お気に召すまま 8

ダンスのレッスン。乗馬のレッスン。
様々な理由の元、自分は何度この手に触れてきたことだろう。
マスタングは、己の肘の上に行儀良く添えられたリザの手の微かな重みを感じながら、胸の中で一人ごちた。

そう、彼らはあまりに近付きすぎたのだ。
たとえ手袋越しとは言えど、彼女の手が彼に触れ、彼の手が彼女に触れる度、彼らは互いの胸の中に隠した想いを育ててきてしまった。
今こうして深夜の広間で、こんな逢瀬を持ってしまうほどに。
きっかけはやはり、あのポニーが暴走したあの時であったのだろうか。
それとも彼が執事として初めてこの屋敷を訪れた、あの日であっただろうか。
今となっては気持ちが生まれた日など、明確に分かるわけもない。
ただ、重ねた月日が身分の差を超え、二人の間に想いの糸を紡いでしまった。
しかし、その糸ももうすぐ解けてしまう。

ふっと湧き上がる寂しさを押さえ込んだマスタングは、リザが不意に足を止めたことに気付いた。
そこは彼らが数日前にフェンシングの稽古を行った、玄関脇の小ホールの前であった。
普段は主に彼女のフェンシングの稽古に使われている小さなホールは、確かにあまり人の目に触れずに真夜中の舞踏会を行うには、最適な場所であるだろう。
リザの意図を察したマスタングは、彼女をエスコートする手を一旦外し、扉を開く。
恭しく頭を下げるマスタングの前を滑るように移動し、リザは仄かな月明かりに浮かび上がる窓辺に立ち、くるりと振り向いた。
その瞬間、彼女の表情の上に小さな苦い笑みが浮かぶ。
扉を半分だけ開いた状態にし、彼女と決して二人きりになろうとしないマスタングの配慮に気付いたのだろう。
ゆっくりと彼女に向かって歩み寄るマスタングに向かい、リザは静かに口を開いた。
「貴方は本当に」
しかしその後は、言葉にならなかった。
「執事でございますれば」
判で押したようなマスタングの返事に、リザは困ったように口を噤む。
言いたいことすら言えぬ彼女に微かな悲しみを覚えると同時に、マスタングはあることに気付く。
微かに口元を緩めた彼は、なるべくいつもの調子で彼女に声をかけた。
「ところで、お嬢様」
「何でしょうか」
ぐっと身構えるリザの気持ちを解すように、マスタングは優しく彼女に問うた。
「私の上衣は如何なりましたでしょうか?」
彼の言葉にハッとしたように目を見開くリザの様子に、マスタングは思わず笑みをもらしてしまう。
ドレスアップするのに一生懸命になってしまったのか、今日のこの時間に彼と会うことだけで胸がいっぱいになってしまったのか、彼女は自分の作った口実をすっかり忘れてしまっていたらしい。
「あの、私」
「結構です。明日、女中頭にでもお預け下さい」
おそらく、今夜のリザの着付けを仕上げたのは女中頭のレベッカであろう。
ならば、そのくらいの用事は頼まれてくれる筈であろう。
そう考えながら、マスタングは思わずふっと吹き出してしまう。
「何が可笑しいのですか?」
むきになるリザに、マスタングはすました顔で答えてみせる。
「フェンシングの試合の時もそうですが、詰めが甘くていらっしゃるかと」
いかにも悔しそうな顔をするリザに、マスタングはスッと手を差し伸べた。
「さて、どこからおさらいいたしましょうか?」
すっかり膨れっ面になったリザの肩から力が抜けたことに安堵し、マスタングは彼女の手をとった。
不機嫌な令嬢は黙って彼に身を委ねる。
コツリと夜の静寂を破るマスタングの最初のステップの音がホールに響き、そして二人きりの深夜の舞踏会は始まった。

