お気に召すまま 2

キン!
鋭い金属音をたてて、マスタングの手に重い衝撃が走った。
彼はハッとして体勢を立て直すといつもの調子を取り戻し、すっと手を引く。
続けて彼に向かって繰り出された鋭い刃を半身でするりと受け流したマスタングは、俊敏な、それでも手加減した一撃を相手に送り込む。
彼の突きの衝撃に剣を飛ばされ、息を詰まらせよろめいた小柄な相手は、己の負けを噛みしめるようにしばしその場に立ち尽くした。
マスタングは試合中に思考を遊ばせ、彼女の攻撃を許してしまった動揺を全く表に出さず、いつもと同じ手順でフェンシングの剣を置くとマスクを外した。
汗で僅かに崩れたオールバックを直す彼をじっと見ていたリザは、自身も窮屈なマスクを外し、フルリと頭を振った。
午後の陽射しに広がった金の髪がキラキラとまばゆく、マスタングは目を細めて彼女の不機嫌に上気した顔を見つめた。

「手加減はいらないと、日頃から貴方にはお願いしていたと思うのだけれど」
負けず嫌いは昔から変わらない。
彼女の第一声を聞いたマスタングは変わらぬ少女の本質に内心で苦笑したが、あくまでも厳しい顔は崩さず慇懃に彼女の言葉に答えた。
「それではレッスンが成り立ちません」
「でも」
「お嬢様に負ける程度の執事でございましたら、私はお暇をいただかねばなりませんでしょう」
「いつか勝ってみせるわ」
「どうぞ、その時はお嬢様のお望みを何でも聞いて差し上げますよ。どれほど私が油断をしておりましょうが、無理かと思いますが」
リザは屈辱に唇を噛みしめたが、それでも自身の実力の程はわきまえているようで、それ以上の反論はしてこなかった。
マスタングは追い打ちをかけるように、言葉を続けた。
それは彼自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「それに今は、お嬢様にはこのようなお遊びよりもダンスや礼儀作法のレッスンに勤しんでいただくべき時期であるのは、お嬢様ご自身もお分かりでいらっしゃいますでしょう」
リザの表情が僅かに変化した。
無表情だと言われる彼女のどんな変化も、彼の目は見逃さない。
それは彼の誇りであり、同時に彼の報われぬ想いの苦しみでもあった。
「……それは、今度のバカンスの為に?」
歯切れの悪いリザの言葉に、マスタングは自分の心が揺らがぬよう容赦なく答えた。
「そこまでお分かりいただいているのでしたら、申し上げることはございません」
リザは彼の返答に何か言いたげに微かに唇を開いたが、結局なにも言わずに口を噤んだ。
マスタングは少し彼女の言葉を待ってみたが、リザは微動だにせず彼を見つめるだけだった。
彼女の揺れる瞳に心を揺らされぬよう、マスタングはあえて冷たい視線で彼女を見つめ返し、執事として当然の仕草で一礼した。
「本日はここまでにいたしましょう」
彼はこの居たたまれない空気から逃れる理由を作るため、レッスンを切り上げることにした。
いくら彼が鉄面皮の執事の役割を己に課そうとも、彼の胸の内には彼女の哀しみを憂う心と彼女への抑圧された想いとが巣くっているのだから、彼自身、不要な痛みは避けるべきであった。
彼は令嬢の手から落ちた剣を恭しく拾い上げると、それを片付けるために彼女に背を向けた。
その時、二本の細い剣を手にしたマスタングの背に、彼の視線から逃れた事により呪縛を解かれたかの如き、勢い込んだリザの声がぶつけられた。

「一つ、貴方に聞きたいことがあるの」
マスタングは己の心が漏れぬようゆっくりと振り向くと、厳めしい顔で彼女と相対する。
リザは小さく拳を握りしめ、怒ったような表情で彼を見つめていた。
「何なりと、お嬢様」
彼の漆黒の瞳に見つめられ言葉を失ったかのように、リザは何度も唇を開けたり閉じたりしながら、緊張しきった面もちで言葉を探している。
まるで彼に言葉をかけたことを後悔するような彼女の様子に、マスタングは覚悟を決めて向き合った。
見合いの理不尽さを責められるのか、グラマン男爵の政略的行為の是非を問われるのか。
何を言われても辛い気がして、マスタングは黙ってリザの唇を見つめる。
と、不意に彼女はぐっと唇をへの字に曲げると、意を決したように消え入りそうな声でぽつりと言った。

