イデアの剣【前編】

リザがその連絡を受けたのは、丁度昼休みが終わろうとする頃だった。
早朝の突入作戦を終え事後処理に追われていた彼女が、遅い昼食をとる為に食堂に行こうと席を立った瞬間、一本の電話が彼女を呼び止めた。
同じ作戦に参加し、現在は別行動でロイの護衛を務めている筈のハボックからの電話は、莫迦莫迦しい程に軍のセオリーに則った形式張ったもので、いつも陽気な彼が如何に混乱してるかを如実に物語っていた。
電話の内容を把握したリザは空腹も忘れ、取るものもとりあえず執務室を飛び出した。
 
軍用車で目的地に乗り付けたリザは、病院の長い廊下をなるべく足音を立てぬよう注意しながら、逸る気持ちを抑え、ロイがいるはずの病室へと急ぐ。
ハボックの信じられない報告を受け、とっさにここまで駆けつけたものの、流石の彼女も己の目で事実を確認するまでは半信半疑の思いを拭えなかった。
そう、たかだか、肩に留まった銃弾を抜き出すだけの処置だったのだ。
リザは階段を早足で上りながら、事実の再確認をする。
相も変わらず己が指揮官であることを鑑みず、最前線に飛び出していった彼女の上官は、この日の作戦で受傷した左肩の創傷処置の為、現場からハボックを連れて病院へと直行した。
部分麻酔で創傷部を開き、弾丸を摘出して終わり。
そう思っていたからこそ、ロイは作戦の事後処理をリザに命じ、彼女もそれに従ったというのに。
リザは緊張の面もちで、看護婦に教えられた病室のドアをノックする。
「はい」
聞きなれた男の声が、異常な緊張感をはらんでノックの音に答えた。
「失礼します」
リザは自分を落ち着かせるためにゆっくりと三つ数を数え、そして病室の扉を開けた。
扉の向こうにはいつもと変わらぬ様子の彼女の上官が、ベッドに半身を起こして座っていた。
だがリザの姿を確認したその瞬間、彼は自動人形のようにぱっとベッドから飛び上がり、驚くべきことに彼女に向かってビシリと最敬礼をしながら、こう言ったのだった。
「東部士官学校二年に所属のロイ・マスタングであります。この度は、どういったご用件でありましょうか?」
ロイの言葉にリザは一瞬の目眩を感じ、ハボックの言葉が間違いなかった事を知る。
彼女の上官であり、焔の錬金術師であるロイ・マスタング国軍大佐は、おおよそ人生の半分近くの記憶をなくしてリザの前に最敬礼をとった姿で立っていた。
 
「すんません、中尉。俺もう、どうして良いか分かんなくて」
情けない顔でベッドサイドの椅子に座り込んでいたハボックは、病室に現れたリザの姿に露骨な安堵の表情を浮かべ、彼女の元に歩み寄る。
リザは己の動揺を隠し後ろ手に病室のドアを閉めながら、ロイに聞こえないように小声でハボックに尋ねた。
「念のため聞くけど、二人でグルになって私を担ごうって訳じゃないわよね?」
「そんな事して、何が楽しいんスか! 俺なんか、さっきから大佐に敬語使われて、気持ち悪くて鳥肌立ちまくりッスよ」
完全にお手上げのポーズのハボックは、リザの疑念に憤りさえ示しながらも、ボソボソと声を潜めて答えて寄越した。
そう言えば修業時代の彼は、非常に礼儀正しい青年だったっけ。
場違いな追想を脇に追いやりながら、リザはどうやらこの状況を受け入れるしかないらしいと腹を括る。
「医者は?」
「麻酔薬の副作用による一時的な記憶障害だろう、って言ってました」
「大佐本人には?」
「まだ何も」
「今後の治療方針は?」
「脳に機質的な障害が出ているようではないので、数日様子を見て変化がなければ何らかの治療を始めるって事らしいッス」
「まったく悠長なことね。大佐の予定を全て変更しないと」
そう言ってリザは小さな溜め息をつくとロイの方に視線をやり、あることに気付いてハッとロイに向かって敬礼を返した。
普段、上官であるロイから部下であるリザに向かって先に敬礼をされることなど無いからうっかりしていたが、士官学校生にまで記憶の退行を起こしているらしい彼にとっては、軍服を着た相手は全て上官なのだから相手の答礼が無い限り彼は敬礼を直ることが出来ないのだ。
ようやく敬礼から直ったロイに申し訳なく思いながら、リザは傍らのハボックを見上げ、自分も眉間に彼と同じ皺を刻んでみせた。
 
