Route 611

「確かにアインシュタインは、相対性理論が破綻することを前提に全ての仮説を打ち立てていたとは言え、まさかそれが立証される可能性が出てくるとはね」
熱いエスプレッソのカップを置いた増田は、そう言って子供のように目を輝かせて遙か窓の外の青空に視線を泳がせた。
男の視線が蒼天よりも更に遠くを見ていることは、明らかだった。
朝の静かなカフェの窓際の席で、梨紗は呆れるのを通り越して、思わず笑ってしまいそうになった。
昨夜のニュースを見た時から予測はしていたけれど、ここまであからさまだとは。
それでも彼女はそんな様子はおくびにも出さず、神妙な顔つきで、エキサイトして喋り続ける男の言葉に耳を傾けてやる。
「この実験に再現性が認められれば、今度は本当に物理学の歴史における大事件だ」
増田の蘊蓄は、まだまだ終わりそうにない。
梨紗は火傷しそうなほど熱々の焼きたてのパニーニを口に運びながら、少しだけ唇を笑いの形に歪めた。

彼らが久しぶりの遠出のデートの目的地に選んだのは、バイクで一時間ほどの海沿いの港町であった。
整備された港沿いの公園と旧居留地の街並み、デートスポットとしては申し分ないロケーションである。
学校での落ち着かない逢瀬や、夕食を共にするデートとも呼べないデートは頻繁に行われてはいたものの、部活の指導で休みが潰れがちな増田と終日共にいられるデートは二人にとって貴重なものであった。
だが、そのデートの前日、梨紗は何気なく見ていたネットのニュースに気懸かりな見出しを見つけてしまった。
物理学の不得手な梨紗でさえ、これまでの常識を覆しかねない世紀の大発見とも言えるそのニュースに驚きを禁じ得なかった。
これが、変態的に物理と数学を愛する増田にどう影響するか。
梨紗は半ば諦めの溜め息をつきながら、それでもデートの為に早めにベッドに入ったのであった。

梨紗の予測は見事に、それはそれは呆れるほど見事に的中した。
軽い朝食をとるために入ったカフェで席に着いた途端、増田は梨紗に物理学の講義を始めるのではないかという勢いで、昨夜のニュースについて語り続けた。
本当に興味のあることに関しては、野生馬のごとく止まることを知らない。
まるで子供のようだ。
梨紗は半ば微笑ましく、半ば呆れながら、彼の話を聞き続ける。

もちろん、増田の話がつまらないと思うことも、蘊蓄が鬱陶しいと思うこともないではない。
だが、それを圧倒する新しい世界の扉を、増田は梨紗に開いてくれる。
今まで見向きもしなかった世界が与える新鮮な驚きと、視点の転換による発見を楽しむことを、梨紗は彼に教えられた。
例えば、アインシュタインはあの舌を出した写真の印象通り、ユーモアをもってあの写真のポーズを取ったと梨紗は思っていた。
ところが増田の話によると、彼は写真なんて大嫌いだったというのだ。
あの写真は記者への嫌がらせに舌を出したものを撮られたのだと教えられた時の驚きは、今でも新鮮に思い出せるほどだった。
脱線が多いと評判の彼の授業は、こういう小さな興味を生徒に持たせるための布石なのだろう。
無駄に見えて無駄のない、いや、無駄も多いかもしれないけれど、様々な試行錯誤を繰り返している増田の背景を知るような思いがするのも、また楽しかった。
そう、例え彼の話に興味がなくとも。

梨紗がすっかりパニーニを食べ終わった頃、増田はぬるくなった手の中のエスプレッソに、ようやく自分が喋り過ぎたことに気付いたらしい。
「すまない。つまらなかったかな」
「いいえ、量子論を語られるよりは、まだ理解できますから」
梨紗の少し意地悪な返事に、増田は子供のような拗ねた表情を作り、マスタードをたっぷり塗ったホットドッグにかぶりついた。
梨紗は黙々と朝食をとる増田の気持ちの良いほどの健啖ぶりを微笑と共に眺め、フォローの意味も込めて言い足した。
「昨夜、ニュースを見た時点で予測していましたし、私もニュートリノの名は知っていても、実際それが何かと言われたら分からない人間でしたから、おかげで勉強になりました」
増田はパンの間からはみ出したピクルスを引っ張り出しながら、少し驚いた顔をした。
「君、俺の為にニュートリノの勉強までしてきてくれたのか?」
そう言って増田は指でつまみ上げたピクルスを、口の中に放り込む。
そんな増田の唇にケチャップが付いているのをジェスチャーで知らせてやりながら、梨紗はすました顔で事も無げに言った。
「その代わり、今日はお茶席に付き合って貰いますから」
「いや、それはむしろ楽しみだよ。こないだの茶席も面白かったしね。袱紗だっけ? あの布をバサバサする行動が『武器を隠していない』という意思表示だとか、まさに茶道が戦国時代に流行った裏付けだと感心した」
笑いながら親指の腹で拭ったケチャップを舐める増田の舌が、ゆっくりと動いた。
骨張った長い指の上を這う紅い舌は艶めかしく、その動きは男の強引で甘い口付けを彼女に思い出させる。
朝の光に似つかわしくない男の無意識のアピールに、一瞬どきりとして梨紗は彼の唇に見惚れる。
濡れた唇を見つめる梨紗に気付かず、増田は豪快にホットドッグの最後の一口を口の中に押し込んだ。
いつ見ても、本当に気持ちの良い食べっぷりだ。
梨紗は自分の連想を打ち消すように、思考を逸らす。
こんな風に異性を見る目を梨紗に教えたのも、悔しいことにこの男なのだ。
それを自覚しているのか、いないのか、分からないのもまた悔しい。
だから、梨紗は知らないふりで、いつも通りのポーカーフェイスを貫く。

