月とライダー 後編

増田と別れた梨紗は、一人ほたほたと暗い住宅街を抜ける道を歩いていた。
まだ早い時間にも関わらず、閑静な住宅街はひっそりと闇に静まり返っている。
梨紗は久しぶりに履いたヒールでできた靴擦れが痛む足をなだめながら、街路樹の生い茂る枝の隙間から差し込む月光を見上げた。
カツコツと痛みによろけるヒールの音にうんざりしながら、梨紗はハンドバッグを小さく振り回す。
時間が経つにつれ、怒りにも似た落胆の感情は、いつしかやるせない失望に変わっていた。
なんて自分は人を見る目がないのだろう。
増田が見せた一種の気紛れに惑わされた、自分の愚かさに嫌気がさすほどだ。
久しぶりに引っ張りだしたカシュクール仕立ての桜色のワンピースの裾が、月光にひらめくのも空しい。
梨紗は、小さく溜め息をつく。
 
その時。
不意に背後から、バイクのエンジン音が響いてきた。
帰宅途中の誰かが通るのだろう、そう思った梨紗はバイクをやり過ごそうと、ひょいと道路脇に避けた。
だが、さっさと行き過ぎるだろうと思っていたバイクは、梨紗の予想に反して減速してなかなか彼女を抜かない。
不思議に思った梨紗が振り向こうとした時。
不意に大きな手が、彼女の身体を掴んだ。
しかも、尻を。
驚きのあまり声をなくす梨紗の脇を、小さな原付が滑り抜ける。
彼女の目の前で止まった原付には、フルフェイスのヘルメットを被った巨漢がブルブルと肉を震わせて乗っていた。
梨紗の方からはミラー加工のヘルメットで相手の顔は見えないが、流石にその目的は分かった。
 
バイクに乗った変質者!
 
梨紗は胸の前でハンドバッグをぎゅっと握りしめ、じりじりと後退し近くのブロック塀に背を預けた。
相手は梨紗の動きに全く反応せず、じっと彼女の様子を窺っている。
梨紗は半ばパニックを起こした頭脳を必死で働かせる。
対バイクを相手に逃げることは不可能だ、しかも今の梨紗はパンプス+靴擦れのダブルコンボの不利を背負っている。
人通りの少ない住宅街、通りすがりの救援は望めまい。
大声を出したとしても、誰かが来てくれる前に怒った相手にバイクで体当たりでもされたら死ぬかもしれないし、鞄なんかを振り回したところで、あのデブは絶対倒せない自信がある。
そして、彼女がそんなことを考えている間に、変質者は少しずつ彼女との間を詰めてきている。
梨紗は奇妙な程冷静に、状況を判断する。
つまり、だ。
今現在の梨紗は、絶体絶命の窮地に立たされているというわけだ。
ジクジクと痛む靴擦れが、更なる絶望感を増す。
それもこれも、みんな、あのバカ男、軽薄で女誑しで胡散臭いあの男のせいなのだ。
梨紗は腹立ち紛れに、胸の内で叫ぶ。
 
“増田英雄のバカ野郎!!”
 
ブォン。
すると、その声に呼応するかのように、彼女の来た方向から大きな爆音が聞こえた。
はっと梨紗が振り向く間に、点のようなヘッドライトの光りが見る見るうちに近づいてくる。
ざっと梨紗の前に滑り込むように停止したそれは、彼女の目の前で闇に隠れた巨大なバイクの形を現す。
何が起こったのか分からず、吃驚して眼を瞬かせる梨紗の前に、にゅっとヘルメットが突き出される。
「乗って!」
黒のライダースジャケット、ラフなチノパン、そして、この憎たらしい声。
これは……
「増田先生!? どうして此処に?」
「いいから、早く!」
増田は原付を威嚇するようにヘッドライトを真っ直ぐに相手に向け、エンジンを噴かす。
「でも、私スカートで……」
そう言い淀む梨紗を振り向き、男は怒鳴った。
「いいから、さっさと乗れ! 話は後だ!」
人に命令することに慣れた男の剣幕に梨紗はびくりと黙り込み、急いでハーフのヘルメットを被る。
そして、増田が傾けたバイクの後ろに横座りに乗り込んだ。
「あの、足下熱いんですけど」
「仕方ないだろう、マフラーがあるんだから」
「マフラーって、首に巻くあの……」
「ボケてる場合かっ! 出すぞ、黙って掴まってろ!」
増田はヘルメットの中で呻くと、遂に梨紗の言葉を無視してバイクを急発進させる。
梨紗は突然かかるG(重力)に面食らいつつ、必死に増田にしがみついた。
頬にチクチクと当たる何かを気にしながら、梨紗はばっと振り向き、原付が追いかけてこないことを確認すると、混乱の中にも己がとりあえずの危機を脱したことを感じ、ようやくほっと胸をなで下ろした。
 
