星を抱いて 夜汽車に乗って サンプル

1.

 二人の乗った汽車が、イーストシティから南に百五十キロ離れた小さな町を出発したのは、日が西に傾きかけた頃であった。
 ロイは発車の汽笛を窓越しに聞きながら、無事に予定通りの汽車に乗れたことに安堵する。何しろこの汽車を逃せば、次の最終便が来るまで三時間は待たなければならない。一日に五本しか汽車が来ない片田舎での査察が無事時間通りに終わった幸運に感謝し、ロイはようやく腰を落ち着けた汽車の座席で銀時計を取り出した。時計の針は一七五五を指し、汽車が予定より遅れて出発したことを彼に告げる。
 この分だとイーストシティへの到着は二〇三〇を回るか回らないかというところだろう。ならば、予定通り司令部には寄らずに直帰して、明日の通常業務に備えるのが無難だ。そう考える彼に、斜め向かいに座るリザが生真面目な声で問い掛けてきた。
「定刻どおりでしょうか?」
「十七分の遅れといったところだ。まぁ、この程度の遅れなら想定の範囲内と言えるだろう」
 簡潔にロイはそう答えると銀時計の蓋を手の内でぱちりと閉じ、軍服のポケットにそれをしまった。向かいの席で彼の一連の行動をじっと見つめるリザは彼の言葉に少し考える様子を見せ、不意にすっと立ち上がったかと思うと、先程頭上の荷棚に乗せたばかりの己の鞄に手を伸ばした。
 何か荷物が必要なことが、今のやり取りの中にあっただろうか?
 会話にさえならなかった言葉のやり取りから続くリザの行動の意図がつかめず、ロイは黙って彼女の姿を見つめた。
 荷棚に手をかけたリザは、うんと伸び上がって鞄の持ち手を引っ張っている。どうやら、重い荷物を下ろすには、彼女にとってこの荷棚は少し高すぎるものらしい。
 そんな彼女の姿をぼんやりと見つめるうち、ロイはあることに気付いてしまう。
 当然のことではあるのだが、リザが背伸びをすると短い軍服の上着の裾が上がり、彼女の黒いアンダーが丸見えになってしまうのだ。お陰でロイの目の前には、彼女の女性的な腰のラインと、露わになりそうで下部しか見えない胸の膨らみが、無防備に晒されてしまっている。しかし彼女はそれに気付かず、荷物を下ろすのに一生懸命だ。
 ロイは、目の前の魅惑的な光景に一瞬釘付けになった。だが彼はすぐにそんな自分に気付き、顔を赤らめると慌てて視線を車内へと逸らした。
 視線を逸らしたとて、見るべきものなど何もない。夕刻の田舎町を出発する汽車には、彼ら以外の乗客は数名しか乗っていなかった。一般車両でこうなのだから、一等車両はもっと寂しいか、空っぽであることだろう。これなら一日に五本しか汽車が走らないことも、納得がいく。
 ロイはどうでもいいことを考えながら、自分たち以外の乗客の姿に目をやった。
 彼らが陣取った椅子の周辺は、不自然なほどに空いていた。同じ汽車に偶然乗り合わせた客たちは、進んで軍人とは関わり合いにはなりたくないのだろう。これならコンパートメントでなくとも、多少重要な話をしても差し支えなさそうだ。
 そう考えたところで、ロイは苦笑した。
 出張に際し一等車両のコンパートメントを使用する特権を得るにも、機密と言われるほどの軍の重要案件に近付くにも、彼の肩に輝く星の数は未だ不足している。故に、今現在の彼の思考は意味のない空想にすぎない。
 彼がそんな思考を繰り広げている間に、ボスンという小さくはない音が立った。どうやら、リザが鞄を座席へ引きずり下ろすことに成功したらしい。ロイは安堵して視線を彼女へと戻した。
 重い荷物との格闘に二の腕をさするリザの姿に、彼はもう一つの事実に気付く。
 ああ、そうか。自分が彼女の代わりに、重い鞄を取ってやれば良かったのだ。
