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2009年に初めて出した書き下ろしオフ本のウェブ再録です。
今では解釈違いでこんな甘い(当社比)お話は書けないし、稚拙な文章ではありますが、大体6万字くらいあるのできっと時間つぶしにはなるはず。(笑)
ひとときでも、読んで下さる方の無聊を慰める事が出来れば幸いです。

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Ⅰ.ドレス

 

「やっほい、リザ。今日は早いのね」

 射撃訓練場に入ってきたリザを見つけたレベッカは、指に付いた黒い機械油を擦りながら、銃のメンテナンスの手を休めて顔を上げた。外出から戻った足で直接射撃訓練場に来たリザは、親友に向かってひらひらと手を振ってみせる。
「来られる時に来ないと、時間が取れないから。あなたこそ早いわね」
「まぁね。ところで、今日はおサボリ大佐殿のお守りは終わったの?」
「さっきセントラル行きの汽車に放り込んで、出張に送り出して来たところよ。これで明後日までは、一息つけるわ」
 大袈裟な溜め息をついてみせるリザの表情に、レベッカは大きな口を開けて笑った。
「あんたね、『イシュヴァールの英雄』なんて言われてる出世頭の色男の副官やってんだから、文句言ったら罰が当たるわよ?」
「止してよ」
 リザは莫迦莫迦しいと言わんばかりに、レベッカの言葉に大きく首を横に振った。
 確かにレベッカの言う通り、彼女が副官を務めるあの男は、端から見ればそんな評価を与えられてもおかしくない人物だ。彼は士官学校出身のエリート組だし、イシュヴァールの内乱において若くして戦功を立て出世を重ね、国家錬金術師としての実力も兼ね備えている。二十代で国軍大佐だなんて、まったく異例過ぎるくらいだ。色男かどうかは人の好みもあるだろうが、女性にもてることもまた事実である。ただ、それが彼の見た目のせいなのか地位のせいであるのかは、リザの与り知らぬことである。
 しかし、他人の評価がどうであれ、リザにとってはひどいサボり癖をもった頭の痛い上官である事は動かしようのない事実だ。
「冗談は止めてよ、レベッカ。あの人のサボリ癖、あなたも知ってるでしょう?」
「あんたから、イヤと言うほど愚痴は聞かせてもらってるけどね」
 そう言って茶化すレベッカを睨む素振りで、リザは再び溜め息をついた。
「まったく、今日だって出張の前に仕上げる予定の書類を放り出して、朝から国立中央図書館錬金術の資料閲覧を請求する電話ばかりかけてたのよ? 信じられる?」
 ウンザリだと言わんばかりのリザの愚痴をいつもの事と聞き流し、愛用のライフルの組み上げを再開したレベッカは、にやりと笑って身を乗り出した。
「諦めなさい、今更でしょ? ところで、話は変わるんだけど。リザ、ビッグニュースよ。聞きたい?」
「何? 勿体ぶらないでよ」
 もって回ったレベッカの口調に、リザは上官への怒りを露わにしたまま問い返す。そんなリザに向かい、レベッカは胸を張って取って置きのネタを披露してみせた。
「あのね、エイダが結婚するんだって。あんたもあたしも式に招待されるわよ」
「え! 本当!?」
 リザは驚いてロイへの不満をいったん脇に避け、ツカツカとレベッカの元へ歩み寄った。レベッカは、彼女の驚きを満足そうにニヤニヤと眺め、ライフルの最後のパーツをはめ込んだ。リザは彼女の隣のスツールにさっと腰掛けると、作業台の上で指を組んで、しみじみと言った。
「あのエイダがねぇ……式はいつ? 相手は?」
 士官学校から同期として共に歩んできた友人の顔を思い浮かべ矢継ぎ早に尋ねるリザに、レベッカは組み上がったライフルの遊底を操作し、動作確認をしながら答える。
「式は三カ月後、駅の近くのレストランを借り切って人前式をするって言ってたわ。相手は軍法会議所勤務の二十八歳、士官学校出身のバリバリのキャリア組よ。何でも彼のセントラル転属が決まって、一緒に来てほしいってプロポーズされたんだって」
「そうなの」
 二十八歳……自分の上官と同い年だ。ぱっと胸をよぎった考えと微かな引っかかりをリザは黙殺し、レベッカの話の続きを待つ。
「彼女、軍は辞めて、しばらくは家庭に入るって言ってたわよ。春の移動で彼女にも転属の話は出てたから、思い切って退官する決心したんだって。確かに新婚早々別居じゃあ、洒落にもならないものね」
 完成した銃を置き、レベッカはリザの顔を覗き込む。
「もちろん出席するでしょう? リザ」
「ええ。三カ月後なら、今から有休申請しておけば大丈夫だと思うわ」
「でね、お祝いの事なんだけど。私達二人合わせて、ちょっと豪華なもの贈らない? ちょっと贅沢で普段買わないようなもの」
「良いわね、考えておくわ」
 リザはレベッカのライフルに視線をやりながら、ふっと思い出したように言う。
「ところで、レベッカ。あなたの方はどうなってるのよ。まだ別れてない?」
 昨年の夏頃から、レベッカは銀行に勤める真面目な男と付き合っていることをリザは聞かされていた。いつもはすぐに破局を迎えるレベッカが、今回は珍しく一年近く男との付き合いを続かせているので、リザは会うたびに彼女をからかっている。
「うちは変わりなしよ。彼も銀行業務が忙しくて残業ばかり。あたしもこんな感じだから、どうにもね。でも、ちゃんとデートはしてるわよ?」
「せっかく珍しく長続きしてるんだから、頑張りなさいよ」
「もう! 人聞きが悪いわね。大きなお世話よ」
 そう言いながらも、レベッカは少し表情を弛ませる。愛する者の話をする時、自ずとその気持ちは表情に溢れるものなのかもしれない。
 リザはふと考える。ならば、自分はどうなのだろう? あの男の事を語る時、自分はどんな顔をしているのだろうか? そう考えを巡らせかけたリザは、自分で自分の莫迦な疑問に苦笑する。考えるまでもない。今の我々は上官と部下なのだ。仕事をしない上官に眉間に皺を寄せて愚痴をこぼし、傍にいなくて一息つけると言い放つほどに。そこに存在する想いとは、自分でも名前の付けられぬ複雑怪奇な怪物のようだ。不用意に触れれば、牙をむき噛み付いてくる。だからリザは深く考えないようにして、彼の部下として振る舞い続ける。
「でも、ここんとこ、本当にお互いの時間が合わなくてね。銀行って月末が忙しいらしいのよ。最近、デートの約束をキャンセルし合う事も多くって」
 レベッカの言葉の続きに、リザは乱れた自分の心に蓋をした。上司と部下に余計な感情は不要だ。そんなリザの想いを尻目に、レベッカは大げさな手振りを交えて嘆いてみせる。
「こないだなんて、あの人レストランの予約の時間に三〇分も遅れてきたのよ。信じられないでしょ? ひとりでレストランの席で待つのって、ホント惨めでイヤんなっちゃったわ」
「それは辛いわね……」
「でもね、彼ったらお詫びだって言って、すっごく大きな花束持ってきてくれたのよ。それにしても、どうして男の人って花束って言えば、真っ赤な薔薇とかすみ草みたいなステレオタイプのものしか選べないのかしら? ま、もらえるのはすごく嬉しいんだけど」
 いつの間にやら、愚痴は惚気に変わっていたらしい。リザはレベッカの惚気が本格的に始まる前に退散する事を決めて、さっさと立ち上がった。
「何を贅沢言ってるの。花をくれる人がいるだけ良いと思いなさいよ、レベッカ。何にしても銀行マンで出世頭の色男を捕まえたんだから、手放さないように頑張りなさいね」
 さっきレベッカに言われた科白をそのまま同じように返せば、レベッカは綺麗なウィンクでリザの言葉に答えてくる。
「言われなくても分かっているわ。それよりも、エイダのお祝いの話、ちゃんと考えといてよね」
「了解!」
 ふざけて敬礼するリザにレベッカは同じ様に敬礼を返し、二人はクスクスと笑いあう。またねとレベッカに手を振るとリザはくるりと踵を返して、自分のライフルを取りに保管庫へと向かって歩き出した。
 
 リザとレベッカの付き合いは、彼女らがとある対テロ作戦でスナイパーチームを組んだ事から始まる。
 人的資源の枯渇したイシュヴァールのような特殊な事例を除き、軍では通常の場合、狙撃手はスポッターと呼ばれる観測手とチームを組んで作戦にあたる。狭いスコープの世界に集中する狙撃手の為にターゲットを観察し、風を読み、湿度を見、対象との距離を計り、周囲の警戒に務める観測手は地味な仕事だ。しかし、この観測手がいなければ、どんなに優秀な狙撃手でもその能力の半分も発揮できないであろう重要な役割なのである。
「今回の作戦であなたのスポッターを務めさせてもらいます、レベッカ・カタリナよ。よろしく」
 そう言って初対面のリザに気さくに手を差し出したレベッカは、その軽い言動とは裏腹に実地では観測手として驚くほど高いサポート能力を披露してみせた。それはレベッカ自身が一流の狙撃手である事の証明に他ならず、リザは同じ狙撃手としての尊敬と、物事に頓着しないさばさばした彼女の性格とに短時間の内に惹かれたのだった。レベッカの方も、寡黙な中に強さを秘めたリザの堅い性格を好ましく思ったらしい。この一件を機に、二人の長い交流は始まった。
 全く性格の違う二人が、これほど仲良くなった理由はリザ自身にも分からない。あまりに違いすぎる性格のせいか、単純に命を任せあえるスナイパーとスポッターの関係の延長か。しかし理由など今となっては、どうでも良かった。
 数少ない友人の中でも、特に同じ軍に属し、同じ狙撃手と言う孤独なポジションを共有する稀な彼女の存在は、リザにとって大きなものであった。こうして上官の愚痴を言いあい、同期の噂話を運んでくれるレベッカは、リザに彼女自身が普通の働く女である事を認識させてくれる。
 レベッカにかかれば、ロイだって『出世頭の色男』と切り捨てられておしまいだ。そんな第三者的視点は、リザの心を軽くしてくれる。おそらくレベッカは、リザの胸の内に潜むロイに対する密かな想いに気付いていることだろう。しかし、彼女はそ知らぬ顔でそれを無いものとして、リザと接してくれている。そういった細やかな気遣いをした上で、どうしても物事を堅く考えがちなリザを軽くいなしてくれるレベッカは、リザのただ一人の気のおけない友人と言っても差し支えなかった。
 しかし、そんな何でも腹を割って話せるレベッカにさえ、言えない秘密がリザにはあった。一つはロイと自分との間に存在する過去、もう一つは背中の秘伝と火傷の痕のことだった。
 どちらも自分の上官の出世の邪魔になると言う判断と共に、どう説明したところで彼ら二人の一風変わった関係は他人には理解されないであろうという思いがあり、リザはずっとそれを他人の目から隠し続けている。単なる上官と部下である現在の二人にとって、リザの背に住まう火蜥蜴の存在は要らぬ誤解を生むだけのものであり、リザにとってもそれは望ましくなかった。
 訓練の後シャワー室を滅多に利用しないリザは、その言い訳として真実の片面だけを語る。
『背中に大きな火傷の痕があるから、人に見られたくないの』
 それは嘘ではないが、真実でもない。なるべく友人には誠実でありたいという、リザの自己満足に過ぎない。だが、レベッカは気にすることないのにと言いながら、何も聞かずにいてくれる。無用な詮索をほとんどしないレベッカのさっぱりした性格は、こういう時本当にありがたいものだった。
 こうして、リザはここ東方司令部で、それなりに平穏な日々を過ごしている。
  
 レベッカと別れたリザは、結局小一時間ほど射撃を行なうと、早々に訓練場を後にした。そして再び自分の職場へと戻り、やり残した仕事を片付け始める。例えロイが不在だろうが彼女の仕事が減る訳もなく、むしろこういう時の方が彼女の側のペーパーワークは捗るのだから、済ませられる仕事は済ませておきたかったのだ。
 しかし、他部署からの問い合わせに答え、会議のレジュメを分類し、ブレダたちの片付けた仕事の整理をしていると、時間などあっという間に経ってしまう。彼女の片付けたかった書類は、手付かずで机の上に積まれたまま定時が過ぎる。上官の不在をいいことにサッサと帰宅するメンバーを見送った後、リザはようやく腰を落ち着けて自分の仕事に取り掛かると黙々とペンを走らせ始めた。
 日が落ちて薄暗くなった部屋で一人仕事に没頭する時間に、リザは穏やかな心地良さを感じる。時間の流れが少しだけゆっくりに感じられ、目の前のことにだけ集中できる。自分のペースで仕事が出来る快適さに、リザの手は進む。
 ようやくリザが己に課したノルマを終えた頃。まるでそれを見計らったかのように、ジリジリと司令部の電話が鳴った。静かな部屋に響くベルの音に急き立てられるように、リザは己のデスクから立ち上がり電話を見つめる。時間的に考えても、十中八九、相手はセントラルに二泊三日の出張に出かけたロイに違いなかった。
 リザは受話器を取ると、自分の声が期待を滲ませないように注意深く事務的に言葉を発した。
「はい」
「私だ。予定通り、今ホテルに入った」
 予測通りのロイの柔らかな声が、味も素っ気もない会話を紡ぐ。
「そちらは何もないか」
「僅か半日のうちに、そうそう何か起こっても困ります」
「確かに」
 リザの当たり前の返答に電話口でロイは苦笑する。その心地好い低音の響きに魅了され、リザはそっと瞳を閉じた。普段、上官として彼の顔を見ながら話している時には決して彼女が自分に許すことのない、男としての彼の存在を噛み締めるささやかな行動は、同じ男の事務的な声で遮られる。
「なら、君もさっさと帰ってしまえば良かったのに。こんな時間まで残って片付けねばならない仕事があったか?」
「色々と、どなたかがやり残された事がございますし、私自身のノルマもございますので」
 あえて副官の顔を前面に押し出し、リザは自分の気持ちを立て直す。
「ああ、しまった。墓穴を掘ったな」
 悪びれないロイの声が優しく続く。
「無理はするな。急ぎの件はなかった筈だぞ? 君も私のいない時くらいは早く帰りたまえ。どうせ他の奴らは、とっくに帰っているのだろうからな」
 的確に部下たちの行動パターンを読んでいるロイの言葉に、リザは小さな溜め息をついた。彼のこういう気配りと優しさは、時に無神経に思えるほどリザの心を揺さぶる。こんな事を言いながら、彼はこの部屋にリザが居残っていることを確信して、電話を寄越してくれているのだ。リザの想いを知り彼女の意志を尊重しながらも、ロイはこうして無言のアプローチを欠かさない。
 いっそ流されてしまえば、楽になるのは分かっている。しかし、それは彼の出世の妨げになるばかりで、何のメリットも生まない。それに、自分が彼のそういった想いを受けるに値する人間だとは、リザには到底思えないのだ。
 彼の命を背負う約束。何処までもついていく約束。それはリザが彼の部下になった時に、軍人としての顔で交わした約束だった。女として自分はどんな顔で彼の前に立っていいのか、否、女として立ってよいのかすらリザには分からない。それならば、このまま上司と部下でいた方が、よほどリザは彼への想いを素直に行動に移せる。身体を張って彼を守り、死さえ厭わぬ忠実な副官として。
「どうした? やはり疲れているのだろう。もう帰った方がいい」
 黙り込んだリザを気遣うロイの言葉に、彼女は我に返り慌てて受話器を握り直す。
「いえ、大丈夫です」
「いいや、これは命令だ。帰りたまえ、今すぐだ」
「でも、大佐」
「いいか? 切るぞ」
「大佐!」
 ブツリと唐突に電話は切れた。後には虚しい機械音が響く。リザは溜め息をついて、受話器を元に戻した。一気に冷たさと暗さを増す夜の中で独り、リザはじっと電話を見つめる。さっきまでセントラルと繋がっていた目の前の機械は、ただの木とスチールで出来たオブジェと化し彼女の孤独を嘲笑う。リザはグラリとよろめく様に電話に背を向け、手にした書類をそのまま机の上に戻すと、鞄を手にドアに向かって歩いていった。
 電気を消し、ふと暗い部屋を振り向けば、主のいない男の机がリザの目に入る。リザは唇をかんで闇に目を凝らし、ここにいない男の姿を思い浮かべる。
 分かっているのだ、切れた電話の向こうであの男もリザと同じ顔をしている事は。
 受話器を耳に、虚しい機械音を等しく聞くあの男の優しさは。
 いつも胸に痛い。
  
