軍帽二十番勝負 其の一 ストイック・ステーション―切なめストイック―

 わっ、と群衆の間から歓声が上がった。
 駅周辺の高い建物の位置をチェックしていたリザは、人混みに揉まれながら大きな声の上がった方を振り向いた。彼女の視線の先には、綺麗にデコレーションされた御成列車が駅に到着する姿と、それを取り囲む民衆の姿が映る。
 予行演習であるはずの式典の会場は、まるで本番さながらの熱気に包まれていた。駅前の広場に設置された舞台の前にいた民衆達も、彼女の耳にした歓声を合図にしたかのように、我先に駅へと向かって移動していく。まるで民族大移動のような光景に、リザは眩暈を覚える思いで式典会場から駅へ向かう人の流れを観察する。
 ボトルネックになる駅の入り口が、やはり狙撃の危険が一番大きいかもしれない。そう考える彼女の背後で、興奮した親子の声が聞こえる。
「ねぇ、お父さん。王子様はいつ、この電車に乗ってアメストリスにやってくるの?」
「今度の月曜日さ」
「メアリ、ちゃんと王子様、見られるかな?」
「練習でこれだから、ちょっと難しいかもしれないな。……いや、でもメアリが良い子にしていたら、きっと大丈夫だよ」
 そう、大丈夫でいてもらわないと困るのだ。
 親子の会話に対してリザは胸の内でひとりごちると、自分も人の流れに乗って駅に向かって歩きだした。

 隣国との国交回復の一つの布石として、皇子が国賓としてアメストリスにやってくることが決まったのは数ヶ月前のことであった。それは喜ばしいニュースであったが、その第一の到着の地にこのイーストシティが選ばれたのは厄介ごと以外の何ものでもなかった。
 国賓来訪のニュースが発表されるや否や、直ぐにお祭り騒ぎが街中の空気を陽気に彩り、街は歓迎のムードで明るく染めあげられた。その一方で、暗殺やテロを警戒する軍の警備態勢は最上級のものとなり、この数ヶ月の間、イーストシティは明るい民衆と殺気だった軍部の危ういバランスの間で揺れていた。
 狙撃手として今回の式典の警備の任を与えられたリザは、人混みが当日と同じくらいになるであろう御成列車公開のこの日に、現場の下調べをする為にひとり休みを取り、駅周辺を歩き回っていた。
 私服姿で群集に紛れて現場を歩き回ってみると、地図上で見るのと違って、駅前の式典会場を一般市民に公開するという措置の危険性は、彼女の予測以上に高いものであった。特に群衆の存在は、その集団心理による予測のつかない動きを暗殺に利用される危険因子として最も危惧されるべきものと彼女には思えた。
 今回の式典の警護において、珍しく彼女は自分の上官と全くの別行動をとる予定になっていた。ロイはグラマン中将の供として迎賓の為の式典に出席する。リザは狙撃班の指揮下に入り、広場の警備に当たることになった。それは一介の狙撃手としての彼女の鷹の目が、たとえロイの副官という位置に在らずとも、彼女が有能な軍人である事を買われての措置であった。リザはその栄誉を受け、改めて背筋を伸ばしその任務に赴いた。
 別行動を取るリザの代わりにロイの身辺を守るのはハボックで、彼になら安心してロイの警護を任せられると彼女自身も納得した。
 だが納得した筈のその事実は、いつもの自分の定位置を奪われたような嫉妬にも似た座りの悪い感情を彼女の胸に芽生えさせた。その上彼の傍にいられないという事実が、彼女の胸にぽかりと穴の空いたような思いを感じさせるのだ。そんな自分に、リザは微かな嫌悪感を覚える。
 そんな感情は、ただの上官と部下とである彼らの間には不要なものである筈なのだ。軍人として生きると決めた彼らが命令に従って別行動を取ることも、彼の背を他の部下が守ることがあるのも、不満を言うべきことではない筈なのだから。
 リザは頭を振って要らぬ考えを追い出すと、淡々と自分に課せられた任務に必要な情報を人混みの中から拾っていく作業に集中した。

