秋の風物詩

『もしもし』
三コールを数える前に取られた電話の向こうから、彼女の好きな甘い声が聞こえた。
「もしもし、こんばんは」
『こんばんは。どうした? 珍しいな、君からこんな時間に』
「御迷惑でしたか?」
『いや。ネットを見ながら飲んでいただけだから、迷惑も何もないが』
どうやら彼は、彼女の予測通りの行動をしていたらしい。
きっと、あのキッチンに置かれていたワイルドターキーの瓶が今日は空になるのだろう。
梨紗はそう思いながら、少し笑みを含んだ声で彼に問う。
「祝杯ですか?」
『君には何でもお見通しか』
増田はそう言うと、受話器の向こうでカランとグラスの氷を鳴らしてみせた。

毎年この季節になると、数学バカで物理バカの増田がそわそわと浮かれる日が一日ある。
そう、世界的に有名な権威ある賞の発表がある日だ。
物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の六つの分野の功労者に贈られる賞の中で、特に物理学賞の発表日、彼は莫迦みたいにニュースを気にしている。
その賞が納得がいっても、いかなくても、彼にとってはそれは楽しみであるらしい。

今年の発表日、つまり今日だが、梨紗は部活のある増田とは顔を合わせずに放課後すぐに帰宅していた。
帰り道、駅で配られていた号外を見た瞬間、彼女の脳裏に満面の笑みを浮かべた増田の顔が浮かんだ。
去年はヒッグス粒子について熱く語っていたが、今年は日本人の受賞ということもあって、きっと増田の興奮振りは大きなものになるだろう。
そんな彼の姿を想像すると、梨紗はおもわず彼に電話をかけてしまった。

「すごいですね」
『ああ、本当に凄いことだよ』
すでにかなり酒量を過ごしているらしい増田は、非常に陽気に彼女の言葉をオウム返しにする。
この分だと、今日は彼は蘊蓄を傾けるところにまでは辿り着きそうもない。
梨紗は少しホッとしたような、残念なような心持ちで増田に聞いた。
「今回は蘊蓄を語られないのですか?」
『今更語るまでもないだろう。君の手の中にもあるものなのに』
主語も述語もないが、きっと彼はスマートフォンのライトのことを言っているのだろう。
梨紗は苦笑して、酔っ払いに少しだけ甘えてみせた。
「詳しいことは知りませんから、教えて下さい」
『そんなことを言って、本当は面倒くさいと思っているくせに』
「そんなことはありません」
『だって、君、いつも電話は用件のみじゃないか。かけるのも、俺の方が多いし』
「たまには良いじゃないですか」

確かに梨紗の方から増田に電話を掛ける回数は、あまり多くない。
無駄話をあまりしないから、誰が相手でも電話は短い。
でも、実は彼女は増田と電話で話すことは嫌いではない。

顔を見て話さなくて良い分、彼女は想う存分、大好きな増田の声に浸っていられる。
夜の電波に乗って彼女に耳元に届けられる男の声を、思う存分堪能できる。
耳元で囁かれる柔らかで、少し甘くて、今はアルコールに掠れた声を味わい尽くす事が出来る。
それに、うっとりしていても増田にからかわれることもない。
勿論、直接会って話すことも、閨の睦言も、彼女には堪らないものだけれど。

梨紗は男の甘い声を欲して、甘い声を出す。
「お話をして下さいませんか?」
『仕方ないな』
そう言った男の声は、とても嬉しそうだった。

そして彼等は、発光ダイオードについて一時間ばかり語り合ったのだった。


Fin.

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 ノーベル物理学賞のニュースを見たら、増田先生が頭の中で騒ぎ出しました。(笑)突発思いつきなので、短くてすみません。
 お気に召しましたなら。

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