其の十四 犬だって食わない ― バカップル  ―

 重い銃声が式典会場に響いたのは、一五二〇を過ぎた頃だった。
「手を上げて、武器を捨てろ! 抵抗しない者には危害は加えない!」
 オリジナリティのない、だからこそ効果のある脅迫の声が場の空気を揺らした。
 一瞬の静けさが場を満たし、次の瞬間、悲鳴と怒号がその静けさを引き裂いた。着飾った招待客が逃げ惑い、警備の兵が銃声のした方へと殺到していく。要人警護の憲兵が慌しく壇上へ駆け上がり、それを追うように再び銃声が鳴った。
 厳粛な静けさを保っていた会場は、一瞬で蜂の巣を突付いたような大騒ぎの様相を呈す。
 そんな混乱した空気の中、招待客に混じって退屈な演説に欠伸を噛み殺していたロイの顔が一瞬で生気を漲らせた。
 その場に身を屈めたロイは礼装用の白い手袋をその場に放り出し、あっという間に発火布の手袋を装着してしまった。そんな彼の姿を頭痛のする思いで眺め、それでもリザはガンホルダーの銃を抜くと自分も臨戦態勢に入った。
 混乱の中に招待客席の避難を誘導する者はなく、リザはロイの身の安全を確保し脱出するルートを探る。混乱する会場の様子を窺う彼女の背後で、暢気なロイの声が聞こえた。
「今回は、どこの誰がターゲットかな」
「貴方である可能性も否定できません。早々にこの会場から退避して下さい」
「しかし、ここは東方司令部の管轄下にあるとは言え、ほぼ北方の境界に近い街だ。この街でイシュヴァール関連のテロが起きたことは未だない」
「大佐。貴方がテロや犯罪のターゲットになる理由は、貴方が焔の錬金術師だからというだけではありません」
 悠長なロイの返事を受け流し、リザは現在いる街の基礎情報を頭の中のファイルから探し出す。
「元々この街は親族支配の閉じた世界です。ドロドロした相続争いは日常茶飯事、些細なことでも足の引っ張り合いに利用する。そんな街でなら、司令部の中枢から偉い軍人が来ている時にトラブルを起こして得をする人間は幾らもいるでしょう」
「何だ、私は利用されるのか」
「例えば、の話です」
「抵抗すれば容赦はしない! 速やかに武器を捨てろ!」
 リザの言葉に、また銃声と罵声が重なった。今度のそれは、さっき聞こえたものよりずっと彼らとの距離を縮めていて、彼らの周囲で悲鳴が上がり、混乱が加速していく。
 リザは身体中をアンテナにして襲撃者の気配を探りつつ、律儀にロイの言葉に返事をした。
「最高責任者のいる場で事件を起こして、この街の支配者を失脚させる。または、その本人、或いは他の重要な招待客に害を及ぼし、支配者を失脚させる。どちらのシナリオを取るにしても、我々はいいカモです」
「そのついでに、私を暗殺して目の仇にする上の者に恩を売る、というシナリオもありか」
「否定は出来ませんね」
「ならば、先手必勝。逆にこの街の支配者に恩を売るチャンスじゃないか」
 きらきらと目を輝かせるロイの言い種に、リザは盛大な溜め息をついてみせる。
「狙われたいんですか、貴方。あくまでも、それは可能性の一つです。本当に莫迦ばかりおっしゃってないで、とにかく退避してください」
「そうは言うがね、君」
「幸いなことに、この街では、焔の錬金術師という貴方の二つ名はあまり知られていません。今回の貴方の肩書きは東方司令部最高司令官代理です。司令官が身の安全を優先するのは当然のことです」
「そうは言うがね、君」
「それに、今日は礼装なんていう機動性に乏しいものを着ておいでなのですから、万一の事がないとも言い切れません。無理はしないで、退避するのが得策です」
 『立て板に水』のリザの『口』撃に、ロイはわざとらしく傷付いた表情を作り、彼女に向かって肩を落としてみせた。
「君は私をよほどの間抜けだと思っているのかね」
「万が一、と申しております」
「まったく子供じゃあるまいし」
