if【case 10】おまけ

聞き覚えのない女の声が、耳元で囁いた気がした。
驚きに目を開けば、眼前のスクリーンに大きな唇が蠢いている。
ロイは一瞬目をしばたたかせ、そして現状を理解する。
ああ、ここは映画館だった。
映画の中の女はどうやら映画の主人公に、某かの小言を言っているようだ。
あまりにシナリオが難解過ぎて、どうやら自分は途中で眠ってしまったものらしい。
さて、随分とシーンが飛んでいるようだが、自分はどのくらい眠っていたのだろう。
そう考えた次の瞬間。
彼ははっと現実を認識し、映画館の簡素な椅子の上で目を見開いた。

いくら小難しくてつまらない映画だったとは言え、彼女とのデートの最中に眠ってしまうとはなんたる失態だ。
彼女が怒っているか、呆れているかは分からないが、後でいつものように小言を食らうことは必定だ。
さて、どうする?
詫びの代わりに美味い晩飯で誤魔化されてはくれないものだろうか。
ちょっと高級なワインの一本や二本多めに頼まれても構わないから。

そう考え、ロイは恐る恐る隣をにいる彼女の様子をうかがう。
しかし、彼の心配は杞憂に終わった。
リザはスクリーンの中の女の声にもロイの動きにも反応せず、彼の隣の席でくぅくぅと小さな寝息を立てていた。
どうやら難解な映画のシナリオは、彼だけでなく彼女をも眠りの世界に引きずり込んだものらしい。
ロイはホッとすると同時に、自分たちの選択ミスに苦笑する。
とりあえず、リザが目を覚ますまでは彼にも執行猶予がついた。
その上、共に眠ってしまったのだから、怒られるにしてもロイにも多少の分がある。
ロイは少し安堵して顔を正面に戻し、スクリーンの中で喋り続ける意志の強い女の声に耳を傾けた。

スクリーンの中の女は抽象的な言葉で男を詰ると、部屋を出て行ってしまう。
ロイはぼんやりとその台詞の意味するところを考え、思う。
だいたいが単純なヒーロー物の映画の筈が、こんな難解な脚本を何故この監督はチョイスしたのだろう。
現実の世界でさえ事件解決に無い知恵を絞っているのだから、せめてフィクションの世界でくらいのんびりと平和な世界を満喫したいのだが。
そんな彼のささやかな願いさえ、現実には簡単には叶えて貰えないものらしい。
ロイはぼんやりと未だ眠りに片足を突っ込んだままの脳を働かせ、ヒロインの台詞から物語の整合性を見つけようと、眠っていた間の展開を推理し始める。
彼の探求心はどうしたってこの伏線を回収し、謎を解くことを考えずにいることを彼に許してはくれない。
我ながら面倒な男だ、と思う。
ロイはスクリーンの状況を分析することと自嘲を同時に頭の中で行いながら、ようやくはっきりと目を覚ます。

スクリーンの中の女は、主人公への夜食にワインを準備している。
研究に行き詰まった主人公への労いなのであろう。
途中の経過が全く分からないロイには、何故ヒロインが主人公の為にそこまでしてやるかが分からない。
いつの間に二人は急接近したのだろう?
ロイが悩んでいる間にもストーリーは進み、ワインの瓶におまじないをかけたヒロインは夜道を静かに歩き出す。

うむ、分からん。
ロイは遂に思考することを諦めた。
どれだけ眠ったか分からないが、シナリオを推察するにはあまりに手持ちの情報が少なすぎる。
彼はスクリーンの中の夜空を眺め、窮屈な椅子の上で小さく伸びをする。

今までに流石にワインは差し入れてもらったことはないな。
ロイは闇の中で己の身に映画のシーンを置き換え、静かに笑う。
彼の場合、むしろアルコールを摂取しながらの読書さえ彼女には窘められるくらいであるのだから。
まだ平和だった先週のある夜などは、一杯目を飲み終えたところで彼は彼女にバーボングラスを取り上げられた。
彼は取り上げられたグラスの代わりに差し出された、熱いブラック珈琲と一口サイズのピーナツバターを塗ったサンドイッチを思い出す。

ロイが一杯目のバーボンを飲み終えるまでは待ってくれる彼女の甘さ。
甘くない彼女の甘い差し入れ。
共に見るものに甘い恋愛映画を選べない彼らの甘くない日常。

それでも。

ロイは再び傍らで眠るリザの寝顔へと視線を向ける。
無防備に眠る彼女はいつもの副官の顔で、プライベートでもそうそう甘えてくれるわけではない。
それでも、彼の前ではこんな寝顔も晒してくれる。
安堵して眠ってくれる。

そう言えば、こんなはっきりと表情が見える程の明るさの中で、彼女の寝顔を見られることはあまりない。
それに、普段は至近距離でじっと見つめると彼女は照れてそっぽを向いてしまう。
闇の中、スクリーンに反射する光がリザの頬に落とす陰影を眺め、ロイは安らかな彼女の寝顔に小さな笑みを浮かべる。

難解な映画にも一つくらいは利点がある物だ。
ロイは、己が普段は背中を向けて表情を伺うことさえせぬ副官の寝顔を覗き込む。
そして、彼は難解なフィクションの世界の謎ではなく、単純の現実の世界の安らぎを楽しむことに己の思考を切り替えた。

 Fin.


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【後書きのような物】
 ちまちま書いてたら、ポメラのデータが飛んで呆然として書き直しました。久しぶりにやられたので、結構ショックが大きいです。バックアップ大事なのは、身に染みてるはずなのに。

お気に召しましたなら。

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