お気に召すまま 6

次の日の朝、朝食の席で、リザは全くマスタングの方を見ようとはしなかった。
ただ朝食のサーブを行うためにマスタングが近付く度、彼女の細い肩は風に震える雛菊のように震えた。
執事の給仕にも最低限の会話にもならぬ返事だけをし、小鳥のように僅かな食物を口にするばかり。
ただ紅く染めた頬と、眠れなかったのであろう兎のような目を見られまいとするかのように終始俯いたままのリザに、祖父の疑問が投げかけられるのは当然のことであった。
「風邪でも引いたのかね? リザ」
「いいえ、お爺さま。昨晩、少し本を読みすぎただけですわ」
「ふむ、なら良いが、今は体調を崩さぬようにな。せっかくのバカンスが台無しになってしまう」
グラマン男爵との会話に曖昧な笑みを浮かべたリザは、あっという間に食事の席を離れていってしまった。
いつもの毅然とした彼女とのあまりの様子の違いに、グラマン男爵はまったく訳が分からない様子で執事を見上げる。
「昨日、何かあったのかね?」
「いえ、私は存じ上げませんが。いつも通りのレッスンをこなされて……。ああ、夕食はご気分が優れないとお部屋で取られておいででしたが」
内心で冷や汗をかきながらマスタングは表面上はいつもと変わらぬ体を保ち、男爵の質問に答えてみせる。
「ふむ。噂が立って神経質になっておるのかもしれんな。アレも年頃の娘だ」
自分に言い聞かせるような男爵の声を耳に、マスタングは男爵の前から食器を下げながら昨夜の彼女を思い浮かべた。
 
闇夜に淡く浮かび上がる華奢な肢体。一途な鳶色の瞳。思い詰めた言葉。
全てが己の心が描いた幻であれば良かったのに。
しかし、今朝のリザの態度は彼にそう思い込む事を許してはくれなかった。
「明後日、同じ時間にこちらで」
昨夜のリザの言葉が脳裏でリフレインを繰り返す。
上衣を返すなど、口実に過ぎない事は互いに分かりきっている。
明後日、すなわち明日の夜、己はどうすればよいのだろう?
銀のワゴンに食器を片付けたマスタングは、苦悩を隠して一礼すると主の前を退出する。
がらがらとワゴンを押しながら、彼は自問する。
主の孫娘を待ちぼうけにさせる事など、執事である彼に許される事ではない。
しかし、彼女の言葉がどんなものであれ、執事である彼には受け入れる術もない。
マスタングはワゴンを片付けると、そっとジャケットの隠しを服の上から押さえた。
そこには、昨夜のリザの涙を吸い込んだ手袋が、そのまま納められていた。
彼と彼女を隔てる身分の壁の大きさを改めて思い、マスタングは頭を振ると己の職務を全うするべく顔を上げ、廊下を歩き出したのだった。

仕事をしている間は何もかもを忘れていられる。
昨夜の会話がなかったかのように、レベッカやハボックと日常の業務だけの会話を交わし、マスタングは己の日常をトレースする。
使用人である彼らは、職務中には彼に何も言わなかった。
ただ、いつもの軽口や愚痴をこぼし、そして仕事をこなす。
しかして時間は刻々と過ぎ、やがてマスタングは否が応でもまた彼女の為にティータイムの準備に取りかからねばならなくなる。
予定より早く到着したキャッスルトンのオータムナルの美しい捩れた茶葉を手に、マスタングはこの茶を待ち侘びる主の娘へと思考を戻さざるをえず、大きな溜息をこぼすのであった。
朝の彼女の憂い顔を思い出すだけで、マスタングの胸はキリキリと痛む。
彼女にあんな顔をさせておくわけにはいかない。