 駅の構内に入れば、そこに集結した群衆の密度は先程の広場の比ではなかった。イーストシティで一番大きい筈の駅でもこれだけの群集が集まれば手狭に感じられ、十メートルを移動するのに数分掛かってしまう程だった。人いきれに酔いそうになりながら、リザは壁際の比較的空いた場所を選んで歩いていく。
 これでは本当に駅から会場まで皇子が移動する僅かな時間さえ、暗殺の危険が懸念された。例えばこの場所でパニックが起これば、軍の人間だけではこの群衆の暴走を止めることさえ出来ない。今の警護計画ではカバーできない死角が多いことが分かっただけでも下見の成果はあったと、リザはひとり頷くと、さっさとこの不愉快な人ごみの中から引き上げようと踵を返した。
 リザは駅から外に出ようと、人の波に逆らって歩き出す。だが、ごった返す構内では人とぶつからずには移動することさえ出来ず、彼女は予想以上の障害に辟易しながら駅を抜けようとした。
 その時だった。
「中尉!」
 不意に遠くから、彼女を呼び止める声がした。
 思いがけない、だが耳に馴染んだ男の声に、彼女は反射的に足を止める。やがて彼女が探すまでもなく、人混みをかき分けてガシャガシャと腰のサーベルを鳴らしながら、黒髪の男が彼女の視界に姿を現した。
 おそらく中将の代理で、式典の予行演習に付き合わされたのであろう。彼女の上官は軍の礼装に身を包んでいた。きちんとオールバックに整えた髪を軍帽で隠し、人混みでサーベルが邪魔にならぬよう身体に沿わせるように刀身を片手で引いたロイは、非常に謹厳な軍人に見えた。
 こうして真面目にしていれば、この人はとても見栄えのする風貌をしているのだ。リザは少し感心して、遠くから歩み寄ってくる男の姿に見惚れた。
 礼装に合わせたオールバックの髪形は凛々しく、普段の彼の童顔を隠している。服装に見合った彼の落ち着いた立ち居振る舞いと、帽子のせいで伏し目がちになる黒い瞳が、普段より彼の姿を涼やかに見せていた。軍人としての威厳に人波が割れ、彼はいつもの歩幅を崩すことなく歩いてくる。
 すれ違う女たちの幾人かが通り過ぎる凛々しい青年士官の姿に振り返った。自分もその女達と同じだと思い知らされるような気がして、リザは男の姿に見惚れてしまった自分の心を律した。
 何食わぬ顔で上官に対する敬礼の姿勢をとった彼女の想いも知らぬげに、彼女の前に立ったロイは鷹揚にその敬礼に頷いてみせる。
「本日は予行演習でしょうか?」
「ああ、面倒なことだ」
 そう答えた彼は私服姿の彼女をしげしげと眺め、呆れたように言った。
「君、今日は非番なのだろう? それなのに、わざわざ下見かね」
「当日に近い状態で一度現場を見ておきたかったものですから」
「まったく、真面目なことだ」
「大佐が不真面目すぎるだけでいらっしゃるかと」
 彼に見惚れさせられたことが自分でも心外で、リザは言わなくてもいい憎まれ口を叩くと、僅かにロイを睨めつけた。彼女の言葉に苦笑したロイは、肩を竦めて彼女の嫌味を無視した。
「で、成果は?」
 職務に関しての問いに、リザは彼の部下として真面目に答える。
「現在の配置では、死角が多過ぎます。もう少し人員を増やしていただく必要がありそうです。それから入場者の制限をするべきかと」
「ああ、それは私も考えていた。増員に関しては、狙撃班の方に報告を出しておいてくれ」
「はい。本日中に報告書を作成し、明朝には提出できるようにしておきます」
 そんな話をしている間にも、駅には人が増え続け通路になっていた彼らのいる壁際にまで人が溢れ始めていた。リザはいつの間にか人混みに押され、ロイと話しながら壁に背中をつけるような状態になっていた。彼女の前に立つロイの背中のすぐ後ろには、ホームから溢れた人の波が迫っている。急激に膨れ上がる人の数に、リザは戦慄を覚える。
 これは、抜本的に警備計画を見直した方が良いのかもしれない。
 そう彼女が考えていると、ボウッとホームの奥で機関車の汽笛が鳴り響いた。わっとまた群衆の歓声が上がり、発車する列車を見ようと押すな押すなの大混雑が更に膨れ上がった。広場の人間が一時に構内に雪崩れ込んでくるのだから、どうにも対処の仕様が無い。
 群衆に押され、ロイの身体が目に見えて傾いだ。
「くそっ、すさまじいな」
 群衆に押され、リザの上に覆い被さるように壁に押しつけられたロイは、彼女の頭上の壁に両手をついた。
