其の七 嘘と噂

 どうして聞きたくない言葉ほど、耳に入ってくるのだろう。

 リザは鬱々とした思いで物陰に身を隠した。柱の向こうでは、男たちの会話が続いている。

「あの若さで中尉だとよ。やっぱり美人は違うね」

「胸もでかかったからな」

「胸のでかさで昇進されちゃ、俺達は堪ったもんじゃない」

「だから、女は得だって言うんだ」

「まったく同感だ」

 リザは無意識に己を抱くように、豊かな胸をぎゅっと腕で押しつぶす。声の主に見つからないようにそっと表を覗き見れば、そこで話をしているのはさっき彼女が控えていた部屋で見かけた若い二人の男性軍人であった。

肩章のラインと星の数から二人の階級が少尉であることが見て取れる。きつい南部記りを隠そうともしていないこと、外部からの人間が比較的利用することの多い電話交換所で立ち話をしているということは、彼らは南方司令部から出張でここにやってきた人物だろう。そしてこの時間に油を売っている余裕があるということから、彼らは今日の式典に出席する上官のお供の為に地方支部から出てきた副官たちであると考えて間違いない。

 リザは瞬時にそんな判断を下し、再び柱の陰に引っ込むとその身を柱にもたせかけた。

 ということは。

 リザは深い溜め息をつく。

 やはり彼らが噂しているのは、リザのことであろう。あの控え室にいた副官たちの中に、女性尉官は彼女以外にはいなかった。

 彼女は廊下の突き当たりにある電話機の並ぶ袋小路の陰で、身を潜めたまま小さく溜め息をつく。

 ロイの副官になった時点で、このような評価が自分に対して為されることは彼女も覚悟はしていたし、実際そんな噂が彼女の耳に入ることは今までにも幾度かあった。根拠のない下衆の勘繰りは不愉快ではあったが、女性蔑視の思考を持った人間には理論を説いても無駄なことを彼女は理解している。

 今回のことも、それと同じだ。バカの言うことなど、聞き流して忘れてしまえばいい。それよりも、どうすればこの場を上手く彼らに見つからずにやり過ごすことが出来るかが、今の彼女にとっては一番の問題だ。

 リザは意図的に自分の感情を不愉快な状況から逸らす為、思考の方向を変えた。だがどう考えてみたところで、彼女がこの場を立ち去るには彼らの前に姿を現し、その目の前を通過するしか方法はなかった。

 彼らの前にリザが姿を現すことは、女性に対する蔑視的発言をする彼らの話を彼女が聞いていた、ということを彼らに告げることになってしまう。それは彼女の望むところではないのだ。

 たとえ彼女が気にしないと言っても、彼ら自身も自分たちの会話が上品なものではないことくらい自覚しているだろう。そうすれば、彼女と彼らの間には良い感情は決して生まれはしない。

 南方司令部とは第二次南部国境戦の東端が東方司令部の管轄区域に近いことから、いつ合同で軍を出さねばならない事態に陥るか分からないのが近況だ。

 極論すれば、今目の前にいる彼らの隣でロイが戦線に立つ日が来るかもしれないのだから、どんな小さなものだとしても無駄な軋轢は生みたくはない。

 彼らが油を売るのを止めてさっさと立ち去ってくれれば話は早いのだが、事態はそう上手く転がってはくれそうも無い。彼らの上官は今頃ロイと同じ会場で居眠りをしているか、威風堂々と壇上でスピーチをしているかのどちらかなのだから、リザ同様に彼らも上官の用件が終わるまでは待機状態であるの

だ。

 ああ、早く式典が終わらないかしら。不毛な時間と聞きたくも無い会話と間の悪い自分を恨みながら、リザはまた小さく溜め息をつく。

 彼女の存在に気付いていないであろう男たちは、当然のことながら彼女の憂いを知る由もなく、大きな声で笑い話し続ける。

「胸囲なら負けてないだろ、お前」

「大胸筋触って喜ぶ佐官殿が何処に、……っているけどよ。俺の方にそういう趣味はない」

「少数派ではあっても、軍にゃそういう趣味の人間も多いぞ?」

「バカ。うちの中佐の前でなら、俺がケツの穴差し出すより女が股開く方が有効だ」

「違いない」

 下卑た言葉に笑いが起こり、リザはますます身を堅くして下唇を噛みしめた。彼女の中にモヤモヤと渦巻く感情が、この窮屈な場所から出ていけない困惑から来るものから、男たちの会話に対する悔しさへと変わっていく。いくら割り切ろうとしたところで、心の奥底に押し込めたものを消すことは出来ないのだ。

