smooth over

眠るつもりはなかったのだ。
ただ、夕食を食べ腹がくちくなると、どうにも瞼が重くて仕方なくなってしまった。
ほんの半時ほど。
そう思った筈が、もう時計は二三〇〇をさしている。
参ったな。
ロイはポケットから取り出した銀時計の蓋をパチリと閉めると、小さく伸びをした。
ソファーの上で中途半端に眠った所為で、首が痛かった。
彼女が掛けてくれたに違いないブランケットを脇に避け、ロイはソファーから立ち上がる。
よれよれになったワイシャツを手で払い、彼は不機嫌に眉をひそめた。
ああ、これで今日の予定が丸々狂ってしまった。
書きかけの自分の論文に少し手を付けるつもりだったのに、これでは何も出来ないではないか。
ロイはうっかり眠って一日の残り時間を無駄にしてしまった自分に腹を立てながら、キッチンの方を振り向いた。
部屋の電気は暗く落としてあり、ダイニングキッチンの入り口がぼんやりと明るく彼を誘っていた。

ダイニングに入れば、彼の予測通りリザがダイニングテーブルに座っていた。
「お目覚めですか?」
「ああ」
ロイの姿を認めた彼女の問いに答えながら、彼は冷蔵庫に向かう。
「珈琲でもご用意しますか?」
「あるもので構わないさ、気にしないでくれ」
彼はそう答えながら、冷蔵庫の中のビールの小瓶を取り出す。
「今日は酔われても大丈夫なのですか?」
「こんな時間から論文に取りかかっては、朝になってしまう。今日は諦めた」
「お起こしした方が良かったでしょうか。お疲れのようでしたので」
「起こして欲しい時は頼むさ、私のミスだ」
そう言いながらビールの栓を開けたロイは、お行儀悪く瓶に直接口を付ける。
芳醇な香りとすっきりとした炭酸が喉を流れ、ロイはくぅと喉を鳴らし、彼女の座るダイニングテーブルの向かいにどかりと腰を下ろした。
眠った彼に遠慮して、彼女はここで新聞を読んでいたらしい。
ロイは上から新聞の文字を眺めながら、二口目のビールを喉に流し込む。

「何か興味深い記事でも?」
「いえ、クロスワードを」
「ああ。好きだな、君も」
「はい」
そう言って視線を上げたロイは、彼女の頬に目をとめた。
「ん?」
「なんですか?」
リザの右の耳の少し手前、頬の上の辺りに微かな陰影があるのがロイの目に映る。
「怪我か?」
「なんでしょう」
どうやら彼女自身は気付いていないらしい。
リザは不審そうに彼の視線を受け止める。
ロイはスッと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
何かの陰影かと思ったそれは、少しの凹凸を持って彼の指に触れる。
どうやら、怪我ではないらしい。
なら一体何だ?
そう思ったロイはビールの瓶をテーブルに置くと、立ち上がって彼女の傍らに立つ。
角度を変えて見ると、それが何か彼には直ぐ分かった。
それはどうやら、ボタンの痕だった。
ロイは自分のよれたワイシャツを見下ろす。
前立てのボタンと、リザの頬の小さな丸い凹みは同じ大きさをしていた。

彼が転た寝している間に、彼女も一緒に少し眠ってしまったのだろう。
ロイは小さく笑った。
同じように働き、同じように飯を食い、同じように疲労を覚えて眠ってしまう。
まったく、そこまで上官に付き合わなくて良いものを。
しかも、彼より早く目覚めたのを良い事に、まるでずっと起きていたかのようなふりをしているなんて、まったくずるい女(ひと)だ。
ロイは彼女の頬をつつきながら、彼女に言う。
「ところで、君は私の何処を枕にして眠っていたのかね?」
「なんのことでしょう?」
「ボタンの跡が付いている」
リザは悪さを見つかった子供のように、きまりの悪そうな顔をする。
ロイはいつもは頭の上がらない厳しい副官の、可愛い女の顔を堪能するべく、意地の悪い笑みを浮かべて更に彼女を追い詰める。
「今日は私はカフスを使っているからな、腕枕はないとして。胸か? 腹か?」
リザは唇を少し振るわせたかと思うと、やにわに目の前に置かれたビールの瓶を取り上げると、彼が何かを言う間もなく一気にそれを飲み干した。
アルコールを勢いよく摂取したリザは、ドンとテーブルに瓶を置くと酒臭い息と共に自棄のように言い放つ。
「腹枕です! これで満足ですか!」
リザの子供染みた照れ隠しにロイは笑う。
「まったく、君は」
「大佐がそんなおっしゃり様をなさるからです!」
「ああ、分かった、分かった。すまない、私が悪かった」
ロイは座ったままそっぽを向くリザの頭を、柔らかに己の胸に抱き寄せる。
「ボタンの跡の付かない枕を提供するから、機嫌を直してくれ」
「知りません」
「リーザ」
「知りません!」
ロイはほんのり赤く染まったリザの耳朶に口付け、彼女に囁いた。
「長い夜を独りにして、すまなかった」
「……知りません」
少しだけ語勢の弱まった正直なリザに、彼は苦笑する。

無駄にしてしまった筈の夜には、まだもう少し一日のやり残しを片付ける余地がありそうだった。
彼はくしゃりと彼女の金の髪を撫で、あと一時間の今日の残り時間を共に過ごす為に、冷蔵庫に二本のビールを取りに向かった。

Fin.

【後書きのようなもの】
 本当はスパークの原稿書き上げるのが先なんだけれど、何か迸ったので書いてしまいました。疲れすぎてる時って変な脳内物質が出て、がーっとこう、何か、ね。
「静かな優しい夜」シリーズにしては、ちょっと賑やかでしょうかね。

お気に召しましたなら。

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