if【case 07】

if【case 07】:もしも、彼らが『彼』に会ったなら。(未来ねつ造)





扉の前でロイを待ちながら、リザは静かな廊下の椅子に腰掛け、手元の手帳を開きスケジュールを確認する。
今回の出張でロイが出席せねばならない行事は、非公式のものも含めてこれが最後だった。
後、残された彼の用事は旧友の墓前に向かう事であろうから、明日の帰りの汽車の時間までに、どこかで時間を確保しなければならない。
リザはペンでメモにチェックマークを入れると、ふっと緊張を逃がす小さな息を吐いた。
そして、視線を虚空に泳がせ、慌ただしくも充実感のあるこの五日間を反芻したのだった。

ロイ・マスタング准将の久しぶりのセントラル訪問は、ぎりぎりのスケジュールの強行軍であったにが、非常に有意義なものとなった。
困難を極めるイシュヴァール政策の一方で彼が密かに進めていた、シン国との国交を回復し通商貿易を始めるという、大きな計画がようやく一歩前進することになったのだ。
砂漠を横断する鉄道の建設などを含むアメストリス国家としての一大プロジェクトを立案したロイは、費用の捻出とお偉方の説得の為、セントラルでの会議に出席し、なんとかこの数日でその目的を達した。
もちろん、普段からの根回しとグラマン大総統の後ろ盾があってこそ、ではあったが、それでもその喜びは大きなものであった。
相変わらずテロやロイの暗殺未遂といった軍への反発が根強く残るイシュヴァール地方に、新たな明るいニュースをもたらすことが出来た喜びは、いつもは悩ましげに顰められた彼らの愁眉を自然と開くものとなった。
そして今、重要な会議をすべて終えたロイはグラマン大総統の計らいで、ブラッドレイ元大総統婦人の屋敷を訪れていた。
ロイとグラマン、そしてブラッドレイ婦人の非公式の会合の張り番として、リザは大総統のSPらと共に室外で待機を続けている。

静けさの中、辛抱強く主を待ち続けるリザの耳に、不意にかちゃりと扉の開く音が響いた。
リザはすっと手帳を仕舞うと、さっと椅子から立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
「遠いところ、お疲れさまでした。マスタング准将」
開いた扉の向こうからそんな会話が漏れ聞こえ、やがて髭を生やした小柄な人影に続き、リザの待ち人が部屋の中から姿を現す。
礼装時の軍帽を脱ぎ、部屋の中に向かって敬礼するロイの姿を視界に確認したリザは、自分も彼に倣って最敬礼の姿勢をとった。
ロイが敬礼を向けるその先には、数年ぶりに見るブラッドレイ婦人の姿があった。

ロイとグラマンに遅れて部屋の中から姿を現したブラッドレイ婦人は、リザに気付くとぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「あら、ホークアイ中尉もいらしていたのね。……あら、今は大尉でいらしたかしら。私ったら相変わらずそそっかしくて、いけないわ」
ブラッドレイ政権の崩壊前と変わらぬ気さくな笑顔を浮かべた婦人は、数年間のブランクを感じさせぬフランクな口調でそう言うと、彼女の元へと歩み寄ってきた。
「お元気そうで何よりね。相変わらず、准将と一緒にご活躍と聞いていますよ」
「恐縮です。奥様にもお変わりなく」
リザは敬礼を解くと一礼した。
婦人はあの政変を乗り越えた元最高責任者のファーストレディという微妙な立場から、世間からは隠遁し今は穏やかな生活を送っていると聞いていた。
今の婦人の落ち着いた笑顔を見ていると、あの政変が与えたであろう衝撃は過去として精算されたように思え、リザは婦人につられて小さな笑みを浮かべた。
「お陰様でこの通りよ。もう少し頑張らないといけないようですから」
「我々後進がしっかりしませんから、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
横から口を挟んだロイに向き直り、婦人はクスクスと少女のように笑った。
「主人の代わりに頑張っていただかなくてはなりませんからね。お願いいたしますよ」
真相の一部を知らぬ婦人の無邪気な言い様に、リザは胸の奥がチクリと痛んだ。
そんな感情を押し隠して微笑むリザの隣で、ロイは何食わぬ顔で「御意」と胸に手を当て一礼する。
顔を上げる瞬間、彼はちらりと悪戯な眼差しをリザの方へと送って寄越した。
リザは苦笑して彼との間に共犯者の眼差しをそっと交わし、素知らぬ顔でニコニコと彼らを見守るグラマンの狸顔に肩をすくめた。

