イデアの剣【中編】

一般回線から軍への電話を終えたリザは、再びロイの病室に向かいながら、今後について考えを巡らせていた。
ロイが作戦において受傷したことはまごう事なき事実であるのだから、一週間程度なら時間を稼ぐことは容易だ。
実際、軍部内への連絡と手配は比較的簡単に終わっている。
問題は、ロイの記憶がそれ以上の長期に渡って戻らなかった場合だ。
彼の不在の本当の理由を隠しておけるのは、最長で二週間と言うところだろう。
また、彼の有休は全くの未消化であるから、最悪で一ヶ月の療養期間を得ることは出来る。
だが、それ以上となると。
 
そこまで考えて、リザは行き詰まった。
焔の錬金術を持たず、軍人として経験した事の記憶全てを失ったままであれば、彼の未来は閉ざされたも同然だ。
例え士官学校生の彼が優秀な錬金術師であったとしても、火傷により失われた彼女の背から秘伝を読み取ることは不可能だから、彼の記憶が戻らぬ限り焔の錬金術は失われる。
彼を引きずり降ろしたい者たちは、この絶好のチャンスを逃しはしないだろう。
軍人として、ロイの補佐官として、また人の上に立つものとして、常に最悪の事態をも想定し、先回りに物事に対処する習慣を持つ彼女をもってしても、先に打つ手の一つすら考えつかなかった。
文字通り、運を天に任せるより他はない。
 
しかし、それ以上に何よりも。
今のロイにどう接して良いものか、リザには皆目見当もつかないのだ。
士官学校二年、ちょうど彼女の父と袂を分かち、それでも錬金術をこの国の為に役立てようと、輝かしい未来を夢見ていたであろう純真な青年の心を持った彼。
そんなロイに彼がどうやって焔の錬金術を継承したか、その術がイシュヴァールで何をもたらしたのか、ただの師匠の娘であった筈のリザが彼の副官となった経緯を、どうやって説明し信じさせるのか。
ましてやリザ自身が自分すら騙しながら保っている、上司部下でありながら曖昧で不確かながらも存在する二人の微妙な関係を説明することなど出来るわけがなかった。
自分だけが覚えている、二人が共有する記憶のあまりの膨大さにリザはため息すら忘れて唇を噛んだ。
 
もしも、彼の記憶が戻らなかったら。
その可能性はロイの政治生命の危機と同時に、リザの精神世界の根幹を揺るがす問題でもあった。
ロイがいるから、リザは共に血の河を渡り汚泥をすする未来を切り開く礎の一つとなる軍人の道を選んだ。
一人ではないから、リザは己の過去の瑕にも向き合ってこられた。
上司と部下でありながら、それ以上の存在として彼女を包容してきた男の存在の消失は恐怖に近い感情を彼女にもたらす。
だが、動揺している暇すら彼女には無いのだ。
今は目の前の問題に取り組むのが先だと、リザは階段を駆け上がった。
 
どこまでを記憶を失ったロイに説明し、どこまでを秘密にしておくか。
何よりも手強い難問に、ロイの病室の手前でリザはとりあえずの線引きをする。
ロイに接する態度は、いつもの上官である彼に対する時と同じにすること。
彼の無くした記憶については、全てノーコメントで通すこと。
士官学校二年の時点で彼が知っている人物の近況、及び国内外の動きについては、求められれば説明すること。
ただし、自分が彼の師匠の娘リザ・ホークアイである一点を除いて。
ロイが父の弟子だった頃の言動を思い出しながら、リザは過去と現在の境界があやふやになってしまった危うい部屋へと踏み込んでいった。
 
