お気に召すまま 7

「で、どうかね? あれの様子は」
キングでポーンを阻み、ビショップの自由を得たグラマン男爵はコトリと駒を動かしながら、何気ない口調で言った。
「あれとは、何のことでしょうか」
神経戦の最中に気を乱されまいと、マスタングは黒のマスに足止めされたポーンを睨みながら、男爵の出方を伺う。
マスタングから奪った駒を机上で弄び、男爵は口髭を震わせて薄く笑った。
「あれと言ったらあれだよ。君、分かっていて聞き返すことないでしょ?」
まるで全てお見通しだと言わんばかりの男爵の口振りに内心で冷や汗をかきながら、マスタングは盤面を睨むように目を細め表情を隠した。

男爵の言うあれとは勿論、孫娘であるリザの事を指しているに違いなかった。
表面的な意味合いだけで考えれば、旅行という名の見合いを前に孫娘の心配をする祖父の当たり前の質問と捉えることもできる質問であった。
だが、男爵がそんな単純な問いをわざわざこの局面でマスタングに向けるとは思われなかった。
現に男爵の目はちっとも笑ってはおらず、マスタングは使用人として試されている己を痛いほどに感じながら、男爵の質問への答えと盤面の勝負の計算とに忙しくその頭脳を働かせる。
おそらく、こうして執事であるマスタングに息抜きがてらチェスの勝負を挑んだことも、最初からこの質問で彼に釘を刺すことが目的だったに違いない。
流石に一昨日の夜の二人の邂逅が男爵の耳に入っているとは思えなかったが、リザの想いが勘の良い使用人達の察するところとなっている今、用心に越したことはない。
マスタングはこの一手で流れが決まるであろう盤を眺め、勝負に出るタイミングを決して見謝らぬ男爵のやり方に、微かな畏怖を覚えた。

まったく、食えない主だ。
そう思いながらマスタングは活路を見いだすべく、ナイトを一時退避させると同時に、まるで何でもないことのように平然と顔を上げると、真っ向から主の視線を受け止めた。
「時折ふさぎ込まれたり、感情的になられることはございますが、ご自身の立場をきちんと把握しておられる事は間違いないかと思います」
「そう。なら、いいんだけどね」
髭の先を一ひねりした男爵は平然とポーンを進め、カツンと執事の駒をなぎ倒した。
マスタングは果敢に自身のポーンで敵陣に攻め込むと同時に、ひらりと男爵の懐に飛び込むように言葉を発す。
「何かお嬢様に関しまして、ご心配事でもございましょうか?」
敢えてのマスタングの発言に苦笑し、男爵は盤面のキングを逃がした。
「いや、君があれの面倒をきちんと見てくれているから、心配はないんだけどね。念のため」
無言でコツリと駒を進め、攻める手を止めないマスタングに向かい、男爵は独り言のように言葉を続けた。
「しかしよくもまぁ、あの利かん気の強いじゃじゃ馬を、あそこまで手懐けたものだな、君は」
「さて、何のことでしょう? お嬢様は元から立派なレディでいらっしゃいましたかと」
「そうだったかな。まぁ、そういうことにしておくか」
不穏な含み笑いを浮かべ、男爵は投げやりに駒を動かす。
「立派なレディなら、立派な家柄に嫁ぐに不足はあるまい」
「御意」
そう言いながら、マスタングは駒を静かに詰めた。
その瞬間、盤の上の勝敗は決した。
主と執事はチェス盤を見つめ、白々しい腹のさぐり合いの矛先をいったん納める。
「失礼ですが」
チェックメイトか。これは、してやられた」
「ようやく勝たせていただきました。後はお仕事の続きを」
「分かってるよ。仕方ない、働くか」
わざとらしい温厚な笑みを浮かべた男爵は、片手を振ってマスタングにチェス盤を片づけるよう促す。