 ロイは内心で手を打った。その方が彼女も無駄な労力を使わずに済んだし、彼も無駄に視線のやり場に困ることもなかったに違いなかった。
 しかし、ロイがそう申し出たところで、彼女はきっとまた『上官のお手を煩わせる程のことではありません』と素気無く彼の申し出を断ることは間違いなかった。ならば、これもまた意味のない空想というわけだ。
 自己完結してしまった思考にロイは再び苦笑して、内容は分からないが副官としての職務を果たそうと奮闘しているらしい彼女の次の行動を待った。
 彼の二度の苦笑にも気付かず鞄から手帳を取り出したリザは、再び腰掛けてからパラパラとページをめくり、目当てのメモを見つけたらしく視線をさっとロイへと向けた。彼女の愚直にさえ見える生真面目さにどう対応すべきか困る自分を押さえ、ロイは上官らしい真面目な顔を作り、彼女と向き合った。
「定刻から十七分の遅れとなりますと、単純計算でイーストシティへの到着は二〇三五となります。この後のご予定ですが、司令部には寄らず直帰することになっております。こちらに変更はありませんでしょうか?」
「ああ」
 律儀な彼女の報告と確認に、ロイは鷹揚に頷いてみせる。それ以上の返事のしようが無く、ロイはまた困って、不自然にならぬようリザから視線を窓の外へと逸らした。
 彼女に教えてもらわなくても、今朝来た道を帰るだけなのだから、彼も所要時間くらいは理解している。それに、今日イーストシティに戻ってからの予定がないことは、行きの汽車に乗った時点で彼女から確認を受けている。
 だが、わざわざ彼女にそれを伝えて、場の空気を気まずくする勇気は彼にはなかった。だから彼は、それを言葉にすることなく口を噤む。短い会話はまたブツリと途切れ、二人の間に硬い静寂が満ちた。
 静寂の気まずさに彼は小さく息を吐くと、本来なら暢気な筈の汽車の旅に憂鬱な思いを抱きながら、夕闇の迫る空を車窓に見上げた。
 汽車での出張は嫌いではない。別にコンパートメントが使えなくとも、二時間と少しの間硬い椅子で尻が痛くなることさえ我慢すれば、自分で運転をせずとも疲れた身体を運んでくれるその存在はありがたいものである。
 押し付けられた面倒な査察も、無事に終わった。これで、生意気な青二才の足をすくおうとする上官に、文句を付けられる機会もしばらくはないだろう。
 後は気楽に帰るだけの筈だったのに、最後の最後で難関が彼を待ち受けていた。それは己の職務を果たそうと極限まで張りつめた新米副官と二人、汽車の中で缶詰の二時間半を過ごすという過酷なものであった。
 ロイはもう一度小さく溜め息をつき、窓枠に肘をついた。雲間から一瞬西日が覗き、彼はその眩しさに目を眇める。そんなロイの一挙手一投足を、向かいの席に座るリザが睨みつけるように見つめている。
 その眼差しの痛いほどの強さに、ロイは胸の内で肩を竦めた。

 この日、ロイはリザを副官に任命してから初めて、彼女を地方への出張に同行させた。
別に一人で行っても良かったのだが、これからセントラルへの出張や北方遠征など二人きりで行動せねばならない機会は多々ある。だから、肩慣らしにこの日帰りの出張は丁度いいと彼は判断したのだ。
 ところが、蓋を開けてみればどうだ。肩慣らしどころか、リザは朝からずっとガチガチに肩に力が入りっぱなしで、相手をするロイの方まで肩が凝ってくる始末だ。
 元々、彼の副官になってからの彼女は、常に張りつめて職務に励んでいた。固い表情と固い口調、厳しい言葉に鋭い眼差しが、彼女のトレードマークになった。その姿からは、優秀な補佐役であろうとして彼女が必死になっていることが痛いほどに伝わってきた。
 そんな彼女の気負いが、今日は更に強くなっているようだった。