音楽がない分ペースが速くなってしまわないように、マスタングは注意深く彼女をリードする。
リザはまだムクレているらしく、つんとあさっての方を向いたまま、それでも彼のリードにきちんと応えている。
彼が教えた通り、優雅に美しく。
近すぎるとマスタングは苦笑し、へそを曲げたお姫様の顔を間近に眺めた。
最初はマスタングの足を踏んでばかりいた彼女も、いつしか何処に出しても恥ずかしくない舞踏会の花となった。
手の中の花は、元から彼のものには決してならぬと分かっていたはずなのに。
月下の差し込む部屋でマスタングは一人追想に浸る。
くるりとターンを踏むと、ふわりと花とリザの香りがした。
すると不意に月影に表情を隠し、リザは呟くように言った。
「一つ、お聞きしておきたいのですが」
「何でしょうか? お嬢様」
内心で身構えながら、マスタングは彼女の問いを待った。
リザはスッと視線をあげ、ひどく生真面目な顔で軽やかなステップを踏みながら言う。
「先日、貴方が私におっしゃったことは、嘘偽りのないお言葉でしょうか?」
先日の、ということは今夜の約束をした際の彼の言葉に、彼女は疑問を抱いているのだろうか。
彼女の問いに多少心外な想いを抱きながら、マスタングは即答する。
「勿論です」
リザは畳みかけるように、真剣な瞳で彼に迫った。
「神の御名に懸けて誓えますか?」
「お嬢様がお望みでしたら、何に懸けても誓いましょう」
真摯なマスタングの言葉に、リザはようやく愁眉を開いた。
「ああ、良かった」
ああ、良かった。
リザとシンクロするように、マスタングは彼女に笑顔が戻ったことに胸をなで下ろす。
特別な夜を笑顔もなく終わらせたくはなかったから。
彼がそう思った次の瞬間。

令嬢はパッと身を翻し、彼の腕の中から逃げ出した。
「え?」
彼が疑問を感じる間もなく、リザは傍らに置いてあった二本のフェンシングの剣に手を伸ばすと、その一本を彼に向かって投げて寄越した。
そのままスッと剣を青眼に構え、リザはもう一方の手でスカートの裾を一絡げに持ち上げた。
「え?」
己に向かって投げ渡される一本を、持ち前の反射神経で辛うじて掴みとったマスタングに向かい、リザが綺麗な突きを繰り出す。
マスタングはとっさに防御の構えをとった。
キン!
彼の手から剣が跳ね飛ばされると同時に、彼の体はバランスを崩す。
ぐらり。
驚くマスタングの体は本人の意志に反して大きく傾ぎ、彼の視界は反転する。
何が起こったのか分からぬまま、マスタングはひっくり返りぼんやりと自分が天井を見つめている事に気付いた。
目を白黒させるマスタングの眼前に、ぐいと月光に輝く白銀の刃が突きつけられた。
兵は詭道なり、確かこれは帝王学で貴方に教えていただいたことでしたわね」
頭上から、涼やかな声が降る。
彼の喉元に切っ先を突きつけ、リザは月光の下で恐ろしいほどに美しい笑みを浮かべていた。
「お嬢様?」
状況が飲み込めぬマスタングに、ドレスの裾を絡げたはしたない姿のまま、令嬢は勝ち誇ったように得意げな口調で言った。
「私、レッスンをお願いいたしましたけれど、一言も『ダンスの』とは申し上げませんでしたわよね?」
彼女は一体何を言っている?
いや、それ以前に一体今何が起こったのだ?
リザの言葉の筋が見えず、マスタングは呆然とリザを見つめる。
「ドレスを着てする、『フェンシングの』レッスンもあっても良いのじゃないかしら?」
リザはふわりと優雅にドレスの裾を下ろし、マスタングの前に立つ。
にっこりと邪気のない笑みがこぼれ、マスタングは自分の現状も忘れ、一瞬その笑顔に見惚れた。
リザは悪巧みを成功させた子供の顔そのままに、意気揚々と言葉を続ける。
「先日のフェンシングのレッスンの時に、貴方はおっしゃいました。『私が勝ったら、何でも言う事を聞いて下さる』と。『貴方が油断していらっしゃっても、私が勝つのは無理だと』」
彼女の言葉に、彼は数日前の彼女を負かしたレッスンの際、己が言った言葉を思い出す。
『どうぞ、その時はお嬢様のお望みを何でも聞いて差し上げますよ。どれほど私が油断をしておりましょうが、無理かと思いますが』
「ですから、私、貴方に油断していただこうと思いましたの。私のお願いを聞いていただく為に」
嘘偽りのない言葉。
それは、あの夜の彼の発言ではなく、昼間のレッスンの時の言葉を指していたのか!
マスタングはぽかんと間抜け面をさらしたまま、令嬢の得意満面の表情を見上げる。
ダンスのレッスンと思い込ませ、彼の隙を突き言質も取る。
確かに無茶苦茶ではあったが、彼女は一言も嘘を言ってはいないし、プライドの高い彼には言い訳をする隙もない。
ようやく事態を飲み込んだマスタングは力が抜けて、思わず溜息をついた。

