打ち上げ花火

梨紗と増田が花火大会に行く約束をしたのは、ほんの一週間程前のことだった。

増田と共に過ごす初めての夏は、忙しなく過ぎていた。
まぁ、忙しないと言っても二人の関係が劇的に変化したとか言うわけではなく、単純に増田の仕事が忙しいだけなのだが。
陸上部の練習に、夏の補習授業に、と夏休みであることなど関係ないほどに、増田は毎日のように学校に通っていた。
遠征についていったり、合宿があったり、よくもこれだけ行事があるものだと思う程に、教師というものは生徒に付き合わねばならないものらしい。
会う度に裏も表もわからないほどに真っ黒になっていく増田からの連絡を待ちながら、梨紗は概ねいつも通りの夏を過ごしていた。
そんな夏も終わりに近いある日のこと。
生物学準備室の生き物たちの世話をしに学校に行き、部活帰りの増田と学校から少し離れた喫茶店で待ち合わせをした梨紗に、増田は思いがけないことを言った。

「週末、花火大会に行かないか?」
「え? 部活があるんじゃないんですか?」
思わずそう問い返した梨紗に、増田はまじめな顔で答えてきた。
「君、夏休みが後何日で終わるか知ってるか?」
「今日を入れて一週間と少し、ですが」
「夏休みの終わりと言えば?」
高校野球の決勝戦?」
「違う、それは終わった! ……君は相変わらず微妙に世間とズレてるな。そうじゃなくて夏休みの宿題だろう」
「ああ!」
そう言われて、梨紗はようやく増田の言葉の意味を理解する。
そんな彼女の様子に増田は生真面目な表情を作って、彼女に問うた。
「君、早めに宿題終わらせる派だったのか?」
「えっと、強いて言うのでしたら七月中に終わらせる派、でしょうか」
「君らしいと言うか、何と言うか」
笑って答える彼女の言葉を信じられないというような顔で聞き、増田は大きく溜め息をついた。
「生徒が君みたいなのばかりだったら、俺もこんな苦労はしないんだがなぁ」
「そういう増田先生は?」
「俺? 俺は、計画的にラスト一週間で仕上げる派」
増田の言い様に、今度は梨紗が笑った。
「ああ。何となく分かる気がします」
「そこ納得されてもなぁ」
増田は何とも微妙な顔をしている。

こんな他愛もない会話から、少しずつ自分の知らない増田の過去の姿が見えるのが梨紗には嬉しい。
学生の頃の増田は、どんな学生だったのか。
何となく今とそれほど変わらないような気もするのだが、そうならばあまり生徒には持ちたくないタイプだと思う。
勝手な自分の思考に梨紗は表情を緩めた。
「増田先生らしいと思いますけれど」
「そうか? 何だか褒められているのか何なのか、複雑な気分だ」
難しい顔をしそうな増田に、梨紗は話を振り出しに戻すことにした。
「それで、花火大会の話なんですけれど」
「ああ、そうだった」
「つまり先刻までのお話を要約すると、子供達に宿題を仕上げる猶予を与える代わりに、貴方は空き時間を手に入れられた、と言うことですね」
「ご明察」
そう言った増田は眉をひそめていた表情を、ぱっと明るいものに切り替え彼女を誘った。
「だから、花火でも見に行かないか? 折角なんだから、浴衣でも着て来れば?」
「この暑いのに、浴衣なんて絶対無理です」
梨紗の扱いをよく心得ている増田は、それ以上は浴衣については何も言わないことにしたらしい。
「じゃ、浴衣は置いておくとして。とりあえず花火大会は」
「行きます」
梨紗はにこりと笑って、彼の提案を喜ばしい想いで受け入れたのだった。

