if【case 08】

もしも、過去が彼らを追うならば

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 イシュヴァールの英雄。
 七年に及ぶイシュヴァール地方から始まった東部の内乱を終結させた立役者の一人。イシュヴァール最後の砦・ダリハ地区を陥落させた男。その指先から生む焔でテロリストたちを薙ぎ払い、多くの部下を守り通した国家錬金術師。人知を越えた化け物じみた力を持つ人間兵器。
 彼の異名はこの国の東部では、文字通り『英雄』の意味を持つ。いつ、自分の街がテロの標的になり、焼け野原になってしまう日が来るのか。いつ、自分の家族が戦場で死んだという電報を受け取る日が来るのか。そんな非日常を日常として心配しなければならない日々を終結させてくれた人物であるのだから、それは当然の帰結であろう。
 内乱を自分の手で何とかしたいと士官学校に入ったハボックもそのご多分に漏れず、イシュヴァールの英雄という名には密かな畏怖と尊敬の念を抱いていたものだった。国営新聞に載った英雄は一応格好良くは見えたし、内乱の終結を賛美する記事には彼を誉め讃える美辞麗句が並んでいたのだから。
 だから、そのイシュヴァールの英雄直々のご指名でマスタング中佐の配下への召還を受けた時、ハボックは英雄の元で働くことが出来る栄誉に胸を躍らせ、親友のブレダと共にその旗下に馳せ参じた。
 士官学校で難しい授業に苦しめられたことも、栄えあるエリートの下で輝かしい武勲と功績を立てる機会を得られたことで、きっと報われるだろう。そうなれば出世コースに乗ることも間違いないだろうし、女の子にもてるというおまけも付いてくるかもしれない。そうなれば、まさに一石二鳥だ。そんな期待を抱きながら。
 だが、そんな彼の明るい希望と未来設計図は、出勤初日から無惨に踏みにじられたのであった。他ならぬ、その『イシュヴァールの英雄』本人の所行によって。
               
