30 sample

1.三〇秒

 コツコツと規則正しいノックの音が、闇に二度響いた。静寂を破る控えめな物音に、扉の向こうでゴソゴソと蠢く気配が答える。
「時間か」
「イエス、サー」
「天候は」
「雨は降っていません」
 端的な会話に、不機嫌さと疲労を隠さぬ男の声が終止符を打つ。
「三〇秒待て」
「イエス、サー」
 リザは誰も見ていないというのに、律儀に仮眠室の扉の前で敬礼をする。そして、上官が準備を整えて出てくるまで、後ろ手を組んで扉の前で仁王立ちになり彼を待つ。
 早朝というにはまだ夜の領分に近い〇二四〇、それでも作戦中の東方司令部には多くの人影が動き回っている。人としての生活リズムから外れた者たちは、各々の役目を果たすべく淡々としており、その平熱のリズムがそこにいる人間たちのプロとしての意識の高さを物語っている。
 ロイは自身の言葉どおり、三〇秒きっかりで仮眠室の扉を開けて出てきた。恐らく彼女が起こしに来る前に、既に目覚めて支度を整えていたのだろう。一分の隙もない軍服の男は、ポケットに銀時計を仕舞いながら彼女に問う。
「すまん、寝過ぎたか」
「ノー、サー」
「君も仮眠を取ったか?」
「イエス、サー」
「作戦は」
「ご指示通りに」
 最低限の言葉で成立する意思の疎通に、ロイは彼女を振り向きもせず大きなストライドで廊下を歩いていく。
「アーチャー隊は」
「所定の配置に」
「ハボック隊は」
「突入準備完了、大佐のご指示待ちです」
「よし」
 リザの報告にロイは欠伸を噛み殺すと疲労の浮かんだ顔を掌で一撫でして、司令官の表情を作り直す。
「ヒューズに報告をさせろ。奴の報告次第で突入作戦の開始時刻を決定する」
「イエス、サー」
 簡潔にそう答えながら、リザは胸の内で溜め息をこぼす。
 きちんと己の仮眠時間は確保し、ある程度部下に仕事を丸投げしても、重大な局面では必ず彼は自ら陣頭に立つ。きっと今回も何だかんだ言って、この男は突入部隊に続く最前線に陣取ることだろう。しかも、今回はイレギュラーな指揮体系が彼の行動の自由度を増している。ますます彼女の頭痛の種は増えるばかりだ。だが、この状況では何を言っても無駄だと、彼女は知っている。
 だからリザは、とりあえず作戦決行に際し申請する予備マガジンの数を普段の倍にすることを脳内のメモに書きとめ、ロイの後を追う。