 リザは胸の中の闇い感情を抑え込むように、誰にも触れさせたことなどない己の身体をぎゅっと己の手で抱きしめた。

 

 軍に所属する女性は、基本的に出世する。

 まず女性軍人は、男性に比べればその数は圧倒的に少数なので出世の機会が多い。それに前線に出ることがない部署にいることが多いから、二階級特進で頭打ちになることがない。だから、ある程度の年齢に達すれば女性軍人はそこそこ出世する。

 だが、直接軍事に携わり前線にまで出る女性軍人となると、その数は異常な程に少なくなる。リザはその数少ない己の武勲で中尉クラスにまで昇進した女性尉官であり、イシュヴァールの英雄にして国家錬金術師というある意味出世頭の側近を勤めているのだから、かなりの稀少種と言って差し支えなかった。

 基本的に自分の視界に入らない場所にいる限り、出世した女性軍人に対して男性軍人は特に何も言わない。だが、男の嫉妬の怖さというものは、女性のそれの比ではないのだ。

 彼らは自分より若くて地位が上の女を見ると、その地位が不当な手段によって得られたものであると思いこもうとする。そうすることで、彼らは己のプライドが傷付くことを回避する。彼らは自分たちが「おっぱいの大きな金髪女』より武勲において劣るなどとは、考えたくもないのだ。だから、彼女が焔の錬金術師に箔をつけるお飾りと見られることは、ある意味仕方のないことであった。

 リザはその偏見を打破すべく、天賦の射撃のセンスがあったことを幸いに、日々弛まずその技術を磨き続けた。皮肉なことにイシュヴァールでの「鷹の目」としての功績が彼女に箔をつけてくれた。

 その上で、彼女は自分の実力を磨くのと同等の、あるいはそれ以上の努力をもって、職場において己の女性性を封じた。勤務においては私情を挟まぬ冷徹な判断を下し、笑顔の一つも浮かべぬほどの堅物ぶりを貫いてきた。

 勿論、上官との間には必要と思われる以上に距離をおいた。勤務中の無駄口は一切叩かず、勤務外においての彼との接触は一切断つ徹底ぶりを貫いた。

 たとえ自分の中にどんな感情が渦巻いていようとも、それに蓋をして彼女は生きてきた。

 だが、そんな彼女の努力を嘲笑うかのように、世の中は彼女の『女の肉体』ばかりを評価する。そう、まさに今この時のように。そして、男であるロイとの関係を勘ぐられるのだ。

 その程度のことは、今までも割り切ってきたつもりであった。だが、人伝にそのような噂話を聞くことと、実際にそれを自分の耳で聞くこととはまったくの別物であった。  

 そんな自分の覚悟の甘さをリザは改めて痛感させられる。

 

「いいよなぁ、執務室で副官ひん剥いてヤっちまったりするとか、想像するだけでたまんねぇな」

「お前、ホント最低だな」

「そうなると副官選びの条件は、やっぱり胸のでかさか?」

「胸がでかくても、ガバガバじゃどうにもならんぞ? 出世してるだけあって、使い込んでるだろうからな」

「ひでぇな、お前の方が最低だろうが」

 卑猥な言葉に男達の下卑た笑い声が起こる。反吐が出そうな会話は、どんどんエスカレートしていく。それはとても国家の中枢を担う施設の一角で真っ昼間から繰り広げられている会話とは思えないものだった。

 いっそ自分が姿を現し、この会話を打ち切らせた方が良いのではないだろうか。

 リザがそう考え始めた時、不意にそう遠くはない場所からコツコツとこちらに近付いてくる軍靴の足音が聞こえてきた。男たちもその足音に気付いたのだろう。突然の閲入者に、彼らのお喋りはピタリと止まった。

 助かった。

 リザはほっと胸をなで下ろす。少なくともこれで、あの最低な会話を聞かなくてすむ。

 足音の主は男たちの前を通り抜け、リザの隠れた場所に程近い電話機を使い始めた。ダイヤルを回す音を聞きながら、リザはこのタイミングを利用してこの場を立ち去れないものかと思考を巡らせる。

