if 【case 13】

もし、中佐時代のロイが女慣れしていなかったら

          §

「いよう、鷹の目ちゃん」
書類を抱えて東方司令部の廊下を歩いていたリザは、聞いたことのある慣れ慣れしい声に呼び止められた。
鷹の目と呼ばれることには慣れてはいたが、この司令部の中でリザのことを“ちゃん”付けで呼ぶような人間はいない。
心当たりはあるにはあるが、どうにもリザはその人物が苦手である。
だが、直属ではない上に苦手だとは言え、流石に上官の呼びかけを無視するわけにはいかない。
リザは覚悟を決めて後ろを振り向いた。
「ご無沙汰しております、ヒューズ少佐」
「どうだ? ロイのお守りもそろそろ慣れてきたか?」
「いえ、そんなことは。むしろ、私の方が日々精進させて頂いております」
「相変わらず堅いな、君は」
そう言ってヒューズは大仰に肩を竦めてみせる。
そんなヒューズの姿に、リザは内心でそっと肩を竦め返した。

リザがロイの正式な補佐官となって四ヶ月。
慣れないながらも職務に励む彼女は、数年ぶりに再会し自分の上官となった男のことを少しずつ理解し始めていた。
青臭い夢を見失わない国家錬金術師は、部下よりも先に前線に飛び出していく困った上官であった。
だが、そんな一面を持ちながら、彼は以前には無かったさぼり癖と女好きな一面を修得していた。
その癖は、副官である彼女を非常に困らせるものであった。
気の乗らない時は締め切り直前まで書類は放置され、彼女が何度も言わなければ手が付けられないままのことも、しばしば。
気付けばデートだと言って、さっさと定時に上がってしまう。
彼女の父が出した課題を期日よりずっと早く仕上げていた勤勉な彼が、こんな怠け者になってしまったことが、彼女には信じられなかった。
こんな彼の姿を父が見たら、何と言うことだろう。
まったく嘆かわしい!
リザは困った上官を宥めすかし、デスクワークに追いやる日々に溜め息を重ねた。
どうして彼はこうなってしまったのだろう?
そんな彼女の疑問は、ある日、ヒューズに会ったことで氷解したのだった。

「相変わらずデスクワークから逃げ回っているんじゃないのか? ロイの奴。まーったく、士官学校の頃からそうだったんだよな、あいつ。やれば早いくせに、俺と朝まで飲む方を優先したり平気でしていやがったからな」
ロイの士官学校での親友だという男は、したり顔でひとり頷いている。
リザは知らず知らず、ヒューズを見る眼差しが強くなる自分を感じる。
ロイの親友というこの男、いつもこんな軽い口調でぺらぺら喋ってばかりいる。
幾ら仕事が出来るか知らないが、隙があれば奥さんの自慢ばかりしている。
愛妻家なのは良いかもしれないが、公私混同も甚だしい。
きっと、この軽い男がロイを変えたに違いない。
そうでなければ、あの生真面目な青年だったロイが、こんな短時間の間にあんないい加減な人間になる訳がない。
リザはそう考えながら、手の中の書類をぎゅっと握りしめる。
勿論それはリザの勝手な思い込みで、ロイは士官学校での生活において自ら持っていた素質を開花させただけだった。
ヒューズはまったくの濡れ衣を着せられているわけだが、本人はまったくそんなことは知らずに、彼女に話しかけてくる。
「まったく、君も迷惑を被っているだろう。どうだ? 愚痴なら聞くから、飲みにでも行くか?」
一度この問題について、きちんとこの人とは話をさせてもらわなくては。
そして上官を元の真面目な道に引き摺り戻さなくては。
リザはそんな使命感に燃え、コクリと頷いた。
「是非、よろしくお願いいたしま……」
「おい、ヒューズ!」
リザがそう言いかけたところで、不意に彼女の上官の強い声が聞こえた。
「おう、ロイ!」
ヒューズの声を耳に振り向くリザの目に、つかつかと歩み寄ってくるロイの姿が映った。
「ヒューズ、お前、人の副官にちょっかいかけている暇があったら、さっさと報告書を提出しに来い!」
「お、鷹の目ちゃんに話されたら困る話でもあるか」
莫迦言ってる暇があったら、その手の書類を私に渡せ。なんなら、グレイシアに今見たことをそのまま告げても良いんだぞ?」
茶化すヒューズに、ロイは意外な程真面目な顔で詰め寄る。
「俺たちの愛はそんなことじゃ揺るがね−よ」
「ほう、言ったな?」
「いや、だが、まぁ、不要な心配を女房にさせるのは愛妻家としては心苦しいからなぁ」
もぞもぞとそう言うヒューズに、ロイは悪い顔でニヤリと笑う。
ああ、これも昔の彼はしなかった顔だ。
リザはそう考え表情を曇らせる。
「まぁ、お前の美しい未来を曇らせるわけにはいかないか」
「言うな」
「グレイシアの翡翠のような美しい瞳が曇ると思うと、私も胸が苦しいよ」
そして、こんな美辞麗句を言うような人でもなかった。
リザは胸の奥で溜め息をつく。
そんな彼女を横に言い争う二人の眼中に、既にリザの姿はないようだ。
何となく、それもまた口惜しいような気がするのは何故だろう。
リザは自分の気持ちを持てあまし、そっと溜め息をついた。
ロイの親友というこの男が関わると、何だか碌でもないことばかりな気がする。
リザは小さな胸のモヤモヤを持てあまし、その場を立ち去ることでそれを消してしまうことに決めた。
「失礼致します」
形ばかりの挨拶をし、リザは言い争いに見せかけたじゃれ合いをする二人に背を向けた。
そして、彼女はヒューズをとっちめる機会を得ることを諦め、横目にその場を立ち去ったのだった。