          §

「もうホント、俺の夢と希望を返せって感じッスよ」
 ウィスキーが半分ほど残ったロックグラスを片手に行儀悪く頬杖を付きながら、ハボックは自分の向かいに並んで座る上官たちに向かって大きな溜め息をついてみせた。
「お前、それは勝手に夢を見る方が莫迦なのだ」
「その点に関しては、概ね大佐の意見に同意するわ。目の前の現実を見なさい」
 異口同音というには選んだ言葉は違うが、ロイとリザは計った様に全く同じ意味合いの返事をハボックに投げて寄越した。ハボックは作戦外でまでコンビネーションの良い上官たちの言葉に、抗議の声を上げる。
「そうは言いますがね、大佐。当時あんだけ新聞に連日の様に英雄だ何だと書き立てられてたんスよ? 莫迦じゃなくても、すごいもんだと思わされますって」
「お前な、軍事国家のマスメディアを素直に信じる莫迦があるか。情報とは人民をコントロールするに際し、リテラリズムの」
「いや、もう、難しい話は勘弁ス」
 ハボックは無礼なまでの素っ気なさで上官の言葉を遮ると、手の中のグラスに残ったウィスキーを飲み干した。寝不足の頭にアルコールが染み渡り、ハボックは空のグラスを目の高さにかざすと、酔いの勢いに任せて更に言葉を続けた。
「何にしても、俺たちゃあんな華々しい記事見せられて、育ってんですよ。まさか、そのイシュヴァールの英雄殿が極度のサボリ魔で、涎こいて昼寝して副官にどやされてるたぁ、誰も思いませんって」
「お前なぁ」
「大佐、真実から目を逸らされるのは、如何なものかと」
「中尉、君まで」
「反論の余地があるとでも?」
 リザの鋭い眼差しに睨め付けられ、ぐうの音も出ない様子のロイは黙り込むと己のグラスに手を伸ばした。
 節のたった長い指が重いロックグラスを弄び、琥珀色の液体が夜に金色の光を揺らめかせる。ハボックはそのグラスの中でくるくる回る氷を見ながら、手酌で己のグラスにウィスキーを注ぎ、呆れた口調で言った。
「言ってる側から、これなんスから」
「仕方がないわ、少尉。だって、今日は雨なんですもの」
「今は雨は関係ないだろう! 今は!」
 声を荒げる上官を無視し、ハボックは尚も言い募る。
「雨だろうが、晴れだろうが、大佐が中尉に頭が上がることなんざ無いでしょうが」
「黙れ、ハボック。消し炭になりたいのか、お前」
「おお、怖」
「ですから、大佐。今日は雨なんですよ? 雨の日は」
「ああ、もう分かったから! 勘弁してくれ、中尉」
 ロイは完全にお手上げの体で、自棄の様にグラスの酒を口に運ぶ。
 ロイの自宅で行なわれた慰労の酒席、ハボック、ロイ、リザの三人以外のマスタング組のメンバーは、既に酔い潰れ早々に退散してしまった。今回の作戦は過酷を極め、皆心身共に疲弊しきっていた。その為、普段よりも速いペースで脱落する者が相次いだのだ。
 残った彼らもいい加減アルコールの支配下に片足を突っ込み、普段から多少の部下の暴言には寛容なロイは、今日はハボックとリザの双方向から責め立てられ、いつにも増して弱り果てている。いつもは厳しいリザですら、度を超したアルコールと睡眠不足に飲まれ、度を過ぎた無礼講をたしなめる者は誰もいない。
 誰にも叱られないのを良いことに、ハボックは眠い目を擦りながらウィスキーで己の唇を湿すと、日頃の鬱憤をぶつける様に話を続ける。
「大体が今日だって指揮官が最前線まで出てくるって、なんスか。大人しく後ろで守られてて下さいよ」
「その点に関しては概ね貴方に同意するわ、少尉」
「そうは言うがな、君たち。部下の安全を確保するのも上官としての責務の一つだろう」
 部下二人に攻撃され大いに不貞腐れた様子で反論しようとするロイの言葉を遮り、ハボックは話を振り出しに戻した。
「あの程度の雑魚、俺たちで何とかなりますって。ここはイシュヴァールじゃないんスから、大佐が焔の錬金術で先頭きって飛び出していく必要はないんスよ?」
「だから、もうその話はいいだろう。あれは軍とマスコミの作った虚像だ」
 しつこいハボックの言葉にいい加減うんざりした様子のロイは、乱暴に部下の言葉を遮った。だが、アルコールで滑りやすくなったハボックの舌は、そう簡単には止まらなかった。
「あー、もう。それでもメチャクチャ憧れたんスよ。英雄って、どんなスゴい人なんだろうって。今でも、あん時の新聞覚えてるくらいなんスから」
「よせ、ハボック」
 雑貨屋だったハボックの家には、常に幾種類もの新聞や雑誌が並んでいた。少年だった頃の彼が扇情的な見出しの低俗紙に目を引かれたのは、仕方のないことであっただろう。そして、そんな低俗な新聞や雑誌に載るアジテーションほど、有効に毒を振りまくのだ。刺さって抜けない棘の様に。