 そう言ったロイは、既に姿勢を低くして己の席から移動を始めている。ロイの礼装のコートの裾を踏まぬよう注意しながら、リザは素早くその後に続いた。
「大佐、そちらの扉は封鎖されているようです。人の流れは南西の出入り口に集中しているようですが、いかがしましょう」
「全扉を封鎖して、ルートを一箇所に絞らせるなんて初歩的な罠じゃないか」
「私が退路を確保いたしますので、正面突破という手もございますが」
「君を盾にして、私に逃げろと?」
 ロイは彼女に一言そう返すと、むっとした様子で口を噤んだ。一方的に話を打ち切ったロイは、彼女に返事をする間も与えず、さっさと歩き出してしまう。
 リザの望む退却とロイの望む反撃。どちらも同程度のリスクを孕むのは、致し方ない。ただ、二人のどちらもが、自分の被るリスクの大きい方を選択しようとするのだから、当然彼らの意見が相容れることはない。
 仕方ない。
 リザは内心で肩を竦め、自分も口を噤むと彼の後についていった。
 ロイはしばらく無言でいたが、二人の間の空気の流れを変えるように、言っても詮無い愚痴をこぼす。
「それにしても、グラマン将軍の代理仕事は碌なことがない。また、分かっていて私に貧乏籤を押しつけたな、あの狸爺め」
 ロイの言い分はもっともなものであったが、リザは副官として一応は強い口調で彼をたしなめた。
「大佐、どこで誰が聞いているか分かりません。不用意な発言はお慎み下さい」
「分かっている」
 そう言いながらロイは群集の波を抜け、ひょいと小さな円柱の後ろに身を隠した。リザは彼に倣い自分も円柱の影に身を潜めると、自分の望まぬ方へロイが自体を進行させないようにロイに念押しする。
「無茶も駄目ですよ!」
「分かっている」
 そう言いながらロイは柱の陰からひょこりと顔を出し、会場の混乱を窺っている。どうやら犯人グループは人質を取ったものらしい。リザは自分も横目で状況を確認しつつ、ロイにもう一度釘を刺す。
「返事だけ良くても駄目ですよ!」
「アー、ハイハイ。よく分かっている」
「まったく!」
 ロイの生返事に、リザは半ば本気で腹を立て表情を険しいものにした。一方のロイはそんな彼女の表情もどこ吹く風といった顔で、周囲の様子を窺っている。そしてロイは表情を引き締めると、そっと彼女の耳元に唇を寄せた。
「ところで、君。ちょっと作戦を考えてみたのだが」
 彼女の言葉をまるまる無視した男の言葉を、リザは嫌味を込めてぶつんと遮った。
「大佐、軍帽のつばがおでこに当たるのですが」
 実際、彼らの隠れた柱の陰が狭いせいで、彼女のこめかみの辺りに軍帽のつばが当たっている。ロイは彼女の嫌味に気付いているのかいないのか、素の表情で彼女に謝罪を寄越した。
「ああ、すまない」
 ロイは軍帽を脱ぐと再び喋りだそうとする。柳に風のロイの態度に、リザは更に不機嫌を露わにし、再び嫌味を込めて彼の言葉を遮った。
「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」
「君は私にどうしろというのかね!」
 ロイはグシャグシャとオールバックの髪を崩し、近くにあった椅子に軍帽を放り出した。
「ですから、無茶はしないで下さいと、今言ったばかりでしょう」
「無茶をしない為に作戦を立てるんだろうが」
 当たり前のようにそう言い切るロイに、流石のリザも脱力する。
 この男は本当に何とたちの悪い上官なのだろう。仮にも東方司令部司令官代理なのだから、きちんと警護されてくれていればいいものを。周囲で大捕り物に奔走しているのは下級士官ばかりであるというのに、偉い人が前に出てきては周囲が困ると言うことをこの男は一体いつになったら理解してくれるのだろうか。
 リザがそう考えている間に、ロイは前髪を上げるとさっさと軍帽を被り直していた。両手で帽子の角度を直しながら、ロイは彼女に嫌味を返す。