少し落ち着きを取り戻し彼女は、どこに向かっているのか分からぬまま、己の身を委ねる男の背中に視線を移す。
生物室の窓から眺めていたその背中は、思っていた以上に広くて逞しかった。
どうにも少し格好良く見えてしまうのは、きっと窮地を救われた吊り橋効果に違いない。
梨紗は自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと眼を閉じるとその背をみないように、ただ黙って単車の振動に身を任せたのだった。
 
暫くバイクは走り続け、やがて二人が最初に落ち合った駅前のロータリーで、増田はバイクを止めた。
靴擦れを庇ってヨタヨタとバイクから降りる梨紗を待ち切れぬように、増田は己のヘルメットをかなぐり捨てるように脱ぐと、凄まじい形相で大声を上げた。
「君は莫迦か? 先週の職員会議での教頭の話を聞いていなかったのか? あの辺に最近変質者が頻出しているから、暗くなってからは単独行動はするなと」
「それは、生徒の話でしょう?」
ヘルメットを脱ぎながら、梨紗は増田の言葉を途中で遮ると、彼に負けないよう声を張り上げ反論する。
「君は女だろう」
増田は呆気にとられた表情をすると、再び眉をつり上げまるで彼女に思い知らせようとするかの如くその細い手首を掴み、あの独特の低い声で切り返す。
「君ね、釈迦に説法かもしれないが、君の性染色体上にはX因子が二つ並んでいて、生物学的に君は雌性体だ。ホモサピエンスにおいて雌性体は筋力・体力において雄性体に劣ることが多い、違ったか?」
彼女の細い手首をすっぽりと大きな手の中に掴んだ増田は、如何にもイヤミな口調で滔々と説教を垂れ始める。
ほら、やっぱりイヤな男じゃないか。
梨紗は自分の錯覚を脇に追いやり、ギッと増田をねめつけ、その手を振り払おうとする。
が、男の腕力はそれを許さない。
どうにもならぬ力の差は、梨紗に先程の痴漢の恐怖を思い出させた。
彼女はどうしようもなく、自分の手が震え出すのを止められなくなる。
彼女の恐怖はすぐに増田にも伝わったらしい。
男はハッとした顔で彼女の手を離すと、ひどくバツの悪い顔をして、
「すまない」
と、ぼそりと言うと黙り込んだ。
梨紗は、こんな男に弱みを見せたことが悔しかった。
が、それでも救われたことに変わりはないと思い直し、短く謝礼を言うと、ヘルメットを返そうとまだ震えの残る手でヘルメットを持ち直した。
と、梨紗の指先が何か薄くて堅いものに触れた。
そう言えばさっきヘルメットを被った時に、頬がチクチクしたのだった。
彼女は何気なく指に触れたものに視線を落とす。
 
『¥10,500-』
 
「?」
梨紗は改めて、明るい場所でまじまじとヘルメットを眺める。
白の地に淡いピンクのラインの入ったヘルメットは、どう見ても増田が被りそうもない代物だ。
彼女は視線を上げ、真っ直ぐに男を見た。
「増田先生?」
思わず声を上げる梨紗に、増田は面倒臭そうに視線を寄越す。
「何?」
問い返す男の不貞腐れたように少し唇を尖らせた表情が、妙に子供っぽい。
梨紗は手の震えを忘れ、控えめに問う。
「増田先生? あの、このヘルメット……値札が付いてるんですけど」
「え!」
増田は一瞬虚を衝かれ驚きに目を見開き、バッと梨紗の手からヘルメットを取り上げて自身でそれを確認するや否や、バイクに片手を付いて顔を伏せた。
梨紗の目の前で、みるみる増田の耳からうなじが真っ赤に染まっていく。 
「え?」
目の前の光景が信じられず、梨紗は思わずもう一度声を上げた。
「えーっと、増田先生?」
「見るな」
「あの」
「頼むから、見ないでくれ……」
先程までの伊達男振りが嘘のような反応に、梨紗は呆気にとられる。
百面相を繰り広げ、蛸のように赤くなっている増田の姿をしばらく眺めているうちに、梨紗は怒りが薄れ自分の顔が笑いの形になるのをどうにも止められなくなってしまう。
なに、この反応は? ちょっと反則じゃない。
 