「中尉〜」
彼女が扉を開けた瞬間、心底情けない声を上げハボックが駆け寄ってくる。
ベッドの上に乗り出していたロイが素知らぬふりでシーツの隙間に潜り込むのをリザは目の端に捉えながら、好むと好まざるとに関わらずいつも貧乏くじを引く部下を慰労した。
「どうしたの? 少尉」
「あの人、ぜーったい士官学校の頃から今まで性格変わってないッスよ。中尉が帰ってくるまで迂闊な情報与えられねーし、あの人中身士官学校生のくせに誘導尋問めちゃくちゃ巧みだし、俺、もういつ何喋っちまうか気が気じゃなかったッス」
シーツに潜り込んだ男が、ハボックの愚痴にクスリと笑った。
「ミスター・マスタング
リザは手のかかる上官をキッと睨み付ける。
彼女の呼びかけにロイはコソリと顔をシーツの隙間からのぞかせると、悪戯な笑顔を浮かべた。
「どうも私は優秀な部下に恵まれているようですね。彼からは、現在の病状について以外、全く何の情報も得ることが出来ませんでした」
「当たり前ッス。俺だって軍人の端くれッスから」
「失礼しました。でも、それが出来ない者も少なくありませんから。ハボック少尉」
「だー! 敬語止めて下さい、頼んます! 大佐」
「なるほど、私の階級は大佐ですか」
「うわ〜! すんません、中尉!!」
 
莫迦のような二人のやりとりにリザは眉間に皺を寄せ、更にきつい視線でロイを見る。
ロイは彼女のあまりの剣幕に再びシーツの中に潜り込んで、その視線から逃げ出した。
リザはハボックに視線を移すと、直立不動で彼女のお叱りの言葉を待っているハボックの肩をポンと叩いた。
「交代するわ、お疲れ様。この異常な状況でよく耐えてくれたわね。階級に関しては仕方ないでしょう、私だって呼びにくいもの」
「ありがとうございます! 中尉」
ぱっと雲の切れ間から太陽がのぞくように明るい表情を一瞬で取り戻したハボックは、それでもロイの様子をうかがうようにそっとリザに耳打ちした。
「しかし、あれで士官学校生だったらホント末恐ろしいっすよ。部下には持ちたくないタイプッス」
「だから敵が多いんでしょ、未だに」
「ああ、なるほど」
リザの指摘にのんきに手を打って納得したハボックは、それでは失礼しますとスキップしそうな勢いでロイの病室を後にした。
余程ロイに敬語を使われるのがストレスだったのだろう。
リザは苦笑と共に、その背中を見送った。
 
「さて、と」
リザはロイのベッドサイドへと歩み寄ると、容赦なく彼のシーツを引っぺがした。
「あまり部下を苛めないで下さい、後でフォローするのは私なんですから」
「申し訳ありません、ペコー中尉」
「それから敬語はお止め下さい」
「努力はしますが、おそらく難しいと思われます」
「現状は把握して頂けましたでしょうか?」
「受け入れざるを得ないと痛感している次第です」
真面目な顔でそう答えるロイの姿に、リザは目眩を覚えた。
これは確かにやりにくい、ハボックが逃げ出すもの道理だ。
そう思いながらも、リザはそんな彼の様子に遠い遠い、まだ彼らが世界を知らなかった頃の過去を重ねてしまう。
あのまま大人になっていれば、二人はどうなっていただろう。
この人生すら交わることはなかったとしても、その方が彼にとっては幸福だったのではないだろうか。
ぼんやりとそう考えるリザを見つめていたロイは、ふと思いついたように彼女に鏡を所望した。
自分の外観が十数年経ってどう変わったか、興味のない人間はいないだろう。
リザは病室に備え付けの鏡を彼に手渡し、恐る恐るそれを覗き込む彼を見守った。
 