 そんな彼女の思考を破るように、聞き慣れた低く柔らかな声が彼女の鼓膜を打った。

「もしもし、私だ」

 予想外に現れた己の上官の声に、リザはハッと顔を上げた。

 彼の声の調子は勤務中とは別人と思えるほどに優しかった。思いもかけぬ状況にリザは僅かに困惑する。だが、次のロイの一言でリザの困惑は直ぐに解けた。

「ああ、今仕事でこちらに来ている。事前に連絡しなかったのは悪かったと思っている。だから、そんなに怒らないでくれ。マダム」

 ロイの電話の相手はマダム・クリスマスであった。折角セントラルに来ているのだから、東部に帰る前に養母の店に寄っていこうという魂胆なのだろう。

 壁一枚を隔てた向こうにいるロイの存在に、急激に胸の奥の闇い感情が薄れていくのを感じながら、リザは聞くともなく彼の次の言葉を待つ。こんな場所で記録されることが分かっている会話なのだから、人に聞かれて困ることを彼が話すことはないのは分かっていた。

「今夜行っても構わないか? ああ、そうなんだ」

 彼にしては珍しく大きな声で話される会話は、リザの耳にもはっきりとその内容が届いた。

「そうか、分かった。それから今日はアリスは店に出るのかな? 遅番? 分かった。なら、今夜は彼女を同伴するよ。ああ、大丈夫だ、アリスの電話番号なら知っている。夜も付き合ってくれるとありがたいのだが、どうだろう。折角の夜を独り寝もつまらんからね」

 わざわざ軍の電話を使って伝えなくてもいいような事を、ロイは大きな声で話し続ける。リザは何となく彼の意図が分かった気がして、静かに己の軍服の胸元を掴んだ。

「何? ああ、堅物の副官殿か」

 ロイの声が更に大きくなった。彼はまるで誰かに言い聞かせるように、はっきりと言い切った。

「オフくらいは自由にさせてくれ。……何だって? ああ、そんなことはないさ。女の分類に入らんよ、彼女は。副官なんて、そんなものだ」

 やはり。リザは今度こそはっきりと彼の意図を理解し、自分の軍服の胸元を掴んだ手に力を込めた。

 彼は、リザを侮辱する男達の会話を聞いていたのだ。その上で彼女に対する妬心に基づいたいやらしい偏見を晴らす為、わざわざこんな小芝居を打ってくれている。本来なら人目をはばかるような話を大きな声で話しているのは、この場にいるバカな男どもに今の言葉を聞かせる為なのだ。

 壁の向こうにいるロイの声がまるで耳元で話されているかのように、またはっきりと彼女の耳に届く。

「開店前の忙しい時間に、すまなかった。お叱りは店に行ってから受けるから、今は勘弁してくれないかな。ああ、分かっているよ、マダム」

 きっと事情を分かっているマダムに叱られているのだろう、ロイは少しだけ声のトーンを落として苦笑している。その穏やかな笑い声を聞きながら、リザは自分に言い聞かせるように胸の奥で呟いた。

 大丈夫だ、彼は分かってくれている。

 胸の奥が熱くなりリザは胸元を握り締めたまま、その場で俯いた。こみ上げてくる熱いものを抑え付けようと、リザは唇を引き結ぶ。

 他の誰が何を言おうと、彼は彼女の想いもその行動の理由も、副官としての矜持も分かってくれている。軍人として、上官として、男として。

 リザはもう一度、自分自身に頷いてみせる。

 私はそれでいい。それだけでいい。

 マダムと話し続けるロイの言葉が、遠く音楽のように聞こえた。その柔らかさに包まれて、彼女は自分の強さを思い出す。誰に何を言われても曲げることのない己の信念を。彼と共に歩むと決めた時に秘めた想いの行き先を。

 リザはふっと小さく息を吐いた。その時だった。

「さて、そろそろ、こんな窮屈な場所から出てきてはどうかね? 中尉」

 不意に、俯く彼女の頭上でいつも通りの彼の声が響いた。ハッとして彼女が顔を上げると、そこにはいつも通りの顔をした彼女の上官が立っていた。式典が終わって、直ぐにここに足を運んだのだろう、彼は礼装に身を包んだままであった。