そんな密かな彼らのアイコンタクトを通りこし、はっと彼らの背後に視線を合わせたブラッドレイ婦人は、「そう言えば」ときらきらと瞳を輝かせた。
「あなた方には、まだお引き合わせしていなかったわね。久しぶりでお話する事が沢山あったから、うっかりしていたわ。きっと吃驚するわよ?」
と、小さな手招きをした。
背後に何の気配も感じていなかったリザは、いったいどんな懐かしい顔がそこにいるのかと、笑みを浮かべたまま振り向いた。
ブラッドレイ婦人は慈愛に満ちた声で、彼らの背後にいる者を呼ぶ。

「いらっしゃい、セリム」

そう、そこにいたのは、あのセリム・ブラッドレイであった。
リザは我知らずその場に凍り付いた。
驚愕と恐怖に歪む表情を隠せぬままに。

あのホムンクルスたちとこの国をかけた戦いの日々において、セリムの闇の触手に拘束され、生命を脅かされた二人にとって、その姿は数年を経た今でも一つのトラウマであった。
今現在、目の前に見るその姿は、彼らの知るセリムより一回りほど小さく、殺気の欠片も持たぬただの無邪気な幼子そのものであった。
だからこそ、現役の軍人である彼らが背後を取られても気付かなかったのだ。
しかし、その姿が彼女に思い出させるものは、明確な『過去の苦痛と恐怖』であった。

リザは今でもはっきりと覚えている。
身体を拘束され命を弄ばれ、暴力的に肉体の苦痛を与えられ、格の違うホムンクルスの人知を越えた力を思い知らされたことを。
その能力を用い、彼女が文字通り命を懸けて阻止したロイの人体錬成を無理矢理行わせ、最も大事な局面で彼の視力を奪い、軍人を続けられないかもしれないという絶望を二人に与えられたことを。
あの『影』に与えられ生理的な恐怖と痛み、そして生物的な嫌悪感は、未だに思い出すだけで肌が粟立つほどだった。

確かに、セリムが今のところ人畜無害な存在として、ここセントラルにいることは彼女も情報としては知っていた。
しかし、頭で理解していることと肉体が記憶していることの間には、大きな解離が存在していたのだ。
リザは声も出ぬまま、自分の方へと近付いてくる小さなセリムの姿を見つめた。

「ほら、セリム。お客様にきちんとご挨拶なさい」
「こんにちは」
セリムはにっこりと微笑むと、舌足らずの愛らしい挨拶をしてみせる。
単純な挨拶の言葉すら出ず、リザは子供の姿を見つめる。
微かな脂汗を浮かび、緊張に鼓動が早くなる。
と、そんなリザの緊張を解くように、彼女の隣から穏やかな男の声が響いた。
「こんにちは、セリム。初めまして。私の名はロイ・マスタングだ」
はっと隣を振り向くリザの視線の先には、僅かに頬を強ばらせたロイが作り笑顔を浮かべる姿があった。

そうだ。
リザは現況を瞬時に思い出す。
ブラッドレイ婦人はセリムがホムンクルスであった事は知っていても、その能力や実際セリムがどんな非道な事をしたかは知らないのであった。
自分の子供が北部で一個小隊分の人間の命を奪ったことも、リザを脅したことも、ロイの視力を奪ったことも、具体的なことは何も。
ぱっと頭を切り替えたリザは、セリムに向かいなるべく優しい笑顔を浮かべて見せた。
ブラッドレイ婦人の為に。
「こんにちは」
彼らの挨拶にはにかんだ笑みを浮かべたセリムは、そのままトテトテとブラッドレイ婦人の元へ歩いていくと、婦人のスカートの影に隠れてしまった。
「大きくなったでしょう?」
ブラッドレイ婦人のにこやかな笑顔に相槌を打ちながら、リザは婦人の後ろで変わらずニコニコと笑い続けるグラマンに、内心で恨みがましい視線を向けるのだった。