 しかして、上官が不在だろうが、胸が痛かろうが朝はいつもと同じようにやってくる。翌日、リザは上官の不在以外に関しては、いつもと同じ業務に励む。前夜、中途半端に終わらざるをえなかった仕事を片付け、細々とした雑務を片付ける為に走り回れば、午前の業務時間などすぐに過ぎてしまう。
 期限ギリギリの経費請求の書類を提出したリザは、その足で食堂に向かった。このまま部屋に戻れば仕事の山に阻まれて、昼食を取り損ねることは必定だった。腹が減っては何とやら。リザはふざけて呟くと、食堂のドアをくぐった。
 昼食には少し遅い時間であるにも関わらず食堂は思ったより混んでいた。午後の仕事の時間を気にして彼女はポテトサラダを挟んだシンプルなサンドイッチを選ぶと、空いている席を探す。
 すると、「リザ」と彼女の名を呼ぶ声が背後から聞こえた。振り向いてみれば、そこにはレベッカを筆頭にリザと同期のメンバー四人がテーブルの一角を占拠しているのが見て取れた。リザは人混みをかき分け、彼女らの仲間に加わった。
「珍しいわね、リザがこんな時間に食堂に来られるなんて」
マスタング大佐が出張だからでしょ?」
「良いわねー、毎日いい男と一緒で」
 口々に話す彼女らのお喋りは華やかで、リザは少し圧倒されながら曖昧に微笑んで返答を誤摩化した。空いている席に腰掛ければ、ちょうど向かいに座るエイダの指に光るリングがリザの目に入る。
「おめでとう。聞いたわよ、エイダ」
 リザがにこやかにそう言えば、エイダは少しはにかんだ表情でありがとうと言って目の縁を染める。その顔はリザの知る普段のエイダより、数段美しく見えた。彼女らの手元を見れば、結婚式のドレスのカタログが食堂のトレイの間に所狭しと広げられていて、無骨な軍人の群れの中で、そこだけがまるで異空間のように華やいでいる。
「何やってるの? こんなところで」
 呆れたように言うリザに、レベッカが笑う。
「エイダのドレスの品定めよ。昼休みなんだから、固い事言わないの、リザ」
 レベッカの言葉に、同期の花たちは笑いさざめく。
「やっぱり、こういうの見ると憧れちゃうわよね」
「そうそう、それに女同士じゃないと、こんな話できないもの」
「確かに。男の前でウェディングドレスの話なんてしようものなら、どんな顔されるか」
「二十代も半ばになると、そんな怖い賭け出来ないわ。逃げられちゃいそう」
「やだ! 止めてよ」
 彼女らのとりとめのないお喋りを耳に、リザは開かれたページに目をやる。そこには、花とシフォンとフリルでいっぱいに埋め尽くされたドレスの大群がヒラヒラと、素っ気ない食堂のテーブルの上に蝶の羽のように美しい紋様を広げている。
「これなんですって、エイダが式で着るドレスは」
 同期の言葉にカタログを見れば、豪奢な薔薇をかたどったレースが胸元を飾るプリンセスラインの白いドレスの写真が載っている。腰の辺りにたっぷりとフリルをとり、細かな刺繍とビーズがちりばめられたそのドレスは、確かにエイダの小柄な身体を綺麗に見せてくれそうなデザインだった。
「エイダに似合いそうね、綺麗だわ」
 素直にリザがそう言うと、エイダはまた頬を染める。ああ、幸せなのだろうなと思いながら、キラキラと目を輝かせてドレスの品定めをする友人達を横目に、所詮自分には縁のないものとリザはサンドイッチを食べ始めた。
 カタログを見ながら、あれが良い、これが良いと話に花を咲かせる友人達を、リザは遠い国の言葉を話す人たちを見るような不思議な思いで眺める。どうして自分が着るわけでもないのに、あれだけ夢中になれるのだろう、と。
 こういった話題に興味がもてない自分は、きっと何かが欠けているのだろうという自覚くらいは流石にリザにもあった。友人の結婚を素直に喜ぶ気持ちはあっても、それを自分に当てはめようとは思わない。綺麗なドレスのカタログを見るくらいなら、精度の高い最新の銃のカタログを見ていたいと思う。しかし、それは世の女性たちの中ではかなり特殊な嗜好であって、ひらひらと華やかな女の子の群れの中においては、十分に異端者なのだ。
 幸いにも軍の同期の彼女らは、それをリザの個性として尊重してくれている。しかし、思えば子供の頃から、リザは群れる女の子たちからは浮いた存在だった。どうして手をつないで常に一緒に行動するのだろう? どうしてお揃いのものを持ちたがるのだろう? どうして同じことをしないと仲間外れになるのだろう? そんな疑問の山を乗り越えて、リザはそういう種類の女の子が世の多数を占めていることに気付く。どうして? に理由なんてない。人種が違えば言葉が通じないように、ただリザと彼女らの間に通じる言葉がないだけなのだ。マイノリティは口を閉じ、自分も相手も不快にならないよう、深入りしなければ良い。リザはいくつかの経験を通して、そういったことを学んだ。
 口元に笑みを浮かべ同期たちの言葉を聞きながら、午後の仕事を気にして早々に食事を終えるリザに、ドレスの品定め熱心な一人が気を使ってか不意に声をかけてきた。
「リザはスタイルが良いから、こんなドレスが似合うんじゃないかしら?」
 まさか自分に対してそんな事を言われるとは思ってもいなかったリザは、驚いて彼女の指差す先を見る。そこにあったのは、背中の大きく開いた上品なオフショルダーが特徴的な、カットレースで花モチーフをぐるりとドレスの周囲に描き出すクラシカルなドレスの写真だった。驚きに目を瞬かせるリザを、賑やかな友人たちの賛辞が取り囲む。
「確かに。リザはウェストが細いから、スカートにこのくらいボリュームがある方がきっと映えるわ」
「いつもあまり肌も出さないから、意外性があって良いかもしれないわね」
 気のいい友人たちの優しい言葉にリザは困り果て、「そうかしら? ありがとう」と、やっとの思いで答えて微笑んでみせた。
 ウェディングドレスどころか、結婚というものが自分の人生に関係のあるものだとは考えた事すらないリザは、こういう話題にどう反応すればよいものか分からない。守るべき人の為に引き金を引き続けることが自分の人生の全てだと考える彼女とは、それは対極に位置する価値観なのだから。そう思いながらも、リザは少しの間そのドレスの写真を見つめていた。すると、背の傷の事を知るレベッカが、フォローのようにパッと言い放った。
「まぁ、あんな色男の傍に居て、浮いた噂の一つも出ないリザには贅沢過ぎるんじゃない?」
 聞きようによっては失礼極まりないレベッカの言葉も、今のリザにとっては逆にありがたかった。
「失礼ね、レベッカ
 そう言いながらも、リザは苦笑と共にレベッカへ感謝のウィンクを送ってみせる。レベッカの方も心得たものでニヤリと笑ってみせると、さっさとトレイを手に席を立った。
「さぁ、そろそろ仕事に戻ろうかしら」
「あら、もうそんな時間?」
 時計を見上げるレベッカに、一同はワタワタとテーブルの上に広げたカタログを片付け始める。そんな中、カップに残ったコーヒーを飲み干すリザに向かい、エイダが控えめに聞いてきた。
「リザ、こんな場所で聞いてしまって申し訳ないんだけど、式の招待状送らせてもらっても良いかしら?」
「勿論よ! お祝いさせて頂戴、エイダ」
「ありがとう」
 ほっとしたように微笑むエイダは、やはり間近で見ても綺麗だった。幸福が女を綺麗に見せると言うのはこういうことかと、リザは自分も女でありながら妙な感心をしてみせる。
 ガヤガヤと喋りながら席を立つ女たちは、食堂を後にそれぞれの部署に戻っていく。先ほどまでのドレスを見て浮かれていた顔を、きりりとした職業軍人の顔の下に隠して。私もこんな風に切り替えがはっきり出来ればいいのかしら? 常に軍人であり続けるリザは自分の不器用さを笑うと最後に席を立ち、トレイを手に彼女を待つレベッカにそっと言った。
「ありがとう」
「何の事?」
 シラッと言ってのけるレベッカに、リザは微笑んだ。同期のメンバーたちとなかなか縁のなかったリザを、こうして輪の中に引っ張ってくれる彼女の存在は本当にありがたいものだった。
 主のいない執務室に戻るリザは、廊下の角でレベッカと別れて歩きながら考える。確かに自分は女としては異端なのだろうが、それでもそれを理解してくれる友人と、生涯を賭して付き従う事の出来る人がいる。今の自分には、それで十分なのだ。
 リザは自分にそう言い聞かせながら、脳裏に残る美しいウェディングドレスの残像を意識の外へとシャットアウトした。 

 
Ⅱ.背中

 

 その日、満面の笑顔を浮かべて歩いて来たレベッカは、昼食を載せたトレイを片手にリザの隣の椅子をさっと引くと、座るよりも早く喋り始めた。
「ちょっと聞いてよ! リザ」
「聞いているわ、どうしたの?」
 ここのところ忙しくてすれ違いの続いていた二人は、久々に食堂で顔を合わせたところだった。
 リザの方はロイがセントラルへの出張から帰って来て以降、また彼のお守りにかまける日々に忙殺され、レベッカの方も狙撃手として、またスポッターとしてあちこちにかり出される多忙な日々を送っていたようだ。
 射撃訓練場に行ってもすれ違いばかりが重なるうちに、どうやらレベッカの方で何かが起こったらしい。あまりのレベッカの勢いに驚きながら、リザはキラキラと目を輝かせる友人の次の言葉を待った。
「ジャーン、なんと彼に旅行に誘われたのよ! ダブリスのカウロイ湖に行くの。今月最後の週末に行く予定なのよ、何着ていこうかしら?」
「え! あなた、そんな急に休み取れるの?」
 友人の喜びを祝う以前に現実的な指摘をするリザらしい反応にレベッカは出鼻を挫かれ、ちょっと微妙な顔をして意地になって答える。
「取るわよ、取ってやるわよ。あたしたち有休どれだけ捨ててると思ってるの。こういう時くらい、ドド~ンとババ~ンと取ってやらなくて、どうするって言うのよ!」
 半ば自棄のように言うレベッカの言葉に思わず吹き出して、リザはそう言えば自分は最後にいつ有給休暇を取っただろうと考える。指を折って記憶を探ってみるものの、果たしてそれはあまりにも遠い記憶の彼方にあり過ぎて手が届かず、リザはあっさり考えることを放棄した。要はそれだけ休みを取っていないという事だ。
 そんなリザの様子を見て、今度はレベッカの方が吹き出してしまい、女二人は顔を見合わせて笑った。
「私たち、働き者よね」
「過労死しないように気をつけなくちゃ」
 洒落にならない冗談を交わし、リザは食後の珈琲を手にしみじみと言った。
「カウロイ湖か、良いわね。観光名所として有名になり過ぎちゃったけど、一度は行ってみたいわ」
 カウロイ湖は、アメストリス南部の街・ダブリスにある観光名所だ。たとえ行った事がなくても、アメストリス人なら誰もが名前くらいは知っている場所である。そこには緑に囲まれたのどかな湖を中心に保養地が広がり、人の手の入らぬ豊かな自然を堪能出来る。美しい湖の中心にはヨック島と言う小さな無人島があり、野生動物の宝庫だと言われているが、立ち入る人間はあまりいないらしい。
「でしょ? しかも、彼、湖に落ちる夕陽が見えるスイートルームを取ってくれたって言うのよ。意外にロマンチストで吃驚しちゃったけど、でもちょっと嬉しいわよね」
「ちょっと?」
「あははは。すごく、よ」
 素直に惚気るレベッカは、蕩ける様な笑顔を浮かべてマシンガンのような勢いで話し始める。
「スイートルームに泊まるのなんて初めてだから、緊張しちゃうわ。でね、汽車の方もたっぷり時間がかかるから、一等のコンパートメント予約したって! もう、あたし、どうしようかしら」
「どうしようって、私に聞かれても、ねぇ。それにしても豪華な旅行ね」
 苦笑するリザに視線を寄越しながら、レベッカはトレイからマグカップを取り珈琲で喉を潤すと、しみじみと言葉を継いだ。
「二人とも働いているから時間はないけどお金はあるのよね。せっかく有休返上で働いてるんだから、こういう時くらい贅沢しなくっちゃホントやってらんないわ」
 確かにレベッカの言うとおりだった。地位が上がって給料が上がるたびに、自分の自由になる時間は減っていく。残業は増え有休はとれず、それこそ定時にあがれる日だってほとんどないのだ。リザにとってはロイと共に過ごす時間が増えるというささやかな喜びはあるものの、やはり仕事は仕事だ。時々、嫌気がさすことがある事実は否めない。
 そんなことを考えている間に時計の針は十三時を指し、リザは午後一の佐官会議の時間が迫っている事に気付く。どうやら食い気が色気に勝ったらしくお喋りを中断しシチューを口に運ぶレベッカに視線を移して、リザはゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい、レベッカ。私、もう行かないと。続きはまた後で射撃場で聞かせてもらうわ」
「今日の訓練は出られそう?」
「大佐がサボらなければ、ね」
「頑張って色男の尻叩いてらっしゃいな! また後でね」
 パンを片手に手を振るレベッカに手を振り返し、リザはトレイを返却すると食堂を後にした。
 
 リザが部屋に戻った時には、既にロイは会議に向かった後だった。昼下がりの心地よい陽射しが、主のいないデスクをポカポカと暖めている。リザはほっとして自席につくと、引き出しを探り届出の書類を取り出した。
 さっき、レベッカと有休の話をしていて、リザはエイダの結婚式に出る為に有休をとらなければならない事を思い出したのだ。あの食堂で話をしたその日にエイダは招待状を送ってくれたらしく、翌日にはリザの手元に可愛らしい封筒が届けられていた。それを見てリザは自分も友人も結婚が具体的な話題になる年代になってしまった事実を、改めて噛み締めたのだった。同期では初めての寿退官だ。せっかくのキャリアが勿体無いと思う気持ちと、愛する人について行く潔さに感心する気持ちとがない交ぜになり、招待状を手にリザは我が身を振り返った。
 中途半端かもしれないが、自分はキャリアも男と共に生きる道も手にしている。考えようによっては、これはある種の幸せなのかもしれない。そんな風に考えてみて、何となく詭弁で自分を騙しているような気になりながら、リザは招待状の返事に出席の旨を記しポストに投函したのだった。
 佐官会議が終わるまでにと、リザはロイが取り寄せた資料の整理をし、自分の仕事をある程度片付けて、最後に有給休暇の届出を記入した。有休はおろか、遅刻とも早退とも縁のない日々を送るリザは、届出を書くこと自体久しぶりだった。他人の、例えば月に一度は遅刻するハボックの、届出の処理ならしているのだけれど。そう考えて、リザは苦笑する。そして、書き上げた書類をロイの机の上に提出すると、彼女は回覧物を持って執務室を後にした。
 細々とした雑務を終え執務室に戻れば、彼女の上官は既に会議から戻り、机上に置かれたリザの有給休暇の届出書類に目を通しているところだった。
 彼女の姿を認めたロイは、長い指でパンと書類を弾いて言った。
「珍しいな、君が有休の申請をするなんて。明日は雨が降りそうだ」
 ふざけたロイの口ぶりにリザは少しムッとして、厭味で彼に応酬する。
「どなたかが真面目にお仕事をして下されば、私ももう少しお休みをいただけるのですが」
「まぁ、そう言うな。同期の結婚式くらい、ゆっくり出てくれば良いさ」
 書類には『私用の為』としか書いていない筈なのに、何故分かったのだろう? あっさりと有休の申請理由をロイに言い当てられ、リザは驚く。そんなリザの驚きを見て、ロイは笑った。
「驚くことはない、単純な話だ。君の友人のお相手が私の士官学校の同期生なのだよ。今は親交がないので私は招待されなかったが、同じ部署のヒューズは招待されたそうだ。出張の際、セントラルでヤツに会った時に聞いたものでね。式でヒューズに会ったら、よろしく言っておいてくれたまえ」
 呆気ない種明かしにリザは拍子抜けし、少し柔らかな口調に戻りロイに確認を取る。
「では、その日はお休みを頂いても問題はない、と言う事でよろしいでしょうか?」
「ああ、構わん」
 ロイはその場でさっさとリザの提出した届出に受理のサインを済ませ、そのまま彼女に書類を返して寄越す。
「後で総務に持って行きたまえ。しかし、君、本当に有休取ってないな……まぁ、私も人の事は言えた義理ではないが」
 そう言って窓から差し込む午後の光を背負い、ロイは情けない顔で笑ってみせる。よくよく見れば逆光で見る彼の顔には微かにクマが浮き、リザは指を折って数えるまでもなく前回の彼の有休が自分の記憶の中に存在しないことを思い出す。
 そうだ、なんだかんだ言って二人とも、働き過ぎなのだ。レベッカじゃないけれど、本当に過労死の心配をした方が良いのかもしれない。リザはロイの苦笑を受け止めて、話題を変えるべく先ほどの彼の言葉を反芻する。
ヒューズ中佐も参列なさるのですか」
「ああ、奥方と一緒に出席すると言っていたぞ。君はグレイシアを知っていたかな?」
「いえ、お写真だけは拝見した事はありますが……」
「拝見したではなく、強制的に見せられたんだろう? ヤツの凄まじい惚気付きで」
 そう言って笑うロイにつられて、思わずリザの表情もほぐれる。珍しく他愛のない会話を交わす平和な午後のひと時に、リザの張りつめた心の一部が弛んだ。
 しかし、まさか彼と自分の同期が結婚する事になろうとは。あり得ない話ではなかったが、何とも不思議な感じがして仕方ない。そうぼんやりと考えるリザに、ロイは書き込みでいっぱいの佐官会議のレジュメを渡して、壁際に置かれたポットに向かって歩きながら言葉を続けた。
「まぁ、確かに結婚式の時に見たグレイシアは、ヒューズには勿体無いほど美しかったがな。ああいうドレスを着ると、女性と言うものは五割増しくらいは綺麗に見えるのかもしれん」
 リザはロイから受け取ったレジュメのメモ書きに目を通し、上官の言葉を半ば聞き流すように聞いていた。おそらく、このメモから議事録を作成しろと言われるのだろう。細々とした提案が余白いっぱいに書き込まれたレジュメは、見る限りまとめるには参照せねばならぬ資料がたくさんあるようだった。面倒な仕事になりそうだと彼女は意識の半分をレジュメの中に踊る彼の文字に集中させながら、ロイの言葉に生返事をする。
「五割ですか。そう言えば、先日食堂でその結婚する友人と会って、ドレスのカタログを見せてもらったのですが、やはり美しいものですね。同期は皆、夢中で。私も友人に背中の開いたデザインのウェディングドレスを勧められて、少し……」
 そこまで言ったところで、リザは自分の言葉に驚いて口をつぐんだ。
 自分は今何を言った?
 背中の開いたウェディングドレス?
 驚きのあまり今考えていた議事録の原案は一瞬で彼女の脳裏から飛び去り、嫌な汗が背中を流れ落ちる。これでは、まるで自分がそのウェディングドレスを着てみたいと言っているようにしか聞こえないのではないだろうか。しかも、秘伝を背負った自分と背中の開いたドレスの組み合わせなんて、冗談にしても質が悪すぎる。『男の前でウェディングドレスの話なんてしようものなら』、そう言った同期の科白がリザの頭の中で響く。
 いくら自分にとってインパクトがあった出来事だったとは言え、うっかり口にするにはあまりに問題のあり過ぎる内容にリザは頭を抱えたくなった。ロイがどんな反応をしているかと恐る恐る書類から視線をあげれば、自分に背を向け鼻歌交じりに珈琲をカップに注ぐ男の後ろ姿が目に入ってくる。
 ひょっとして聞こえていなかったのだろうか? それほど大きな声で話していた訳ではないし、ポットやカップのたてる音でリザの声がかき消されたかもしれない。一瞬そう考えかけて、どうしたって無理のあるその現実逃避的な思考をリザは莫迦莫迦しいと切り捨てる。
 何と言い訳したものだろうか。リザがぐるぐると考えを巡らせている中、ロイは両手にマグカップを一つずつ持ち、呑気な様子で彼女の方を振り向いた。
「君も飲むだろう?」
 そう言ったロイの表情は先ほどと何ら変わりはなく、リザは今の自分の失言は錯覚だったのかと思いそうになる。呆然とロイを見つめるリザに、彼は不思議そうな顔で聞いてきた。
「どうした? 私がグレイシアを褒めるのが、そんなに意外だったか?」
 リザはふるふると首を横に振る。狐につままれたような思いのリザに、困った笑顔を浮かべたロイはマグカップを押し付ける。
「確かにヒューズの惚気は堪ったものではないが、私もグレイシア本人が美人であることを認める事はやぶさかではないぞ?」
 この男は聞かなかったふりをしてくれているのだろうか。それとも、本当に聞こえていなかったのだろうか。リザは片手に書類の束を、もう一方の手にマグカップを持ち、治まらぬ動悸を抱えたままロイを見つめる。
 穏やかな男の瞳は真っ直ぐにリザを見つめ返し、そこには僅かな波風も立たぬ凪のような静けさしか見つける事ができない。確認しようにも、まさか『友人とのウェディングドレスの話は聞こえていましたか』などと聞けるわけもない。それに男の様子を見ていると、実は過剰に反応しているのは自分だけで、この上官にとってはとるに足らぬただの世間話の一部だったのだろうかという考えさえ浮かんでくる。
 そう考えるとリザはどうにも自分が情けなくなり、とにかく男に話を合わせるべく、いつものトーンを保ち彼の言葉に返事をした。
「いえ。大佐が女性を賞賛なさるのは、聞き慣れております。ただ……」
「ただ?」
 言い淀むリザは、次の言葉を探してマグカップに口を付ける。気付けば、彼女の喉はカラカラに渇ききっていた。
「ただ、ご友人の奥様は対象外かと」
 苦し紛れのリザの言葉に男は一瞬ポカンとした顔をさらし、そして苦笑した。
「酷いな、人を飢えたケダモノ扱いしてくれるな。もちろん対象外は対象外だが、他の女性に対しても常からそうガツガツしてリップサービスしている訳ではないぞ? しかも情けないことに、本命には手も足も出せないのだからな」
 そう言って悪戯っぽく笑ったロイは、マグカップの珈琲を飲み干し、カツンとデスクの上に置いた。あまりにもいつも通り過ぎる会話に、リザの頭は混乱する。
「で、中尉。この後の予定は?」
 仕事の顔に戻ったロイはリザに問うた。それは会話を打ち切る彼の合図だ。リザは一口しか口を付けられなかった珈琲を置くと、会議の書類を持ったまま机上のメモに目を走らせる。
「この後、北庁舎屋上の塗装の件で業者との面会が三十分後に入っております。それから将軍から、重火器類の入札の件で時間がある時に部屋に顔を出して欲しい、とのご連絡がありました。おそらく、新しい業者の売り込んできた新兵器のことではないかと」
「また雑用か」
 うんざりした口調でロイは眉をしかめ、業者との面会場所を確認し、リザに週末までに議事録を作成するように指示を出すと、デスクに座り顔も上げず溜まった書類を片付け始めた。
 リザは失礼しますとロイに一礼し、釈然としない思いで執務室を後にした。
   