「うわっ」
鏡を見たロイは、一瞬顔をひきつらせボソリと呟いた。
「童顔のまま、おっさんになってる……」
悲愴な顔をするロイの予想外の呟きに、リザは思わず吹き出した。
自分がこれほどまでに様々なことに頭を悩ませていると言うのに、何を言い出すのかと思えばこの男は、なんとのんきな。
リザがそう思いながらロイを見ると、彼は悪戯な表情で彼女に微笑み返す。
そして、柔らかな口調でこう言った。
「ああ、ようやく笑ってくれましたね。お会いしてからずっと、貴女は難しい顔ばかりしているから」
ロイの言葉に、リザは思わず赤面する。
まったく。
この男はこういう面だけは、今も昔も変わらないのか。
返す言葉もないリザに、ロイは神妙な顔で彼女をじっと見つめ、それから自分の鼻の頭を指さしてみせた。
「それは、この男のせいですか?」
あまりに端的な問いにリザは一瞬答えに詰まったが、いかにも仕方ないといった体を装い、彼の問いを肯定してみせた。
「そうですね、否定は出来ません」
「参考までに、貴女にとって私はどんな上官だったのでしょうか?」
礼儀正しい彼の言葉に、リザは脳裏に浮かぶ父親と話す彼の姿を打ち消しながら、なるべく普段のロイに話すのと同じように答えた。
「どちらかと言えば有能で、やれば出来るくせにサボリ魔で仕事をため込む困った上官、でしょうか」
「手厳しいですね。授業はサボらず出ている……事がほとんどですが」
ロイは少年の顔で困ったように答えた。
 
リザはすまして、彼の言葉をはぐらかす。
「十年一昔と申します」
「その間にいったい何があったのでしょう」
「おそらく、様々なことを経験されていらしたのではないでしょうか」
「貴女はご存じないのですか? ペコー中尉」
リザは微笑でそれ以上の彼の質問を受け付けなかった。
それでも、ロイは少しためらって彼女に尋ねた。
「私は少佐相当官から出発して、今の地位に就いたのでしょうか? 20代で大佐は早いと思うのですが」
つまり、彼は自分が国家錬金術師になったのかを知りたいのだ。
リザは微笑を保ったまま、口を閉じた。
「私が錬金術を使うことを、貴女はご存じですか?」
ハボック相手とは違って彼女にはストレートにものを聞く作戦で来るらしいロイに、リザは無言を貫き通す。
 
言えない、言ったが最後全てを説明しなくてはならなくなる。
それがショック療法になって彼が記憶を取り戻すかもしれないが、リザはそんな危ない橋を渡る気にはなれなかった。
そう言えば、彼の症状と対応について医者の意見も聞いておかなければ。
うっかり様々な事に気を取られ、そんな重大なことを忘れた自分に半ば腹を立てながら、リザはロイの質問攻めから逃げ出すように席を立った。
「申し訳ありませんが、もうひとつ手配をして参ります。すぐに戻りますが、決してこの部屋を出られませんよう、お願いいたします。部屋の前には警備の兵を手配してありますので」
「分かりました」
彼女の頑固さに匙を投げたのだろう、ロイは素直に彼女の言葉に頷いた。
リザは少しホッとしてクルリと彼に背を向けると、扉へと向かった。
もう一度体勢を立て直して、彼と向きあおう。
そう思ってリザがドアノブに手をかけた瞬間、背後から懐かしい優しい声が彼女を呼び止めた。
 
「リザ」
 
 思いもかけぬ呼びかけにハッとして振り向いた彼女と、驚きと納得とがない交ぜになった表情で彼女を見つめる彼の視線がぶつかった。
しまった。
そう思っても全てが遅かった。
人間は自分の名前には必ず反応するものだ。
潜入捜査の訓練はしていても、自分にとって特別な男にファーストネームを呼ばれることはパブロフの犬よりも忠実に彼女を条件反射に導く。
臍をかむリザを前に、目を丸く見開いた男はベッドからゆらりと立ち上がった。
「やはり、貴女はリザだったのですか?」
ドアノブを後ろ手に握りしめたまま、リザは自分の方へ歩いてくるロイを呆然と見つめるしかなかった。
 
 To be continued.