これで、とりあえずは無罪放免か。
内心で安堵の溜め息をつき、マスタングは椅子から立ち上がった。
しかし、彼の手が駒を集めようと白のクィーンを摘み上げた時、ふざけた口調ながら真面目な主の声が彼の鼓膜を打った。
「今日の勝ちは、君にやろう。だが、他は諦めなさい」
どっと背を伝う冷や汗を感じながら、マスタングはそれでも表情を変えなかった。
「何のことでございましょう?」
「さて、何の事かねぇ」
和やかな笑みの下に鋭い刃を隠した男爵に向かい、マスタングは優雅に一礼をしながら答えた。
「私の主は男爵閣下でございます故」
「さて、どうだか。君も野生馬(マスタング)だからねぇ。さてさて」
男爵はしばらくじっとマスタングを見ていたが、やがて勝負用のテーブルからふいと立ち上がると執務机へと歩いていった。
マスタングは平然とチェスの駒を片づけると、必要な書類を男爵の前にそろえ再び一礼すると部屋を退室した。
男爵は彼への興味を全く全く失ったかのように、書類から顔を上げることはなかった。

「ふぅ」
廊下に出たマスタングは緊張に強ばっていた身体から力を抜くと、そこに誰もいないことを確認してから、大きな息をついた。
明らかに男爵は何かを感づいている。
マスタングを牽制するあまりにあからさまな男爵のやり方に、彼は主の覚える危機感の強さを感じ取る。
外交の切り札でもあり、目の中に入れても痛くない可愛い孫娘のスキャンダルなど、男爵にとっては絶対に避けたいであろう。
本来なら男爵は、リザにきちんと彼女の立場と役割を説いて聞かせねばならないところなのだ。
しかし、可愛い孫娘に嫌われたくない主は、リザではなく執事であるマスタングに釘を刺しにきた。
そんな心配をする必要はないというのに。
マスタングは微かな自嘲の笑みを浮かべてみせる。
マスタングにとっては、リザの幸福は至上の願いなのだ。
それを自ずから壊すことなど、彼に出来る筈がない。
一昨日の夜の絶好のチャンスにおいてすら、彼は理性の力で己を律した。
これ以上、何が起こることもないだろう。
後は今夜。
今夜さえ凌げれば。
今夜、彼の大切なお嬢様が何を言い出そうと、何をしでかそうと、彼が彼女の未来を守ることが出来るなら。
それがどれほどの痛みを彼の胸にもたらすものであろうとも。
それが彼女に対する、彼の最大限の愛情であるのだから。

マスタングはキッと表情を引き締めると、物静かで厳格な執事の顔を取り戻し、懐の銀時計を取り出した。
十三時を指す時計の針に夜までの時の長さを思い、彼は小さく唇を引き結ぶ。
そして白手袋をきっちりはめ直すと、この家の執事としての本分を尽くすべく、雑念を振り払うと規則正しい足取りで階下に向かって歩きだしたのだった。

       §

余計なことを何も考えぬよう、マスタングは必要以上に細やかに己の仕事に取り組んだ。
だが、女中頭レベッカが彼に投函するよう依頼した手紙の束が、強制的に彼女のことを彼に思い出させる。
リザの筆跡を見るともなく眺めるマスタングは、その中の一通の宛名に首を傾げた。
「……ヴァン・ホーエンハイム?」
流麗な若い女性らしい文字が綴る宛名は、彼女の叔父に当たる分家筋の家の当主の名であった。
数日前からリザの文机の上にその手紙が置かれていたことに、マスタングは気付いていた。
奔放で家名に縛られぬ放浪癖のある叔父と彼女との間には、普段は何の接点もない筈だった。
それが、何故?
今、このタイミングで書かれた不可解な相手へのリザの手紙に、何かモヤモヤとしたものを感じながら、それでも執事の分を弁えたマスタングは午後の馬車便で、その他の男爵の手紙と共にそれを送り出した。
きっと今夜のことを考え、自分は様々なことに過敏になりすぎているのだ。
結婚を前に親族に手紙を書くことなぞ、おかしくも何ともないではないか。
無理矢理にそう考えることで己を納得させ、マスタングは玄関の大きな扉の前で遠ざかっていく馬車を見送る
十五時の傾きかけた太陽に照らされた彼は、空を仰ぎ溜め息を隠す。
約束の刻限まで僅か。
その前に、彼にとって一日の内で最も忙しい時間がやってくる。
彼は夕食の準備を確認し、給仕の支度をするために、足早に台所へと向かう。
その背を綺麗な群青の空が、静かに見送っていた。