 その後の一日を、リザはまるで魚の小骨が喉に引っかかったような何ともすっきりしない気分で過ごした。何をやっても先ほどのロイとの会話が思い出され、身が入らない。面倒な会議の議事録の作成など始めた日には、恐ろしい程のミスを犯しそうで、リザは早々に仕事を切り上げることにした。
 気持ちの切り替えをしようと、当然のように彼女の足が向かった先は、やはり射撃訓練場だった。自分が最も集中できることにのめり込み雑念を振り払ってしまいたいと、自然に急ぐ足を長い渡り廊下に踏み入れたリザは、向こうから歩いて来る誰かが自分に向かって手を振っているのに気付く。よくよく見れば、それは私服に着替えたレベッカだった。
「どうしたの? 訓練出るんじゃなかったの?」
 驚いて問い掛けるリザに、レベッカは慌てた顔で言い訳するように答える。
「ごめん! 今日は旅行の手配で彼と会うことになってたの。昼間はうっかりしてて」
「そうだったの……。デートじゃ仕方ないわね」
 そう言いながら、リザは内心ホッとする。今の乱れた心では、幸せ者の惚気話をまともに聞けそうになかった。
「話の続きは、また今度聞かせてもらうわ」
「じゃ、そういう事で! ほんとごめんね!」
 走り去るレベッカに手を振り、リザは訓練場へと更に足を早めた。
 訓練場の横のロッカールームにたどり着いたリザはすぐに射撃の準備を始めようとしたが、やはりどうにも乗り気になれず、ベンチに座り込むと膝の上に肘をつき自分の頭を抱えた。
 あんな、本当ならなんでもない世間話を気にする自分がおかしいのは分かっている。しかし、自分と上官との微妙な関係においては、あれは失言以外の何ものでもないことも事実だった。しかし何より気になるのは、あの時のロイの反応だった。
 普通に考えれば、もしロイにあの言葉が届いていたなら、彼のことだ。サラリとスマートなアプローチを仕掛けて来たに違いない。それをして来なかったと言う事は、やはり聞こえていなかったと考えて良いのではないだろうか。希望的観測をするのはリザの性に合わないが、どう考えてもそれが最もロイの反応としっくり来るのだから仕方ない。そういう事にしておいて、無心に訓練に打ち込み、何もなかったことにしてしまおう。だいたいが、リザの自意識過剰なのかもしれないのだから。
 リザは頭を振って立ち上がり、ロッカーの扉を開けた。誰もいない広い部屋に、ガチャンと大きな音が響く。レベッカがいなければ、ここの女子ロッカーはリザの占有物件だ。それだけ女性の射撃手は少ない。リザはその場に荷物を思い切り広げて、身支度を始めた。
 しかし、静けさに満ちた広い空間に独りでいる事実は、余計にリザを己の内的空間へと駆り立てる。割り切ろうと考えるものの、どうにも胸のモヤモヤは消えない。べたべたと汗ばんだアンダーウェアが気持ち悪く、リザは半ば自棄になって軍服と共に嫌な汗を吸い込んだ黒のタートルを脱ぎ捨てた。彼女が予備のシャツに手を伸ばしたその時。
「リザ! あんた何よ、それは!?」
 背後から聞こえる叫びとカツカツと響く足音が、リザの耳を打った。
 ハッとしてリザは軍服の上衣を羽織ったが、既に遅すぎることは間違いなかった。振り向かずとも、レベッカが驚愕の表情で駆け寄ってくる光景が目に浮かぶ。おそらく忘れ物をしたか、時間を間違えていたか、そのどちらかでレベッカはロッカールームに戻って来たのだろう。
 リザは自分の軽率な行動を心から呪う。あれほど細心の注意を払って今まで隠し通してきたことが、一瞬の自棄で全て水の泡になってしまった。今日は何という厄日だろう。僅かな気の緩みが命取りになるのは、戦場に限った話ではないのだ。
 レベッカは顔を上げることも出来ないリザに駆け寄ると、力なく項垂れる彼女の肩を掴んでガクガクと揺さぶった。
「あんた、なにやってんの! セクハラかパワハラか、ドメスティックバイオレンスか納得尽くか知らないけど、こんな目に遭ってんなら、一言くらい相談しなさいよ!」
 大きな声がロッカー中に響き渡り、狭い室内に反響する。凄まじい剣幕でリザに詰め寄るレベッカは、どう考えてもロイがリザの背に秘伝を刺青したものだと勘違いしているに違いない。ロイとリザの過去を知らない人間が彼女の背を見れば、そういう結論に達するのが当然だろう。彼女の背の秘伝とロイの発火布に描かれた錬成陣は、同じ意味を持つものなのだから。どちらが先かなんて、誰にも分かりはしない。リザは激高するレベッカに、何とか説明をしようと試みる。
「違うの、レベッカ。これは……」
「違わない! あたしはね、あんたに怒ってんのよ、リザ。一人でこんなの抱え込んでないで、ちょっとはあたしを頼りなさいよ! 莫迦! そんなに口の軽い女に見えたわけ?」
「でも」
「でもじゃないわ。まったく。女の友情、舐めんじゃないわよ!」
 そう一気にまくし立てると、レベッカはギッとリザを睨み付けて荒い息をついた。今まで見たこともないレベッカの表情に圧倒され、リザは息を呑み何か言おうと唇を動かすが、頭の中は真っ白で何も思い浮かばない。肩に食い込むレベッカの指が痛く、言葉を捜してリザは視線を伏せ、自分に向けられた友の言葉を反芻する。そうして、レベッカへの言い訳を探して彼女の顔を見つめているうちに、リザは場違いだとは思いながらもいつしか自分の頬が緩んでいることに気付いた。
 ああ、なんてありがたい友人なのだろう。リザは思う。何故ならレベッカの怒りの矛先は、驚くほどに真っ当な方向を向いているのだから。
 レベッカは、ロイがリザの背に刺青を彫ったらしいことに怒っているのでもなく、リザがそれを受け入れたことを怒っているのでもない。リザがレベッカを信用していなかったこと、リザが一人で重荷を負って生きて来たことを怒っているのだ。それは友人として当然の怒りであり、また友を気遣う彼女の優しさの表れだった。それもそうだろう、背中に刺青を背負って生きるなど、普通の女性には考えられぬ人生なのだろうから。
 リザは今までこの背の秘密を誰かに見つかれば、ロイとの関係を勘ぐられ、事実を説明してもきっと受け入れてもらえないと思っていた。気持ち悪いと思われたり、距離を置かれたりしても仕方がないと思っていた。しかし、レベッカはそういう問題すら全て飛び越えて、リザ本人のことだけを心配してくれているのだ。
 リザの人生に踏み込むわけではなく、あくまでもリザとレベッカの関係に限定した友人の分をわきまえ過ぎるほどにわきまえたレベッカらしい言葉に、リザは目頭が熱くなる。友人らしい友人を持たぬリザにとって、この無条件の友情の提示はあまりにも驚くべき出来事だった。彼女は真っ赤な顔をしたレベッカに、思わず抱きつく。
「ありがとう、レベッカ……ごめんなさい」
 唐突なリザの反応は、あまりにも予想外だったらしい。普段から感情を露にする事の少ないリザの抱擁に、レベッカは目を白黒させてその場に固まってしまった。しばらく呆然としていたレベッカは、照れくさそうに頭を掻くとボソリと言った。
「えーっと、リザ。お礼はいいから、さ。とりあえず、その凄いおっぱいしまってくれない? いくら女同士でも、目のやり場に困るんだけど」
 レベッカのふざけた照れ隠しに、リザは小さく吹き出した。確かに背中を隠す事に気をとられ、前は下着を付けているとは言え無防備にさらけ出したままだった。二人は顔を見合わせて声を立てずに笑い、リザは友人から身体を離した。事態を深刻にしないように気遣うレベッカの機転に感謝しつつ、リザはとりあえず予備のタートルに袖を通す。広い室内にファンの回る音だけが響き、リザの着替えが終わっても、二人はしばらく無言で所在無く立ち尽くした。何をどう話したものかお互いが遠慮しあっていることが伝わり、二人は共に苦笑する。そんな沈黙を先に破ったのは、レベッカだった。
「で、どうする? 見なかった事にした方が良い? 事情聞いた方が良い?」
 顔は笑顔を作ってはいたが、レベッカの目は真面目な表情を宿している。彼女はリザが今まで隠してきたものを、偶然とはいえ暴いてしまった。そのことを気遣ってのレベッカの発言が、リザにはありがたかった。このまま無かったことにしたい気持ちは、確かリザの中ににあった。しかし、ここまで来て隠し事をするのも逆に不自然だったし、レベッカに対しても申し訳なく思われた。リザは少し考えて、結局ある程度のことは話してしまおうと腹をくくる。第一、背中を見られてしまった今となっては、きちんと説明をしておかないことには、ロイが彼女の背に刺青を彫ったという誤解を解くことが出来ないままになってしまう。それなら、きちんと真実を語った方がマシだろうとリザは考えた。
「聞いてもらえるならありがたいけど、話すと長いわよ? あなた、デートはどうなったの?」
「時間を間違えていたのよ。彼の仕事の都合でレストランの予約を一時間ずらしたのを、途中で思い出して戻ってきたの。また待ちぼうけ食らわされたら、堪ったもんじゃないものね」
 リザの予測どおりの答えを返しながら、レベッカはロッカーのベンチに足を投げ出して座ると、ポンポンと隣の座面を叩きリザにも座るように促した。言葉を交わすことで少し落ち着いた二人は、普段通りのトーンを取り戻そうと話を始める。
「相変わらず、そそっかしいわね、レベッカ
 そう言って笑うリザに、レベッカはわざとらしく眉間に皺を寄せて見せる。
「うるさいわね、あんたいつも一言多いのよ。もう話聞いてあげないわよ? それより、一時間で終わる話なんでしょうね?」
「一時間もあれば十分よ。本当に大切な事は単純なんだもの。単純じゃないのは、多分私の思考回路なんだと思うわ」
 レベッカの隣に腰掛け、溜め息混じりに吐き出されたリザの言葉を、レベッカは笑った。
「今更何言ってんのよ。あんたが考えすぎなのは、いつものことだもの。知ってるわ」
「悪かったわね……でも、ちょっと意外だったわ」
「なにが?」
 僅かに言い淀んで、リザは正直な思いを口にした。
「背中のこと。見つかったら気持ち悪がられるか、刺青を叱られるかと思ってた」
「まぁ、吃驚はしたけどね。そんなもの文句も言わずに受け入れるなんて、あんたの為にも男の為にもなんないとは思うけど、それはあんた達の問題だから。それに、そんな判断も出来ないほど莫迦でもないだろうから、あんたが受け入れたんなら仕方ないかなと思って」
 そうサバサバと言ってのけるレベッカらしい返事に、リザは安堵する。この極端な個人主義と言っても差し支えない思考は、狙撃手という孤独な仕事に従事する彼女だからこそかもしれない。しかし、理由がどうであれ、無条件に自己の存在を肯定してくれる友人を持てたことは、リザにとっては幸福以外の何ものでもなかった。何から話そうかと考え、リザはとりあえず一番肝心な事をレベッカに伝えることにした。
「まず初めに言っておくわね。私のこの背中、これは私が子供だった頃に錬金術師だった私の父が彫ったものなのよ」
 まさかここでリザの告白内容に、ロイ以外の人間の存在が出てくるとは思っていなかったであろうレベッカは、軽く目を見張った。父親というキーワードに過去の様々な思い出を胸によぎらせ、リザはなるべく簡潔な言葉を選ぶ。
「死んだ父はちょっと変わった人でね、研究結果を守る為に私の背に秘伝を刺青したのよ。誰にも盗まれないようにって」
 本当はちょっとどころの話ではない。娘の背に刺青を彫るなど、普通に考えれば正気の沙汰ではないと今ならリザも思う。しかし、その当時の彼女の世界は父が全てだったから、当然そんなことは疑問にすら思わずそれを受け入れたのだった。
「大佐は私の父親の最初で最後のお弟子さん。言ってみれば、幼なじみみたいなものかしら」
「幼なじみ、ね」
 疑わしげなレベッカの合いの手を聞き流して、リザは息を継いだ。
 それにしても、自分の人生を変えてしまった出来事だと言うのに、こうやって言葉にしてしまえば、全てが何と軽く上面なものになってしまうのだろうか。ロイと共に過ごした幼い日の思い出や父に秘伝を託された日の葛藤、父の葬儀の日に彼と交わしたやり取りは、今でも胸を揺さぶられる記憶であるというのに。リザは皮肉な笑みを浮かべる。しかし別な考え方をするならば、こうして事実のみを淡々と語る行為は、意外なほど己を客観視する機会を与えてくれるような気もした。リザは淡々と続けた。
錬金術の平和利用を考えていた父と軍人になった大佐は思想の違いから最終的には袂を分かってしまったけれど、ね。でも、父の臨終の場に偶然立ち会ってくれた彼と話をして、私は彼の平和への想いを信じたの。だから、この秘伝を、焔の錬金術を彼に伝えて、自分も軍人になる道を選んだ。そして、イシュヴァールの内乱で彼と再会したというわけよ」
「で、共に戦い、共に生き、か。……事実は小説より奇なり、ってこういうこと言うのかしらね」
 レベッカはリザの告白に嘆息する。
「どうかしら」
「背中の火傷は、その件と関係あるの?」
 レベッカのストレートな質問に、流石にリザは少し躊躇った。父の呪縛と決別するためにロイに背中を焼いてもらったなどと言えば、それこそ父の行為以上に正気の沙汰ではないと思われそうで、リザは結局言葉を濁した。
「……戦場での傷よ」
 レベッカは何も言わずにリザを見つめ、少し目を伏せ言い難そうに言った
「聞いて悪かったわね」
「いいえ。私のほうこそ……ごめんなさい」
 リザは少し笑ってみせた。レベッカはしばらく黙って何か考え込んでいたが、思い切った顔でリザに言う。
「でも、いくら師匠の娘とは言え、どうでもいい女を副官としてずっと傍に置く男なんか普通いないわよ。あんた達の関係って盤石じゃない」
「何が?」
「何がって、あんた、あの男のこと好きなんでしょう?」
 知られているだろうとは思っていても、面と向かって初めてレベッカにそれを指摘されることは流石に面映く、リザは少々うろたえてしまう。そんなリザに、レベッカは呆れた調子で指摘する。
「あんたは隠してるつもりかもしれないけど、スポッターのあたしの目は誤魔化せないわよ? あんたが大佐の愚痴言ってる時、どんだけ優しい目をしてるか自分では知らないでしょう? ほんと、鏡で見せてあげたいくらいよ」
 リザは思わず赤面する。そんなリザを安心させるように、レベッカは付け足した。
「多分、あたし以外の人間は気付いてないと思うけどね」
 そしてチラリと壁の時計を見上げて時間を確認すると、リザに視線を戻した。
「大佐の方はどうなの? 今は誰か別に本命がいて、あんたは身を引いて副官に甘んじているってわけ? そんな風にも見えないけど」
 レベッカの言葉に、リザは本当に答えようが無くなり、黙り込んだ。
 確かにロイは、常にリザへの想いを態度の端々に表し彼女を求める。リザは自分の存在が彼の目的の邪魔になることを恐れ、出世の妨げになることを恐れ、それを拒み続けてきた。しかし、果たして本当にそれだけなのだろうか、自分がロイを拒み続けてきた理由は。ここにきて、リザは改めて自問する。
 リザに対してロイが持つ想いは素直に考えれば、『共に戦い、共に生き』る女への愛情と捉えて構わないものだろう。長い年月と数奇な運命が繋いだ二人の絆、それは、リザと男との間に存在する血で綴られたも同然の、例えば結婚という紙切れ一枚の契約を羨む必要などない程に重い約束に裏打ちされたものなのだから。
 しかし、だからこそリザは時々考えてしまうのだ。それは、果たして本当に絆なのだろうかと。
 リザの背の秘伝と火傷の痕は、問答無用にロイの内に彼女への責任と同情を生み、彼はそれを愛情と言う名の幻と勘違いしてリザを求めているのかもしれない。リザはそう考える。あるいは、焔の錬金術を継いだ事が、ロイを彼女の父親との約束に――娘を頼むと言う遺言に――縛り付けているのかもしれない。彼は秘伝を与えてくれた師匠の娘への責任という意味合いだけで、彼女を副官として傍に置いているのではないか。そう、考えることもある。あるいは、伝えられた秘伝を使って犯したイシュヴァールでの罪を償うために。そうでなければ、それ以外の理由で。
 普通の男と女として出会うことの出来なかった彼らの間に存在する様々な要素は、あまりにも運命的な効力を持ちすぎていて、そのどれもが彼等を一生消えない縁で束縛する。その所為で、逆にリザはロイの自分に対する感情を単純な男と女の恋愛感情として受け取ることが出来ないのだ。心理学では『吊り橋効果』という言葉もあるくらいだ。特殊な環境は、人間の感情に間違った情報をインプットする。彼女が本当に恐れている事は、ロイがそれ――彼がリザに対して持っている感情が、運命の作り上げたまやかしである事――に気付いてしまう日が来るかもしれないということなのだ。
 だから、そう思うが故に、リザはなおさら自身の力で彼の副官として彼に必要とされる人間にならねばならなかった。射撃の腕を磨き、完璧な補佐役として、文字通り地獄までついて行く覚悟で。そうする事で、リザは初めて何の負い目もなく、彼の傍で生きていけるのだ。女としてではなく軍人としてならば、偽りの絆に怯える必要はないのだから。歪んだ考えかもしれない。でも、そうだとしても、リザはロイに必要とされたいと切望する。
 それが恋なのかと問われれば、リザ自身にも答えはない。逆に恋とは何かと問い返したくなるくらいだ。確かにリザは、常に彼の傍にいたいと思う。共に生きていきたいと切に願う。しかし例えば、エイダのように仕事を辞めて彼と共に暮らすことを望むわけではない。むしろ、軍人として彼と共に戦うことを望むのだ。彼女の中にあるこの感情は、一体なんと名付ければいいものなのだろう。
 自己の思考の中に沈み込んでしまったリザの手に、温かな手が重ねられた。リザはゆっくりと目線を上げ、困った顔でレベッカを見つめる。彼女の頼もしい友人は、銃ダコの出来た手でギュッとリザの手を握り締めると唇の動きだけで莫迦ねと言った。リザは苦笑して首を横に振ると、レベッカの肩に頭をもたせかけ、目を閉じた。
「ありがと」
「また考え過ぎてんでしょ? 今、目の前にあるものだけ見ることも必要なんじゃない?」
 レベッカはリザの手を握ったまま、パタパタと上下に動かした。
「考えずに感じなさいよ、スナイパーなんだから」
「なによ、そのカンフー映画みたいなの」
 薄く笑うリザの頭上から、信頼すべき彼女のスポッターの声が降る。
「スポッターの指示を聞けってことよ。ほら、覚えてる? あんたと初めて会った時の作戦。あたしはあの時のあんたの惚れ惚れするほど見事な腕前、忘れられないわよ。自分の出した指示も全部覚えてるくらいなんだから」
「すごいわね」
「それだけ難しい条件だったからね。そうよ、こんな感じだったはず。『南の風三、ターゲット風上から移動中、時速四十五キロ。距離一キロメートル』」
 レベッカの記憶の中から甦る当時の状況から出された架空の指示に、リザは戯れに空想の銃を構える。
 そう、あの作戦は厳しかった。
 とても風が強い日で、砂漠地方特有の多量の砂塵が大気中を埋め尽くしていた。レベッカの針の穴も見逃さないような正確なサポートが本当に心強く、あの時リザは自分でも驚くほどの集中力を発揮することができた。リザは頭の中のスコープで、記憶の中のターゲットに照準を合わせる。
「捉えた」
「いつでも撃ってよし」
「ラジャー」
 リザは引き金を引く形に指をまげる。
 バン!
 レベッカは笑って、再びリザに架空の指示を出す。
「じゃぁ、こんなのはどう? 『四階級上、サボリ癖あり、ターゲット二十八歳男性。距離・あんたの考え方次第、風・考えようによっては追い風』」
「なによ、それ?」
 思いもかけぬレベッカの言葉に、リザはくすりと笑った。
 リザの脳裏に、狙撃銃のスコープ越しにイシュヴァールでロイと再会したあの日が甦る。偶然ロイの命を救うこととなったあの出来事だって、十分に運命的だった。あれから五年も経ったというのに、情けないことに自分はまだこんなところで足踏みを続けている。リザの声は自嘲の色を帯びる。
「無理、自分を捉えられない」
莫迦ね。それでもずっとあんたはあの男の傍にいるじゃない。それが答えなんじゃないの?」
 急に真剣な声になったレベッカは、自分の肩からリザの頭を外して立ち上がった。レベッカの人差し指が拳銃を真似て、彼女の動きを目で追うリザの眉間に照準を合わせる。
 バン!
 リザの惑いを打ち抜くようにレベッカは銃の形に似せた右手を跳ね上げて、人差し指からあがる見えない火薬の煙を吹いてみせた。顔を上げたリザは、小さく頷く。
 こうして人に話をして、改めて自分を見つめ直してみると、いつも見ないふりをして心の奥にしまい込んできた感情は、やはり複雑怪奇ではあるものの怪物のように噛み付いてくるものではなく、自分の心が作り出した影のようなものだった。その影を作る根本を見つめなおす必要を、リザはうっすらと感じる。今すぐ何かが変わる、何かを変える事は出来ない。それでも、自分の気持ちをきちんと見据える事くらいは、そろそろ考えるべきなのかもしれない。リザは真っ直ぐにレベッカを見つめた。
「ありがとう」
「いいえ、なんだか出過ぎたこと言っちゃったみたい。ごめんね」
「そんなこと」
「あーあ、こんなのあたしの柄じゃないのに。なんだかリザの弱み握っちゃった気分よ。ヤダわ」
 レベッカはいつもの明るい声の調子に戻ると、時計を見た。まるで何事もなかったかのように振る舞う彼女は、さっさと自分の荷物を手にするとニヤリとリザに笑ってみせる。
「じゃ、そろそろあたし行くわ。今度こそ戻って来ないから、好き放題着替えて良いわよ?」
 レベッカのきついジョークに、リザは苦笑するしかなかった。
「何を今更、もう着替え終わっちゃったわ」
 レベッカは笑って手を振った。
「じゃあね」
「ん、また。デート、楽しんできて」
「ありがと」
 いつもと変わらぬ挨拶を交わし、二人は別れた。振り向きもせずロッカールームを出て行くレベッカを見送り、一人残されたリザは立ち上がった。
 その視線の先には、くるくると回る室内ファンが自分の尾を追いかける犬の様に意味の無い回転運動を続けている。しばらくファンを見つめていたリザは愛用の銃を収めるショルダーホルスターをその身に装着し、荷物を担ぐとロッカールームの扉を開けた。

