イデアの剣【後編】

「どなたかとお間違いではありませんか?」
無駄な事とは知りながら、リザは悪あがきを試みる。
だが、ロイは彼女の予測に反して、驚くほど切羽つまった様子で彼女に詰め寄ってきた。
「さっきの笑顔で確信したんです、貴女はリザ・ホークアイですよね? どうかそうだと言って下さい」
ロイの言葉にリザは唇を噛んだ。
どんな状況でも、彼は策士なのだ。
さっきのジョークは彼なりの気遣いであると同時に、彼女の正体を確認する行為だったのか。
普段無表情である分、笑った時のギャップが大きいとは部下たちにもよく言われるが、それほど幼さが出てしまうのだろうか。
このまましらを切り通そうか、肯定してしまおうか悩むリザの前まで歩いて来たロイは、彼女の様子などお構い無しにガッと強い力でリザの腕を掴んだ。
はっとした彼女の目の前で、すがり付く仔犬のような黒い瞳が揺れる。
見慣れぬロイの表情に狼狽えるリザに向かい、彼は先程までの落ち着いた態度をかなぐり捨て、絞り出すような声で訴えた。
 
「私は本当に、ロイ・マスタングなのですよね? 私の記憶は私のものであると確信しても良いのですよね?」
答える言葉もなくロイの姿を見つめる彼女に向かい、彼は苛立ちを隠そうともせず、もどかしげに言い募る。
「想像できますか? 明日は兵法科の試験があるからと早めに床についた筈なのに、目覚めればセントラルの病院にいて全く見知らぬ人間に囲まれ大佐と呼ばれる自分を認識せねばならない理不尽を。青春の全てを失い、結果だけをいきなり突きつけられて、私は一体どうすれば良いのでしょう?」
心の奥底に響くような端的な表現で、ロイは自身の心の内をさらけ出し、更に彼女になら分かってもらえるとでも言わんばかりに、ズイともう一歩リザの方へと身を乗り出した。
「自分が一番よく知っている筈の“私”という人間の事が、赤の他人よりも遠く全く分からないとなれば、私は自身のアイデンティティを何処に求めれば? 自分が分からない、他人も分からない。分かるのは貴女がリザであると言うことだけだ。いま現在、私の昨日と今を繋ぐ唯一の記憶の連続は、貴女の存在だけなんです。リザ、私の存在は確かなものだと証明してください」
敬語を使いながらも彼女のファーストネームを呼び捨てる矛盾にすら気付かない様子で、ロイは必死の形相でリザに詰め寄ってくる。
そこには、先ほどまで精神的には年上であるハボックを手玉に取っていた、余裕のある『マスタング大佐のミニチュア』の姿は無かった。
そこにいたのは、不安を露わにしながらも、それでもギリギリの自制心を総動員して理性を保ち、己の欠片を必死に探す青年だった。
 
リザは嘆息する。
自分は何も見えていなかったのだと。
ロイを失って不安なのは、彼女だけではなかった。
自身を失って彼女以上に不安を抱え、それでも気丈に振る舞っていたのは彼も同じなのだ。
ロイ・マスタングという大きな大人の容れ物という外見と、彼の驚くべき自制心に惑わされていたが、今の彼は中身は経験も浅く修羅場も知らぬただの若者だ。
むしろ今まで、何事もなかったかのように振る舞っていた彼の精神力を讃えるべきなのだろう。
そこでようやくリザは、ロイ・マスタングという存在を失った自分が、どれほど狼狽してパニックを起こしていたかに気付く。
しっかりしなくては。
 
彼女は改めてロイと向き合い、そして、ゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
いきなりのリザの謝罪にロイは面食らい我に返ったらしく、ぱっと彼女の腕を掴んでいた手を離すと、すみませんと消え入りそうな声で呟いた。
そして、己の感情の発露を恥じているのだろう、バツの悪そうな顔でじりじりと後退ると、彼は力無くドサリとベッドに座り込んでしまった。
しばらくそのまま俯いていた彼は、大きく深呼吸をするとふっと顔を上げた。
そしてそのまま勢い良く立ち上がると、ロイは冷静さを取り戻した語調でもう一度彼女に謝罪を繰り返した。
「こちらこそ、申し訳ありません。貴女があまりによく知った少女に似ていたので、つい取り乱してしまいました。自分の唯一の拠り所を見つけてしまった気になったものですから」
そう言ったロイは苦笑してみせた。
自分の存在が彼の拠り所となり、彼を取り乱させる力を持っているのか。
普段のロイなら絶対に口にしない感情の吐露に、リザの胸はたちまち締め付けらてしまう。
リザは言葉もなく、ただロイを見つめた。
「それに、仮に貴女がリザだったとしても、私は彼女を庇護しなくてはならない立場の人間なんですから、こんな風に頼るなんて本末転倒も良いところです」
ロイは肩を竦めてみせ、完全に元のペースを取り戻したことを彼女に示して見せた。
苦笑を浮かべたままリザを見つめ返すロイのストレート過ぎる言葉に撃ち抜かれ、彼女は身動きすら出来なくなる思いがした。
 