 ハボックは今でも空で全文言えるほどに読み込んだ、タブロイド新聞の記事を唱え始めた。
「なんだっけ、えーと。……戦線は著しく停滞し、我が軍は卑劣なる反乱分子のゲリラ攻撃に屈することなく、この七年を耐え抜いてきた。そんな国軍の勇戦に応える大総統のご英断により、先月七日大総統令ナンチャラが発令された」
「ハボック少尉。貴方、昔の話は」
「あ、すんません、中尉。大総統令の番号までは流石に覚えてないんス」
 アルコールの気配の混じった堅いリザの声が、ハボックのリズミカルな言葉を遮る。だが、過去と酒に酔うハボックの耳は、その言葉を聞き流してしまった。
 さっきまでの場の雰囲気と睡眠不足の判断力の低下から鑑みて、それは仕方のないことであったろう。
 ハボックは己の拙い記憶を探り、言葉を続ける。
「軍内の粛正に始まるこの大規模な指令により、即日のうちに大幅な作戦の変更が打ち出された」
「ハボック少尉」
 非難の色を込め、リザの声が彼を呼ぶ。ハボックは過去を覗き込み、その声を聞き逃す。
 そうだ、その大規模な作戦により、内乱は終わった。ハボックの家族は家を焼かれる心配から解放され、幼馴染の兄貴は無事に戦地から帰還した。それをもたらした国家錬金術師の大きな力に、ハボックは憧憬の念を抱いた。そして、自分も強くなりたいと願ったのだ。この地を救えるほどに強く。英雄に認められるほどに強く。
「それに伴い、各地に投入された国家錬金術師はその常人離れした技をもって、我々国民の希望の光となった……。スゴいッスよね。光っすよ、光」
 ロイは表情を消し、目線をグラスの中に落とした。グラスの縁を滑るロイの無骨な指先に雫が滴り、分厚い硝子の側面を静かに流れていった。
「少尉、いい加減になさい」
 言葉を発さぬロイの代わりに、リザの声が冷たいまでの静けさでハボックをたしなめた。だが、自分の言葉に酔うハボックは、その声の温度に気付かず言葉を続ける。
「で、続きはこうッスよ。……中でも若き焔の錬金術師の活躍はめざましく、一個師団、あるいは重火器にも匹敵するその力でイシュヴァール人を薙ぎ払い、非国民の存在をこの世から抹消する浄化の焔として」
 ハボックがその言葉を発した次の瞬間。
 彼の目の前に、鈍色の銃口が突きつけられていた。
 ワンアクションのうちに撃鉄までもが起こされた銃は、その照準をピタリとハボックの眉間に合わせている。そのアクションのあまりの速さに、何が起こったのか分からぬまま目線を上げたハボックは、銃口以上の恐怖に震え上がった。
 黒い銃口の向こうには、焔よりも鋭い金色の眼差しが光っていた。
 常の冷静さと常識をアルコールで溶かしてしまった鷹の目の剥き出しの殺気は、突きつけられた銃口など比較にならない程の威力で、ハボックの動きを封じる。
 発しかけた言葉すら舌の上で凍り付くほどの恐怖に、ハボックの中の酒精は一気に消し飛んだ。
 彼はようやく気付く、己が喋り過ぎたことに。触れてはいけない二人の上官の焼け焦げた過去の扉を、彼は不用意に開いてしまったのだ。
 彼の言葉は、彼らの罪を告発する詠唱だった。幼かった彼にとっては純粋な憧れであったとしても、その裏には幾多の血塗れの現実と兵士のトラウマが隠されていた。そんなことくらい彼だって分かっていた筈なのに、張り詰めていた緊張が弛んだ隙に忍び込んだアルコールが彼の舌を滑らせてしまった。
 味方としてはこれ以上はないほど頼もしい鷹の目の恐怖を、彼は今、自身の身を持って味わっていた。視線で人が殺せるなら、ハボックは即死していただろう。そう思わせるほどに、リザの視線は抜き身の刃物の様な鋭さで彼を睨め据えている。
 だが、その眼差しの色は、彼の知るロイの副官としての彼女のものではなかった。軍人ではない彼女の複雑な感情が、涙の殻を被ってヘイゼルの瞳の奥で瞬いている。そんな気がした。
 言い訳をしようにも、空気さえ凍らせる鷹の目の眼差しの殺気は、ハボックに唇を動かすことさえ許さない。不用意に動けば自分の頭が西瓜の様に吹っ飛ぶことを、彼は本能で察知していた。
 俺、死ぬかも。
 彼が真剣にそう考えた時、不意に現れた時と同じ唐突さで彼の視界から銃口が消えた。鷹の目に睨まれたまま動けないハボックは、また何が起こったか分からないまま、目の前に突如出現し銃口を塞いだものを見つめる。
 それは、ロイの掌であった。
 ひょいと手を伸ばしたロイは、まるで平気な顔で撃鉄の起こされた銃口を、己の掌で塞ぐ様に無造作に掴んでいた。
