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ロイ・マスタング准将の一日は忙しい。

東部を統べる長となった彼の職務は多岐に渡る。
イシュヴァール政策に専念したいのは山々であっても、それを実行する足元を固める為にその他の仕事が彼を拘束する。
そんな准将の傍らで、リザは相も変わらず彼の副官としてそのスケジュールを管理している。

〇九三〇。
今日の准将の一番目のアポイントメントの相手が登場する。
東部の商工会の大物。ただし、裏では武器密輸の疑惑のある人物。
互いに笑顔の雑談を交わす裏で、狐と狸の化かし合いにも似た腹の探り合い。
今後のイシュヴァール地区の整備や、シン国との交易までも見据えた長期的展望を語りながら、その利権に群がる野獣共を手懐け利用するのは、狙撃されながら崩れそうな橋を渡るのに似ている。
丁々発止のやりとりを繰り広げる准将は唇だけの笑みを浮かべ、相手を丸呑みにせんばかりの眼差しで相手を見つめる。
准将の警護に立つ彼女は、そんな表からは見えぬ攻防を見守り、ただその傍らに立つ。

一一三〇。
セントラルからの使者を交えての早めの昼食。
会食の相手はグラマン大総統の腹心の部下。当然一筋縄ではいかない。
大総統は基本的には准将の味方ではあるが、相変わらずその腹の内は読めない。
「次期大総統は君に譲るよ」などと口では言っているが、どうやら裏ではオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将にも同じ言葉を囁いているらしい。
イシュヴァール政策に絡めた無理難題を押しつけられそうな気配に、准将は苦笑しながらも穏やかにのらくらと逃げ回る。
終始にこやかに繰り広げられた会談は、結局は物別れに終わったらしい。
別な仕事と己の昼食を終えた彼女は准将を迎えに出、完全に相手をやり込めた手強い交渉者の笑みで、客人を見送る彼の姿を見る。
ようよう彼の午前中の職務が終わり、彼女は彼をデスクワークへと追い立てる。

一五〇〇。
デスクワークの缶詰から逃げ出すように、准将は査察にでる。
相も変わらず街中を己の目で確認するのだと言って聞かない彼は自信に満ちた指導者の顔で、威風堂々と住民に笑顔を振りまいている。
イシュヴァールの英雄であり、表向きはあの『約束の日』に軍上層部が企てたクーデターを阻止したことになっている彼は、今では国の英雄と祭り上げられている。
国民のご機嫌取りも仕事のうちだと、市井の人々の様子を肌で感じる為に街に出ることを彼は止めない。
たとえそれでテロリストに刺されても仕方あるまいと、彼は笑う。
そんな男の信頼を裏切るわけにはいかない彼女は、彼の人を蠱惑する笑顔を守る為、密かに銃を構え雑踏を歩く。

二一一五。
未だ終わらぬデスクワークに、准将は眉間に皺を寄せている。
稟議書に目を通し、報告書を読み、彼のサインがないと終わらぬ書類にサインを入れる。
単純作業を面倒がり、大佐時代はよく執務室を逃げ出していた彼であったが、流石に東方司令部司令官ともなるとそうはいかないらしい。
自覚を持ってくれるのは良い事ではあるが、そんな苦虫を噛みつぶしたような顔を延々続けられては、傍に居るものはたまったものではない。
だから、リザは准将の為に一杯の珈琲を淹れるのだ。
軍の不味い珈琲ではなく、准将の為だけに用意したそれほど不味くはない珈琲を。

         §

「ああ、美味いな」
カップから唇を離したロイは、そう言って口元に微かな笑みを浮かべた。
穏やかにほぐれた彼の表情を見つめ、リザはカチリとした副官の口調で彼の言葉に返事をする。
「それで、もう少し頑張って下さい。あと、こちらの事件の報告書と陳述書に目を通して頂ければ終わりますから」
リザの言葉と差し出された書類の量に、やっと解れた彼の眉間の皺が再度登場する。
「これは『もう少し』、という量ではないと思うがね」
「准将でしたら、それほどお時間は掛かられませんでしょう?」
「君は私の操縦術をよく心得ているな、まったく。だが、おだてても無駄だぞ? 珈琲一杯では、それほど馬力が保たん」
「お歳ですか?」
「相変わらず容赦ないな、君は」
ロイは少し崩れかけたオールバックの前髪をかき上げ、苦笑した。
リザは柔らかな彼の微笑に飲み込まれないよう、キッと眼差しをきつくする。
「否定なさるのでしたら、その証明にさっさとお仕事を片付けてしまって下さい」
「ああ、分かったよ」
「お分かり頂ければ結構です、こちらの書類を」
彼の前に分厚いファイルを差し出すリザに、ロイは笑って肩をすくめる。
「違うよ。分かったというのは、君には敵わんという事実が、だ」
リザは肩を竦めて、彼の言葉を受け流す。
「何を今更」
「そう来たか」
ロイは彼女の淹れた芳しい珈琲を口に運びながら、愉快そうに笑った。
「仕方あるまい、優秀な副官殿に操縦されておくか。その代わり、もう一杯美味い珈琲を」
「承りました」
軽口を叩きながら、ロイは先程までの眉間の皺を解し、再び書類に向かう。

リザは一日のスケジュールを振り返り、今日一日彼が顔に貼り付けていた偽物の笑顔が剥がれ、自分の前にだけ現れる彼の本当の笑顔を味わう。
まるで、彼が彼女の淹れた労いの珈琲を味わうのと同じように。

彼に求められた珈琲を淹れる為、リザは上官に背を向けた。
静かな笑顔が彼女の頬に刻まれたのは、彼女だけが受け取る労いの証であった。

Fin.

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【後書きのようなもの】
 本当の笑顔は、彼女だけのもの。

 短いですが、お気に召しましたなら

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