そんなことを考えている梨紗を、待ちくたびれたものと勘違いでもしたのだろう。
増田はぬるいエスプレッソで食事を締めくくると、「お待たせ」と笑って傍らのヘルメットに手を伸ばす。
「もう出発しますか?」
「せっかく遠出するんだし、向こうでゆっくりした方が良いだろ? 俺の無駄話で時間をとって、悪かったね」
「無駄なんて、そんなこと」
増田は伝票を手に立ち上がると、笑った。
「あまり面白くはなかった、って顔に書いてあるけど」
「!」
「冗談だよ。それより、今日は君の決めてくれたコースだから、どんな所に行けるのか楽しみだ」
増田の言葉に、梨紗は一生懸命考えたデートコースを反芻する。
喜んでくれるといいのだけれど。
そう考えて、梨紗は彼があの日用意してくれたヘルメットを手に取った。

梨紗は、スマートに二人分の会計を済ます増田の背中を見つめながら思う。
増田が彼女に新しい世界を開いてくれるように、梨紗は増田に新しい世界を見せたいと。
違う人間が二人いれば、世界は二倍になるのだから。

彼がいなければ、梨紗は一生バイクに乗ることも無かっただろう。
彼に会わなければ、男の声に、仕草に惑わされる女である自分を肯定できる日も来なかっただろう。
もっともっと新しい世界を見たい、彼と共に。

梨紗は無意識に、男のジャケットの裾を握りしめる。
梨紗の仕草に気付いて振り向いた増田は、少し照れた表情を見せると、ぶっきらぼうにも見える素振りで彼女の手を掴んだ。
しかし、その行動の素っ気なさとは裏腹に、増田の掌の熱は彼の想いを真っ直ぐに梨紗に伝えてくる。
「行こうか」
コクリと頷いた梨紗の為に、増田は扉を片手で押さえたまま肩越しに振り向いた。
「そう言えば」
小首を傾げる彼女の無言の問い返しに、男は彼女の手元に向かって顎をしゃくってみせる。
「そのヘルメット、ハーフだから遠出には危ないから、今度、君専用のフルフェイスのを一緒に買いに行かないか?」
何気ない風を装っているが、意外に真剣な増田の口調に梨紗はクスリと笑う。
そう言えばこのヘルメットは、彼らの記念すべき初デートの思い出深い品であった。
「まだ、トラウマですか?」
「有り体に言えば」
「値札付いてたことなんて、言われないと思い出さないのに」
「そうやって、また俺を苛めるんだな」
バイクの前で立ち止まり、フルフェイスのヘルメットの顎のベルトを留めながら、増田は何気ない口調で梨紗の方を見た。
「でも、本当に高速乗るなら、フルフェイスは必要だから」
梨紗は素直に頷きかけ、その言葉の意味するところを考えて、まじまじと増田を見つめた。
男は穏やかに、少し緊張した風に彼女を見つめている。
「君と一緒にいろんなものを見たいんだ。俺の知らない世界を、また教えてくれないか?」
梨紗はまるで自分の心を読まれたような気がして、驚きながら男の顔を見つめた。
趣味も嗜好も興味の対象もまったく違っても、こういう思考の根底が似通っているから、きっと私たちは上手くやっていけるのだろう。
そう、例えちょっと蘊蓄がうるさかろうとも。

梨紗は少し笑って頷いた。
梨紗の身体を後部座席に押し上げると、増田は勢いよくイグニッションキィを回す。
「今日は、例のパンケーキのお店は行くの?」
「混んでるらしいので、また落ち着いてからにしませんか?」
「じゃ、昼は中華街?」
「ええ。海老ワンタンの美味しいお店を教えて貰ったんです」
「いいね、楽しみだ」
増田は颯爽とバイクに跨ると梨紗にしっかり掴まるように促し、秋風の中を走り出した。

今にも鼻歌を歌い出しそうな男の広い背中は、梨紗を海沿いの街へ連れていこうとしている。
最近ようやく乗り慣れたバイクの振動と、吹き抜けていく強い風が与える少しの恐怖心でさえ、この背中と一緒なら大丈夫だと思えるのだから、まったく不思議だ。
そして、この背中を愛おしく想い、その引き締まった筋肉と綺麗な骨格に心が騒ぐのも、自分では全く制御できない不思議な感情であった。

初デートのあの日も彼女の前にあった背中は、変わらず目の前で彼女を受け止めてくれている。
このまま、自分はこの男に何処まで連れて行かれてしまうのだろう。
梨紗はヘルメット越しに増田の背中にぎゅっと頬を押し当て、問う。
何処までも、ずっと。
彼の心音が、彼女にそう囁いた気がした。


Fin

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【後書きのような物】
 一〇〇万回転お礼リクエストより『先生パラレル「タンデムデート」』です。「サルベージ」から約一年ぶりの先生's、やっぱり楽しかったです。彼らを書く機会を、ありがとうございます。しかし、食いしん坊な二人ですね。
 作中のヘルメットのエピソードは「月とライダー」に。
 お気に召しましたなら。

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