「確かに礼装なんて碌なもんじゃないな。機動性に乏しいばかりか、君に文句を言う口実まで与えてしまう」
「礼装のせいではなく、自業自得です」
 半ば諦めの境地でロイの嫌味を聞き流し、リザは周囲で慌ただしく交わされる憲兵達の会話に耳をそばだてる。その結果、現時点で判明している事実は以下の三点であった。
 この街の要人の避難は終わったらしいこと。犯人の身元は未だ不明だが、かなり若年者の集団であること。人質はこの街の有力者であること。
 情報にもならぬ情報にロイを見れば、彼の表情は何かを企んでいる時のそれになっている。存外真面目な表情であるのは、まぁ、きちんと作戦を練っているからなのであろう。
 どうあっても彼は、犯人確保を自らの手で行うつもりでいるのだ。余程、長くて意味のない式典にご立腹であったのだろう。
 リザは上官の心情を慮り、更に思考を重ねる。
 確かに下手に避難する一般人のパニックに巻き込まれるよりは逆に安全であるし、パニックが収まり武勲の奪い合いになる前に早々に犯人逮捕に先んじた方が得策かもしれない。一番リスクの高い部分をリザが実行するようにし、ロイを最前線に出さないよう手綱を取れば、折衷案でロイに丸め込まれるよりは多少は事態はましになるだろう。
 リザは無理矢理に自分にそう言い聞かせ、ロイを見た。ロイは彼女の眼差しにただ頷くと、不敵な笑みを浮かべてみせる。完全に彼のペースに巻き込まれたリザは、大きな溜め息を一つつくことでこの場からロイを脱出させることを諦め、戦闘モードへと頭を切り替えた。
 彼女が小言の多い副官の顔から共闘者のそれへと表情を変えたことを当然のことと受け止め、ロイは再び彼女の耳元で囁いた。
「ところで、君。さっき『この街では、私の二つ名はあまり知られていない』と言ったな?」
「はい。先程も申しましたがこの街は親族支配の閉じた街です。軍からここに派遣される統括者ぐらいしか軍人を知らないのではないかと思えるほどに、彼らは世情に疎い」
「あの内乱があったというのに、か」
「自分に関係のない世界の話は、五年も立てば過去ですよ。我々が第一次南部戦線の功労者の顔など覚えていないのと同じように」
「確かに」
 リザの自嘲にも似た言葉に、ロイは微かな苦笑を浮かべた。
「だがしかし、今回の我々にとってそれは好都合だ」
「何がですか」
「何も知らぬ者には、私のこの手袋は武器には見えんだろう」
「そう言われれば、そうですが」
 ロイの言葉に嫌な予感がし、リザは眉間に皺を寄せる。
「まさか、大佐」
「ああ、丸腰のふりで人質の交換を申し出る。その上で、背後から奴らを崩す」
莫迦ですか、貴方!」
 リザの抗議の声をロイは右から左に聞き流し、勝手にどんどん話を進めていく。
「この時点で死者も負傷者も全く出ていない現状を鑑みれば、奴らは人殺しには慣れていない人種だ。人質だって見てみろ、あんな無防備に前手錠だぞ」
「リスクが高過ぎます。それなら、私が一般人に変装して」
 リザがそう言った途端、今度はロイが眉間に皺を寄せた。
「それこそリスクが高過ぎる。武装解除されたら、君、どうするつもりだね?」
 自分のことは棚にあげて文句を言うロイに、リザは呆れ、やはりロイの作戦に乗ったこと自体が間違いだったのだ考え直した。
「ですから、最初から私は退避なさって下さい、と申し上げたではありませんか。それを自ら危ない方へと踏み込んでいかれたのは大佐です」
「だから、私が出ると言っているだろうが。君が前線に出る必要はない」
「貴方を前線に出すくらいなら、私が出ます。大体貴方は指揮官のくせに、最前線に出過ぎなのです。いい加減、指揮官の自覚をお持ち下さい」
「部下を前線に立たせて、私がその後ろに隠れているわけにはいかんだろう!」
「上官を盾にする副官なんて本末転倒です!」
