料を取りにこの執務室に戻ってきたものらしい。
彼の眠るソファーと対面にある書棚に向かい、彼女の足音は進んでいく。
ロイはそっと薄目を開けて、彼女の様子を窺った。

ロイに背中を向けた彼女は、書棚の前でじっと上の方を見ている。
どうやら、最上段のファイルを取り出したいらしい。
いつもなら、ロイか周囲にいる長身の男、すなわちハボックかファルマンにそれを取ってもらうよう素直に頼む彼女であるのだが、流石に今日はそれを頼める人間はこの部屋には存在しないらしい。
ひとこと言い過ぎを謝罪してロイに頼めばいいものを、彼女の腹の虫もロイ同様治まっていないものと見え、『上官のことなどまったく感知していません』と主張するように頑なさで、リザはうんと背伸びをして書棚に手を伸ばしている。

まったく、素直じゃないな。
ロイは自分のことを棚に上げ、そんな彼女の背中を見つめた。
爪先立っても最上段にようよう手が届くか届かないかの彼女は、危なっかしい様子でグラグラしながら分厚いファイルに指を掛けている。
普段は凛と立つ背中が小さく見え、小さくぴょこんと飛び上がったりする様はまるであどけない少女のように見える。
意地を張って必死になっている彼女の背中は、いつもの厳しい副官のものとはまるで違っていた。
ロイは思い掛けない彼女の可愛らしいに、思わず口元を綻ばせた。
だが、次の瞬間。

ゴンッ。
静かな執務室に鈍い音が響いた。
何と、書棚の上に置かれていた木製の人形が、リザのジャンプの振動で彼女の頭上に落下してきたのだ。
確かグラマン中将の土産で『こけし』とか言うその人形は、大きな頭をしている。
その重い頭を下にして落ちてきたせいで、人形とリザは頭突きをしあったような状況になっていた。
ロイは思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える。
可哀想は可哀想であるのだが、そのシュールな状況は何とも言えぬ可笑しさを含んでいた。
しかも、『中将の土産だから目立つ所に飾っておくべきです』と、渋るロイを説き伏せ、そこにこけしを飾ったのはリザ自身であるのだ。
つまり、全てはリザ自身がお膳立てをして招いてしまった状況なのである。

リザ自身怒りのやり場が無いことは分かっているらしい。
手に持っていた書類を取り落とし、彼女は頭を抑えている。
痛いと言えばいいものを、間抜けな状況をロイに知られ、からかわれるのがイヤなのだろう。
遂に彼女はこけしをぎゅっと握り締め、ぺたんと床にお尻をつけて座り込んでしまった。
その様子があまりに可笑しくて、可愛らしくて、ロイは遂に堪えきれなくなって大きな声で笑ってしまった。
「ぶっ、わっはははは」
笑ってしまうと、何だかさっきまで下らないことで怒っていた事が莫迦莫迦しくなってくる。
ロイはブランケットを放り出すと、クツクツ笑いながら彼女の方に歩み寄っていく。

ロイの足音に、リザの肩がびくりと震えた。
負けず嫌いの彼女はきっと自分の失態をロイに莫迦にされると思い、何と反論するべきか考えてでもいるのだろう。
ロイはそんな彼女の手からこけしを取り上げると、書棚の下から三段目に置いた。
そして、彼女が取ろうと奮闘していた目当てのファイルをひょいと取り出すと自分の小脇に抱える。
何か言われると身構えるリザに、ロイは苦笑するとそっと彼女のぶつけた頭を撫でてやった。
彼の行動が予想外だったのだろう。
リザは驚いた顔で彼を見上げた。
「大丈夫か?」
嫌味も何も混じらぬ純粋な気遣いの言葉に、リザは微かに目を見開き、そして静かに目元を染めた。
先程の棘を消した恥ずかしそうな声が、彼の言葉に答える。
「お休み中、申し訳ありません」
「何、気にするな」
ロイはそう言うと、彼女に向かって手を差し出した。
「医務室に行くか?」
「大丈夫です」
「ならば、さっさとそれを片付けてしまおう。やはり一人より二人で片付けた方が、仕事は効率がいい」
さっきの喧嘩にも、彼女の間抜けな状況にも触れず、ロイはただそう言った。
多分それが二人の休戦には、最も効果的だと彼は知っている。
蒸し返せば二人はまた喧嘩をしなくてはならなくなる。
そんな頑固さは、今は必要はない。

ロイの言外の休戦の申し出に、リザは一瞬視線を下に逸らしたが、直ぐに真っ直ぐに彼を見た。
彼女は差し出されたロイの手を取った。
その指先の迷いの無さは、きっと彼女の中にも先程の喧嘩に対する後悔や自省があったであろうことをロイに教えてくれた。
そして、きっと彼女の方でもロイの方から手を差し出したことに、彼の同じような感情をくみ取ってくれているだろう。
それは、甘えであるかもしれなかったが、それが通じることが今は彼には少し嬉しかった。
「サンキュー、サー」
彼に体重を預け、リザはすっとその場に立ち上がる。
彼女が立ち上がるのを助けながら、ロイは仲直りの握手を兼ねたその手をぎゅっと固く握ったのだった。

 Fin.

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先日の140字より。

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