         *

「ああ、驚いたな」
婦人の館を出た帰り道、リザの運転する車に乗り込んだロイは、ようやく二人きりになったことを確認するように、大きな溜め息をついてそう言った。
リザは主語のないロイの言葉に返事をせぬまま、彼に見えぬよう唇の端で笑うと、大きな交差点の赤信号でブレーキを踏んだ。
話が通じている事が分かっているロイは、構わず言葉を続ける。
「忘れたと思っていたのだがな」
「准将もでいらっしゃいますか」
「君と同じだよ」
ロイは停車中の車内のルームミラー越しに彼女の視線を捕まえ、リザをからかうように言う。
「しかし、君。あんなに分かりやすく固まってしまう事はないじゃないか。婦人が何か気付くんじゃないかと、私は冷や冷やしたよ」
「申し訳ありませんでした」
言い訳もせずに素直に謝罪するリザに、後部座席のロイは苦笑した。
「いや、私も君のことは笑えんのだがね」
「そうは見えませんでしたが」
「日頃の訓練の賜物さ。この歳で会議で本音など出す程、青臭いままでもいられんからな。しかし今回は内心では、かなり冷や汗をかかされた」
そう言いながら、ロイは両の掌に残る刀傷の痕に指を滑らせた。
リザは視線を落とし、彼女が守れなかったものから前方に視線を戻した。
床に貼り付けられ、分解されたロイの姿が昨日のことのように思い出された。
しばしの沈黙に、車内にはエンジン音だけが響く。

「何年経っても思い出すものだな」
ぽつりとロイは言った。
「そのようですね」
リザは信号に従って車を発進させながら、彼の言葉に相槌を打つ。
「なら、我々の仕事が進まんのも道理か」
「何のことでしょう?」
突然のロイの論理の飛躍に付いていけず、リザは前方を見つめたまま聞き返す。
男はふっと溜め息をこぼすと、奇妙なほど明るい口調で言った。
「『国家錬金術師』の、否。『イシュヴァールの英雄』のもたらすトラウマだよ」
リザの耳に、苦笑を伴ったロイの言葉が突き刺さる。
ロイの言わんとする事をすぐに彼女理解した。
ロイの言葉は続く。
「無害な存在になったセリムに我々が過去を思いだし怯えるように、イシュヴァール人たちは今の我々を信じられずに殲滅線の恐怖を思い出すのだろう」
返す言葉のないリザに、ロイは淡々と他人事のように己を評す。

「例え十年が経ったところで、目の前で親を殺された子供の恐怖は、消えることはないだろう。子供を失った親の哀しみと絶望も、消えてなくなることはないだろう。フラッシュバック。PTSD。名前を付けられた癒えぬ心の病。イシュヴァール人にとって、私の存在はトラウマそのものなのだろうな」
確かにロイの東部治世が始まって数年経つが、未だに彼の暗殺計画は消えることはない。
イシュヴァール人による反軍部の抵抗運動も、頻繁に起こっている。
それは確かに、彼らにも覆せぬ事実だ。
だが、それに負けずイシュヴァール政策に尽力するロイの姿を、リザは間近で見続けている。
それもまた、一つの事実であることは覆せない。

リザは消せぬ事実に覆い被せるように、きっぱりとした口調で言った。
「それを塗り変える為にも、准将は今回の会議に出席なさったのではありませんか?」
ロイは一瞬驚いたように目を瞬かせた。
そして、ふっと強ばった表情筋を緩めるように破顔した。
「それもそうだ」
ロイは掌の傷をなぞる手を止め、ゆったりと後部座席に座り直す。
そしてそのまま、しばらく車窓に流れるセントラルの街並みを眺めていたが、少しだけ口調を和らげると目を閉じて言った。
「イシュヴァールがシンとの貿易拠点として発達する頃には、我々もあの子供の姿を見ても、怖がらずにすむようになっているかな」
リザは小さく、だが力強く頷いた。
「そうだと良いのですが」
彼らは再び赤信号に停車した車内で、静かな、しかし熱い決意を秘めた視線をルームミラー越しに交わす。

「頼むぞ、大尉」
「何を今更」
 
Fin.
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【後書きのようなもの】
 ああ、611に間に合いませんでした。一応、6月11日の25時という事で、すみません。
 セリムの影に拘束されたのって、エルリック兄弟とロイアイだけですよね、多分。きっと経験した人にしか分からない恐怖とか痛み、気持ち悪さまでも、彼らは共有してるんだろうなと。

 最終回から一年、ようやく准将のお話が書けるようになりました。これからも、まだしばらく准将も大佐も修業時代も書き続ける予定ですので、お付き合い頂ければ嬉しいです。
 ロイアイ好きです、これまでも、これからも。

 お気に召しましたなら。

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