パラレルSSS

  Valentine's day



 二月十四日という日付に期待を抱かない彼女持ちの男が、果たして世の中にいるだろうか? いいや、いるわけがない。

 その日の部活の前の僅かな空き時間、増田はいそいそと生物学準備室へと足を向けた。
 例年なら青春の麻疹にかかった女子高生の相手をしてやる彼が、今年は真面目に陸上部でマネージャーから部員全員+顧問に『配給』されるチョコレート以外、全てを笑って受け流したのはその為なのだ。
 しかし、意外なところで真面目な増田の過剰な期待は、果たして綺麗に裏切られた。

「昨今の女子高生は大変だな。本命チョコに義理チョコに友チョコ。菓子屋の陰謀に踊らされすぎだ」
「そう言えば、部活の先輩後輩に渡すのに六十個お菓子を作った、って生徒もいましたよ?」
「そ、それは、凄まじいな」
 流石の量に驚く増田に梨紗は苦笑する。
「その分、チョコを渡すという行為が軽くなってしまって、可哀想な気もしますけれど」
「君は?」
「そうですね、学生の頃は」
 そう言ってお茶を濁すように笑う梨紗は、彼に背を向けるとカタリといつも通り琺瑯のマグを取り出した。増田をふり向く梨紗は、いつも通り彼に珈琲を飲むかとマグカップを肩の高さに掲げてみせる。
「時間、大丈夫ですか?」
「もう少しなら」
 梨紗は時計を見上げて時間を確認すると、二つのカップを手に流しへと向かう。
 折角話題をそういう方向に向けたのに、梨紗は分かりやすく彼をはぐらかしてしまった。やはり、学校では駄目なのか。増田はなるべくがっかりしないように、公私をしっかり分けようとする梨紗の生真面目さを思考の端に置き、彼女の背に向かって話しかける。
「君は今日この後は?」
「まっすぐ帰りますが」
「待っててくれるか?」
「いえ、ちょっと用事があるので」
 ますます薄くなる期待に、増田は悄然として己の期待値をどんどん下げていく。
 うん、まぁ、菓子屋の陰謀に踊らされるタイプではない彼女のことだ。誕生日は覚えていてくれたし、こういうイベントはスルーするタイプなのかもしれない。『学生の頃は』と言っていたし。
 増田は自分に言い聞かせるようにそう考えながら、彼女が差し出した茶色い液体の入ったカップを受け取った。口元にカップを持っていく増田は、ふとその香りに頬を緩めた。
 
 いつもの生物学準備室。
 いつもの無表情な彼女。
 いつも通り差し出された琺瑯のマグカップ
 ただ、いつもと違ったのは、その琺瑯カップの中身だった。

 舌に触れたのは、珈琲ではなく滑らかなカカオであった。多分、何処か上等なショコラティエの店のものであろうホットチョコレートは激烈に濃厚で甘く、彼の喉をねっとりと滑り落ちていく。
 恐らく真面目な彼女は一応は禁止されている校内へのチョコの持ち込みを、教師である自分がするわけにはいかないと悩み、こんな折衷案を思いついたのだろう。相変わらず発想が面白いというか、不思議というか、彼女の行動は読みづらい。逆にそれがびっくり箱のようで、増田はますます彼女に惹かれるのかもしれないのだけれど。

 この後、部員たちと一緒に五キロ走らなければならないのに、これだけ濃厚なホットチョコレートを飲めば胸焼けを起こすことは間違いないだろう。
 それでも、やっぱり頬が緩んでしまう自分に内心で呆れながら、胃が重くなるのは必須であるその飲み物を増田は覚悟を決めて飲み干したのだった。

(鷹目先生サイドも書きたかったのですが、タイムリミット)