十七時。
まるで何事もなかったかのようにマスタングは、男爵とリザのそろう夕餉の食卓の給仕を務めた。
すっと背筋を伸ばし無表情でナイフとフォークを動かすリザと、いつも通りの好好爺の顔をした男爵と、厳格な執事の顔で立ち働くマスタングの間には、一種異様な張りつめた空気が漂っていた。
しかし、誰もそのことには触れず、豪華な食卓は沈黙の中で消費されていく。
コックのブレダが見たら嘆くだろうな。
そう考える彼の視界の端に、いつも通りに見えるリザのナイフを握る手に力が入りすぎて、関節が白くなっている様が映る。
きっと今のリザは、満足に食事の味も分かっていないだろう。
今が旬のアスパラガスは、朝摘みの特に甘みの強いものを取り寄せたというのに。もったいない。
己の思考を明後日の方向に逸らし、マスタングはいたたまれぬ空気をやり過ごす。
十九時過ぎまで延々と続く苦行のような時間の中、マスタングは時間が過ぎることへの安堵と不安のジレンマの狭間で、己の職務を全うするのであった。

やがて、約束の刻限が迫る。
マスタングは白い手袋を真新しいものに変えると、ピシリと黒いスーツを折り目正しく整えた。
そして、きっちり櫛をいれ一筋の乱れもなく髪をオールバックにし、一分の隙もない完璧な執事としての己を作り上げる。
私情に揺らがず、男爵にではなく彼女に忠節を尽くす一使用人としての己を。
リザに泣かれようが、縋られようが、己の心を解いてしまわぬ為に。
鏡面に映る自身の姿を確認したマスタングは背筋を伸ばすと、ニコリともせずにホールへと足を向けたのだった。

そうして彼は約束の時間の十分前、玄関ホールに降り立った。
リザの姿はまだない。
誰もいないホールでマスタングは姿勢を崩すことなく、彼女が現れるのを待った。
例え彼女の気が変わってこの場に姿を現すことがなかったとしても、彼自身の想いに区切りをつけるため、彼は一晩中でもこの場に立つつもりでいた。
やがて。
カツカツと静かな足音が響いてきた。
薄闇の中でひとり立つマスタングの背後、階段の上から静かな彼女の声が聞こえる。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
マスタングはゆっくりと声のする方を振り向いた。
そこには、深夜に不釣り合いなほど美しくドレスアップした、リザの姿があった。
高く結い上げた髪を生花で彩り、コルセットをきつく締め上げた上に濃紺のドレスに身を包んだ彼女は、優雅な足取りで階段を下りると彼の前で静かに膝を折り一礼した。
思いもかけぬ彼女の姿に驚きを感じながらも、いつもの気難しい執事の顔でそれを隠したマスタングに向かい、リザはスッと手の甲を上にした手を彼の方へと差し伸べた。
困惑を覚える彼に、リザは恥じらうように小声で言った。
「バカンスの前にレッスンをお願いしたいのですが、お付き合い下さいますか?」
リザの申し出は、少なくとも彼を困らせる類の願いではなかった。
このドレス姿でレッスンと言えば、ダンスのレッスンに違いないであろう。
むしろ、彼がリザに向かって数日前にそんな小言をこぼしたばかりであるのだから、深夜のこんな時間の申し出であることを除けば、彼に断る理由はないのだ。
それにもし、彼女が彼との間に某かの思い出を欲するのであるなら、それを拒むことは彼には出来ない。
マスタングは僅かに逡巡したが、すぐに一昨日の再現のようにリザの前に膝を折り、彼女の思惑が分からぬまま恭しくその手を取った。

「お望みのままに」
緊張した面持ちで微かに頷くリザをスマートにエスコートし、マスタングは夜の静寂をゆっくりと歩き出した。

To be continued...

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【後書きのようなもの】
 次でラストです。週末にアップできたら、良いなぁ。