 不備の無いよう、新米と言われぬよう、彼女は神経質なまでに固くなって自分の仕事に取り組んでいた。ロイが何気なく時計を見ればスケジュールの確認が入り、査察の資料を開けば徹底的に読み込まれた痕跡があり、査察先での挨拶代わりにもならぬ嫌味の応酬に彼女の鷹の目の睨みが炸裂する。
 もっと肩の力を抜けば良いものを。
 未だ青臭いロイでさえそう思うほどに、彼女は全てに対して過敏になっていた。
 そんな彼女を気遣って、ロイは幾度も彼女に手伝いを申し出た。だが、リザは頑なに己の仕事の領分を主張して、彼の申し出を突っ撥ねた。ガチガチに四角張ったリザとの距離を測りかね、自然とロイの口数も減っていく。彼のそんな様子を見たリザはそれが自分が至らぬせいだと考え、更に頑なに気負いばかりを強くする。
 そんな堂々巡りの悪循環が二人の間でループして、ロイは己の一挙一動にいちいち反応する副官に困り果てながら、一日を過ごす羽目に陥っている。
 よくよく考えてみれば、彼女が副官になってから、これだけ長時間を二人きりで過ごすことは、これが初めてであった。やはり二人きりという状況が、彼女に緊張をもたらしているのかもしれない。
 本来ならロイが上官の余裕でその気負いを取ってやればいいのだろうが、彼とて『新米』上官であるのだから、なかなかそこは上手くいかない。何しろ彼の方も、彼女との距離をどこに置こうか悩んでいるくらいなのだから。
 ロイは痛い沈黙を堪えながら暮れかけた窓の外に視線をやり、流れていく景色を見つめる。そして、見ないふりをしてきた、もう一つの副官と二人きりになると困る理由に思考を向けた。
 それは、彼らの過去をどう扱うか、という問題であった。
 基本、職場において彼らは今回の所属配置が初対面であるかのように振る舞っている。それは彼らが特に言葉として交わした約束ではなく、何となく生まれた暗黙のルールであった。
 しかし、実際のところ、彼らは絡み合って解けぬ因縁の糸で雁字搦めになった昔馴染みであるのだ。二人きりの状況でも、上官と部下の顔を貫き続けるのか。それとも、二人きりの時くらいは昔話に触れて良いものか。そんなところから、彼らは新たな自分達のルールを築いていかなければならない。
 今までずっと忙しさにかまけて触れずにいた過去にまつわる問題が、二人きりになると避けられないものとして浮かび上がってくる。上官と部下という関係につきものの、ぎこちなさは時間と慣れが解決してくれる。だが、彼らの過去は変えることも、消すことも出来ない。そんな当たり前の事実を改めて突きつけられた気がして、ロイは肩を竦めた。
 これから二時間半、この気詰まりな行程をどうすればいいのか。そして、二人の間にある穴だらけの暗黙のルールをどう補填していくべきなのか。
 ロイはぐるぐると回る思考の中で、再びリザに視線を戻した。彼女は相変わらず、ロイを睨み殺しかねない勢いで彼をじっと見ている。
 彼は汽車の中では仮眠を取るつもりでいたのに、これではおちおち寝てもいられない。だがどう考えても、副官としての彼女の気負いを和らげる方法を彼は見つけ出すことが出来ないでいる。
 ロイは鷹の目の迫力にすっかり辟易し、彼女の視線から一時的に逃げ出した。
 ロイはすっかり疲れ果て、内心で頭を抱える。
 これから副官である彼女とは、軍人として人生の大半を共に過ごすことになるのだ。そんな長い時間が未来に横たわっているというのに、僅か二時間半を持て余しているようでは前途は暗い。だからと言って何をどうすればいいのか、彼には皆目見当もつかない。
 まったく、どうしたものだろう。
 苦悩する彼を乗せ、汽車は夕闇の中を夜に向かって走っていった。