結局その後、リザは己の職務に戻り、ヒューズは再び彼女と顔を合わせることなくセントラルへと帰って行った。
午後の仕事は滞りなく終わり、珍しくロイはサボることなくデスクワークをこなした。
何が起こったのだろう? 
そう彼女は訝しむが、特段ロイに変わったところは見られない。
そのまま時間だけが過ぎ、そして今、リザは雨が降るのではないかと思いながら、上官と二人で真面目に残業を片付けた。

どのくらい時間が経った頃だろう。
ホークアイ少尉。君、この後食事でもどうだね?」
残務処理の最中、彼女の耳にそんなロイの言葉が飛び込んできた。
リザは思いがけない誘いの言葉に驚き、書きかけの書類から視線を上げ、自分の上官を見た。
彼女の上官は万年筆を片手に書類とにらめっこをしたまま、顔も上げずに彼女を誘ったらしい。
上官と二人きりで残業をする機会は何度かあったが、ロイからこのような誘いを受けるのは初めてのことであった。
何かのついでのような彼の言葉の意図が掴めず、リザは僅かに緊張し、生真面目に彼に聞き返した。
「どういったご用件で、でしょうか?」
「用件も何も、ただ残業で遅くなったから食事でもどうかと思っただけだが」
あまりにストレートすぎる彼女の言葉にロイは困ったように渋面を作ると、今度は書類から顔を上げて彼女を見て答えた。
ロイのその言葉に、リザは眉を顰める。

昼間のヒューズ少佐との会話に、何か思うところでもあったのだろうか。
或いは、ヒューズ少佐が何かけしかけたのだろうか。
ああ、本当に彼の親友はとても困った男だ。
それにしても、こんなストレートな誘いは困ってしまう。
リザは内心の動揺を隠す為に、視線を伏せた。

リザとてロイに向かう密やかな想いはある。
だが、上官と補佐官の間に私的な関係が生じれば、軍規違反となる可能性がある。
そんなことでロイの傍に居られなくなるくらいなら、他者に怪しまれるような行為は徹底的に避けなければならないと、彼女は堅く自身に言い聞かせている。
これが、他のチーム・マスタングの面々と一緒に、というのなら彼女にも何の否やもない。
むしろ、それを口実にロイと共に食事を摂る時間が出来、ささやかなプライベートタイムを共有出来ることを、密やかに胸の内で喜ぶことだろう。
しかし、今、この執務室に残って残業しているのは彼等二人だけである。
ロイがはっきりと『ただの慰労の食事だ』と言い切ったところで、何処に人の目があるか分からない状況では、リザは彼との二人きりの食事にイエスと答えるわけにはいかない。