コトリ。
トレイの片隅に銀時計を置き、マスタングは勢いよくポットに湯を注ぐ。
1秒、2秒、3秒。
ジャンピングする茶葉を確認してポットの蓋を閉め、彼は秒針を眺めてもう一度溜め息をこぼす。
いつものカウントアップが千々に乱れる思考に邪魔され、サーブのタイミングを誤りそうで彼は秒針をにらみながらワゴンを押し始める。
正確に、彼女の為に最高の状態のお茶をサーブする為に。
どんな時でも、彼はプロの執事であらねばならないのだから。
4分13秒、14秒、15秒。
ノックの音と共に入室を許可されたマスタングは、まっすぐにリザを見つめた。
「お嬢様、そろそろお茶のお時間になさってはいかがでしょうか?」
「もうそんな時間ですか?」
顔を上げようともしないリザから若い教授に視線を移し、マスタングは仮面の笑みを浮かべてみせる。
「ファルマン教授、お邪魔ではありませんでしょうか」
「いえ、相変わらず良いタイミングで来て下さいました、執事殿」
何も知らぬファルマンの返事に、マスタングティーカップの用意を始める。
「今朝、キャッスルトンの一便が届きましたので、早速お持ちいたしました」
かぐわしいダージリンの香りが部屋中に満ち、微かにリザの表情が動く。
4分57秒、58秒、59秒、時間だ。
マスタングは己の最高の技量をもって抽出した深紅色の液体を、優雅な手つきで白磁カップへと注ぎ入れた。
マスタングは微笑の仮面を己の顔面にはりつけたまま、ゴールデンリングが浮かぶティーカップをリザと教授に差し出す。
いつもと違うリザの様子を気遣いながらファルマンは、曖昧な笑みで紅茶に口を付ける。
「ああ、やはりこちらのお屋敷でいただく紅茶は美味いですね。特に今日のは格別な気がします」
「お口にあったようで光栄です、教授」
マスタングは教授に一礼すると、リザの方へと向き直りいつまでも紅茶に口を付けぬリザに向かい、いつも通りの台詞を並べた。
「香りを楽しまれるお邪魔になっては無粋かと思いまして、ミルクはご用意しておりませんが、ご入り用でしたらジャージー種、ガンジー種、ホルスタイン種のミルクのいずれかをお持ちいたします。如何でしょうか?」
リザは視線を落としたまま逡巡するようにカップに手を伸ばし、そして睫毛を伏せたままそっとカップに口を付けた。

その瞬間、ふっとリザの表情が動いた。
驚きと幸福に満ちた表情が一瞬浮かび、戸惑うように視線を彷徨わせた彼女は困ったように躊躇った後、もう一度確認するように紅茶に口を付けた。
白い喉が動き、幸福な飲み物がリザに染み渡るのを待ち、マスタングは胸に手を当てこういった。
「今年のキャッスルトンは当たり年のようでして、オータムナルなのにマスカテルの香味を残した仕上がりになっております。これほどの素晴らしいオータムナルは、近年出た覚えがございません」
彼は笑顔を己の心からのものに変え、リザに向かって語りかけた。
彼女がいつまでも下を向いていることは、彼自身の胸の痛みよりもマスタングには辛い事であった。
小さなきっかけで気持ちは動き、僅かな揺らぎが彼女の憂いを動かすのなら。
そう思い、彼は様々な手蔓を使いこの茶を手に入れた。
彼はプロの執事であると同時に、誰よりも彼女を見つめ続けてきた者でもあるのだ。
どんな時でも彼女を幸福に、笑顔にするのが彼の想いを表す手段であった。

リザは口中の幸福を反芻するように目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げた。
リザが己の方を見るのを、マスタングはすさまじい緊張を持って待ち構える。
「素晴らしいわ。本当に」
そう言って、リザはまっすぐにマスタングを見た。
紅く染まった頬も、涙を隠した瞳も、全てを隠そうとせず、リザはまっすぐにマスタングを見た。
淡い色に染まった唇が、微かに震えた。
「ありがとう」
リザはそう言った。
どうとでも解釈の出来る単純な感謝の言葉であったが、マスタングには分かった。
彼女がきちんと己の想いを受け取ってくれた事を。
「お口にあったようで光栄です」
教授の前で、いつも通りの主従の会話を交わした二人は、束の間、視線を交わしあった。
瞳は雄弁で、彼らはそこに悦びと哀しみを等分に詰め込み、一瞬の魂の逢瀬に表情を和らげた。
マスタングは彼女の唇に微かな笑みが浮かんだ事を確認すると、部屋を退出する為に優雅に一礼した。
扉を開けもう一度振り向いた彼に、小さな聞こえないほどのリザの声が届く。
「明日……、忘れないでいて下さいますか」
「御意」
マスタングはジャケットの胸に手を当て、彼女に向かって頭を下げた。
その掌の下に隠された手袋にマスタングは複雑な胸中を刺激され、それ以上は何も言わず彼女の部屋を退出したのだった。

To be continued...

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【後書きのようなもの】
震災後、本当に何も書けなくなりました。まだまだリハビリ中ですが、少しずつ何とか。何とか、頑張るです。

お気に召しましたらお願いします。元気の素です。

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