  flu season



 男は扉を開けてさえくれなかった。
「駄目だ」
「でも」
「駄目なものは駄目だ」
 はっきりと梨紗を拒絶する言葉に、彼女は困って扉の前で立ち尽くす。こういう時どうすれば良いのか分からない梨紗は、もう一度だけそっと扉に向かって声を掛ける。
「増田先生?」
 返事の代わりに苦しげに咳き込む音が続き、梨紗は狼狽える。扉越しにそれを聞くことしかできない自分がもどかしく、梨紗は開かぬ扉にそっと手をかけた。
「増田先生?」
「帰りなさい」
 いつもの彼の耳に心地好い声とはかけ離れた嗄れた声が、教え子を諭すようにゼェゼェと苦しげな息と一緒に吐き出される。自分は人の心配ばかりしているクセに、彼女には心配することさえ拒むなんて。そう思う梨紗の不満を分かっているかのように、男は荒い息を吐きながら、静かに言った。
「君にまで感染したら、大変なことになる」
 想定内の増田の返事に、梨紗は少しだけ声を大きくした。
「私は平気です!」
 だが、増田は出ない掠れた声を張り上げて、更に彼女を叱りつけた。
莫迦か、君は。この時期、教師が生徒の感染リスクを増やすわけにはいかないだろう! 風邪の季節は受験シーズンなんだから」
 梨紗は体調を崩した増田のことだけで頭がいっぱいになっていた自分に気付かされ、思わず扉に触れていた手を離した。ドンと扉に重たいものがもたれかかる気配がした。
「……すまない。頼むから」
 大きな声を出したことが辛いのだろう、ゼェゼェと息を切らす増田に梨紗はかける言葉もなく、そっと手に持ったコンビニの袋をドアノブに掛けた。梨紗は後ろ髪を引かれる想いを隠し、扉に向かって話しかける。
「飲み物と食べるもの、ここに置いておきますから。……では、帰りますね」
 もう返事をするのも辛いのだろう、了承の言葉の代わりにノックが一つ返ってきた。そしてガタガタと扉が揺れる程の咳の発作が、また増田を襲う。
 生徒のことが一番で、自分のことが一番後回しで、本当に莫迦な男だ。だから、こうして他のことも考えられなくなって彼の元に駆けつけても、梨紗は看病さえさせて貰えない。それは、とても寂しいことだった。でも、それは教師として彼女が尊敬する増田の姿でもあった。
 ジレンマに揺すぶられ、梨紗は小さく唇を噛んだ。
 きっと、起き上がることも億劫だろうに玄関先で自分の相手をしてくれた手の届かない恋人に触れるように、梨紗はそっと彼がもたれかかった扉を撫でる。触れたいと思うのに届かない指先に、男の咳が響いた。

(ちゃんと真面目な教師の増田先生が好きです。)

  return match



「私は怒ってるんです。分かってます?」
「ああ、すまない」
「本当に莫迦ですか」
「返す言葉もない」
莫迦は風邪を引かないというのは、迷信だったんですね」
「……さぁ、それはどうだろう」
「反論なさる気ですか?」
「いや、まったく君の言う通りだ」
 完全服従の体の増田は、犬なら腹を見せて耳を畳んだ状態の自分を自覚しながら、暖かな布団の中で幸福な笑みを噛み殺す。
「何を笑っておいでですか?」
「いや、笑っていない。反省している」
 増田が数年ぶりに引いた風邪からようやく回復した週末、デートの約束をしていた筈の時間に梨紗は彼の部屋を訪ねてきた。酷い咳で喉を痛めたまま授業を再開したせいで嗄れ声のままの増田を問答無用でベッドに押し込むと、彼女は幾日か前のリベンジのように、甲斐甲斐しく彼の世話を焼きだしたのだった。
 増田の嗄れ声の返事に梨紗は眉間に皺を寄せ、彼の額に手を当てる。
「まだ完治してないんじゃないですか?」
「いや、医者には出勤の許可ももらったし、何より君をこの部屋に入れている時点で」
 ひやりと離れていく冷たくて細い指を見送る増田の反論の言葉を、梨紗は途中で奪った。
「でも、そんな声をして」
「もう喉だけだから、出掛けるのに差し障りはないさ」
「寒いから駄目です」
「でも、君が観たがってたあの映画、今日で終わってしまうんじゃ」
「DVDで観ればいいです」
 そう言いながら梨紗はぺたりと増田のベッドサイドに座り込み、横たわる増田と同じ目線の高さでじっと彼を見た。横になった無防備な状態で真っ直ぐな彼女の目に見つめられ、増田はどきりとしてしまう。
 しばらくの沈黙があった。
「心配くらい、させて下さい」
 梨紗はふっと彼から視線を逸らすと、吐息のよう声でぽつりと言った。シーツに触れそうな距離で、彼女の長い睫毛が瞬いた。少しだけ弱さを滲ませた瞳が、言葉よりも強く彼を糾弾する。
「ごめん。でも」
「分かってます。あの時、貴方が教師として当然の選択をしただけだということは」
「いや、だが君に対して他にもっと言い様があった。すまなかった」
 玄関先で彼女を追い返した日の彼女の力のない声を思い出し目を伏せる増田の耳に、梨紗の諭すような声が優しく降る。
「言葉を選ぶ余裕もないくらい、辛かったんでしょう?」
「いや、それは、その」
 梨紗にどんどん先回りをされ、増田は返す言葉もなくなっていく。そんな増田のおでこを、梨紗は冷たい指先でつついた。
「本当に、莫迦なんですから」
「……ごめん」
 言葉を無くした増田は毛布の中から片腕を出すと、ベッドサイドに座る梨紗の肩を抱き寄せた。梨紗は抵抗せずに、彼の方へと身を寄せてきた。増田は表情を見せてくれぬ彼女の耳にそっと唇を寄せ、嗄れた声で囁いた。
「ごめん」
「許してあげますから、早く元気になって下さい」
「ごめん」
 心地好いベッドの中の囚われ人になった増田は、数日前には手の届かなかった恋人を片手でしっかりと抱きしめた。反省すると口では言ったけれど、やっぱりあんな苦しい風邪を大事な人に感染さなくて良かったと胸の内で思ったことは、彼女には内緒にしておこうと思いながら。