  
Ⅲ.失恋

  

 時刻一〇二八、その事件の第一報は月の終わりの長閑な週末の朝の空気を破って、東方司令部に飛び込んで来た。
 連絡の電話をとったのは、ブレダだった。彼は一瞬だけ緊迫した表情を露わにしたが、サラサラとメモにペンを走らせ電話を切って振り向いた時には、いつものふてぶてしい顔を取り戻していた。
「第十二地区セントラルバンク・イーストシティ第十二地区店にて銀行強盗が発生。犯人は『荒鷲の革命軍』と名乗る武装集団で、人質十九名の身柄と引き換えに逃走用車両とイーストシティ留置場に拘留中の仲間の即時釈放を要求しています。現時点で、銀行警備員一名、官憲一名の死亡が確認されているそうです」
 ブレダの簡潔な報告を聞いたロイは深刻な事件の内容にもかかわらず、ふっと苦笑して呑気な口調で言った。
「『荒鷲の革命軍』だと? 確か新興のテロリストどもだったな。なんとも酷いネーミングセンスのバカどもじゃないか。うちの中尉でも、もう少しマシな名前を付けるぞ」
 そんなことを言いながらも彼の手は既に発火布の手袋を握り締め、その身は自席から立ち上がっている。彼の部下達はリザの顔色を窺い笑って良いものかどうかと頬をひきつらせつつ、上官に従い慌ただしく席を立つ。そんな彼らの反応を歯牙にもかけず、リザはサッと立ち上がるとロイの傍に詰めた。
 レベッカとのあの一件以降、リザは様々なことを考えながらも、結局今までのポジションを崩せずにいた。副官の顔のまま波立つ想いを飲み込んで、リザは相変わらず彼の傍らに立っている。レベッカの方もたまに会ってもリザの背中の話を蒸し返すことは無く、今までどおりの毎日が続いていた。
 ロイは現場の地図と占拠された銀行の見取り図を大至急取り寄せるようリザに命令すると、今度はハボックを呼び寄せ何事かを囁く。ハボックは無言の敬礼をすると、飛び上がるように部屋を駆け出して行った。続いてロイは声高に車の手配と無線機の手配の指示を出し、そして呼び寄せたファルマンにいくつかの質問を浴びせ、打てば響くような回答を得て満足そうに頷いた。たちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになる司令部を面白そうに眺め、ロイは地図を手に戻ってきたリザに向かってにこやかに言ってのける。
「作戦が立ち次第出るぞ」
 当たり前のように自分も現場に出ようとするロイを、リザは呆れた口調で諫めた。
「大佐、いつも申し上げておりますが、現場は我々に任せて本部でお控え下さい」
「確かにいつも聞かされてはいるが、今回はそういう訳にはいくまい」
「?」
 無言で疑問を呈するリザに、ロイは疑問で返す。
「先日のサウスシティでの刑務所襲撃事件の調書を君は読んだか?」
 ロイの言葉の裏にある意味を瞬時に悟り、その驚愕にリザは返事に詰まる。
「読みましたが……、まさか!?」
「そう。そのまさか、だ」
 打てば響くようなリザの反応に満足そうに微笑んで、彼女の驚きを受け流したロイは言葉を続けた。
「あの事件で脱獄したジョン・スミスが、今回の一件に絡んでいる可能性があるのだよ。ヒューズから『荒鷲の革命軍』が脱獄を手引きする代わりに組織に奴を引き入れたという情報をもらっていてね。私も半信半疑だったのだが、急にあの地味な集団にこうも派手な事件を起こされては信じざるを得ん」
 ロイの言葉を受け、後方支援に回るファルマンが、その頭脳の中から的確に必要な情報を取り出してみせる。おそらく、先ほどロイが彼に質問した内容への答えはこれなのだろう。
「『荒鷲の革命軍』は第二次南部国境戦の離脱兵を中心に構成されている集団ですから、ダブリス出身のあの男と接触があってもおかしくないでしょう。それに無差別殺人鬼、ジョン・スミスの名は国内では殺人鬼スライサー兄弟やバリー・ザ・チョッパーらと並んで、未だに脅威として語り継がれていますから、新興勢力のテログループにとっては、その名の威光は十分な魅力のはずです」
「そういうことだ。あの狂犬が相手になるのだから、今回は私も現場に出るし、君には久々に狙撃手として配置についてもらう。準備に取り掛かれ。チームのスポッターは後ほど手配する」
 ロイは目を見張るリザに頷いてみせ視線を上げると、戻ってきたハボックに出動させる部隊の選別と配置の指示を出した。一気に騒然となる彼らを横目に、リザはロイの命を受け狙撃手として出動する準備をするべく足早に部屋を出た。
 廊下を歩きながらリザは脳内のインデックスを探り、今回の騒動の中心にいるあの男の情報を引きずり出す。
 ジョン・スミス。アメストリス全土を震撼させた無差別殺人犯にしてテロリスト。一九〇八年のイシュヴァール殲滅戦、及び一九一一年の第二次南部戦線で華々しい戦功を立てながらも次第に快楽殺人衝動に目覚め、軍を退役した後はテロ組織に加わり幾多の無辜の民をその手にかけた男。しかしテロ組織の中でもその残虐性を持て余されたらしく、最終的には仲間に売られ、数年前に逮捕され死刑判決を受けている。戦傷で右腕及び、両下肢をオートメイル化していて、特にその右腕に仕込まれたガトリング砲の威力は凄まじいものと伝えられている。
 リザは保管庫で狙撃銃の持ち出し申請をしながら、ロイの思考をトレースする。彼の作戦だから、とりあえず人質の救出が最優先となる筈だ。また『荒鷲の革命軍』は過去の事件では軍に対するテロ活動しか行っておらず、一般市民への被害は出した事がない。となると、やはりネックはジョン・スミスなのだ。あの脱獄囚を如何に早く抑えるかが、今回の作戦の肝である。リザが狙撃手としてバックアップに回されると言うことは、第一にジョン・スミスのガトリング砲を封じること、第二にその機動力を削ぐことが目的に違いない。そしてロイの性格上、ジョン・スミスのことも殺さずに、なるべく生かして捕らえろと言うに決まっている。
 ああ、また難しい仕事になりそうだ。己の狙撃銃を片手に、リザは弾薬庫で弾薬の持ち出し数のチェックを受け、受け取った弾を手に司令部へと戻る。
 部屋に戻れば、リザを待ち構えていたように、フュリーがインカムを片手に駆け寄って来た。
「動作確認とチューニングは済んでいます。今回の作戦では中尉との連絡にはチャンネルBを使用しますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」
 リザは少し微笑んでインカムを受け取ると、自席で黙々と照準器の確認をしながら、次のロイの指示を待った。
 彼女の机の向こうではロイの直接の指示を受けたハボックが、電話口に向かって何か怒鳴っている。ロイのデスクでは広げられた地図を前に、ブレダはペンを片手に彼らの上官と計画立案の真っ最中らしい。ファルマンはロイの傍らで、上官の質問に簡潔な答えを返しているのが見てとれた。こうして傍から見ていると、非常にバランスの取れた、しかしなんともアクの強いチームだ。リザは荷物をパックしながら、自分の事は棚に上げてそう考える。
ホークアイ中尉!」
 その時、リザを呼ぶ男の声が、彼女の耳に届く。
「アイ、サー!」
 簡潔な返事をして立ち上がるリザを手招きし、ロイは机の上の地図を見るよう彼女に促した。色とりどりに書き込みのされたイーストシティ市街地の地図の一点を指差し、ロイは彼女に尋ねる。
「今回の現場周辺は、見てのとおり奴らが立て篭もっている銀行より高い建物がない。その上、川があるせいで、部隊の展開にも狙撃にも向いていないのだ。しかしながら、この状況で今検討している作戦を採用するには、君にジョン・スミスの動きを確実に封じてもらうことが大前提になってくる。つまり、君がうんと言ってくれなければ、この作戦そのものが成り立たないわけなんだが……」
 珍しく歯切れの悪いロイの物言いに、リザは彼の指し示す地図を見てその理由を納得する。そこは、確かに大部隊を展開するにも、狙撃兵を配置するにも非常に難しい立地条件が揃っていた。銀行の正面には大きな川が流れ、両脇に展開する道は幅が狭くて見通しが悪い。目の前にかかる橋を渡るには狙い撃ちにされる危険性が高すぎ、川のせいで開けた視界は攻める側に分が悪すぎる。
「そこで君に質問だ。我々の検討の結果、どうしても君に待機してもらうポイントは此処しか確保出来ないのだが」
 その言葉と共にロイの指が川を越して、地図の別の一点へとラインを描く。リザはその軌跡を目で追いながら、地図の縮尺から瞬時にその距離を割り出した。川の上を吹く風の特性、狭いビルの間を吹く風の特性、季節柄イシュヴァールの砂漠から季節風に乗って飛んでくる砂塵の影響、リザは狙撃に影響する様々な要素を考慮に入れて、脳内シミュレーションを行う。
「ここから、どのくらいの精度でヤツを狙える? 人質が傍にいる可能性もある」
 ロイの言葉にリザはシミュレーションを三度ほど検討し直して、自分に頷くと無表情に瞳をあげた。
「その距離でしたら射程圏内ですので、きちんとしたスポッターを付けていただけるのであれば」
 ロイを見上げるリザのまっすぐな鷹の目が、彼の迷いを射抜く。
「必要とあらば、ネジ一本でも打ち抜きますが」
 ただ事実を告げたまでというリザの淡々とした口ぶりに、ブレダやファルマンだけでなくロイも言葉をなくす。経験に裏打ちされたリザの誇張されぬ射撃の実力を知る彼等ですら半ば諦めかけていた作戦の根本を、彼女は保障してみせたのだ。男たちの視線を気にも留めず、平然とリザは地図を見ながら脳内に己の仕事の計画を描き始める。瞬時に驚きから体勢を立て直したロイは、そんなリザの横顔を見ながら愚問だったなと口の中で呟くように言うと、額に手をやり苦笑した。
「では、やはり最初の作戦で行くぞ」
 そう言い切ったロイは、一転して不敵な微笑を浮かべてみせた。ロイの言葉にあまり乗り気でなさそうなブレダは、仏頂面で地図からファルマンに視線を移す。ファルマンは相変わらず糸のように細い目で表情を消してはいるが、どうにも困り果てている様子が伺える。
 またこのどうしようもない上官は、ろくでもない事を考えているに違いない。リザは溜め息をついて地図から目を上げると、背負ったライフルを持ち直した。部下たちを困らせることに長けたこの上官は、また自身が最前線に出るようなとんでもない作戦を思いついたのだろう。リザがその内容を聞けば、即刻反対するような作戦を。
 しかしながら、たとえ今リザがその作戦を聞き反対したとしても、ロイは自分の考えを変えはしないだろう。そしてまた、補佐役の男達があんな顔をしながらも何も言わないところを見るに、多分その作戦はどうにも口惜しいことに現時点ではベストなものに違いないのだ。
 ならば自分は為すべき事を実行して、男の無茶を実現させてやればいい。自分の技量に全てを賭けて作戦を立ててくれる男に応える方法は、それ以外無いのだから。リザはそう腹を決め、ロイの目を正面から見つめて命令を待った。彼らの視線は、しっかりと絡み合う。
「君はこのポイントで待機してくれ。追って連絡を入れる。最優先事項はジョン・スミスのオートメイルを破壊し奴の攻撃力及び機動力を封じること、やむを得ない場合は射殺も許可するが、可能な限り生かして捕らえたい。ジョン・スミス以外のメンバーに関しては、他部隊に任せておけばいい」
「アイ、サー」
「出来るか?」
「イエス、サー!」
 リザはロイから命令を与えられるこの瞬間が、とても好きだった。迷いのない黒い瞳の強さを真正面から受け止め、自分が必要とされている事実を感じる事は、何ものにも代え難い喜びだった。
「スポッターも優秀な者を確保した。こちらも追って待機ポイントに行ってもらう」
「ありがとうございます」
「準備が出来次第、現場に向かってくれ。私もじきに出る」
 リザは頷いてはみたものの、無駄な事とは思いながらひとこと言わずにはおられなかった。
「大佐、どうぞ無茶はなさいませんように」
「分かっている」
 聞く気もないくせに笑って答えるロイに、リザは嘆息する。作戦上別行動を余儀なくされ、自分が彼の背を守れないのだから無茶をさせるわけにはいかないのに、状況がそれを許さない。リザは仕方なく男に譲歩案を突き付ける。
「それから、ハボック少尉を必ずお傍から離されませんようお願いいたします。単独行動なんて、以ての外ですからね」
「でかい男にくっついて来られると、むさ苦しくて堪らんのだが」
「大佐?」
 にこりと微笑むリザの目が笑っていない事に気付いたロイは、大仰に肩をすくめてみせる。
「善処しよう」
 苦笑でリザの要求を受け入れたロイは、サッと綺麗な敬礼をして寄越した。リザはそれに答え、自分も敬礼を返して言った。
「では、行って参ります」
「頼んだぞ」
 すっと手を下げたロイはそのまま踵を返すと、ブレダを従えあちこちに指示を出しながら執務室を後にする。残されたリザはファルマンに地図の写しを用意してもらうように頼むと、電話に噛み付くハボックに視線を送った。リザの気配に気付いているハボックはくわえ煙草を脇に避け、目線でリザの要求を了解している事を伝えてくる。が、言質を取るまでは諦めてくれそうに無い鷹の目の、その視線が生み出す威圧感に耐えかね、ハボックは電話の受話器に左手で蓋をしてリザに慌てたように言った。
「中尉、分かりましたから、その目で見んの止めて下さいよー」
「分かっているなら頼むわよ? 大佐のこと」
「イエス、マム! いざとなったら、あの人引っ掴んで走って逃げますから」
「是非、そうして頂戴」
 彼のジョークにニコリともせず普通に返事を返すリザの静かなプレッシャーに、ハボックは危うく煙草を取り落としそうになりながら、コクコクと頷いた。リザはハボックにも敬礼を送ると、お願いねとポソリと呟く。
 リザがロイの傍にいられない時、彼女が手放しでロイの護衛を任せることが出来るのはハボックしかいない。ハボックの方でもまた、リザのその信頼を光栄なものと受け止めている。犬同士の連帯は、飼い主を守る命懸けの綱渡りの危うさを共有する独特の空気を持っていた。
 リザの呟きにニヤリと笑って頷いたハボックの視線が、不意に電話の方へと戻った。ハボックは受話器に蓋をした左手を外し、その手でリザを拝んで謝意を示すと、勢いよく電話の向こうの相手との交渉を再開する。リザもまた頷いて、番犬の代役を引き受けてくれた頼もしい男に背を向ける。
 狙撃銃を背に負い、全ての雑音を意識野から追い出した彼女は、誰の副官でもないただの狙撃手として、ひとり指令室を後にした。
  