「私が下の者を守ると言ったあの言葉に、君は賛同したんじゃなかったのか」
「それ以前に、私は貴方の背中をお預かりするお約束をしております」
「背中を任せるとは言ったが、私より前に出ろといった覚えはないぞ」
「私は貴方の副官ですよ? 貴方をお守りするのが私の職務です。それに東方司令部司令官代理に何かあっては、軍の沽券に関わります!」
 二人の議論は微妙に現場の状況から脱線し、どんどんヒートアップしていく。
「さっきから何だ。君はいつもそうやって、自ら危険に身を置こうとするじゃないか。私の心情もたまには慮ってくれ」
「そうおっしゃる大佐こそ、上官命令だと仰っては自ら突出なさって。私は貴方をお守りする為に、ここにいるのです」
「君だけを危険な目にあわせる訳にはいかんだろうが!」
莫迦なことを。貴方に何かあったら、私はどうすればいいのですか! 貴方のいない軍に、私の居場所があるわけがないでしょう!」
 その時だった。
「あのー」
「何だ?」
「何ですか?」
 異口同音に呼びかけの声に振り向いた二人が見たものは、何とも遠慮がちな様子の憲兵の姿だった。
ロイ・マスタング大佐でいらっしゃいますか?」
「そうだが」
 訝しげに答えるロイに憲兵は敬礼をしながら、遠慮がちに言った。
「お取り込み中、申し訳ありませんが」
「だから、何だ」
 居丈高に憲兵に問うロイに、憲兵は大汗をかきながら思いもかけない報告をしてきた。
「ただ今、会場を騒がせておりました犯人を、確保いたしました」
「は?」
「え?」
 さっきまで侃々諤々互いの主張を戦わせていた二人は、鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔を見合せた。どうやら、彼らが主張を戦わせている間に、事件は当事者達の手で収束を迎えたものらしい。つまり彼らの議論は、まったくの無意味であったのだ。
 憲兵は非常に気詰まりな様子で、耳を赤くして二人の剣呑な視線を受け止め、口篭る。
「お二方のお邪魔をするのは、その、大変申し訳ないのですが、その……」
 リザは彼のその様子に頭の痛くなる思いがした。この困った顔をしている憲兵には、先程の柱の影での二人の会話が途中から聞こえていたのだろう。奇妙に照れたような顔で交互に二人を見るこの男は、完全に何かを誤解している。
 リザは先程の自分とロイの言葉を胸に反芻した。

『君だけを危険な目にあわせる訳にはいかんだろうが!』
『貴方のいない軍に、私の居場所があるわけがないでしょう!』

 それは、どう考えても痴話喧嘩以外のなにものでもなかった。犬も食わない何とやら。憲兵が二人の会話に口を挟むのを躊躇するのも道理だ。
 カッと頬に血が上る感覚に、リザは慌てて頬を押さえた。どうにもまともにロイの顔が見られなくなり、リザは微かに視線を伏せた。ロイの方も同様に困惑している様子で、意味もなく軍帽を目深に被り直しているようだった。
 憲兵はなんと言ったものか言葉を選んでいるようだったが、結局、無難な謝罪の言葉を紡ぎ出す。
「遠路イーストシティよりお運びいただきましたのに、このような不手際、大変失礼致しました。式典に関しましてはやむを得ず一旦中止させて頂きますので、控え室へご案内をさせていただきます」
「うむ」
 リザよりも先に体勢を立て直したロイは鷹揚に憲兵の言葉に頷いてみせると、如何にもさりげなく発火布の手袋を外し、ポケットに仕舞った。リザはガンホルダーに自分の銃を仕舞うと、どうして良いか分からないまま急いでロイの後を追いかける。
 この場から逃げ出すように歩き出す憲兵の後について歩きながら、ロイはぼそりと独り言のように言った。
「恩を売る筈が、弱味を掴まれた気分だ」
 リザは答えず、頬のほてりが治まらぬまま黙って下を向く。二度とこの街には足を踏み入れたくはない、そう思いながら。