          §

 穏やかな午後の空気を破り、その事件の第一報が彼らの元に入ったのは、前々日の一四五〇を少し過ぎた頃だった。
「一四四三、東部第二研究所にて大規模な爆発が発生したとの報告が入りました。現時点での詳細は不明ですが、処理班が現場に急行中。次報を待たず作戦統合室への集合が要請されています」
 内線を取ったフュリーの報告を聞き、リザは眉を顰め、明日の会議のレジュメから己の上官へと視線を移した。さっきまで単調なデスクワークに欠伸をしていた筈のロイは、既に手にしていた万年筆を放り出し、己のデスクから立ち上がっている。
 その表情は一瞬で前線に立つ指揮官のものへと変わっていて、リザは自分もレジュメを机上に置くと、ロイに向かって事態を確認するように言った。
「東部第二研究所では、爆発するような危険物は扱っていない筈ですが」
「ああ、あそこは実質、東部での国家錬金術師の査定資料の保管庫だ。紙と人間と動物キメラしかおらん。何とも嫌な予感しかしない報告だな。次報を待つまでもないだろう」
 そう言いながら椅子の背に掛けていた上着を着たロイは、リザの返事も待たずさっさと歩き出した。リザは彼が机上に放り出した万年筆を律儀に定位置に戻すと、彼のコートを取りその背中を追う。
 微かな緊張を帯びた上官二人の様子に、昼飯後の緩んだ部屋の空気が一気に引き締まった。紙の上を走るペンの音が止み、その場にいる全員の耳がロイの指示を待っている。そんな空気の中、リザが手渡したコートを羽織りながら、ロイは矢継ぎ早の命令を下していく。
「ハボック、現時刻をもってお前のチームに招集をかけろ、大至急だ。装備はいつも通りで構わん。ファルマン、お前はここで次報を待ち、過去の事例との照合を。フュリーは装備とチャンネルを確保。ブレダはファルマンに情報が入り次第、その結果を報告しろ。中尉は車の手配を。私はこのまま作戦統合室に向かう」
 各々が口々に唱える「アイ、サー」という答礼が部屋に響き、ガタガタと椅子が鳴る。最低限のロイの命令で端的に状況を理解し上官に倣うチーム・マスタングの面々が醸し出す緊迫が、一気に部屋の空気を満たした。
 だが、そんな緊迫の中、彼らの中に紛れ込んだ異分子が場にそぐわぬ呑気な声を上げた。
「まったく。相変わらず東部は真っ昼間っから物騒だなぁ、ロイよ」
 扉の前で振り返ったロイは、声の主である己の親友に、胡散臭いものを見る眼差しを向けた。
「うるさい、邪魔だ、ヒューズ。お前は黙ってさっさとセントラルに帰れ」
 リザは内心でロイの言葉に同意する。
 本来ならヒューズは彼が引き取りに来た囚人の調書と証言の査証が終わり次第、セントラルに帰還する予定の筈だった。調書の準備が遅れたのはこちらの不手際ではあったが、予定通りの一六〇〇の汽車に乗るのなら、彼にはここを早めに発ってもらいたかった。事件中のイレギュラーは自分の上官の行動だけで彼女は手一杯であるのだから、それ以外の要素はなるべく排除しておきたかった。
 だが、ヒューズの言葉は、彼女の希望を呆気なく粉砕してくれた。
「それがそうもいかなくなった。お前、東部の第二研究所の場所を考えろ」
 ヒューズのその言葉に、ロイは苦虫を噛み潰したような顔をする。リザは今回の事件の為に封鎖されるであろう街路と、ヒューズが連れて帰らねばならぬ囚人の護送ルートを頭の中で重ね合わせ、ヒューズの言葉の意味を理解する。
 つまり、ヒューズはこの事件が解決しない限り、セントラルに帰れないのだ。出張中の場所で瞬時にその判断を下したヒューズの頭脳に、リザは思わず感嘆する。だが、彼女は表向きはそれを表情に出すことはせず、ただ、己の上官が次の言葉を発するのを待った。
 ロイも彼女同様にヒューズの言葉の意味を理解し、次の打開策へと頭を切り替えた。
「仕方ない。ならば、ついでだ。お前も働いていけ」
莫迦言うな、ロイ。超過勤務手当もつかんのに働く人間が、どこの世界にいる」
 気のない口ぶりとは裏腹にヒューズの表情が一瞬好戦的なものに変わったことを、リザの視線は捉える。その表情は彼女の上官が前線で浮かべるものに酷似していて、リザは何となく嫌な予感がして、咄嗟にロイを振り向いた。
 だが、時既に遅し。
 ロイの顔には悪友と同じ表情が浮かんでいた。
「ただ働きとは言わん。サミュエルのバーボン一杯でどうだ」
莫迦野郎、安過ぎだ。バーにあるお前のキープ分全部飲んでも足りないくらいだろう」
「お前、それは流石に欲張り過ぎじゃないか?」
「俺の労働単価は高いんだ、軍法裁判所の忙しさを舐めんな」
「お前、本当に昔から人の足元を見る男だな」
「人聞きが悪いな、ロイよ。見てみろ、リザちゃんがお前の狭量さに呆れてるぞ?」
「お前の強欲ぶりに呆れている、の間違いではないのか? そうだな、中尉?」
 ぽんぽんと交わされる二人の会話を諦めの境地で聞いていたリザは、いきなり自分に話題が振られて驚いた。だが、彼女はそれを表情に出すことなく、いつもの副官の顔でじろりとロイを冷たい眼差しで咎め、こう言うに止めた。
「そうですね。強いて申し上げるなら、命令を下しておきながらこの場から動こうとなさらない上官の今現在の状況に呆れております」
 辛辣な彼女の言葉にロイは鼻白んだ顔をし、ヒューズは「そら見ろ」と勝ち誇った顔をすると椅子から立ち上がった。
「ほら、リザちゃんもああ言ってる。お前はさっさと作戦統合室に行ってこい。俺の労力に対する報酬は、向こう三回分の飲み代で勘弁しといてやる」
「ヒューズ、お前!」
「可愛いエリシアちゃんが、首を長―くして俺の帰りを待ってんだ。さっさと片付けちまわんとな」
 そう言った男はロイの返事を待たず、扉に向かって歩き出す。
「とりあえず俺は上官に一報入れてくる。その間にお前、俺が作戦に参加できるように手続きだけ踏んどいてくれ。管轄外だ何だと後で難癖付けられて、出世に響くと困るからな」
「こんな些事が響くほどの出世なら、しない方がましだ」
 ヒューズの言葉に、ロイはあからさまに反発の意を示す。
莫迦野郎、だからお前は甘いって言うんだよ」
 意外なほど真面目な響きを込めたヒューズの返事は、電話交換室に向かう彼と共に半分以上扉の向こうに消えてしまっていた。だが、その言葉は扉に近い位置にいたリザの耳にははっきりと届き、親馬鹿でお節介焼きな男の真情を彼女に教えた。
 政治的中枢であるセントラルで生きる男には、東部の良く言えば実力主義的な、悪く言えば政治的駆け引きへの緊迫感の乏しい、この東部でのロイの無防備さが危なっかしく見えるのであろう。
 慎重で狡猾でありながら、ロイは時に危なっかしい程に上に対して揚げ足を取られかねない青臭さを披露してしまうことがある。東部というある意味閉じた世界にいては気付かないことに対して、こういった外の世界からの指摘はありがたかった。
 今後はその点に関しても、ロイに対する注意を行っていかなければ。
 リザはそう考えて、その場のやりとりを己の胸の中に納めた。そして再び慌ただしく動き始めた部屋の空気の中、ロイに命じられた己の任務を遂行する為に足早に車両課へと向かったのであった。