 十五分後、リザは指定されたビルの屋上にいた。
 現場に着いてみれば、状況は予想程には酷くはなかった。基本的に彼女も軍人である訳だから、必ず最悪の事態を最初に想定し、それに対応するプランを複数立てる習慣が身に付いている。つまり、今回のケースは最悪ではないというだけで、難しい作戦であることに変わりはないというわけだ。
 リザは迷彩用のグレーベージュのフードを頭からすっぽり被って、軍が押さえたビルの屋上で早速マットを敷き腹這いで銃の組み立てを始めた。川からの風がフードの隙間に忍び込み、リザの後れ毛を吹き流す。ビルとビルの隙間から川と対岸を結ぶ橋と問題の銀行を確認し、リザは首から下げたモノキュラーを覗き距離を確認する。
 小さな単眼鏡を覗きながら、彼女は今日の自分の相棒は誰かを考える。いつものパートナーであるレベッカは、この週末はダブリスへ男と旅行に行って不在だ。ロイは優秀なスポッターと言ったが、まさか教官が直々にお出ましになることはないだろう。となると可能性のあるのは、あの辺のメンバーだろうか。そう考えながらインカムを装着しマットに身を沈め、愛銃のスコープを覗くリザの背後に、聞き慣れた足音が響いた。
 まさか?
 低い姿勢のまま振り向いたリザの後ろに立っていたのは、彼女の頼もしいスポッターだった。
レベッカ!? あなた、ダブリスに行ったんじゃなかったの?」
 至極もっともなリザの疑問を無視して、レベッカは茶目っ気たっぷりの表情で敬礼をしてよこす。
「今回の作戦であなたのスポッターを務めさせてもらいます、レベッカ・カタリナよ。よろしく」
「よろしく、って……。ちょっとふざけるのは止してちょうだい。何故、あなたが此処にいるの?」
「何故って、あんたの相棒だからよ」
「違うでしょ、私が言いたいのは……」
 リザの傍らまで歩いてきたレベッカは、彼女の横の河岸から死角になる場所にペタリと座り込むと、明るい笑顔でリザの言葉を途中で奪った。
「別れてきたの、彼と」
「え?」
「だから、別れてきたのよ。ついさっき」
「ついさっきって、どういうこと? レベッカ
 都市迷彩のコートを着たレベッカはさばさばとした口調で、リザの疑問に答える。
「結局あんたの予言通り、まともに有休なんて取れなかったの。だから今日は無理やり半休にして、午後から旅行に行くつもりだったのよ。ところが、あの伝説の無差別殺人鬼ジョン・スミスが出現して、か弱いあんたが一人で立ち向かうなんて聞いちゃったら、ねぇ? ここで平気で休みをとれる軍人には、あたし、なりたくないわ」
 ひと息にまくし立てたレベッカはリザと視線を合わせないよう彼女の隣に自分のマットを敷くと、手早く自分の銃を組み立て始めた。スポッターはスナイパーに不測の事態が起きた時の控えの狙撃手の役割も兼ねているから銃の携帯は必須なのだ。レベッカの手元を見つめながら、リザは言葉もなく彼女の作業を見守った。
 レベッカは自分の銃のスコープを確認すると、反射を防ぐ為のレンズカバーをかけてから、普段と変わらぬ表情でリザを見た。遮蔽物の無い屋上に降り注ぐ太陽の熱が、彼女らの背中に痛いほどに突き刺さる。
「だからね、彼に電話して『やっぱり仕事で行けない』って言ったのよ。機密だから事件の詳細なんて言えないじゃない? そしたら彼、なんて言ったと思う? 言うに事欠いて『仕事と僕とだったら、やっぱり仕事を選ぶんだね』ですって。笑っちゃうわよね。そんなの比べられるものじゃないのに、どっちも大事なのに。後はお定まりの大喧嘩。いつもと違ったのは、お互いがもうやり直せないことを認めちゃったことだけ。互いに仕事をしていて、それを尊重し合っていた筈なのに。あたし達どこでおかしくなっちゃったのかしら」
 ざっと風が鳴り、レベッカの表情が泣き笑いの形に揺れた。リザを見つめる彼女の瞳にうっすらと幕を張った水の成分は、流れ落ちることなく最大限の表面張力を発揮している。彼女の努力に敬意を表し、リザはそれを見ないふりをして片手でレベッカの肩を抱きしめた。リザの耳元で、風に流されそうなレベッカの声が聞こえる。
「どうせ、こんな日が来ることは前から分かっていたの。こないだのレストランの遅刻だって、その前のデートが流れたのだって、全てが前兆だったのよ。この三ヶ月、あたしたちはゆっくりと時間をかけて、それを確認してきたようなものだった」
 そのとき、彼女らの耳元でインカムの呼び出し音が鳴る。レベッカは鼻を啜って顔を上げた。
「大丈夫よ。失恋しようがなんだろうが、お腹は空くし、仕事は待ってはくれないし、殺人鬼だって現れる。そしてあたしは軍人で、あんたのスポッターなんだから、やるべきことはきちんとやって見せるわよ」
 リザのフードの肩に微かに落ちた哀しみの雫は、サンドベージュの布地の一部を濃いグレーの色に変え、風に吹かれてすぐその色を褪めさせる。レベッカは銀行のある方角をキッと強い眼差しで見つめ、都市迷彩のコートを頭から被った。
 インカムからフュリーの声が響く。
「作戦開始します。総員スタンバイ願います」
 暑い屋上で二人は並んで低く頭を下げ、レベッカはフィールドスコープを、リザは狙撃銃のスコープを覗きこんだ。視線を双眼鏡の中に固定した状態で、レベッカは何気ない口調でぽつりと言った。
「ねぇ、だから、リザ」
 ほんの少しの逡巡を見せ、レベッカは絞り出すような声で言った。
「お願い。最後に、あたしにあの人の大切なものを守らせてくれる?」
 リザは自分が弾丸で打ち抜かれたような想いで、レベッカの言葉を受け取った。そうだ、事件のごたごたに紛れて忘れていたが、犯人達が立て篭もっているあの銀行は、レベッカの男が勤める場所だったのだ。健気な友人の為に、リザは努めて明るい口調で言ってみせる。
「勿論よ、私を誰だと思っているの? あなたの相棒よ。今までも、これからも、ずっとね」
 リザの言葉にレベッカは頷いた。リザは独り言のように、そっと言った。
「まったく、こんなイイ女ふるなんて、本当に勿体無いことしたわね。その男」
 また、耳元でインカムが鳴る。レベッカの返事はなく、風が代わりにビョオと鳴った。
「数分後に銀行内よりターゲット出ます。なるべく橋近くまで誘導しますが、可能であればそちらいつでも実行して下さい」
「ラジャー」
 インカムの指示にレベッカが返答し、リザはスコープの中の世界に全神経を集中させる。
「まずガトリング砲を潰して、そのまま続けてターゲットのどちらかの足を潰すわ」
「了解、任せてちょうだい。視界が悪くて状況確認に手間取りそう。やだわ、まったく。とりあえず、あんたは待機してて」
「ラジャー」
 フィールドスコープを手に観測を続けるレベッカの横で、リザは銃のスコープから僅かの間目を離し、友人の横顔を眩しい想いで見つめた。自分とは比べものにならないくらいの強さを持った、彼女のプロとしての自意識の高さにリザは脱帽する。そして、自分もまた銃一丁に己のプライドの全てを賭けるスナイパーとして、直径三.五センチのスコープで切り取られた世界に深く深く潜行していった。
 数分後、インカムの言葉通り状況が動いた。双眼鏡を覗くレベッカの緊迫した声が都市迷彩のコートの下から、わざとゆっくりした話し方でリザに状況を告げる。
「ターゲット補足、今銀行の玄関を出て来たわ。人質の姿は現時点では確認出来ず。河川上空に南南東の風四、湿度二十八%、待機」
「ラジャー」
 ロイがどのような作戦を立てたか知らぬが、どうやらそれはビンゴだったようだ。リザはスコープの中に、ガトリング砲を右腕に装着した大男の姿を捉える。伝説の殺人鬼は意外にうだつの上がらぬ中年男の風体だったが、その洋服の下に隠された筋肉は未だ男の身体能力が衰えていないであろう事を物語っていた。スコープの中の男は何か喚きながら銀行の正面玄関の階段を駆け下り、今にもガトリング砲を撃ちだすのではないかと思うような勢いで激しい勢いで右腕を振っている。
「南南東の風三、砂塵やや混じり、湿度変わらず。ターゲットより三十メートル手前に軍関係者一名を確認、要注意」
 レベッカの言葉にリザは嫌な予感を覚える。ひょっとして、その軍関係者というのは……。
レベッカ、その軍関係者って」
莫迦、余計なことは考えないの」
 レベッカの返答に、リザは自分の予感を確信に変えた。彼女はべらべらと喋りながら殺人鬼を挑発する黒髪の男の姿を脳裏に浮かべ、ジリジリと焦る心を落ち着かせるように深呼吸をする。
レベッカ、まだ?」
 我知らずキツイ口調の問い掛けを発してしまうリザの耳元のインカムが、その時あまりに酷いタイミングで混線する軍の無線の一部を傍受した。
「大佐! もういい加減下がってください。あんた、このままじゃ蜂の巣だ!」
 叫ぶような勢いの割れたハボックの声が、インカムのヘッドホンから響く。
「もう少し待て、奴が引っ込んでは話にならん」
「囮なんてもう十分ス。別働隊はもう動いてるはずッス。これ以上は無理だ!」
「私がここに居なければ、この作戦は遂行に支障を来たすんだぞ」
「確かにそれはその通りなんスけどね、大佐! いい加減危ないんスから下がってください、ホント頼ンますから。大将のあんたが撃たれたら、どーすんですか? マジ勘弁してください」
 拝むようなハボックの声に混じって、インカムの向こうから銃声が聞こえた。リザは肝が冷える思いがして、ぶるりと身震いをした。トリガーに掛かる彼女の指が微かに震える。
「リザ、しっかりなさい!」
 隣からレベッカの叱咤が飛ぶ。スナイパーは決して動揺してはならない。分かってはいても、このインカムから聞こえるやり取りは、リザの心を乱す力を十分に持っていた。リザはスコープの向きを僅かにずらして状況を確認しようと一瞬手を動かしかけたが、すんでのところで自分の本分を思い出し何とかそれを思い留まった。いつ何時レベッカからゴーサインが出るか分からないというのに、スナイパーがターゲットから目を離すことなど出来ない。あまりの自分の馬鹿な動揺ぶりにリザは呆れ果てながらも、男の安否を気遣わずにはいられなかった。
レベッカ!」
 懇願の響きを込めたリザの小さな叫びに、レベッカはキツい口調で答えた。
「待ちなさい! あたし達は絶対に失敗出来ないんだから。あなたのスポッターを信じて」
 スコープの中では、ジョン・スミスが幾らかの落ち着きを取り戻したらしく、何か喋ったかと思うと振り向きざまに銀行に向かって数秒間ガトリング砲を連射した。インカムの中から凄まじいゴーッという爆音が、反対の耳には遠いノイズが響き、銀行の二階の窓ガラスが粉々に砕け散った。インカムから聞こえるハボックの声は、悲壮感すら帯びた怒鳴り声に変わっていた。
「大佐! 俺ぁあんた担いででも待避する覚悟ッスよ。いい加減にして下さい!」
「どうせ担ぐなら、綺麗なお姉ちゃんにしとけ。それもお前の好きなボインなのにな」
莫迦言ってる場合じゃないっス、大佐!」
 彼らの会話を聞いていることしか出来ないリザの背を、冷たい汗が滴った。喉はカラカラに渇いて、掌にべったりと嫌な汗が滲む。隣でレベッカの低く落とした声が、恐ろしいほどの早口で状況を告げる。
「屋外に人質なし、敵バックアップ狙撃手なし。周辺の状況確認完了」
 風に乗って先ほど撃たれたガトリング砲の火薬の臭いがリザ達のいる場所にまで届き、三度インカムの中でハボックが吠えた。
「大佐、千発の弾一〇秒で吐き出すガトリング砲の相手は流石にキツいッス」
「なら、お前逃げていいぞ」
「なに莫迦言ってンスか」
 怒るハボックの声に重なって、スコープの中のジョン・スミスがガトリング砲を撫でて笑っているのが見える。追い込まれた野獣の凶悪な笑いが、平凡な男の顔を悪魔の形相に変える。
レベッカ!」
 相棒を呼ぶリザの声は、既に悲鳴に近い。その時、ノイズ交じりのインカムの中から、力強い声がリザの耳に注ぎ込まれた。
「彼女は一度やると言ったら、必ず成し遂げる。中尉を信じろ。私は何を賭けても、そうこの命を賭けても、彼女を信じる」
 リザの中で一瞬時間が止まった。何もかもがクリアになったように世界が鮮明になり、インカムの向こうで喚くハボックの声が途中で消えた。
 そんなリザに向かって、畳み掛けるようなレベッカの指示が飛ぶ。
「南の風二、湿度変わらず、距離九〇〇メートル。オールグリーン」
「捉えた」
「いつでも撃ってよし」
 ダンッ!!
 間髪入れずリザは撃った。
 心は鏡のように穏やかだった。
 インカムから聞こえるハボックの声もロイの声も、リザの耳にはもう入ってこない。
 無心に撃った弾は美しい弾道を描き、ガトリング砲の軸をかち割った。
 一呼吸のまもなく、レベッカの次の指示が飛ぶ。
「ターゲット反動で移動、距離九五〇メートル。南の風二、砂塵分補正、下方九〇センチ補正でターゲット右膝」
 リザは僅かにコンマ数ミリほど銃を下方へ傾ける。
「捉えた」
「いつでも撃ってよし」
「ラジャー!」
 ダンッ!!
 ジョン・スミスの姿が、かくりとコマ落としの様に崩れ落ちる。大破した右足のオートメイルの部品が、あたり一面に散らばって、男は見事に仰向けにひっくり返った。リザはスコープを覗いたまま万が一もう一度男が立ち上がった時の為に、引き金に緩く指をかけ男の頭部に照準を合わせたまま待機する。
「ジョン・スミス捕縛。銀行には、別働隊が突入した模様。銀行内部は制圧済みのようね。それから……あんたの男も、無事よ」
 レベッカの簡潔な報告が、リザに必要最低限の重要項目を伝えて寄越す。リザは彼女の『あんたの男』という言葉に抗議しようとしたが、タイミング悪くインカムが鳴りフュリーの声が彼女の邪魔をした。
「作戦成功です。直ちに撤収せよとの命令です」
「了解。こちら、片付き次第本部に帰還します」
「了解しました」
 通信を終えたレベッカは、フィールドスコープから目を離しリザの方を向いた。
「スナイパーさん、撤収よ」
「分かったわ」
 リザはそれに答えながらも、銃のスコープを僅かに動かし自分の目でロイの安否を確認せずにはいられなかった。覗き込んだスコープの中には、彼より頭ひとつ背の高い部下に文句を言われているロイの姿があった。銀行の方を向いているロイの表情は見えないが、呑気に頭を掻いているところを見るに心配は不要そうだった。しかしその足元には発火符の手袋が投げ捨てられており、彼が本当に丸腰であったことを知ったリザは、改めて冷たい汗を総身に感じる。ロイはハボックの小言を無視するように手袋を拾い上げると、そのまま当たり前のようにリザたちのいる雑居ビルの方を振り向いた。
 まるでスコープの中のロイと目があったような気がして、リザの心臓は飛び上がる。そんな彼女の様子をまるで見透かしたかのように、眩しげに目を細めたロイの口元がスコープの中でスローモーションのように動いた。
『よくやった』
 男の唇は確かにそう言葉を刻んだ。スコープから目を離せず、リザは一キロ先にいる男の顔を呆然と見つめる。ニヤリと笑ったロイは、何事もなかったかのように再びハボックのほうへと向き直り、スコープの中からフェードアウトしていった。
 我に返りカッと頭に血が上ったリザは、赤い顔をしてスコープから目を離す。照りつける太陽のせいだけでなく、全身が熱かった。熱を持った身体を冷まそうと彼女はフードを脱いで、傍らに放り投げる。八つ当たりを受けた薄い布切れは、ヒラヒラと風に舞った。
 逆光の上にこの距離では、絶対にロイの方からはリザの姿は見えない筈なのだ。なのにあの男は、まるでリザの行動を全て読み尽くしたかのごとく、あんな気障なことをしてみせる。全くもって何を考えているのだろう、あの男は。
 風に舞ったリザのフードを片手で捕まえたレベッカは、ノロノロと身を起こすリザに拾ったフードを頭からパサリと被せた。少し驚いてフードから顔を出すリザを見て、レベッカはクスクス笑いながらマットの上に胡座をかいて銃の分解を始める。
「日焼けは乙女の大敵よ」
「もう、乙女なんて歳じゃないわ」
 憮然として返すリザに、レベッカは手を休める事なく答える。
「自分で言わなきゃ、誰も言ってくれないわよ。ま、何にしてもお疲れさま、リザ。一時はどうなる事かと思ったけれど、成功して良かったわ」
レベッカ、あなたのお陰よ。ありがとう」
「あんたの実力よ」
 そう答えたレベッカは、一瞬銃をバラす手を止めた。そして遠い眼で銀行の方角を見やり、ざわつく現場に目を細めると銃の解体の手を早める。リザは首を横に振ると、そんなレベッカの様子に話しかけることを止め、自分も黙々と撤収の為の後片付けに専念した。二人の頭上には午後の太陽がまるで何事もなかったかのように、穏やかな午後の街並を照らしている。
「リザ、ありがとね」
 トランクの金具をぱちんと開け銃のパーツを片付けながら、レベッカが何気なく言った。
「止めてよ……あんな事で動揺して。恥ずかしいわ。あなたがいてくれなかったら、失敗していたかもしれない」
 先程の自分の動揺を反芻し忸怩たる想いで解体した銃をトランクに詰めるリザに、日除けに被ったままだった迷彩のフードをあげたレベッカは首を横に振った。
莫迦ね、あたしにはあの距離のターゲットを仕留めるのはかなり厳しい仕事だもの。あんたはあんたにしか出来ない仕事を成し遂げた。それで十分よ。だから、ありがとうね」
 手早く分解したパーツをトランクの中に詰め終えた彼女は、全ての荷物を手に立ち上がり再び銀行の建物に目をやると、割れた窓ガラスを数えるかのようにその姿をじっくりと眺めていた。びょおびょおと吹く風の中、レベッカはしばらくそのまま何も言わずに立ち尽くし、そしてぽつりと言った。
「さ、これで本当に『さよなら』だわ」
 少し遠い眼をして目元をゴシゴシ擦るレベッカに、リザはしんみりと声をかける。
「何よ、泣いても良いのよ?」
莫迦ね、いい女は過去は振り返らずに未来だけを見つめるものなのよ! それより、リザ。今日は飲むわよ、付き合いなさい」
「え!」
「当たり前じゃない。大事な友達が失恋したってんだから、飲んで愚痴くらい言わせなさいよ」
「だって、あなた飲んだら朝までコースじゃない! 私、明日も仕事なのよ?」
「日付が変わるまでで勘弁してあげるわ。だから、文句言わないの」
 いつもの豪快な笑いを満面に浮かべ、レベッカはクルリと銀行に背を向けた。様々な想いを吹っ切ったような表情で振り返りもせず階段へと向かう親友の後を、リザは慌てて荷物を抱え追いかけた。そんなリザに背中越しに、レベッカは何でもない事のようにさらりと言った。
「ところで、リザ。さっきのあの公開惚気のこと、後でしっかり説明してもらうわよ」
「何の事かしら」
「しらばっくれても無駄。何が『私は自身の命を賭けても、彼女を信じる』、よ。もう聞いてるこっちの方が恥ずかしくって、顔から火が出そうだったわ」
 赤面して言葉をなくすリザに、レベッカは少しだけ優しい声で言う。
「ね、リザ。あんたはね、もうちょっと信じていいと思うわよ」
「大佐を? でもそれは……」
「違うわ、あんた自身をよ」
「どういう意味よ」
 そう食い下がるリザに後は飲んだ時のお楽しみよと笑って、レベッカはさっさと屋上を出る階段を下り始めた。