 ロイとリザ、どちらかの手が僅かにでも震えれば、彼の掌は確実に吹き飛ぶことは間違いなかった。そんな状況にすら一切頓着せぬ顔のロイは、先程グラスの縁に指を滑らせたのと同じ静けさで、リザの手の中の凶器の切っ先を己の掌中に収めていた。
 ハボックの視界の外で、ロイの唇が動いた。
「中尉」
 静かで柔らかな男の声が、たしなめる様にリザを呼ぶ。その声に不服そうに榛色の眼差しが瞬いた。針の切っ先の様な緊張が、ロイの掌の中で揺れる。
「中尉」
 女を甘やかす笑みさえ含んだ低い声が、更に彼女を呼ぶ。節の立った無骨な男の指が、鋼の塊を愛撫する様にリザの凶器をゆるりと撫でた。リザは遂に不承不承と言った様子で撃鉄を戻す。
 だが、刃の様なリザの眼差しは、未だハボックを解放してはくれない。ハボックは蛇に睨まれた蛙の様にジリジリと脂汗をかきながら、魅入られた様に目の前で繰り広げられる不思議な光景を見つめた。
「中尉」
 三度、ロイの唇が甘い睦言を囁く様に彼女を呼んだ。その声と同時に、女の指など一捻りに出来る焔を生む指が、緩やかに彼女の銃を机上に組み敷いた。彼女に膂力の差を誇示したロイの大きな掌は、銃から離れ彼女へと静かな軌跡を描く。
 そして、銃口を掴んだ時と同じ無造作な手付きで、ロイはその掌で彼女の目元を覆い隠してしまった。
 女の顔半分を軽く覆い尽くす大きな男の掌は、荒っぽいと言って差し支えないぞんざいさでリザの眼差しの毒を捻じ伏せ、そのままぐいと手荒に彼女の頭部を己の胸へと引き寄せた。リザはされるがままにその身を彼に任せ、仰け反る様に男の胸に背中から倒れ込んでいく。
 何の抵抗もせず彼の胸元に納まったリザの頭部を抱く様な形で彼女に目隠しを施したまま、ロイはハボックに向かい微かに笑った。
 薄い薄い刃の様な氷の笑みが、ハボックを貫く。
「見るな。死ぬぞ?」
 物騒な警告の声はあまりに穏やかで、それ故にその言葉が冗談ではないことをハボックに告げていた。
 ロイのその警告が、鷹の目の逆鱗に触れては睨み殺されてしまうという意味なのか、それとも、彼女のその眼差しに隠された本当の意味を知ってしまったら大佐に焼かれてしまうという意味なのか、ハボックには分からなかった。ただ、名を呼ぶだけで女の感情すら操る声の凄みは、男である彼の背筋をも震わせた。
「だからお前は莫迦だと言うのだ」
 そう言って、ロイは苦く笑った。感情の欠片さえ覗かせぬ真っ黒な瞳が、氷の中に閉じ込めた焔の様にハボックを焼いた。その笑みは、先程までの部下にやり込められる情けない上官の顔が幻だったのではないかと思える程の凄みを帯びた暗さを湛えている。ハボックは、その暗さの中に己の上官が抱える覚悟を見る思いがした。
 国軍大佐として組織の底辺までもその手で救おうという覚悟。胸の奥底に押し込めた過去の贖罪をその手で成し遂げる覚悟。そして、表には出さぬ女の感情とその人生の全てをその掌に受け止める覚悟。
 彼の上官は、そんな底なし沼の様な諸々全てを引き受けて、副官の顔をした女と共に生きていた。誰にも踏み込めない領域で。あの掌の中に全てを飲み込んで。
 そんな大きな掌がハボックを追い払う様に、彼の目の前でひらひらと揺れた。
「お前、今日はもう帰れ。そして、忘れろ」
 歌う様なロイの声が、彼に退去を命じた。否やを言わせぬ冷たい声は、それでもハボックの失言を不問にする寛容さを残していた。
 きっとこのままハボックを帰したロイは、胸に抱いた女との間に再び上司と部下としての境界を築き直し、そして明日になれば何事もなかったかのようにサボり魔の上官の顔で職場に向かうのだろう。
 多分、彼が英雄と呼ばれる所以は、そこにあるのだ。そしてそれは、とてもハボックには真似の出来る様なものではなかった。
 すっかり酔いの覚めたハボックは立ち上がると、ロイに向かって最敬礼をした。手の中の女をあやす様に笑った上官は、ハボックを追い払った方の手にグラスを掴むと、答礼の代わりにからりと音をたてアルコールを飲み干した。その音に背中を押され、ハボックは一切の申し開きをせず、ただその場から立ち去った。
 扉が閉まった後のことは、きっとアルコールと一緒に上官の掌の中で昇華されてしまうのだろうと思いながら。

Fin.

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【後書きのような物】
 全力をもって、611の日を祝います!
 もうホント、どんだけ好きなのか分からなくて困ります。
 ロイアイ、大好きッス!

お気に召しましたなら。

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