ロイは直立不動のまま、そんな二人の様子を真っ直ぐに見ていた。
施術したばかりの肩の傷が痛むであろうにバカ正直にその姿勢を崩さないロイの姿は、ハボックではなくても、いつもの彼の上に立つ者としての不遜とも言える姿を知っている者にとっては、居たたまれない思いをさせられるものだった。
よくよく考えれば、最も情報を持たず状況が把握できずにいる彼本人が、実はこの場で最も不安な思いをしているのは間違いないのだ。
その証拠に真一文字に結ばれた口元が、彼の緊張を物語っている。
昔、彼が彼女の父のお弟子さんだった頃、父に叱られている時にあんな顔をしていたのを見たことがあった。
何となく場違いな懐かしさに心を乱され、リザはそれでも無表情を取り戻し、今の彼にどう対処すべきか考える。
彼女は少し冷静になろうと小さく深呼吸をしてから、口を開いた。
「どうぞ、ベッドにお戻り下さい」
リザにそう言われてもロイは戸惑った表情を見せ、そのまま彼女の次の言葉を待っている。
この短時間の間に、彼は状況と肩章からリザをこの場の最高責任者と判断している。
出来る軍人は面倒がなくて良い。
彼は士官学校時代からこの観察力と実直さで、優等生で通してきたのだろう。
自分の知らないロイの過去を垣間見る思いでリザは彼を観察し、素早く頭の中で計算を巡らせて、単刀直入に説明を始めた。
「貴方は士官学校生であるとご自身を認識しておられますが、実際は事故により記憶の一部を無くしていらっしゃる私より上位におられる軍人です。私は貴方の副官のマーゴット・オレンジ・ペコー中尉、彼は貴方の部下のジャン・ハボック少尉です。覚えておいでではないでしょうが、まずはこの事実を認識して下さい」
自分がリザ・ホークアイであることを知ればロイの混乱は必須であると判断した彼女は、過去に彼が与えてくれたコードネームを咄嗟の偽名に用いた。
打ち合わせなしの彼女の嘘を、ハボックは素知らぬ振りで聞いている。
作戦時の阿吽の呼吸が、こんな時には頼もしい。
案の定、ロイはリザの提示した最小限の現実だけで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で間抜け面をさらしている。
こういう所は内面がまだ練れていない過去の青年の顔が出てしまうのか、とリザは不思議なものを見る思いで彼を見つめた。
「諸般の事情から貴方はやたら敵が多く、記憶が戻るまでの間の一人歩きは自重頂けるようお願いします。出歩かれる際は、私か彼が貴方の護衛に付きます」
ロイが口を開け何か言おうとするのを目で制し、リザは言葉を続けた。
「信じられないのも無理からぬ事と思いますが、最低限この事実をまず貴方に認識して頂けないことには話が始まりません」
リザの言葉にロイは少し考え込む様子を見せ、じっと自分の手に視線を落とした。
きっとその手は、士官学校生だった頃の彼の記憶よりも節がたち、知らない傷跡も増えている筈だ。
 
ロイはしばらく間を置くと、少し時間を下さいと一言だけ言った。
ベッドに戻って頂けるならば、と答えるリザに従い、彼はようやくベッドに横になった。
「もうしばらく、護衛をお願いするわ。私は各方面を数日なんとか抑えるよう手配をしてきます」
「アイ、マム!」
リザに全権を委任しホッとした表情のハボックを残し、リザはロイの病室を後にした。
 
ロイのスケジュールの調整と各部署への連絡を考えていても、万が一彼の記憶が戻らなかったらという不安と、今の彼とどう接するべきかという疑問が、廊下を行く彼女の中でぐるぐると渦を巻く。
リザは彼の言葉を素に、彼の現状を推察する。
彼は士官学校二年と言った、ということは今の彼はまだ彼女の父の死に立ち会う前年の年齢なのだ。
リザは愕然とする。
今の彼は自分が焔の錬金術を継いだことを知らない。
彼女の背に秘伝があることも知らない。
イシュヴァール殲滅戦も、彼が彼女の背を焼いてくれたことも、何もかもを知らない。
未熟な魂を入れた彼の姿をした容れ物だけがあり、彼女と共に全てを背負って生きてきた男は、今、ここに存在しない。
その事実に思い至った瞬間、彼女は急に自分が世界に独りぼっちで放り出されたかのような錯覚に陥った。
リザは呆然と廊下の真ん中で立ち尽くし、改めて自分の中に占める男の存在の大きさに気付くのだった。
 
To be continued.
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【後書きの様なもの】
 大変お待たせいたしました。
 かえ様からのリクエスト「リザの秘伝継承以降の記憶を失ったロイ大佐」です。続きます。