 
 希代の殺人鬼の起こした事件は、意外なほどに個人的レベルの問題を巻き込んで事態をかき回し、様々な事を白日の下にさらけ出していった。
 さっきのレベッカの科白ではないが、ロイのあの言葉はリザ自身の中に深く深く刻み込まれて、彼女の感情の着地点を導き出しそうなほどの重みを持っていた。今、目の前に居なくても命を張って自分を信じてくれる男が居る。それは過去の何に根ざしたものでもなく、単純に彼女が副官として狙撃手として積み重ねた日々をロイが認めたという事実を表していた。そしてその事実は、リザに自己の存在そのものの肯定を自分に許せと囁きかける。信じること、それを身をもって示してくれたロイの想いと向き合うことを、リザは今こそ必要としている自分を感じていた。
 まるでそんなリザの心の動きを察知したかのように、レベッカは恐るべき一言で彼女にとどめを刺す。
「ま、何にしても、あの男なら例え誰に何を言われようとも、きっとあんたにあの背中の開いたウェディングドレスを着させてくれるでしょうよ」
 驚きのあまり階段を踏み外しかけたリザは、レベッカに文句を言おうとして口を開いたが、結局何も言えずそのまま口を閉じた。何と言っていいものか思いつきもしなかった上に、ロイがそのくらいのことは平気でやってのけそうな事はリザにも容易く想像出来たからだった。
 こんなことを考えるなんて、自分はどうかしている。そう思いながらも、リザは自分がその考えを忌むべきものと捉えていないことに気付く。今までのリザなら即座に頭の中で、それこそ頑ななまでに否定したであろう考えなのに。
 ひょっとしたら、このまま行くと自分は今日彼女と飲んで酔っぱらってしまった時に、この背の火傷が実はロイに焼いてもらって出来たものだと話してしまうかもしれない。リザはそう考えながら、レベッカと語りたいとしみじみ思った。今まで自分が見ようとしなかったものに形を与える為に。
 男との別れを受け入れながらも毅然と立つレベッカの強さ。男のために潔くキャリアを捨てるエイダの決断。ただ男の傍にいたいと願うリザの想い。様々な形で、それぞれの恋愛の形があって構わないのかもしれない。
 小さな古い階段を下りながら、リザはそんな風に考えられるようになった自分の変化と、不思議な想いで向き合ったのだった。

  
Ⅳ.ディナー

 

 二人の間には、長らく一つの慣習があった。
 五年間続けてきたそのループを、その日リザは破った。
 
「中尉。今日この後、空いているかね?」
 あのジョン・スミス事件から十日ほど経ったある日の夕方、資料の返却をして執務室に戻ってきたリザはロイに呼び止められた。結局あの事件の後は事後処理や報告書の提出で忙しく、彼らはコマネズミのように働き続けくたびれはてながらも、同時に大きな事件を片付けた充足感も味わっていた。
「残業でしたら可能ですが。何か急な業務が入りましたでしょうか?」
 振り向いて無表情にそう答えるリザに、ロイは苦笑で返してくる。
「逆だよ、中尉。珍しく私のデスクの上の見晴らしも良いことだから、久しぶりに早めに仕事を切り上げようかと思ってね。ついては先日のジョン・スミス事件における君の活躍に対する褒賞代わりに、夕食でもご馳走したいと思っただけだ」
 言われて見れば、確かに彼のデスクの上にいつもは山と積まれているはずの書類が七割がた姿を消している。驚きと疑いを半分ずつ込めた瞳で、リザは男を見つめる。
「隠しても後が大変なだけですよ? 大佐」
「酷いな、人がせっかく真面目に働いたと言うのに」
「人は日頃の行いで判断されるものです」
 涼しい顔でサラリと言ってのけるリザに、ロイは参ったなと頬杖をつき瞳だけでリザを見上げる。
「で、どうだね。君がうんと言ってくれるなら、私はレストランに予約の電話を入れねばならんのだが。人気の店だから、返事はなるべく早いほうがいい」
 リザはロイの誘いに、少し考える素振りをして見せる。
 今までリザは、この手のロイの申し出を全て断ってきた。そう、彼の副官になってから五年間ずっと。プライベートでの彼との接触は、自分の中に閉じ込めた揺らぎを露呈してしまいそうでリザはそれを恐れ、いつでも逃げ場のある職場でだけ彼と会う事を選んできた。今回だってこの誘いを断った所で、彼は気を悪くする事はないだろう。
 しかし、リザは気付いてしまった。
 結局ロイに対して上官以上の想いを持ちながらも、己を認められぬが故に闇雲に逃げ回ってきた自分に。レベッカという第三者の視点を借りれば、それは不毛な行為だった。お互いがお互いの胸の奥に潜む想いに気付いていながら、彼らは軽薄な上官と固い部下の顔をしてきた。向き合うことのない想いは枯れる事はないが実ることもない。それは自分も相手も幸福にはしない方法だ。しかし、今からでも遅くはない。変えることは、いつでも出来るのだ。
 にこやかな笑みを浮かべたロイの顔から、リザは机の上に置かれた彼の長い指へと視線を移した。リズミカルに机をタップする男性らしい武骨で大きな手は、彼の包容力を具現化したもののように彼女の目には映る。今までリザの甘えを黙って受け止め続けてくれた男の顔に再び視線を移し、リザは微かな笑みをその口元に浮かべ、大きな一歩を踏み出した。
「出来ればドレスコードのない店にしていただけると、ありがたいのですが」
 リザはいつもと変わらぬロイに残業を頼まれた時と同じ口調で、彼に答えた。早鐘のごとく打つ胸の鼓動を悟られぬよう、リザは小さな深呼吸をする。当然断られるものとばかり思っていたらしいロイは、彼女の言葉を聞いた瞬間、まるでナイフとフォークで食事する犬でも見たかのような驚きの表情でリザを見る。なんともこそばゆい思いでリザは彼の視線を受け止め、口元に浮かべた微笑を引っ込めて言葉を足した。
「それから、ディナーの予約も結構ですが、隣室で業者が面会を待っている事をお忘れになりませんように」
「……あ、ああ。分かっている」
 未だ状況が信じられぬといった風情のロイを置いて、リザは彼の決裁の終わった書類を抱えてドアに向かった。そんなリザの背に、何とか体勢を整えようと足掻くロイの声がぶつけられる。
「君、何か好き嫌いはあったか? それと、メインは肉と魚とどっちがいい?」
 リザはぴたりと立ち止まると振り向いて、受話器を片手に半分立ち上がったロイに答える。
「多分、好き嫌いは大佐がご存知の頃と変わっておりません。それから、メインは出来ればお魚でお願いいたします」
 そう言って一礼したリザは、そのまま扉を開けて部屋を出ていった。後に残されたロイは緩む口元を苦笑の下に隠し、デスクの引き出しから取り出したインデックスを繰りダイヤルを回す。ツーコールを待たずに電話に出た相手に向かい、ロイは喜びを隠さぬ声で告げた。
「予約を頼む。十九時から二名、出来れば窓辺の席で。ああ、頼む。ロイ・マスタングだ」
 そうして、いくつかのオーダーを一緒に伝え、彼は短い電話を終えた。自分の置いた受話器を見つめ思わずにやけ面をさらすロイは、業者に会うために何とか顔を引き締めると無理やり難しい顔を作り、無駄な取引を持ち込む男を追い払うべく、己の席を立ったのだった。
 