梨紗は確認するように、増田に尋ねる。
「わざわざ、買ってきてくださったんですか?」
増田の返事はない。
さすがに意地が悪かったかと、梨紗は質問を変える。
「どうして、引き返してきてくださったんですか?」
「……君、そういう事に酷く無防備で無頓着そうだから。万一のことがあったら、寝覚めが悪い」
顔を伏せたまま、増田はぼそりと答えた。
普段生徒に目を配っているだけあって、観察眼はしっかりしてるというわけか。
梨紗は苦笑する。
「いやな女だと思ってらしたでしょうに」
「君、言い難い事をはっきり言う女だな」
「性分です」
「ああ、確かにそのようだ」
増田は額に手を置いたまま、なんとか体勢を立て直し梨紗と相対する。
その表情からはさっき共に食事をしていた時の胡散臭い笑みは消え、梨紗が遠くから見守ってきた彼の素の表情が少しだけ顔をのぞかせている。
「君だって、酷く退屈してただろ」
「だって、雑誌に載ってるようなことばかり話されるから」
梨紗がそう言うと、増田は乾いた笑いを漏らした。
「ま、否定はしないよ」
「で、そのヘルメットなんですけど」
「君、本当に容赦ないな」
増田は嘆息して、自棄のように一息に言う。
「ああ、そうだよ。万が一、君を送っていくようなことがあったらと思って、わざわざ用意した。サイズが合ってないと危険だし、俺のヘルメットじゃゴツ過ぎる」
「なら、バイクじゃなくて車で来られれば良かったのに。あの、いつも学校に乗ってきておられるRパン三世みたな可愛らしいの」
梨紗がそう返すと、不意に増田は表情を真剣なものに変える。
「違う! Rパンが乗っているのはFィアットのTィンクエチェント! 俺のはRーバーのミニだ。Cティ・ハンターのS羽遼が乗ってるやつ! あ、同じミニでもBエムダブリューが現行生産してるのとは別ものだから。あと、ちなみにRパンのKリオストロの城でKラリスが乗ってるのはCトロエンのDシヴォーで、あれもいい車なんだが」
立て板に水の勢いで目を輝かせて喋る増田は、呆気に取られてぽかんとしている梨紗の視線に気づき、はっと口を噤んだ。
「すまない、つい」
「いえ、良いんですけど、あの、増田先生ってひょっとしてオタクなんですか? RパンとかCラリスとか」
彼女の言葉に、男は更に気色ばむ。
「違う! 車に疎い人間に車種を説明する時、この説明が一番分かってもらいやすいんだ」
「それは、つまり」
増田は開き直ったように言う。
「平たく言えば、カー・マニア。といより走るのが好きなんだ。車でも、バイクでも、自分の足でも」
だから、陸上部なのか。
梨紗は妙な部分で感心する。
「なら、最初からそういうお話をしてくだされば良かったのに」
梨紗の言葉に増田は一瞬吃驚した顔をして、それからふっと生徒たちに見せるのと同じ種類の笑顔をのぞかせた。
「君、面白い女だな。車の話をして、喜ぶ女性に会ったことなんてないよ。大抵、『つまらなーい』なんて言われて、買い物やケーキ屋の話に持っていかれる」
「例え車に興味がなくても、借りてきた言葉じゃなくて増田先生自身の言葉で話されることの方が、よっぽど退屈じゃないと思うんですけれど」
「君、本当にストレートにものを言う女だな」
増田は心底可笑しそうに言う。
梨紗は済ました顔で答えてやった。
「何を今更」
「まぁ、確かに。生徒指導でやりあった時も大概ボロカスに言われたんだった」
「あの時は!」
「お互い様だって?」
食事をしていた時よりも、よほど弾む会話に二人は顔を見合わせ笑いあう。
 
笑いを収めた二人は暫く黙り込み、相手の様子を窺うようにみつめあった。
やがて増田は意を決したように、手の中のヘルメットの値札を力任せに引き千切り、無造作に紙片をポケットに突っ込んだ。
そして、いったん返されたそれを再び梨紗の方へと突き出す。
「もし、君さえ良ければ、もう一度仕切りなおしのチャンスをくれないか? これだけ長い時間君と一緒にいるのに、俺は君の事をほとんど知らない」
梨紗は少し考えてから、そのヘルメットを受け取った。
「そうですね。生徒にだって追試のチャンスはあるんですから」
「お手柔らかに頼むよ」
そう言った増田はバイクに跨り、彼女に後部座席に乗るように促した。
 
「何処へ?」
「まずは薬局かな。君、盛大に靴擦れ作ってるだろ」
何も言っていないのに何故気づいたのだろう? そう思ったのが顔に出たのだろう。
男はふんと鼻を鳴らす。
「陸上部顧問をなめてもらっちゃ困る」
そう答えた男の顔は、第一問は突破したと言わんばかりに自信たっぷりだ。
梨紗はクスリと笑うとそんな男の広い背中に手を沿え、この背に身を委ねる未来が続くかどうか少しだけ考え、頭上で彼らを追いかける月を見上げたのだった。
 
 Fin.
 
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【後書きのようなもの】
 大変お待たせいたしました。
 naruse様からのリクエストで「先生同士のパラレル」、及びよしの様からのリクエストで「「分水嶺」の増田先生が鷹目先生を口説く話」です。ひゃ〜、長い! これでも一割ほど削ったんですけど。やっぱり、この二人書くの好き過ぎる! この削った分は、ちょっと使いたいですね〜、ふっふっふ。あと、伏せ字に関しては察して下さい。(笑)
 リクエストいただき、どうも有り難うございました。少しでも気に入っていただけましたなら、嬉しく思います。
 
お気に召しましたなら

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