リザの表情の変化に、ロイは彼女の心の動きを読んだものらしい。
「部下を慰労するという意味以外に、他意はない。そう睨まないでくれ」
そう言って少し呆れた顔をしたロイに、リザは四角四面の答えを返した。
「ですが、他人はそう見ないかもしれません」
「そんなことを言い出したら、グラマン将軍がまず軍紀違反で訴えられてしまうじゃないか」
「ですが、仮にでも妙な噂が立てば、私は貴方の補佐官でいられなくなります。それでは、貴方の背中をお守りすることが出来ません」
リザの言い分に、ロイは溜め息をついた。
「君、昼間、ヒューズの誘いには素直に乗ったじゃないか」
「それはそれ、これはこれです」
「君、それ、答えになっていないから」
ロイは呆れた顔で彼女にそう言うと、真っ直ぐに彼女を見た。
「君、幾らヒューズが私の友人だからと言って、隙を見せて良いものではないぞ? あれでも、あいつも男なのだからな」
ロイが何を言い出したのか分からず、リザはぽかんとして彼を見た。
リザは単純にロイを変えてしまったあの男に文句が言いたかっただけなのに、彼は何を言っているのだろう。
そう考えるリザに向かい、ロイは酷く生真面目に言葉を続けた。
「君は大体隙が多いんだ。ヒューズに笑みなんか安売りしなくて良い」
自分は笑っていただろうか? むしろ睨んでいた気がするのだが。
リザは首を傾げる。
「そんなコケティッシュな仕草も止めたまえ、男は勘違いする。君は無意識かもしれんが、そう言った仕草は蠱惑的にさえ見えることもある」
何を言っているのだろう、この人は。
『男が勘違いをする仕草』を彼女がしていると、彼は指摘している。
それはつまり、彼がそう思って彼女の仕草を見ているということ、なのか。
リザは少しずつロイの言っている言葉の方向性を理解し、頬に血が上ってくるのを感じる。
「贔屓目に見なくても君は魅力的な女性なのだから、男の誘いには気を付けたまえ」
「あの、中佐……」
リザは遂に放たれたストレートなロイの言葉に、耳まで赤面した。
そんな真正面から『魅力的な女性だ』などと言われて、彼女はどう反応して良いのか分からなくなってしまう。

真っ赤になってしまった彼女の表情に、ロイは自分の発言が非常に恥ずかしいものであることに気付いたらしい。
彼は慌てふためき、否定の代わりに両手を横に振った。
「だから、その、だな」
彼は彼女同様に頬を赤らめ、言い訳のように言葉を続けた。
「いや、そうではなく、だ。私が言いたいのは、軍の中で君は高嶺の花と言われ……、いや、鷹の目と言われ、だから」
支離滅裂になりながら、ロイは己の顔を隠すように片手で口元を押さえ、ガタリと椅子から立ち上がった。
照れたように視線を泳がせ、まともに彼女の顔も見られないその姿は、彼女がよく知るマスタングさんそのままであった。
ロイは昔、部屋着の彼女とうっかり廊下で鉢合わせてしまった時と同じ顔で喚く。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「あの、お食事は」
「いや、それも忘れてくれ」
ロイはその場にペンを放り出し、足早に執務室の扉へと向かう。
リザはどうして良いか分からず、彼に追いすがることも出来ず、ぼんやりと自分のデスクに座ったまま、ロイの背中を見送った。
バタンと乱暴に閉じられるドアが、ロイの背中を飲み込むのを見つめ、リザはぽつりと呟いた。
「何だ、結局変わっていないじゃないの」
そう言った後の彼女の唇には、小さな笑みが浮かんでいた。

Fin.

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 久々更新。お気に召しましたなら。

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