 彼の両腕で作られた空間に閉じ込められたリザは、一瞬びくりと身を竦めたが、ロイの手前何事もないふりで目の前に迫る男の顔を見つめた。彼女の態度をなぞるように上官の顔を崩さぬ男は、至極冷静に彼女を見下ろして問う。
「大丈夫か?」
「はい」
「確かにこの民衆の数は警護の大きな障害になるな。早急に対策を考えねばなるまい」
「よろしくお願い致します」
 至極真面目な会話の狭間で、男の吐息が彼女の肌に触れた。それは同時に、彼女の吐息が彼を刺激したことも意味していた。
 ほんの数センチ背伸びをすれば唇が触れかねない距離で、二人は異常な程に接近した自分たちを自覚する。心拍数を増すのを感じながら、それ故に彼らの唇からこぼれ出る言葉はますます無味乾燥な仕事の話題に限局されていく。
「ところで、駅構内に関して他に君が気付いたことはあるかね? 狙撃手としての観点以外にも、何かあれば言ってくれたまえ」
「それは焔の錬金術の使用に関してでしょうか?」
「いや。壇上にいる限り、私の焔は民衆の存在を考慮して封印せざるをえん」
「脱出用の煙幕でもお作りになる程度には、大佐の焔も役に立つのではありませんでしょうか」
「厳しいな」
「何を今更」
 ニコリともせずにそう答え、リザは僅かに視線を逸らした。
 彼女の上に覆い被さるロイは背中を何かで殴打されたらしく、ぐぅと苦しげに喉の奥で呻いた。しかし、彼は痛みを堪えながらも、彼女を守る体勢を崩さない。それは、女性を守るという、彼の一個の雄としての矜持を感じさせる行為であった。
 少し困った顔で背中にかかる圧力を堪え、びくともしない男の逞しい腕の中で、彼女は副官の顔を保つことが出来ず、女として守られる存在にしかなり得ない自分を自覚する。
 こんな風に感じてしまうのは、しばらくロイと距離を置いた所為なのだろうか。それとも、礼装の彼の前で軍服をまとわぬプライベートの姿を晒してしまったせいだろうか。リザは己の思考を逸らそうと、そんな自問を繰り返す。
 だが理由はどうあれ、この場所は、二人が今まで大切に築いてきた危ういバランスを崩すのに十分な、密度を持っている。その事実は、リザの、そして彼らの望むものでは全くなかった。
 リザはわざとらしくしかめ面を作り、ロイに抗議した。
「大佐、軍帽のつばが、おでこに当たるのですが」
 私から、どうか離れてください。
 彼女は言外に、そう切望する。
 そうでなければ、私は。
 その先の言葉はたとえ胸の内でさえ、彼女には呟くことすら出来なかった。
 ロイは恐ろしいほど的確に、彼女の想いを察してくれた。否、彼女以上にこの状況に困り果てているのは、彼の方かもしれなかった。
 彼がほんの少し力を抜けば、彼らは互いに不可抗力を理由に、人ごみの中で身体を重ね、吐息を重ねることさえ出来る。それを己に許さず、頑なに彼女の肉体に触れさえしない男の克己心に救われ、彼らは上司と部下の顔を貫いていられるのだ。
「ああ、すまない」
 そう答えたロイは、身動きできぬ状況を打破すべく、僅かに身体を捩る。
 無理な体勢にロイの軍帽が彼女の手元に落ち、リザの手の中に男の整髪料と汗の匂いが満ちる。それは先程ロイが人ごみをかき分け彼女の元に歩み寄ってきた時、すれ違う女たちを振り返らせていた『何か』であった。
 リザは自分が惑ってしまわぬよう、注意深くそのフェロモンの誘惑を排除し、冷たく言い放った。
「大佐、帽子を脱がれると、髪がぺちゃんとして変な頭になっていて気持ち悪いのですが」
「君は私にどうしろというのかね!」
 苦笑で彼女の意図を汲み取った上官は笑いに紛らせ頭を振り、髪形を崩すと落ちた前髪で表情を隠した。
 己自身をバリケードに、リザが群衆に潰されぬよう守ってくれるこの男は、それと同時に、決して互いに表に出さぬ何かを守るために、彼女との距離を守ろうとしてくれている。
 熱狂した群衆の中で、二人の間にだけ静かなやり切れぬ沈黙が落ちた。言葉が途切れ、彼らの聴覚は蜂の羽音のような群集のざわめきの中で、ただ相手の鼓動だけを聞く。

 手を伸ばせば互いの熱情が溢れると言うのに、彼らはそれに向きあえず、ただ静かに息を潜めて嵐が去るのを待つ。
 群集と言う名の嵐が去ったとしても、その胸の嵐が去る事はないと知りながら。

 息を殺して、自分たちの感情を殺して。