 数時間後。リザは男の指定したレストランのウェイティング・バーで、ホワイトレディを飲んでいた。約束の時間にはまだずいぶんと間があったがどうにも落ち着いていられず、彼女は先にレストランへとやってきていたのだ。
 ひとりカクテルグラスを相手に、リザは自分がこの後の食事の席で上官とどう話をしたものか考え続けていた。
 とりあえずの一歩としてロイの誘いを承諾してみたものの、そこから先がどうなるかリザにも想像が出来なかった。何事もなく上司と部下のまま食事だけをして終わるかもしれないし、またやんわりと口説かれるかもしれない。それともアクションを起こしたリザの方から何か伝えるべきなのだろうか。リザは本気でどうしたらいいか分からないのだ。改めてこのような場に来ると、今まで彼と仕事の話以外にどんな事を話していたかすら分からなくなるようで、リザは緊張し過ぎている自分を持て余す。おそらく、正直に自分の思っていることを伝えれば良いだけなのだろうけれど。そう考えてリザはアルコールの力を借りるがごとく、小さなグラスの酒を少しずつ味わいながら思考を巡らせ続けていた。
「すまない。遅くなってしまった」
 そう言いながら、ロイがレストランの扉を開けて入ってきたのは約束の時間を五分ほど過ぎた頃だった。しなやかな素材の黒のスリーピースを着こなしたロイは、軍服姿の時とは違って妙に柔らかな雰囲気をまとっている。リザは緊張のあまり、返事も出来ずただ黙って頷いた。息を切らせてリザの隣のスツールに掛けたロイは、バーテンダーに水を一杯所望し行儀悪く一息にそれを飲み干した。そして改めてしげしげと隣に座るリザの姿を眺め、リザと同様の感想を持ったらしくこう言った。
「軍服姿ではない君を見るのは久しぶりだな。なんだか妙な感じがする」
 スーツ等でなくてかまわないが、出来ればカジュアルな格好は避けて欲しいと言われ、リザが選んだ服はシンプルなシャツドレスだった。襟の高い暗めのターコイズブルーのワンピースを腰の所で細い共布のリボンで結び、アクセサリーは大振りのパールのピアスだけ。それだけでも、彼女がいつもの軍服の時に身にまとうストイックさは消え、華奢な女らしい雰囲気がかもし出されていた。それに、いつも髪をアップにし襟元の詰まった黒のタートルネックばかり着ている彼女が、髪を下ろして鎖骨が見える所まで胸元のボタンを開けている姿は、それだけで彼女の内に秘めた女を感じさせるには充分であった。
「ああ、妙と言っても悪い意味ではないぞ。むしろ、よく似合っている。綺麗だ」
「……ありがとうございます」
 慣れぬ誉め言葉にどう返事をしたものか戸惑うリザの様子にロイは苦笑し、彼女のグラスが空であることを確認すると、彼は早速店の者にテーブルへの案内を頼んだ。
 おそらく彼が普段から贔屓にしている店なのだろう。勝手知ったる様子の男のスマートなエスコートに身を任せ、リザは穏やかなランプの光に満たされたフロアへと足を踏み入れる。余分な装飾が一切ない落ち着いたグリーンで統一された店内は居心地の良い空気に満たされ、室内は密やかな客たちの談笑でさざめき、流れるようにテーブルの間をスタッフたちが行き来している。週末の夜をのんびりと楽しむ肩肘張らぬ雰囲気に、リザは少しだけ肩の力を抜いた。
 窓辺の席に案内されスタッフに椅子を引いてもらいながら、僅かに気持ちに余裕の出来たリザはふとあることに気付く。先ほどからさりげない仕草でリザをエスコートしていたロイの手が、決して彼女に触れようとしなかった事に。不自然に見えないように細心の注意を払い、ロイの手はリザの体表面近くギリギリの所で彼女への接近を踏みとどまり、その熱い体温だけをリザに伝え滑るように去っていた。まるで、触れたらリザが消えてしまうのではないかと恐れているような繊細さで。
 ああ、これが我々の距離なのだ。
 改めてリザはそう思う。
 伸ばせぬ手の、言い出せぬ言葉のひとつひとつが、五年の歳月をかけて生んだ距離。少しの切なさと言い表せぬ痛みを感じ、リザはそれを隠して向かいに座るロイに微笑みかけると口を開いた。
「素敵なお店ですね」
「君にそう言ってもらえると嬉しい。いつも季節の美味いものを出してくれる店だから、味の方も期待しておいてくれたまえ」
 ロイも彼女に合わせるようににこやかに微笑むと、スタッフが差し出したワインのメニューに目を走らせて、彼女に尋ねた。
「ところで、アペリティフはどうするね」
 リザも手渡された値段のないメニューを開く。そこには舌を噛みそうな名がぎっしりと並んでおり、さっぱり内容の分からぬメニューを見る努力を瞬時に放棄したリザは端的にロイに尋ねた。
「何かお薦めはありますか? あまり甘いものは苦手なのですが」
「そうですね。でしたら、こちらのロゼのスパークリングは如何でしょうか? さっぱりとした口当たりで、若々しい酸味が食前酒にはちょうど良いかと思いますが」
 リザの言葉にロイではなく、スタッフが答えをくれる。ロイの視線がリザに可否を問い、彼女が小さく頷くとロイはそれを注文し、去っていくスタッフの背を見送りながら言う。
「すまないが、料理の方はコースで予約を入れておいた。旬の魚は直ぐに品切れになってしまうのでね」
「結構です」
「それから、メインに合わせるワインは辛口の白で良いかな。ここのレストランの契約している農園が作った九十七年物が、結構美味くて魚とよく合う。白が苦手ならフルボディの赤でも、貴腐ワインでも何でも付き合うがね。ああ、ワインでなくても大概の酒は揃っているから、何か飲みたいものがあれば好きに頼めばいい」
 驚くほど饒舌なロイに圧倒され、リザは曖昧に微笑んでみせる。リザのそんな表情を見て我に返ったらしいロイは、テーブルに運ばれてきたフルートグラスにつと視線を移した。綺麗なローズピンクの液体の中に揺れる銀の気泡を見つめ、彼は眉をしかめ気まずそうに大きな息をつく。
「すまん。柄にもなく舞い上がっているようだ。まさか、君にオーケイを貰えるとは、夢にも思わなかったものでね。実は今、私は恐ろしく緊張している」
 本音を隠そうともせず言ってのけるロイに、大佐でも緊張なさることがあるのですねと言ってリザはクスリと笑う。実はリザの方とて同じように緊張して言葉も出ないような状態だったのだけれど、彼女はそんなことはおくびにも出さない。そうとは知らぬロイは、当然だと憮然とした表情を晒す。
「こんなことなら、ジョン・スミスの相手をしている方がよっぽど気が楽だ」
「全く、本当にいつも無茶ばかりなさって。見ている方の身にもなって下さい。無事で済みましたからそんな風に言えるだけで、どれだけ危ない橋を渡られたことか」
「良いじゃないか、無事解決したのだから」
 そう言ってロイは話を逸らすように、グラスを手に取った。
「何はともあれ乾杯しようじゃないか。せっかくの美味い酒なのだから」
 リザは渋々ロイに合わせて、グラスを手にする。
「鷹の目の活躍に」
「無謀な上官殿に」
 目の高さまであげたグラスを軽く傾け、乾杯の仕草を取った二人は桜色の液体に口をつける。喉を滑る酒は、これから始まる会話の潤滑油となるべく、勢い良く二人の体内へと流れ落ちていった。
 彼らの乾杯を見計らって順次運ばれてくる前菜に手を付けながら、彼らは他愛も無い話題で二人の時間を埋めていく。
 ロイが追い払った業者の話。
 今年の予算の話。
 珍しいブレダの失敗の話。
 酒に飲まれたフュリーの話。
 最近食堂の珈琲がさらにまずくなってしまった話。
 まるで沈黙を恐れるように、しかし肝心な話題には触れぬように。同心円を描くように彼らは核心の周囲を回り続ける。リザはぐるぐると回る会話に、レベッカの指鉄砲が自分を打ち抜いたあの日のロッカールームのファンを思い出す。
 無意味に回り続ける、行き場のない想い。
 自分の尾を追いかける犬は自分の尾に噛み付いた時、その痛みに何を思うのだろう。
 リザは自分自身の想いと向き合うつもりでここに来たと言うのに、結局何も言い出せずいつも司令部でするのと同じような会話を続ける自分に呆れる。しかし、その一方でこれでいいのだと思う気持ちも打ち消せず、このまま何事もなく食事が終われば良い、とも考えていた。
 五年をかけて彼らが作り上げた均衡は、不完全ではありながらそれはそれでひとつの秩序と安心をもたらす物であった。ロイの控えめなアプローチによりリザは己の居場所を確認し、リザの抑制された視線の行き先にロイは自分の存在を確認する。上官と部下でありながら、それ以上の何かを暗黙の了解として互いに隠し持ち、少し目を逸らすことで何もなかったことにしてしまう。それは、リザの自己否定という名の弱さと、それを許すロイの自己欺瞞という名の弱さが生み出した、ずるくて哀しくて幸せな彼らの知恵だった。しかし今、うっかり手を伸ばせば相手の身体に触れることの出来る位置で向かい合い、今まで経験したことのない距離に二人は今更ながら次の一歩が踏み出せず立ちすくんでいる。
 ジョン・スミス事件の計画の全貌をロイから聞きながらスープとサラダを食べ終え、リザはこのまま今日はやはり何事もなく終わりそうだと少し安堵する。そう、変化は少しずつでいいのだ。そう考えてリザは事件時のロイの行動の無謀さを責め、いつも職場でする通りの二人のやり取りをここでも再現してみせた。リザにやり込められ頭を掻いて笑ったロイは、メインディッシュが二人の前に供された時、何気なくリザに問い掛けてきた。
「中尉」
「なんでしょうか?」
「君はあの事件の最後に、私が君に言葉をかけたことに気付いていたかね? 『よくやった』と」
 グラスにワインを注ぐソムリエの手元を見つめるロイに、リザは少し戸惑いながら答えた。
「……はい。しかし、大佐のいらっしゃる場所から私の姿は見えなかった筈です。それなのに、どうして」
 彼女の質問を聞きながら、ロイはワインの注がれたグラスを手に取り、リザに視線を移した。
「君は、きっと私を見ていると思って」
 当たり前のようにそう答え、ワインのテイスティングをしてソムリエに頷いてみせたロイは真っ直ぐにリザに向き直った。彼の瞳はその瞬間柔らかさを消し、黒曜石の硬度をもって静かに彼女を見つめた。ソムリエが二人のグラスにワインを注いで立ち去るまでロイはそのまま黙ってリザを見つめ、やがて硬い声でリザに問い掛けた。
「君は私が気付いていないと思っているのか?」
「何をでしょうか?」
 問いに問いで返しながら、リザはロイが遂に同心円の内側に一歩足を踏み出したことを知る。急激に彼女の食欲は減退する。胃の腑を締め付けられるような思いで、リザは真っ白な皿の中心に載せられた白身魚ポワレに視線を落とす。綺麗な焼き目の付いた魚も、新鮮な野菜もリザの食欲を喚起しない。リザは冷たい汗を掌に感じロイの次の言葉を待つ。
「分かっているだろう」
 リザは皿の上に横たわる哀れな魚を見つめ、それから思い切ってロイにもう一度尋ねた。
「何をでしょうか?」
 おそらく彼が言いたいことは、リザにも予測がついていた。しかし、それをリザ自身の口から言わせようとするロイのやり方には、従えなかった。女の扱いに長けた男の掌で彼の思うように扱われる恐怖が、リザの項の辺りでチリチリと小さな警報を鳴らす。
 ロイはリザの言葉に目を細め、メインの皿に目を移し銀のフォークで容赦なく魚を突き刺した。白い魚の身がぐしゃりと歪む。
「君は私が気付いていないと思っているのか? 君がいつも私を見ていることに」
 串刺しにした魚を皿の上で弄びながら、ロイは皿の上に視線を落としたままリザの言葉に答える。リザはまるで自分が串刺しにされているような気がして、胸の奥がギシギシと軋む。主導権を握ることに慣れた男は、そのままチェックメイトを言うようにリザを追いつめる。
「もう一つ、聞いてもいいだろうか」
「何をでしょうか?」
 莫迦のように同じ言葉を繰り返すリザに、ロイは魚の切れ端を口に放り込むとフォークをカチリと皿の縁に置いた。静かな咀嚼音に満たされたテーブルで、リザは男の問いを待つ。永劫にも思える一瞬の後、ついに彼の中に魚は飲み込まれ、ロイは視線を上げリザを見た。
「君は先日、有休の申請をした時、『私も友人に背中の開いたデザインのウェディングドレスを勧められて、少し……』と言ったな?」
 思いもかけぬロイの言葉に、リザの全身から血の気が引いた。やはり聞いていて知らないふりをしていたのだ、この男は! リザは半ばパニックを起こしそうになり、何も答えられずに黙り込む。ロイはリザの返事を待たず重ねて問うてきた。
「『少し』の後、君は何を言おうとしたのかね?」
 リザは俯いて首を振った。何を否定したいのか自分でも分からなかった。ウェイティングバーでロイを待っている間、リザは様々なことを想定し様々な考えをめぐらしていたけれど、これはあまりにも酷い不意打ちだった。
 完全なる伏兵の存在。
 パーフェクトなチェックメイト
 リザの頭は答えを探して空回る。それは奇妙なほどに静かで、それでいて吹き荒れる嵐のような沈黙だった。沈黙に耐えかねたようにロイは続けた。
「もしも、君が望むなら……」
「望みません!」
 追いつめられたリザは先回りするようにロイの言葉を奪い、小さく叫ぶように答えた。あまりに端的なリザの言葉にロイはしばらくリザを見つめていたが、やがて溜め息をつくように密やかな声で呟いた。
「君は、随分と言い難いことをはっきりと言ってくれるのだな」
「申し訳ありません」
 謝ることしか出来ず、テーブルの下で膝に敷いたナプキンを握り締めるリザの手は震えていた。言わなければ良かったという後悔と、きちんと何故自分がそう言ったかという理由をきちんと説明しなくてはという焦りが彼女の中でない交ぜになり、恐ろしい緊張感で満ちたテーブルの上の綱渡りに自然と彼女の声は震えた。
「私は、ただ副官として大佐のお傍にいられれば、それだけで十分なのです」
「副官は四六時中上官を見張っていなければならないものなのかね」
「いえ、そうではなく……」
 リザは自分の内に巣食う恐れを最初からきちんと説明しようと、焦る心を何とか宥めようとする。自然、早口になる彼女の言葉は、いつもの彼女らしからぬ支離滅裂なものとなる。
「大佐は、『吊り橋理論』というものをご存知でしょうか」
「ああ、生理・認知説に基づくあれか。極限状態における興奮が理由で発生する、擬似恋愛感情の自己認識というやつだな」
 リザの言わんとするところを悟り、ロイは苦虫を噛み潰したような表情になる。リザは心臓を鷲掴みにされたような思いでロイの不機嫌と向き合い、それでも気丈に言葉を選びながら話し続けた。
「我々は、いえ、私はイシュヴァール内乱以降、大佐と共に常に揺れる橋の上を歩き続けているように考え続けてきました。いえ、イシュヴァール以前から、この背のことも、父の遺言のことも含めて。ですから……」
「やめろ。それ以上言うな」
 ロイは低い、しかし鋭い声でリザの言葉を遮った。その声音には怒りよりも哀しみの成分が多く含まれていて、リザはびくりと驚いて一瞬口を閉じた。
 彼女は自分が失敗したことを悟る。
 今のリザの話し方では、互いが互いに向ける想いを『極限状態が生んだ偽の感情』だと彼女が思っているとしか受け取りようがない。彼が誤解するのも当たり前だ。リザは完全にパニックを起こし、それでも話すことを止めなかった。
「いえ、大佐。最後までお聞きください。どうぞお願いですから」
「断る。まさか君が私の想いをそんな風に受け止めていたとは。全くとんだ道化だな、私は。君がようやく私の誘いを受け入れてくれたと思ったら、よりにもよって突き付けられるのはそんな言葉だとは」
「大佐!」
 ガタリと音を立ててロイは席を立った。予測もしなったロイの反応に、リザの心は恐慌を来たす。慌てて飛んでくるスタッフに二言三言何か言い置くと、ロイはリザを置いて振り向きもせずフロアを出て行ってしまった。
 思いもかけぬ修羅場に遭遇し、ざわざわと興味本位にフロアの客たちがざわめいている。男に置いていかれた哀れな女に注がれる針のような視線に身をさらし、リザは呆然と動くことも出来ずにいた。全てが駄目になってしまうのだろうか、もう彼の副官ですらいられなくなってしまうのだろうか。そう思うと視界がぼやけて、リザは居ても立ってもいられなくなる。
 イヤだ、こんな中途半端な状態で全てを壊してしまうのは。
 リザは夢中になって立ち上がり、フロアを駆け抜ける。フロアを抜けレストランの扉を開ければ、そこは週末に浮かれる人々が夜の街を埋め尽くしていた。男を隠す人の群れに絶望し、リザはよろりと傍らのガス灯に縋り、そして気を取り直して男を捜すべく雑踏の中に足を踏み入れた。
 急いで店を出たというのに既にロイの姿はどこにも見えず、リザの焦りはどんどんと強くなる。自分が口下手なことは分かっていたが、不用意な話し方のせいでこれほどまでに彼を傷付ける事になろうとは。それだけ自分はあの男の包容力に甘えていたのだ。リザは慙愧の念で、戻ってはこない自分の失言を悔やんだ。
 週末の夜を行き交う人々の波にのまれ、リザは闇雲に夜の街を走る。履きなれぬヒールが痛くて、それでも立ち止まることも出来ず、リザは必死になって自分に言い聞かせる。
 落ち着け、大佐の行動パターンを考えろ。私は彼の副官だ、彼と伊達に五年もの歳月を共に過ごしたわけではないのだから。
 彼ならば、どう考える? 
 彼ならば、どう動く?
 リザはロイのことだけで頭をいっぱいにし、ひたすらに駆け続けた。石畳にヒールの音を響かせて。そこには何の理屈もなかった。ただ、彼に嫌われたくない、傍にいたいというそれだけの想いがリザを突き動かしていた。
 ああ、本当に大事なことは、これほどまでに単純だというのに。
 リザはヒールを脱ぎ捨てて両手に持つと、人々に奇異な目で見られるのにも構わず、真っ直ぐに目的地へと向かう。確信はなかったが、間違っている気もしなかった。リザは裏門をくぐり、そっと足音を忍ばせて己の職場へと忍び込んだ。
 
 夜の司令部は、闇の中にひっそりと静まり返っていた。勿論、残業に追われる軍人たちも、宿直の衛兵たちもそこには存在しているが、昼間ほどの活気はそこにはない。
 リザはボロボロになったストッキングをまとった素足で、足音も立てずに長い廊下を歩いていった。誰にも会わぬよう祈りながら、リザは歩き慣れた建物の中を急ぐ。薄闇に目をこらせば、陽が落ちて真っ暗になった執務室の扉が少し開いているのが見えた。やはり。リザはそっと扉の隙間に手をかける。
 部屋の中には、灯りも点けずに窓の外を見つめるロイの姿があった。毎日慣れ親しんでいる筈の執務室の風景が、まるで知らない場所に思えるほどによそよそしく見えた。軍服を着ていない男の後ろ姿もまた、同様に。痛いほどの拒絶をその全身から感じながら、それでもリザは一歩を踏み出した。
 キィ。
 夜の静寂を破り、扉の軋む音が響く。リザが手をかけた扉をほんの少し開いたところで、取り付くしまもないロイの声が闇に響く。
「帰りたまえ」
 リザはその場から動かずに、半ば開いた扉の影からはっきりと彼に言った。
「イヤです。最後まで私の話を聞いていただけるまで、私は帰れません」
 我ながら可愛くない返事だと彼女は思った。しかし、それ以外の言葉も見つけられなかった。ロイは振り向きもせず、鼻でリザの言葉を笑う。
「これ以上、私を惨めにするのは止めてくれ。君の言葉によると、私は勘違いで君に求愛を続けていた馬鹿な男に認定されているらしいからな」
「違います、大佐。そうではないのです」
 リザは懇願した。どうにも自分が情けなく、込み上げてきた透明な涙がポツリと床に染みを作る。人気のない司令部は彼女がこの部屋の馴染みであることを思い出したのか、その涙を闇に隠して優しく包み込んでくれる。
「私は、ずっとずっと怖かったのです」
 リザは闇の優しさに背中を押され、胸の奥の奥にしまい込み、自分がずっと見ないふりをしてきた感情を口に出した。
「大佐の示してくださる好意が、私の希望が作り出した幻想ではないのかということが」
 天敵を見つけた駝鳥が砂に頭を突っ込むように見ないでいれば何も無いことに出来ると思っていた愚かな自分。
 ウェディングドレスと言う単語ひとつにすら、これほどまでにうろたえる臆病な自分。
 ロイの邪魔になりたくないという言い訳に隠れ続けた卑怯な自分。
 リザは様々な自分と向き合い、ただ己の心が吐き出す想いだけを言葉に綴る。
「私と大佐の間には、沢山の過去が存在します。父のこと、秘伝のこと、イシュヴァールのこと、背中を焼いていただいたこと。その全てがあまりにも大きな意味を持ちすぎていて、私はあまりにも小さな自分の存在が信じられずにいるのです。過去の事実が作り出したものに雁字搦めに縛られて、身動き出来ないでいるのは私の方なんです」
 そう、揺れる吊り橋に縛られているのは、リザの方なのだ。
 上手く話すことが出来ない自分がもどかしく、リザはいったん口をつぐんだ。
「もしも自分が大佐の下さる想いに縋り、それがただの幻影だと知ることがあったなら。そう考えると臆病な私には、副官として単純に認められることを目指すしかなかったのです。自分の価値を測る確実な目に見える物差しとして」
 ロイは何も言わず、彼女に背を向けたままでいる。話を聞いてくれているロイの様子に勇気付けられ、リザは己の言いたいことを整理し直し言葉を継いだ。
「ですから、私はジョン・スミス事件で大佐がただの狙撃手として私を全面的に信頼して下さった事が本当に嬉しくて、少しは自分の存在価値が見出せたような気がして。ですから……」
「もういい」
 彼女に背を向けたまま、静かにロイはリザの言葉を途中で遮った。リザは不安のあまり涙を零し続け、もう一度口を開こうとした。しかし、それより早くロイが口を開き、先ほどと同じ低い声で彼女に語りかけた。
「君が過去に縛られていると言うのなら、それは私も同じだ」
 そう言ってロイはゆっくりと振り向いた。
 闇はロイにも同等にまとわりつき、彼の表情はリザの方からは全く見えない。しかし、それでも彼の様子が先ほどまでとは違っていることは分かり、リザは素直に口を閉じ彼の言葉の続きを待った。そんなリザに向かい、ロイは穏やかな口調でこう言った。
「私はね、中尉。ずっと君に赦されたかったのだよ」
 思いがけないロイの言葉に、リザは瞠目する。静かな部屋に彼の靴音がコツコツと響き、扉に向かって歩きながら襟元のタイを緩めるロイの姿が徐々に近付いてくる。デスクの角を曲がったところで、彼はいったん立ち止まった。
「焔の錬金術のこと。君の背を焼いたこと。イシュヴァールでのこと。全ては私の中の赦されざる罪だ。今も昔も変わらずに。それでも、私は君に傍に居て欲しいと願い続ける。例え副官という名で縛り付けても、だ。力尽くで奪いたいと思ったことも一度や二度ではない」
 苦笑を伴ったロイの告白の率直さにリザは驚き、真っ直ぐに彼女を欲する男の言葉にぞくりとした疼きを覚えた。ロイはそんなリザの様子に気付くことなく、再び歩み始める。
「しかし、君は私を拒み続ける。だから私は、ずっと君が過去のすべてにおいて、私を赦すことが出来ずにいるのだと思っていた。それでも私という人間には、傍に居る価値があると認めてくれているのだと。いつか君に上官としてではなくロイ・マスタング個人として、きちんと向き合って受け入れてもらえたらと思っていた。そんな日が来るまで、私はずっと待つつもりでいた」
 だから今日は酷く嬉しかったんだ、ロイはそう言って遂にリザの目の前にたどり着く。どうにもならぬほどに溢れる想いをのせたその黒い瞳が、彼女の目の前で揺れた。そこに覗く真摯な想いにリザは思う。ああ、結局自分もこの人も有りもしないものを自分で作り上げて、それに振り回されていたのだ。何と臆病な我々だったのだろう、リザは万感の想いで男を見つめる。ロイはひどく真面目な顔をして、リザの瞳を見つめ返して言った。
「嬉しさのあまり、私は舞い上がって急ぎ過ぎた。どう話を切り出そうかと自分のことでいっぱいいっぱいになって、全く余裕がなくてね。汚いやり方をした上に、短気を起こしてしまった。本当にすまなかった。許してくれとしか言えないのだが、これだけは分かって欲しい」
 ロイはいったん言葉を切ると、静かにこう言った。
「それだけ、私は君を欲しているのだ」
 滂沱の涙を流すリザの目の前で、ロイは彼女の半身を隠す扉を開け放った。それは、長らく二人の間を隔てていたものが、ようやく取り払われた瞬間であった。
「何しろ我々は、互いにあまりにも遠回りをし過ぎた。いくらなんでも、五年は長過ぎる」
 おどけた口調のロイは、リザが片手にヒールをぶら下げたまま泣いていることに気付く。彼は驚きの眼差しで、リザの手の中のヒールと彼女の涙で崩れた顔と泥だらけのつま先とに視線を走らせた。それは、職場において常に冷静で『鷹の目』と称される有能な副官の彼女からは、とても想像できぬ姿だった。ロイは彼女の視線を捕まえると、とてもとても優しい顔をして笑った。
「……すまない。ありがとう。リザ」
 何年かぶりに男の声で呼ばれる自分の名を耳にして、リザは靴を取り落とし男の胸に頬を埋めた。そっと背中に回された男の手は、リザの想像以上に熱かった。
 彼女に直接触れることを己に許した男の体温を直に感じたリザは、五年分の距離を漸く自分達が埋めることが出来たのを知ったのだった。

 
Ⅴ.ピアニッシモ

  