リザは必死に彼の副官としても顔を取り戻そうとあがき、強い視線を受け止めながら彼の言葉に答えた。
「いえ、謝罪しなければならないのは私の方です。本来なら貴方に全てを包み隠さずお話しておくのが筋だったはずですが、貴方の人生はあまりに紆余曲折が多く、説明をしてこれ以上の混乱を避けるべきかと判断をしたのが私の誤りでした。お許しください」
一息にそう言ってもう一度頭を下げたリザに、ロイは慌てて両手を振ってみせる。
「そんな! 顔を上げてください。状況のわからぬ私がどう反応するか分からなかったのですし、現に私は先刻多少のパニック状態を引き起こしています。賢明な判断であったと思います」
「ですが」
言い募るリザを制し、ロイはわざとらしい暢気な口調で話題を逸らした。
「まぁ、副官の貴女が説明に困るほど波乱に満ちた人生なら、聞かない方が先の楽しみもあるというものでしょう。それに、私の将来が少なくとも私の望む方向に進んでいることは確かなようですから」
気楽にそう言ってのけたロイに、リザは心の中で首を横に振った。
確かに表面的に言えば、今日までのロイの人生は『焔の錬金術を手に入れ国家錬金術師となり、その術により国家のために武勲を立て、若くして大佐の地位を手に入れた』という彼の掲げる理念の具現のようなものである。
だが、その陰に隠された、そこに至るまでの形而下の過程は、彼と彼女の人生を思わぬ方向に連れ去る血と汚泥の濁流だった。
青臭い夢は形而上の存在としてイシュヴァールの大地に消え去り、地に落ちた彼らはその欠片を探して、こうして這いずり回っている。
 
「中尉?」
普段の大佐である彼からは絶対に聞けない優しい声が、沈思する彼女の階級を呼んだ。
その柔らかさは、マスタングさんが小さなリザを呼ぶ時の声音だった。
理性と感情の狭間でぐらぐらと揺れ、リザは無表情を保つ努力をしながら思考の淵から現実へと舞い戻る。
「大丈夫ですよ。例え、あなたにそんな顔をさせるような艱難辛苦があったのだとしても、私はここにいて貴女もここにいる。私にはそれで十分な気がするんです。何故そう思うか自分でも不思議なんですけれどね。だから、そんな顔しないで下さい」
彼らが彼ら自身に課した大人のルールを心得ない青年は、大佐の顔で無邪気に笑った。
リザはその一言に完全に降伏した。
どんな状況下においても、記憶をなくしたこんな時ですら、ロイはロイであり続けている。
そんな彼を守ろうとして、結局は守られている自分がいる。
情けない思いで、リザは問う。
「そんなに私は感情が表に出ていましたでしょうか?」
「そんなことは無いのですが、なんとなく感じるんです」
まったく、敵わないわ。
リザは小さく溜め息をついた。
「やはり、貴方には敵いませんね」
リザは一呼吸おくと、覚悟を決めて十数年ぶりに使う呼称で彼を呼んだ。
マスタングさん」
それ以上は言わなくても、通じた。
ロイは驚いた様子もなく、ありがとう、というと少し笑った。
久しぶりに彼の名を口に出す行為は思った以上に気恥ずかしく、リザの頬は薄紅色に染まる。
 
二人は病室のドアからベッドまでの七歩分の距離を置いたまま向かい合い、言葉もなく見つめ合った。
窓の外からは慌ただしく行き来する看護士たちの足音と、救急車のサイレンが遠く聞こえる。
先に口を開いたのは、リザの方だった。
「何も、聞かれないのですか?」
「聞いたら、答えてくださるんですか?」
先程からのリザの対応をからかうような彼の言葉に、彼女は思わず口ごもる。
ロイは静かに笑った。
「ま、本当は聞きたいことも、知りたいことも、山のようにあるんですけれどね」
無意識に表情が変わったのであろうリザを見て、ロイは首を横に振ってみせた。
「ですが、貴女がそこまで頑なに口を噤み、私を守って下さろうとしている姿を見ては、流石になにも聞けません」
「申し訳ありません」
「謝らないで下さい、中尉」
「ですが」
「いいんです」
ロイはきっぱりと言い切ったが、その表情に一筋の影がさした。
「だって、その対処法で済むと貴女がお考えになるのでしたら、きっと私の記憶は遠からず戻る宛があるのでしょう。ならば消える者に余計な負荷を与えることも不要でしょうから」
何があっても状況判断を過たぬ彼に、リザは泣きたくなった。
明らかに表情を歪めたリザに、ロイは何でもないことのように言う。
「大丈夫ですよ。貴女がリザ・ホークアイで、多分とてつもない事が沢山起こったにも関わらず、こうして我々は共にいる。それが分かっただけで私には十分です」
そう言って彼女のために笑う男は、もうその中身が何者であろうと、彼女にとってのロイ・マスタングという存在以外の何者でもなかった。
 