 だが、彼女の隠れている場所は表からは見えない筈だった。実際、男たちはリザの姿に気付いていなかった。それなのに何故、ロイは彼女を見つけだしたのだろう。

 リザは突然の彼の出現に恐慌を来す。それなのに、ロイは至極当たり前のように彼女に言った。

「式典が終わって、バカどもも己らの仕事に追われていなくなった。君もこんなところでサボっている場合ではないと思うがね」

「どうして私がここにいることがお分かりになったのですか?」

 当然の彼女の疑問に、ロイは笑った。

「君ね、一個小隊を壊滅させそうな殺気を放っておいてその言い種はないだろう。バカでもないかぎり、あの殺気に気付かないわけがない。まぁ、気付かないバカもいたわけだが」

 冗談めかしたロイの言葉にリザは赤面し、言葉に詰まって再び俯いた。自分では、そのつもりはなかったのだが、やはり彼女の怒りは表に帰れ出てしまっていたらしい。

 ロイが彼らの会話のどの程度を聞いていたのかは分からなかったが、自分の身に投げかけられたあのような卑猥な言葉を彼には聞かれたと思うと、彼女は彼に返す言葉を捜しあぐねた。

「ありがとうございます」

 というべきかもしれなかったが、それは彼の望む言葉ではない気がした。

『申し訳ありません』

 と言えば、自分の今までの努力が無駄であったと自分で認めてしまうような気がした。

 思考の袋小路にはまったリザの前に、ゆっくりと男の足音が近付いてくる。軍靴の爪先が触れそうな至近距離で、ロイの足は止まった。

 何を言われるのかと身構える彼女に向かい、囁くほどの距離で静かにロイは言う。

「君と私の間に肉体関係は存在するか?」

 それは、式典の後のパーティーの開始時間を聞くような当たり前の声音であった。その静けさと力強さにリザは平静を取り戻し、当たり前の事実を当たり前に確認するように彼に答えた。

「ノー、サー」

「顔を上げたまえ」

「イエス、サー」

 リザは上官のオーダーに答え、しっかりと顔を上げロイの眼差しを真っ直ぐに受け止めた。距離が近過ぎて、ロイの軍帽が彼女のおでこに当たるほどであったが、彼女はその距離にさえまったく動じない自分を確認する。

 そんな彼女と至近距離で見つめ合ったまま、ロイはまた静かに言った。

「私は胸の大きさで副官を選んだりはせんぞ?  背中を預けるに足るか否か、その一事が全てだ」

「サンキュー、サー」

 そう答えたリザは、瞬きもせずロイを見つめ返した。吐息が触れるほどの距離でさえ、彼らの間に動揺は生まれさえしない。

 そうだ、彼が知っていればいい。彼女が分かっていればいい。他人などはどうでもいい。彼ら自身が分かっていれば、他人には何を思われても何を言われても構わないのだ。

 リザはようやく自分が自分を取り戻せたことに安増する。そして、その事実をロイに知らせる為に、まったく表情を変えることなく、淡々と彼に言った。

「大佐、軍帽のつばが、おでこに当たるのですが」

「ああ、すまない」

 ロイは彼女の眼差しの強さに微かに頷くと、数歩後退る。彼女との距離を取り直した彼は、そのまま気を抜くようにすっと軍帽を脱いだ。リザは彼のそんな動作を見ながら、敢えての憎まれ口を叩くポーズを取ってみせる。

「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」「君は私にどうしろというのかね!」

 厳しい副官にやり込められた上官のポーズでそれに答えたロイは、前髪をしっかりと整えなおすと、もう数歩分彼女から距離を取った。彼は密やかに笑うと、独り言のように言う。

「こんな憎まれ口を叩く女を抱くほど、私も女には不自由していないというのにな」

 そしてまた一歩、彼らの距離は開いてしまう。

 どれだけ気持ちが通じていようと、どれだけ想いが深かろうと、彼ら自身の距離は抱擁もままならぬこの程度のものなのだ。それなのに世間と言うものは、なんと下世話なものであるのだろう。

 リザは複雑な思いを抱えたまま、踵を返すロイの背中を見つめた。彼は背中越しに彼女に言った。

「ああ、私はもう一本電話を掛けてから行く。君は先に戻っていてくれたまえ」

「イエス、サー」

 再び電話機に向かうロイを置いて、リザは歩き出す。背後でロイの声が聞こえた。

「やぁ、アリス。マダムから話は聞いてくれたかな?」

 さっきのマダムとの会話の後始末の電話を掛けるロイの声を背中で聞きながら、リザは何事もなかったかのように顔を上げ、己の職務をこなす為にその場を後にした。

 何ものにも惑わず、自分の職務を遂行する為に、ロイに預けられたものを守り通す為に。