「あら、リザ。どうしたの? まさか、こんな所であんたに会うとは思わなかったわ」
「この前あなたに連れてきて貰ってから、もう一度来たいなと思ってたの。やっぱり良いお店ね、ここ」
「ま、男と一緒に来るにはもってこいの店かもね。雰囲気も良いし、静かで落ち着くし」
 リザの答えにレベッカはニヤニヤと笑って、リザの背後に視線をやる。その視線の先には、彼女らから少し離れたバーカウンターでロックグラスを傾けるロイの姿があった。レベッカの視線に気付いたロイは彼女の会釈に鷹揚に頷くと、琥珀色の液体を口に運ぶ。リザはそんなロイをチラリと見ると、レベッカの冷やかしをすました顔で受け流した。
「あら、私は上官のお供で飲みに来ただけよ?」
「まったく、あんたね。いい加減にしなさいよ? この状況でまだしらを切るつもり?」
 レベッカは呆れた口調で微笑を浮かべ、リザのわき腹を肘でつく。くすぐったいと笑いながら、リザは幸福な笑顔で親友の攻撃をかわそうと身を捩った。
 イーストシティの中心部近くにあるその店は、ピアノの形をした看板が目印のバーだった。店の片隅には看板と同じ形をした小さなグランドピアノが置かれていて、毎日ジャズの生演奏が聞けることを売りにしている。この日はまだ奏者の姿はピアノの前にはなく、静かな店内はひそひそと言葉を交わす大人達の声が音楽の代わりに場の空気を満たしていた。
 その日、ロイと夕食を共にしたリザは、以前ジョン・スミス事件の後レベッカと飲んだこの店へ彼を案内した。レベッカと会ったのは本当に偶然だったが、彼女に紹介してもらった店なのだからそれは想定範囲内の出来事だった。レベッカは並んで立つ二人を不躾にならぬ程度に交互に見ると、ロイに断りをいれリザを借り出したのだった。
「で、どうなの? 実際のところ」
 リザの耳元で囁くように聞くレベッカの吐息がこそばゆくて、リザはクスクス笑って答えた。
「あの人が上官で私が部下、その関係に変わりはないわ」
「あんたねぇ」
 救いようがないとレベッカは心底呆れた顔をする。リザはそれを笑い、言葉を足した。
「とりあえず、そこからもう一度始める事にしたのよ」
「まったく。今どき『お友達から始めましょう』なんて、流行らないわよ?」
 リザは肩をすくめて、流行りなんて関係ないわと穏やかな顔で微笑んだ。
 そうなのだ。二人の関係はある意味劇的に変わったとも言えるし、別の意味では全く変わらなかったとも言える。彼らはあの夜、そのまま男と女の関係になる道を選ばなかった。イシュヴァールで誓った彼らの目的は未だ遠い。彼らの思うところの贖罪が終わらぬうちに、彼ら自身が個人の幸福を享受することを彼らは己に許す事が出来なかった。しかし、彼らは自らの想いと相対し互いの想いを知ることにより、新たな絆を結ぶことが出来た。過去という名の運命に押し付けられた絆ではない、自分達の意志で生み出した絆を。ゆっくりそれを育むことを、彼らは共に選んだのだった。
 レベッカはしばらくブツブツと文句を言っていたが、やがてあまりに穏やかなリザの笑顔に仕方ないとでも言うように大きな溜め息をついた、
「あんたが良いなら、あたしには何も言うことはないけどね。ま、またスポッターが必要になったら、いつでも言っていらっしゃい」
「ありがとね、レベッカ
「それより、さっきからあんたの男、あんたの方ばっかりチラチラ見てるわよ? 戻ってあげなくていいの?」
「だから、上官だってば」
「何を今更」
「もう、レベッカったら! ねぇ、それよりエイダのお祝いの事なんだけど」
「そうそう、あたしもあんたに会ったら聞こうと思ってたのよ。もうあんまり時間もないから、そろそろ決めないとね」
「私、思ったんだけど……」
 女同士のお喋りには終わりがない。
 終わりそうに見えてから後が長いのだ。
 
 ロイは黒髪の女性尉官に奪われた自分の副官を遠く眺めながら、所在なげにグラスの酒をあおった。
 少しで終わる筈の彼女らの立ち話は、どうやらまだしばらくは終わりそうにない。女というものは長話と相場が決まっているが、さて、後どれほど待てば良いものだろうか。
 そう考える彼は、自分の横に立つ若い男がじっと自分を見ていることに気付いた。どう記憶の底をさらってみても見覚えのないその男は、ロイが自分の存在に気付いた事をみて控えめに彼に声をかけてきた。
「失礼ですが、ミス・カタリナのお知り合いでいらっしゃいますか?」
 ロイは一瞬ミス・カタリナが誰かを考え、リザのスポッターを勤めた女性尉官の名が確かそうだった事を思い出し頷いた。
「ああ、彼女の上官にあたるものだが」
 面倒な説明を嫌い、ロイは広義の意味では間違っていない説明を返す。
「失礼だが、君は?」
 男の真意を測りかね、ロイは男に問い返す。若者は慌てたように失礼しましたとロイに一礼し、改めて彼の方へ向き直ると自己紹介をした。
「僕はこのバーの雇われピアニストでして。先日からミス・カタリナにアプローチしているのですが、なかなか色良い返事がいただけません。ついては失礼ながら、貴方のような男性が傍におられるのかと……下種の勘繰りと言ったところです。申し訳ありません」
 初対面のくせにニコニコと正直に告白してみせる男の人懐っこさに、ロイは微笑した。どうせしばらく女達のお喋りが終わらないなら、こちらも適当な話し相手を見つける方が賢いというものだ。ロイは若者に右手を差し出し、自分も自己紹介を返す。
「残念ながら、現在特定の女性とは懇意にしていない。私の名はロイ・マスタング。よろしく」
「失礼しました。僕はマイク・ターナー、しがないピアニストです」
「私もただのしがない軍人だよ」
 二人の男は握手を交わすと夜の社交場の慣習に倣い、当たり障りのない会話の準備を始める。ハボックと同じかそれより少し若いくらいの若者はロイの名を聞いて何か考える素振りを見せていたが、ロイが軍人だと言った途端にハッとしたように目を見開くと驚きを露にして言った。
「ひょっとして貴方は、『イシュヴァールの英雄』と呼ばれたあのマスタング氏ですか?」
「よしてくれ、ここでは私はただのマスタングだ」
 ロイは苦笑と共にグラスに口を付け、苦い思いを酒で腹の奥へと流し込んだ。自分が戦場で犯した行為の現実と、軍のイメージアップに利用される虚像とのギャップの大きさは、分かっていても愉快なものではない。しかし、ロイの反応を謙遜と受け取った若いピアニストは、すごいなと呟いて賞賛の眼差しでロイを見ている。どうにも素直過ぎる坊ちゃんらしい、とロイは苦笑したまま話題を変えるべく、グラスをカウンターに置くと男に言った。
「なんだかんだ言われたところで、惚れた女には指一本触れられない情けない男だよ、私は。素直に想いを告げている君の方が、よっぽど凄い」
「そんなことはありません。僕なんて連戦連敗、ひどい有様です」
 若者は肩をすくめて笑って見せた。そこには卑屈な自嘲の影はなく、純粋に彼がそう思っていることが伝わってくる。ピアニストなどを目指すような男とは、芸術家気質で浮世ずれしているものなのだろうか? そう言った人種と全く縁のない人生を過ごしてきたロイは不躾にそう考え、その甘さを別次元に生きる者への一種の憧憬として捉えた。
「今回だってそうです。ミス・カタリナに想いを伝えたものの『金の無い男はあたしを口説くな!』の一言で、バッサリですから」
 思わず吹き出しそうになるロイは、はっきりしたことを言う女だとリザの相方をしげしげと眺める。リザに今のような変化が現れたのも、実は彼女のような友人の存在があったからかと考えれば、それはそれで納得もいった。
「それは気の毒に」
 口先だけではない心からの同情をロイが口に出すと、若者は苦笑して自分もバーカウンターにもたれかかった。
「情けないことに、これがどうにも否定できない事実ですから。それでも、彼女の言動の端々にまだチャンスがあるんじゃないかと思えるものがあって、僕はなかなか諦める事が出来ないんです。気の所為だと思うこともあるのですが、どうも曖昧で」
 と、今度はさすがに自嘲の色を頬に浮かべて、若者はロイの視線の先に自分も視線を動かした。
「時々こうやって彼女を見ているだけでも構わない、と思うこともあるんですけれどね」
「君の言わんとしているところは、分かる気もする」
 二人の男はカウンターに背をあずけ、楽しげに話し続ける女達を見る。身振り手振りを交え何かに夢中になっている彼女らの姿には、それだけで愛おしいと思わせる何かがあるらしい。ロイは屈託無く笑うリザの顔を眺め、それだけで自身も心が満たされるような気持ちになり、ふっと唇の端に微笑を刻んだ。若いピアニストのほうも同様の想いを持ったらしく、柔らかな笑みを浮かべ独り言のように、明るい声でロイに言う。
「女性のお喋りは賑やかで良いですね。こちらまで明るい気分にさせてくれる」
「ああ、確かに」
「しかしですね、なんでもないお喋りの時はあれほど賑やかな彼女たちが、どうして本当に大切なことは聞き取れないほど小さな声でしか言ってくれないのかが、僕には不思議でなりません」
 若者の言わんとしている所を悟り、ロイは笑った。
「確かに君の言うとおりだ。お陰で我々は気付けば女というものに振り回されて、あたふたするばかりだ」
 そう、お互いのことをなんとなく分かり合っているつもりだったこの五年間、リザの中にあった不安を自分は知ることが出来なかった。今思えば彼女の言葉の端々に、それは滲んでいたというのに。ロイの想いを代弁するように、ピアニストは語り続ける。
「まるでピアニッシモですよ。繊細すぎて僕みたいなへぼピアニストは、とてもじゃないけど聞き逃してしまう」
「それを聞いてやるのが男の務め、というところか」
 仕方がないとでも言うように嘆息するロイに、若者は無邪気な笑顔を見せる。
「さすが東部一の色男はおっしゃることが違う」
 嫌みでもなんでもない若者の賛辞にロイはくすぐったさを覚え、グラスの酒を一息に飲み干すと妙に芝居がかったことばかり言うピアニストの言葉に答えて言った。
「それが出来ていれば、こんな苦労はしないさ。君と同じくらいの歳だった頃から、私は自分がまるっきり進歩していないのではないかと時々考えるよ」
 見ず知らずの相手だからこそ正直に内心を吐露し、ロイは自分の過去に想いを馳せる。ちょうど彼ほどの年齢の頃、ロイはリザを自分の補佐官に任命したのでなかっただろうか。『私が道を踏み外したら、その手で私を撃ち殺せ』という言葉で彼女を己に縛り付けたロイの彼女への執着は、当時のままにこの胸にある。それに答えた『お望みとあらば、地獄まで』という言葉の裏にあった彼女の心の内に潜む悲痛な想いを、彼はつい先日まで見過ごしてきてしまった。悔いても悔やみきれないが、過ぎた時間は戻らない。しかし、過去は反面教師の役割は果たしてくれる。何度も同じ過ちを繰り返さないために。
 ロイは思う、何度でも何度でもリザと向き合う事を止めてはいけないと。彼女がピアニッシモの音色で奏でるサインを、今度こそ見逃さず共に歩いていきたいと。無駄にした月日を、無駄でないと思えるように。それが彼に出来る唯一のことなのだから。
「そう、それでも我々は回り道をしてでも、耳を澄まして彼女らの囁きに応えるしかないのだよ」
 ロイは遠い眼をして、リザを見つめて言った。半ば彼自身に言い聞かせるような言葉にピアニストは頷いて一礼した。
「素晴らしいご意見に感謝します。僕も僕なりに、もう少し頑張ってみようかと思い直しました」
「いや、そんな大したことを言ったわけでもないのだが」
 柄にもない自分の言動にロイが空のグラスを揺すって照れを誤摩化すと、若者はバーカウンターからその身を離し仕事の時間ですのでと名残惜しげにロイに別れを告げる。
「もしよろしければ、リクエストを」
「そうだな……では、Je te veuxでも頼もうか」
「承りました。しかし、情熱的ですね。さすがと申しましょうか」
「褒めてもらったと思っておこう」
「勿論です、それでは」
 男たちの会話には、無駄がない。
 彼らは簡単な挨拶を交わし、再び他人へと戻っていった。
 
「大佐、お待たせ致しました」
 小走りにロイの元に戻ってくるリザは、彼の元から立ち去る若者の背中を見送って小首を傾げた。
「お知り合いでいらっしゃいましたか?」
「いや、さっき初めて会った」
 そう答えるロイに驚いた顔をして、リザは不思議そうに言葉を返す。
「その割には長くお話をなさっていたようですが」
「ああ、君の友人に手酷く振られたが諦められないというので、慰めておいた」
 ロイの言葉に疑わしげな眼差しを送るリザに、自分でカタリナ嬢に確認すれば良いと彼は笑って言うとバーテンダーを呼んだ。そして、自分の酒のお代わりの注文をすると共に、彼女にも何かオーダーするように促す。ギムレットを頼み、バーカウンターにロイと並んで立つリザは、先ほど自分たちの前から立ち去った若者が店の片隅にあるピアノを弾き始めたことに気付く。
 技巧に走らぬ素直な音は青年の性格そのままのようで、物足りなくはあるが悪くはない腕なのだろうとリザは考える。
「何かリクエストでもされたのですか?」
「ああ」
 そうは答えるもののニヤニヤと笑ってはっきりとは答えないロイに、リザはまたろくでもないことを考えているのだろうとそれ以上の追求を止めた。二人は並んで強い酒を啜り、軽快なピアノが奏でるワルツの旋律を楽しんだ。
 そんな、ほんの一ヶ月前には考えられなかった二人の関係の変化に、戸惑いながらも少しずつ安心を覚えている自分をリザは酔いと共に確認する。本当は、こうやって変わり始めればいつか歯止めが利かなくなるかもしれない自分たちを、自分は恐れていたのかもしれない。リザは改めてそう考え、しかし、今は自分がひとりではないことを確信し、その恐れを分かち合う男の横顔を見つめる。
 独りではない。
 その言葉の持つ心強さにリザは勇気を得て、酔いに任せてロイにずっと聞きたかったことを尋ねてみた。
「大佐?」
「なんだね、リザ」
 あの日以降、ロイは二人きりの時は彼女をファーストネームで呼ぶようになった。これもまた一つの変化であり、過去を呼び起こしながらも新たな関係を築く一歩であった。幼い頃の彼女を彼はそう呼んでいたが、今彼が呼ぶ彼女の名はもっと甘くてもっと慎重な響きを持っている。
「ひとつ、お伺いしたいことがあるのですが」
「何なりと。ただし、君も私の質問に答えてくれるかね?」
「内容にもよりますが」
 リザのドライな返答にロイは苦笑する。リザはひとまず自分の権利を脇に置き、先にロイに質問の権利を譲ることにした。ロイは自分で言っておきながら少し躊躇ってから言った。
「怒らないでくれよ?」
「よほど酷い内容で無ければ」
「答えたくなければ答えなくていい、だがどうにも気になって仕方がないのだ」
「どのお話でしょうか」
「ドレスだよ、君が友人に言われた、その……ウェディングドレスの話だ」
 リザの顔に無意識に警戒の表情が浮かんだのだろう、ロイは慌てて言い足した。
「その言葉に深い意味があるとは、私も今は考えてはいない。だがね、君の『背中の開いたデザインのウェディングドレスを勧められて、少し……』の続きに何を言おうとしたのか、それが気になって仕方がないのだ」
 ロイの言葉にリザは少しだけ考え込む素振りを見せた。うっかり口を滑り出た言葉に、たいした意味があったわけではなかった。しかし、無意識ほど恐ろしいものは無く、リザは思わず零れそうになった己の心情をロイに話すべきか否か、迷った。しかし、彼の温かな瞳に見つめられていると、どうにもリザは黙っていられなくなり、小さな小さな声でそれに答えたのだった。
「『少し着てみたいような気になり、自分でも驚きました』と」
 俯き加減にそう言ったリザは、首までほんのりと赤くなっている。酔いのせいではないその朱の色に、ロイは眩暈がするような誘惑を感じる。こんなピアニッシモなら聞かないほうがマシだ、理性が崩壊するではないか。ロイは慌てて二杯目のバーボンを飲み干し、リザから目を逸らす。
「ところで、君の質問とはなんだね」
 動揺を悟られまいとあさっての方向を見ながらリザに問い返すロイの方を見ず、彼女は俯いたまま小さな声で問いかけた。
「私も同じ事についての質問なのですが……あの時、大佐は何故、私が言ったその……ウェディングドレスの話を聞こえなかった振りをなさったのですか?」
 そうなのだ、もしあの一件がなったらリザはレベッカに秘伝を見せることも無かっただろうし、ロイとの関係にも何の変化も無かったかもしれない。ある意味、全ての引き金になったあの時の事の真相をリザは知りたかった。
 ロイもまた、彼女の質問に考え込んで、そしてチラリとリザを見るとまた視線を逸らし、笑うなよ? と言って三本の指を立てて見せた。
「まぁ、単純に言って理由は三つだ。まずひとつ、君の口からウェディングドレスの話が出るとは夢にも思ったことが無かったので、驚きのあまり聞かなかったことにしないとまともに君の顔が見られないと判断した」
 そう言ってロイは、指を折り曲げ二本にする。
「ふたつ目、君があまりに酷く狼狽している気配がしたものだから、聴かない振りをしたほうが良いかという判断をした」
 やはりそうだったのか。リザはなんとなく納得出来る理由と意味の無いロイの気遣いに苦笑して、ロイのみっつ目の答えを待つ。ロイは、最後に立てた一本の指を見つめ、躊躇うように何度か口を開け閉めすると意を決したように言った。
「そして、最後だ。そんなものを着て五割増は綺麗になった君を想像したら、自分を抑えられなくなりそうだと判断した」
 そう一息に言ったロイは怒ったような顔で、酒に酔ったのとは別な荒い息を吐き、勘弁してくれと呟くように言い添えた。それを聞いたリザは、ますます頬を染め、やはり聞くのではなかったと先には立たない後悔にほぞを噛み、これほど素直に互いに内面を見せ合うようになるほどにロイとの距離が縮まったことに、新たな恐れを持つ。
 二人が近づけば近づくほど、リザの中には新たな恐れが生まれるのかもしれない。それでも、こうしてロイと寄り添い生きる道をリザは自分の意思で選んだ。ロイを失う恐怖がどれ程のものであるのかを、リザは夢中で夜の街を裸足で走ったあの日に知った。己の内面と向き合うこと、きちんと彼と向き合うことの大切さと共に。そう、向き合わなければ何も始まらないのだ。
 だから彼女はロイに言う。
「冗談はお止しください。そんなものを着る予定は、私の人生の中にはありませんので」
「知っているさ。私が大総統になった頃にでも、考え直してくれればそれでいい」
 体勢を立て直し、ロイはいつものように微妙なアプローチをして気障に笑う。リザはその言葉をいつものように、聞かない振りをする。
 ああ、全てが変わったというのに、何もかもが変わらない。
 大きな安堵と幸福を胸に抱き、リザはロイに倣い一息にギムレットを飲み干した。

 

 【完】
 

 

【あとがき】

 

 こんにちは、はじめまして。青井フユと申します。
 最後までお付き合いくださった皆様、どうもありがとうございます。
 初めての長編(中編?)、楽しんでいただけたなら大変嬉しく思います。ロイアイ本なのに、キスもしてないとは! 本当にごめんなさい。でも、私的にはとても甘い物語のつもりだったりします。拙い文章ではありますが、よろしければご感想などいただけると大変ありがたく思います。
 今回キーポイントとして使ったスポッターと言う職業は実際に存在します。地味なポジションだけに映画や小説などにはなかなか出てこないのですが、軍などではその存在は当たり前のものであり、非常に重要なポジションのようです。第三者という視点は、ロイアイという閉じた関係においても、狙撃手という職業においても非常に重要で、私にしては珍しくオリジナルキャラを幾人も出したのもその所為かと思われます。なお、軍事考証などは一応しておりますが、かなり甘いので色々見逃していただけるとありがたく思います。
 相変わらず、ストイックな二人ばかり書いてはおりますが、それでもそこにも何かしらの幸せの形はあると信じて。

 

 青井フユ 拝     
 二〇〇九年 春