          §

そして、花火大会の当日。
待ち合わせの場所に定刻通り現れた梨紗の姿を見た増田は、いつもより半オクターブほど高い驚きの声を上げながら破顔した。
「何だ、結局浴衣なんじゃないか!」
彼女の頭の天辺から爪先までを遠慮なく観賞する増田の視線に耳朶を紅く染めながら、梨紗はぶっきらぼうに答えた。
「だって、貴方が『折角なんだから、浴衣でも着て来れば?』って、おっしゃったんじゃないですか」
「だって、きみが『この暑いのに、浴衣なんて絶対無理です』って、言ってたんじゃないか」
梨紗の言葉を裏返しにして、彼女の話し方を真似る増田の困った意地悪に、梨紗はぶすりと機嫌の悪い顔を作る。
その表情すら半ば照れ隠しであることは、増田には知られているだろう。
それに、およそデートという気負いも見えぬTシャツにジーンズという出で立ちの増田に対し、気合いを入れて浴衣など着てきてしまった自分がとても恥ずかしい。
浴衣の袖を握りしめ僅かにうつむく梨紗に向かって、増田は笑顔のままゆっくりと歩み寄ってくる。

「本当に君は、いつだってツンデレのテンプレみたいなことをしてくれる女(ひと)だな」
しかも、こんな風に耳元であの良い声で囁かれてしまっては、梨紗に勝ち目はない。
それでも梨紗は無駄な抵抗を諦めず、キッと視線をあげた。
「他に言い様はないんですか? 折角暑いのを我慢してきたのに」
梨紗は増田の言い様に、更に抗議の声を上げる。
だが、この敵はいつだって梨紗よりも一枚上手なのだ。
「ああ、すまなかった。可愛いよ」
梨紗の視線を真っ向から受け止め、増田は臆面もなく言葉を続けた。
「いや、可愛いと言うより綺麗だな。シンプルな茄子紺が君らしいし、高い位置で髪を上げてるのもいつもと雰囲気が違っていいな」
「……もう、いいです」
歯の浮くような褒め言葉の大安売りをしながら大変素直な調子でニコニコと微笑まれては、梨紗とて怒ったままではいられない。
ただでさえ浴衣の帯の辺りが暑いというのに、暑いせいなのだか何だかよく分からない汗が出てくる。
「早く行きましょう、良い場所がなくなってしまいますよ?」
梨紗は熱くなる頬を隠そうと、くるりと増田に背を向け歩き出す。
「はいはい、分かったよ」
そんな彼女の背中を笑みを含んだ増田の言葉が追いかけてくる。
梨紗は表情を硬くしたまま、慣れぬ下駄でゆっくり歩く。
梨紗を追い越さぬよう増田は、彼女の歩幅に合わせてついてくる。
その詰めすぎぬ距離が、照れを隠せぬ梨紗にはありがたい。
二人は花火大会の会場に向かって、縦に並んで歩き出した。

           §

ところが、それから三〇分後。

梨紗は増田と横に並んで歩きながら、途方に暮れていた。
何故、こんな慣れないことをしてしまったのだろう。
後悔と言うには多分に羞恥を含んだ感情を抱えながら、梨紗は小首を傾げるように傍らの男を見上げた。
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけてしまって」
「迷惑なんてことはないさ。しかし、こればっかりは俺にはどう手助けすることも出来ないからな。こっちこそ、すまない」
横並びに歩く二人は互いに謝りあい、互いに困った顔を見合わせた。
人の流れに流されながら歩く二人の会話は楽しげな人混みの熱気の中に埋もれ、先ほどから堂々巡りを繰り返している。
その状況がなんだか少し可笑しくなって、梨紗は困った顔のまま何となく苦笑する。
ようやく困った顔を解いた梨紗の姿に、増田は自分も表情を緩めた。
そして、梨紗の肩に手をかけると、彼女を人混みから少し離れて立ち止まれる場所へと誘導した。
「どうする? このまま帰ろうか?」
「でも、せっかく来たんですし。それに帰るにしても、このままでは……」
「それもそうか」
緩んだ帯を押さえ困った顔に逆戻りする浴衣姿の梨紗を眺め、増田は彼女につられたようにまた渋面を作った。