こんな人だからこそ、イデアとしての『青臭い夢』に破れて罪を犯してなお、こうして歩き続けていけるのだろう。
だから、リザは自分の感情を抑えてなお、彼についていこうと思うのだろう。
きっといつか焔の錬金術が、彼女の父の理念を、彼の理念を叶える為のイデアの剣としての役割を果たせる日が来ると信じて。
 
リザは思わず姿勢をただし、彼に向かって最敬礼をしていた。
ロイは吃驚した顔で彼女を見たが、瞬時に綺麗な答礼を返して寄越した。
敬礼を直った彼女に、ふと思い出したようにロイは尋ねた。
「ああ、一つだけ。もし可能であればお答えいただきたいのですが」
「何でしょうか」
「私は貴女をきちんと守れているでしょうか?」
リザはこの日何度目になるか分からぬロイの爆弾のような発言に、またしても息を呑む。
この男は天然にも程がある! 次から次へと人を困らせるような台詞を、よくも!
いや、これは彼の中身が大人のルールをわきまえない子供であるせいか。
そう思いながらも、リザはこう答えるしかないのだ。
「はい」
「良かった。さっきから庇護者が逆転しているようで、心配していたんです」
他意のないロイの笑いは無邪気で、ますます性質が悪い。
 
「ああ、それからもう一つ、すみません。マース・ヒューズという男をご存知でしょうか?」
「はい」
「奴は今どこにいるのでしょう?」
「中佐でしたら」
「よし!」
リザの言葉を途中で奪うように、ロイはガッツポーズを作った。
訳が分からないリザに向かって、彼は満面の笑みを浮かべてみせる。
「あいつにだけは負けたくなかったんですよ。よし、奴は中佐か。一歩リードだ」
こういう所だけ士官学校生の乗りに戻る奇妙な子供っぽさが可笑しくて、リザはつられて少し笑った。
そんなリザの笑顔に、ロイはまたもや悪戯な笑みを浮かべてみせた。
「ようやく笑ってくれましたね。さっきからずっと、貴女は泣き出しそうな顔をしていたから」
ロイの言葉に、リザはまたも赤面させられる。
彼はほっとした顔の後、少しだけ真面目な表情を作った。
「出来れば、そうやって笑っていてください、中尉」
「そう仰るんでしたら、もう少し真面目に事務仕事も片付けてください」
悔し紛れの彼女の言葉に、ロイは頭を掻いた。
「それは私に言われましても。まぁ、覚えていたら善処します」
そう答えたロイは違和感を覚えたような顔をすると、そのまま崩れるようにベッドに座り込んだ。
 
「すみません、少し眩暈が」
彼の言葉に、リザは慌ててベッドサイドに駆け寄った。
彼が記憶を失った事に気を取られてうっかりしていたが、彼は本来は銃で撃たれた怪我人なのだ。
「おそらく出血による貧血症状でしょう。大した事はありません」
「貴方、莫迦ですか。そんな冷静な判断をしている間に、さっさと横になってください!」
リザに叱られたロイはひどく辛そうな顔をすると、彼女にせき立てられるままベッドに横になった。
「すぐにドクターを呼んできますから」
駆け出すリザの背後で彼が何か言ったのが聞こえたが、彼女は構わず病室を飛び出していた。
これ以上彼の身に何か起こったら、と思うと居ても立ってもいられなかった。
彼女が医者と共に病室に戻った時には、ロイは意識を失っていた。
 
失血とショックによる一時的な血圧の降下だという医者の説明に胸をなでおろしたリザは、眠るロイのベッドサイドに座り込んだ。
血の気の薄い顔色のロイを見ていると、先程までのやり取りがまるで夢だったかのように思えてくる。
きっと次にロイが目覚めた時、彼は全ての記憶を取り戻しているだろう。
そんな予感が、何故か彼女にはあった。
目覚めた時、彼は記憶を失っていた間の事を覚えているのだろうか。
もし覚えていたとしても、きっと彼は何もなかったかのように振舞うに違いない。
それが、彼ら二人の間の暗黙のルールなのだから。
それはそれで、彼女にとっても彼にとっても苦い想いをもたらすのであろうけれども。
 
どんな時でも自分の心を掻き乱す力を持つ男の顔をじっと見つめ、リザはその頬にそっと触れる。
冷たい頬に指を滑らせ、彼女はただ彼が眼を覚ますのを待ち続けた。
 
Fin.
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【後書きの様なもの】
  大変大変お待たせいたしました。
 かえ様からのリクエスト「リザの秘伝継承以降の記憶を失ったロイ大佐」です。私の得意分野ですが、思っていた以上に微妙で複雑な二人に、触れたら壊れそうな関係性のロイアイって好きだなぁと改めてしみじみと致しました。
 リクエストいただき、どうも有り難うございました。少しでも気に入っていただけましたなら、嬉しく思います。

お気に召しましたなら

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