(パラレルは寂しいまま終わらせたくないので、おまけ。)

  big news



「ああ、すごいニュースだ。素晴らしいね。それより、君。珈琲の種類、変えた?」
 男の反応は彼女が予測していたものと、全く正反対のものだった。
 新しい素数の発見に関するニュースの話題に賞賛の言葉を吐いた増田は、彼女の予想を裏切り、淡々とそう答えると直ぐに話題を変えてしまった。あまりに興味の無さそうな彼の様子に、エキサイトした素数に関する蘊蓄が繰り広げられるだろうとある意味期待していた梨紗は、肩透かしを食らって妙な表情をしてしまう。
「どうかした?」
「いえ、あの」
 想定外の増田の態度に、梨紗は次の言葉を失い思わず口ごもる。そんな彼女の反応に、増田は「ああ」とひとり合点がいったという風に唸ると、可笑しそうに笑った。
「ひょっとして、また数学莫迦が喜んではしゃいでいると思っていた?」
 手に持った珈琲に口をつけた増田は、そう言うと図星を指されて決まり悪そうにしている梨紗の方へと歩み寄った。
リーマン予想が解決されたとか言うなら、感極まって泣いてしまうかもしれないけどね。今回のは研究者の努力に見合う結果が出たという、ある意味当然の帰結なんだ。それに『史上』最大ということは、現時点で最大と言うことであって、まだ次が発見される可能性があるわけだろう? 素晴らしい発見だとは思うけれど、ぬか喜びは出来ないさ。探求心に止まっている時間は不要だからね」
 もう梨紗には何を言っているのかさっぱり分からない呪文を吐き出した増田は一人でウンウンと頷くと、ぽかんとしている梨紗の目の前で再びにこりと笑ってみせる。
「それより、今の俺の最大の疑問を解いてくれる気はない?」
 勿体ぶった様子で彼女の耳元に唇を近づけた男は、極秘情報を聞くようにあの良い声で彼女に囁きを落とす。
「梨紗。珈琲豆、変えた?」
「……ええ」
 単純な様に見えて、時々予測もつかない一面を梨紗に明かす増田という男を探求することは、彼女にとっては数学の探求以上に難しくて、エキサイティングである。きっとずっと一緒にいても解き明かせないであろう男の内面を探るように、梨紗は笑みを崩さぬ男の顔を睫毛の触れそうな距離でじっと見つめた。

(数学系のニュースを見ると、つい)

  white lab coat



 それは、ほんの気紛れだった。
「増田先生?」
「何?」
 放課後の生物学準備室、琺瑯カップを手に振り向く恋人のラフにジャージを羽織った首筋の辺りを見つめながら、梨紗はふっと思いついたことをそのまま口に出した。
「増田先生は、白衣って着られたこと無いんですか?」
「白衣?」
 梨紗の言葉に意表を突かれたらしい増田は、珈琲を飲みかけた形のままにぽかんと口を開けた。
「ええ。私たちの学部だと実習の時には必要なものでしたけれど、文系の方はともかく、理系の他の学部の方はどうなのかと思って」
「ああ」
 梨紗の質問の意味を理解した増田は、机上にコトンとカップを置くと彼女の真正面に立った。
「我々には全く縁のないものだね。PC相手に白衣を着る必要性が?」
「そうですか。やはり、学部学科によって常識は違うものですね」
「確かに」
 増田は笑って彼女が椅子の背に掛けていた、彼女の白衣を手に取った。
「何を?」
「いや、そう言われてみると、着てみたくなった」
 増田はそう笑いながら、「流石に小さいか」などと呟きつつふざけて彼女の白衣を羽織ってみせる。
「似合うかな?」
「さぁ? 見慣れないので、違和感はありますが」
 彼の悪ふざけに眉間に皺を寄せたふりをしながら、梨紗は男の姿に少し目を細めた。白衣というものは、少しだけ人を真面目に見せかけたり、お堅く見せかけたり、威厳を持たせたり、そんな効果を持っているのかもしれない。困った彼女は目を伏せる。そんな彼女の前で、増田は不意に少し不思議そうに彼女に問うてきた。
「この白衣、サイズ間違ってないか? きついけど俺が着られるんだから、君には大き過ぎる気がするんだが」
 梨紗は少し困ったまま、目線を上げ真っ直ぐに増田を見つめる。増田は呑気な顔で、再び琺瑯カップを口に運びながら彼女の返事を待っていた。梨紗は肩を竦めて、彼の鋭い洞察力に答えてみせた。
「ええ。ワンサイズ大きなものを」
「動きにくくないのか? 袖なんか余るだろうに」
そう問いかける増田に、梨紗は平然と答えた。
「でも、ジャストサイズだと胸がとてもきつくて……」

 ブォッ! 
 派手な音を立てて珈琲を吹き出した増田は、茶色に染まった白衣に慌てる梨紗に聞こえないように呟いた。
「ああ、まったく! 君には敵わないね」

(白衣萌えと見せかけて、天然萌え。まぁ、白衣は結構余裕があるので、よっぽどじゃないと通常サイズで入るはずですが、フィクションなので。)