いつ解けたのか分からない。
多分、人混みで子供にぶつかられた時に帯が引っ掛かったのだと思う。
しかし、こんな人混みの中では帯を回して直す事も出来ないし、いくら増田が器用でも浴衣の帯を直す事は無理だろう。
後ろがだらりと垂れた帯を増田に持ってもらい、梨紗はどうしようか思案に暮れる。
「この状態では結び直せないのか? まぁ、ちょうちょ結びって訳にはいかなさそうだが」
「ちょっと難しいです、というか多分、無理です。すみません」
「だから、謝らなくていい」
増田はどうするべきか考えるように、手に持った梨紗の浴衣の帯を見つめている。
そのうちに、なんとなく増田の口元が微かに緩んだ、気がした。
慣れた増田との付き合いに、梨紗は彼の思考を読む。
梨紗はむっとした顔をして、唇を尖らせた。

「今、何か悪いことを考えていらしたでしょう?」
恐らく無意識だったのだろう、増田はぱっと己の口元を隠した。
「隠しても無駄ですよ」
梨紗は分かり易い増田の反応に苦笑した。
「帯がどうかしましたか?」
「いや、その」
「正直におっしゃったら、許して差し上げます」
「その、だな」
「なんですか?」
「いや、ほら、今これを引っ張ったらどうなるかなーっと思って」
あまりに莫迦な男の発想に、梨紗は思わず脱力した。
よくテレビのコントなどである、帯回しでも連想していたのだろう。
「ホント、男の人って莫迦ですね」
「……すまない」
増田は帯を抱えたまま、頭を掻いた。
「そんなの引っ張っても、二回転もしないで終わりですよ?」
「え、そうなのか?」
分かり易くがっかりする増田が可笑しくて、梨紗は結局笑ってしまった。

増田は決まり悪そうに自分も笑うと、ふっと肩の力が抜けたように抱えた帯ごと梨紗の身体を抱き寄せると、回れ右をした。
「増田先生?」
「よし、とりあえず駅まで戻ろう。花火までまだ時間はあるし、駅まで戻れば化粧室で帯直せるだろう?」
「でも、今駅まで戻ったら花火の時間に間に合わなくなってしまいますよ?」
「どこで見ても花火は花火さ」
「今なら、まだ特等席も間に合うのに」
「君が困ったままなのは、困る」
そう言いながら、増田はもうさっき来た道を引き返し始めた。
「せっかく、ここまで来たのに申し訳ないです」
「せっかく、浴衣を着てきてくれたのに申し訳ないだろ?」
梨紗の言葉を裏返しにして、彼女の話し方を真似る増田の困った優しさに、梨紗は困った笑顔を作る。
梨紗を促すように、増田は更に言い足した。
「それに花火は来年だって見られるから」
当たり前のようにそう言う増田に、梨紗は困った笑顔を喜びの笑顔に変えた。
「来年も、ですか?」
梨紗の想いを汲んで、男は笑う。
「来年だけじゃなく、再来年も、その先も。君が俺に愛想を尽かさない限り」
その言葉に、今度は梨紗が肩の力を抜いた。
彼女は抵抗を止め、増田に促されるままに花火大会の会場へと向かう人の波に逆らって歩き始めた。

そして彼らは来た時の倍の時間をかけて、駅の改札まで辿り着く。
そんな彼らの背後で、夏の終わりを告げる打ち上げ花火が腹に響く音を立てて打ち上がった。

迷ったけれど、やはり浴衣を着てきて良かったのかもしれない。
口元に微かな笑みを浮かべた梨紗は、男の手に帯を預けたまま、遠くても十分美しい花火を二人で一緒に見上げたのだった。

 Fin.


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【後書きのような物】
 一〇〇万回転お礼リクエストより『先生パラレル「浴衣デート」』です。さて、あとは別館でもの凄く良いところで五ヶ月ばかりお預けを食らっている増田先生を何とかしてあげなくては。(笑)
 お気に召しましたなら。

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