smooth over おまけ

まったく、どうしてくれようか。この男は。
眉間にしわを寄せたリザは、何とも複雑な思いでソファーで眠り込んでしまった男の姿を見下ろした。
部屋履きを脱いだ足を肘掛けの上に乗せたロイは、反対側の肘掛けを背もたれに本を読みかけたまま眠ってしまったらしい。
夕食後の腹のくちた状態で身体を横にすれば、勤務後の疲れも相まって眠ってしまうのも当然のことだろう。
だが、ほんの半時前、共に夕食を取っていた時には『少し論文に手を付けたいから、今日はアルコールは無しにするか』と言っていたのは彼自身だったのだ。
眠ってしまったら、飲んでも飲まなくても一緒ではないか。
腹の上に読みかけの本を伏せたまま、気持ち良さそうに寝息をたてるロイを見ながら、リザは呆れて溜め息を落とす。
彼女の手の中には淹れたての熱い珈琲の入ったマグカップが二つ、握りしめられていた。

さて、どうしたものか。
リザはソファーの前のローテーブルに、とりあえずマグカップを二つとも置くと、彼の足下に脱ぎ捨てられた部屋履きを真っ直ぐに並べ直した。
部屋履きにはまだ少し男の体温が残り、彼が眠りについてさほど時間が経っていないことを示していた。
共に一日を過ごしているわけだから、彼が疲れているのも分かっている。
だが、今夜リザをこの家に誘ったのは彼の方なのだ。
それなのに、勝手に眠ってしまうなんて。
リザは少し身を乗り出して、じっと至近距離で眠るロイの顔を覗き込んだ。
至近距離で見る男はいつも以上に年齢を感じさせない顔をして眠っている。
恐らく、彼の意識した表情がその顔に表れない所為だろう。
普段の彼が表す様々な感情が、彼を彼たらしめているのだと改めて思いながら、リザは様々な義務の届かぬ世界に眠る男を見つめる。
リザは少しだけ不機嫌を表情に出し、眠る男の傍らにぽすりと腰を下ろす。
微かにソファーのスプリングが軋んだが、ロイはまったく目を覚まそうとはしない。

プライベートで二人が共にある時間は、貴重だ。
だからと言って、彼らは互いを束縛することはしない。
彼らは一人の時間の大切さを知り、互いのそれを尊重する。
リザが新聞を読む時間。
ロイが論文を読む時間。
リザが銃の手入れをする時間。
ロイが錬金術に溺れる時間。
その合間に、彼らは互いが々空間にいることを確認し、同じ空気を共有する幸福を満喫する。
だから、たとえ彼が論文を書いていようが本を読んでいようが、同じ空間にいてくれれば、リザは彼の隣で珈琲を飲みながら『彼の隣にいる時間』を勝手に一人で堪能することが出来る。
例えば、彼の珈琲お代わりのタイミングを見計らったり、研究に集中するロイの横顔をこっそり愛でながら彼に見つからないか冷や冷やするスリルを味わったり。
そんな彼女の一人遊びも、ロイが目を覚ましていてこそなのだ。
彼が眠ってしまっては、彼女は置いてきぼりを食らった独りぼっちになってしまう。

一緒にいるのに、少し寂しい。
リザは小さな不満を抱えながら、男が大事に抱える本へと手を伸ばす。
胸に本を抱えた男は彼女の不満など知らぬげに、穏やかな眠りの中にいる。
疲れたロイをゆっくり休ませてあげたいと思う心と、少しの寂しさがリザの中でせめぎ合う。
小さな葛藤を抱え、リザは至極小さな声で彼を呼んだ。
「大佐」
リザは本を抱える彼の手の上に己の手を重ね、そっと彼に呼びかける。
当然のように、彼の答えはない。
「お風邪を引かれますよ?」
聞こえていないことが分かっていて、リザはまた言葉を続ける。
ロイはぴくりとも動かない。
「眠られるのでしたら、本は置かれたら如何ですか?」
そう言いながら、リザは彼の手をそっと持ち上げる。
脱力した男の大きな手はずしりと重く、リザは静かに彼の手を脇に避けた。
そっと本を取り上げても、彼は目を覚まさない。
リザは残念な様な、ホッとした様な思いで、彼の本を丁寧にローテーブルの上に置いた。

これで起きないのだから、仕方ない。
リザは今度は彼を起こさぬ様に、そっとソファーから立ち上がった。
静かに部屋を横切った彼女はパチリと部屋の電気を消すと、手探りでブランケットを手に取った。
ダイニングからこぼれる光に朧に浮かぶ部屋を再び横切り、リザは彼にブランケットを掛けようとソファーへと戻っていく。
薄闇に浮かぶ男の寝顔は、少し遠く、少し儚く、リザはなんとも言えぬ思いでしばらく彼の寝顔を見つめ、思い直した様にまたさっきと同じ位置にそっと腰を下ろした。
「大佐」
答えはない。
リザは少し不安になって、そっと彼の胸に耳を寄せる。
トクトクと命の音が耳元で響き、リザは少し安心する。
「大佐」
彼の胸の上で、リザはそっと呟く。
それは呼びかけではなく、まるで甘いお菓子を囓る様な彼女の為の呟きだった。
返事の代わりのトクトクと彼の心音がリザの耳に心地好く響く。
「大佐」
リザは口の中で飴玉を転がす様に、彼を呼ぶ。
頬に触れる暖かな体温と、呼吸に揺れる逞しい胸郭が彼女に返事をする。
「大佐」
目の前にある平らかな男の腹を、リザはそっと指で辿る。
油断した腹筋がそれでも彼女の指先にその凹凸を教え、リザはすっとワイシャツの上から彼の腹を愛でる。
滑る指先がズボンのベルトの上で止まり、リザは少し赤面して、そっと掌を彼の腹の上に戻す。
「大佐」
胸の奥底に秘めた想いの全てを込め、リザは彼を呼び、そして甘える様に彼の胸に寄り添った。
暖かく彼女を受け止める男の存在に、リザは不満を忘れた。
上官としてではなく、男としてでもなく、ただその存在で彼女を受け入れる温もりにリザは安堵し、そっと闇に目を閉じた。

     §
 
どのくらい時間が経っただろうか。
リザはハッとして目を覚ました。
男の温もりに溺れ、リザは彼と共に転た寝してしまった自分に気付く。
さっと身を起こせば、ロイはさっきと同じ体勢のまま眠りを貪っていた。
ああ、良かった。
もし、これで彼が先に目を覚ましていれば、きっと酷くからかわれたに違いない。
リザは彼より先に目覚めた幸運に感謝し、手に握りしめていたブランケットを彼に掛けると、静かにソファーを立った。
ローテーブルの上に置いた二つの珈琲はすっかり冷めてしまっていた。
リザはソファーから立ち上がると、冷たいマグカップを手にダイニングへと向かう。
眠る直前の自分の行動を思いだし少しだけ頬を赤らめた彼女の後ろで、何も知らず呑気に眠る男が静かに寝返りを打つ気配が闇に響いた。

Fin.

【後書きのようなもの】
 彼の知らない彼女の夜。

お気に召しましたなら。

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