「貴方は、私と一緒に来てくださるの?」

耳に届いた彼女の言葉は、全く予想外のものであった。
流石にマスタングも驚きの色を隠すことができず、僅かに目を見開いた。
とっさに出る言葉もなくリザを静かに見つめ返す彼の様子に、令嬢は微かに頬を赤らめ、それでももう一度彼に確認するように繰り返した。
「ですから、私がもしその、この家を出ることになったのなら、貴方は私と共に来てくださるのですか?」
「何をおっしゃっているのでしょう」
余りに突飛な彼女の言葉に、マスタングは思わずそう言ってしまった。
リザは普段の無口さを忘れたかのように、慌てて言い訳めいた言葉を並べ立てる。
「だって、ずっと昔、貴方は私にこう言ったでしょう? 『私は生涯、貴女にお仕えするよう男爵に仰せつかっている』と。ですから、私は」
それ以上の言葉が言えなくなったように、リザは口をつぐんだ。
自分はそんなことを彼女に言っただろうか?
マスタングは遠い己の記憶を探る。
確かに彼と彼の雇用主である男爵の間には、そういった契約がなされていた。
リザがここの女領主になるに際し、彼女をサポートする従者は確かに必要であったからだ。
しかし、彼女が嫁ぐと言うことは、その大前提自体が消えてしまう。
彼女はそれに気付いていないのだろうか?
考え込むマスタングの記憶を呼び覚まそうと、リザは必死になって言い募る。

「あの、森で私がポニーと一緒に迷子になって足を挫いた時のことを、お忘れですか? 従属の……その……口付けを私にしてくれたのは、貴方でしたでしょう?」
マスタングは若かりし日の己の気障な行動を思い出し、内心で冷や汗をかいた。
確かに彼はあの時、小さな少女の怪我をした踝に口付けを落とした。
じゃじゃ馬なお嬢様に散々心配をかけられたお返しに、あまのじゃくな彼女の言葉尻を捕まえ軽いお灸を据えたつもりの行為が、彼女の中にこれ程までに深く根付いていたとは。
なお切々と言葉を続けようとするリザに、マスタングは残酷な事実を告げる。

「お嬢様。あの頃とは全てが変わってしまいました。
リザは裏切られたような面持ちで、びくりと肩を震わせる。
マスタングは心を切られるような思いで、彼女の唇からこぼれた美しい過去の幻影にとどめを刺した。
「お嬢様がこれほど美しく聡明なレディとなられました今、私のお役目は終わったのです。どうぞ、ご理解下さい」
リザは呆然とその場に立ち尽くした。
それが彼女の問いへの彼の答えだと、彼女は正確に理解したのだ。
それ以上彼女の姿を正視できず、マスタングは手近のベルを鳴らし女中頭のレベッカを呼びつけた。
「汗をかいておられるので、着替えのお支度を。バカンスを前にお風邪など召されませぬよう、気をつけていただかなくては」
「承りました」
だが、そう答えたレベッカは、鋭い瞳で臆することなくマスタングを睨みつける。
自分は令嬢の味方である、とでも言うかの如く。
マスタングは辟易して、それ以上は何も言わずその場を立ち去ることにした。
自分が分からず屋の朴念仁として、悪者になって全てが丸く収まるなら、それが彼が手塩にかけてレディに育て上げた彼女の幸福に繋がるのなら、それで構わないと考えながら。
 
その夜、彼が給仕をつとめるディナーの席に、リザは気分が優れないと言って姿を現さなかった。
 
 To be Continued...
 
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【後書きの様なもの】
  前中後編の三部作の予定でしたが、年末の忙しさには敵わないのでチマチマアップしていく作戦に切り替えます。年内に終わらせたかったんですが、すみません。
 さて、いよいよ明日は冬コミですね。お会い出来る皆様、よろしくお願いいたします!