ウォーターリリィのバタフライ

ちゃぷり。
音を立てて、池の鯉が跳ねた。
穏やかな水面にゆらゆらと同心円の波が広がり、うららかな新緑を映す水面を彩っていく。
 
ジャブン!
音を立てて、池の水が跳ねた。
穏やかな水面にざぶさぶと跳ね上がる波が泡立ち、静かな初夏の午後を乱していく。
 
増田は頭を抱えて、自分の向かいで口をへの字に曲げている梨紗を見つめる。
口をへの字に曲げていようが、眉間にシワを寄せていようが、彼の恋人は非常に可愛らしくてたまらないのだが、この状況は何とかして欲しい。
増田は少し身体を前に乗り出して、恐る恐る梨紗に声をかける。
「梨紗、そろそろ……」
「いやです」
「でも、梨紗」
キッと顔を上げ増田を睨み付ける梨紗の剣幕に、増田はタジタジとなり再び腰を下ろした。
 
バチャン!
また、盛大に水しぶきが上がる。
増田は頭の上に広がる雲一つない気持ちのいい青空を仰ぎ、大きな溜め息をついた。
そんな増田の様子に頓着せず、梨紗は難しい顔のまま、また水しぶきを立てる。
ジャブン!
梨紗は振り下ろしたオールを水面から引き抜き、新たな水しぶきを生み出し続ける。
増田は頭上から降り注ぐ細かな水滴を浴びながら、ここの水は多分身体には良くないだろうなぁと考え、茶色く濁った池の水をぼんやりと眺めた。
 
事の起こりは、デートの途中で珍しく梨紗が公園の池を見て、ボートに乗りたいと言い出した事だった。
梨紗に良いところを見せられると二つ返事で賛同した増田はボート乗り場へ行き、手漕ぎボートのオールのある側に乗り込もうとした。
と、梨紗は不思議そうにボートに乗りたいと言ったのは私ですが、と増田に抗議した。
一瞬、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる増田を船着き場に残し、梨紗はさっさとボートに乗り込みオールを握るとにっこりと彼に微笑んでみせた。
しぶしぶ梨紗の向かいにドカリと座った増田を乗せて、小さな手漕ぎボートが派手な水しぶきを上げながらヨロヨロと出航したのは約10分前のことだった。
 
「ねぇ、梨紗?」
「何ですか? 今大変なんです。話し掛けないで下さい」
デート中に話し掛けるなと言われても、それじゃ何のために一緒にいるのか分からない。それに大変なら、俺にオールを渡せば良いのに。
増田は苦笑しながら、梨紗の言葉を無視した。
「手漕ぎボートって、てこの原理だって知ってるよね?」
「当たり前です。これでも教師なんですから」
「その割に君、無駄な労力使ってると思わないかい? 力点と作用点のバランスがめちゃくちゃだ」
「……いいんです」
「しかしだね、もう少しオールを長く持って、櫂の水面への入射角を……」
「頭で分かることと実行出来ることは、イコールではありません」
梨紗はむくれた顔で水面を叩くようにボートを漕いだ。
梨紗自身、自分が上手くボートを操れていないのは重々承知なのだが、負けず嫌いの彼女はなかなかそれを認めたがらない。
「だから、ボート漕ぎは第二種てこだから」
「どうしてそんな理屈っぽいんですか」
「どうしてって……え〜っと君が大変そうだから。あと、理系だから、かな? 一応数学教師だけど、物理も教えられるし」
頭からまたしぶきを浴びながら、増田は自分たちの半径3m以内にはどのボートも近付いて来ない状況を見回した。
どうぞ皆さん逃げて下さい、うちの梨紗ちゃんがご迷惑をおかけする前に。増田は胸のうちで呟くと、梨紗を見た。
「君だって理系だろ? こんなの物理の基礎の基礎じゃないか」
「だって、大学受験の時、理科の選択科目は生物と化学だったんですもの」
俯きがちに、梨紗は答える。そう言えば、梨紗は生物教師だった。増田はちょっと吃驚した思いで梨紗の顔を見つめる。
そんな増田の視線を揶揄するものと受け取ったのか、梨紗はオールで水しぶきを立てる行為を中断し、ぷっと頬を膨らませてみせる。
「だいたい、あんなに沢山滑車を繋げて荷物を持ち上げるだとか、現実味がありません」
「そんな極端な」
増田は笑った。
「物理だとか数学だとかいったものは、美しいと思うのだがね。解がこの世に一つしかない、主観の入る余地がないものなんてそうそう現実には存在しない。フェルマーの最終定理が証明された時、俺は感動で涙が出るかと思ったね」
「変態」
ぼそりと言う梨紗に増田は苦笑した。
「君だって生物学の何かに感動して、この道に進んだんじゃないのか?」
増田の言葉に梨紗は遠い目をした。
何かを懐かしむその視線に、増田は梨紗が歩んできた人生を想う。
彼女が重ねた時を知り、自分の生きた日々を知ってもらい、いつか共に過ごした年月を笑って話せる二人でいられたら。
今までどんな女にも持った事のない感情に、増田自身戸惑いながら彼は微笑みを浮かべる梨紗を見た。
「やっぱり、オーソドックスだけれど、メンデルの法則かもしれません」
「豆が丸だとか皺だとかって、牧師が見つけたアレ?」
「そう、アレです」
ボートに乗ってから初めて笑った梨紗にホッとしながら、増田はオールを握る梨紗の手に自分の手を重ねた。
「ところで、梨紗? そろそろボートの返却時間が迫ってきたんだが、このまま物理を専攻しなかった君に任せておくと延長料金を取られることは間違いない。そこで提案なんだが、センターで物理9割正答の俺にオールを渡してみないか?」
増田のふざけた物言いに梨紗は驚きと笑いを同時に浮かべ、オールから手を離した。
「9割正答!? 本当に?」
「結構自慢デス」
おどける増田に梨紗は、そろりとバランスを崩さないように席を明け渡す。
「人間技じゃないわ、やっぱり変態ね」
「君にはとっくにそんなのバレてると思ってたが」
増田は梨紗と場所を入れ替わりながら、そう返し更なる梨紗の笑いを誘う。
 
「陸に着いたら昼飯食って、映画でも観ようか」
水面を滑るようにボートを漕いで、増田は梨紗に声をかける。
梨紗は頷いて、観たい映画があるんですと答えた。
じゃあ、せいので何が観たいか言ってみようかと言う増田の提案に、二人は声を揃えた。
「せ〜の」
 
「エンヴィー・ジョーンズ クセルクセス遺跡の冒険」
「ネズミーのファインディング・エド
 
全く一致しない意見に二人はまた笑う。
そしてぬるい風に吹かれながら、今度はランチに何を食べるかで、またくだらない議論を楽しみ始めたのだった。
 
Fin.
 
 
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【後書きのようなもの】
40万回転御礼フリーSSでございます。配布期間は6月15日までとさせて頂きます。個人で楽しんでいただくも良し、サイトに載せていただくも良し、ご自由にどうぞ。サイト掲載の際は「Invierno Azulの青井フユが書いた」旨を明記頂くようお願い致します。(5/26 22:00頃本文一部修正しました。前のままでも、今のものでもどちらでお持ち頂いても大丈夫です)
パラレル苦手な方は申し訳ありません。通常ロイアイでもフリー1本書く予定でおりますので、しばしご猶予下さいません。
 
辺境Blogに遊びに来て下さって、ありがとうございます。
心からのお礼と愛を込めて。青井拝
 
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