このじゃじゃ馬め!

何年かけて端正に育てようが、じゃじゃ馬は所詮じゃじゃ馬のままなのだ。
間の抜けた表情でリザを見上げる彼の傍らに、リザはぺたりとお行儀悪く座り込んだ。
「で、私に何をしろとおっしゃるので?」
半ば投げやりになったマスタングの言葉に、リザは嬉しそうに笑うと当然のように言い放つ。
「私はお爺さまの後を継いで、この地の領主になります。だから、貴方には生涯私の補佐をしていただきたいの」
もうこうなっては何を言われても驚く気もしない。
マスタングはお手上げの体で、彼女の言葉の弱いところを突く。
「それを男爵がお許しになるとでも?」
「させてみせるわ。今度のお見合いも、きちんとお断りします」
「どうやって」
「それを考えるのは、貴方よ」
「……」
彼女の勝手な言い種に、マスタングは思わず黙り込む。
リザは彼の情けない顔を少し笑い、そして剣を下ろすと口調を変え真面目な顔で言った。
「私の幸福は私が決めることで、貴方やお爺さまに決めていただくことではないと思うのですが」
完全にリザに主導権を握られたマスタングは、乱れた前髪をかきあげ反論の言葉を探す。
「ですが」
「ヒヒ爺と結婚するのが幸せ?」
また、ハボックがいらぬ言葉を教えたな。
脱力するマスタングの思考を先回りするように、リザは彼にたたみかける。
「財力のあるだけの家での何もしないお人形のような生活が、私の幸福? 窮屈な檻の中が幸せ?」
マスタングは言葉に詰まる。
リザは必死の面もちで、彼にいい募る。
「私はあの日、貴方が私に服従を誓って下さった日から、必死で勉強したのです。ダンスも礼儀作法も、帝王学も、何もかも。貴方に認めてもらえるように」
いつの間にかリザは、ぎゅっと彼のベストの裾を握りしめていた。
その仕草を遙か以前に見たことがあることを、マスタングは思い出す。
森で迷子になった彼女を愛馬に乗せ連れ帰る時、彼女は初めて彼に心を開いた信頼の証のように、今と同じように彼のベストの裾を掴んだのだ。
記憶の底を揺さぶられ、マスタングは動揺する。
リザの言葉は止まらない。
「私はあの日からずっと、貴方にふさわしい当主になる為に日々を費やしてきたのです。ですから、私は何処にも行きたくないのです」
思いもかけぬリザの言葉に、マスタングは瞠目する
あの日のあの他愛ないやりとりが、これ程までに彼女の中に根付き、大きな意味を持っていたとは。
リザは目を伏せ、彼のベストの裾を固く握りしめたまま、すがりつくように言った。
「私の幸福は貴方といる事なのです。貴方は私の幸福を守って下さるんでしょう?」
プロポーズとも取れるほどの彼女の大胆な言葉に、ついにマスタングは赤面した。
予想外のマスタングの反応に驚いて、リザは口を閉じる。
彼は彼女から表情を隠そうと、片手を額に当て俯いた。

マスタングは最後の抵抗のように、ぼそりと言う。
「ですが、仮にお嬢様が男爵の跡目を継がれましたなら、さらに跡継ぎが必要です。どちらにしろ、ご当主を迎えられるのであれば、私は不要かと」
「結婚はしないわ」
マスタングはぱっと顔を上げた。
「お嬢様! この由緒正しきお家を、お嬢様の代で途絶えさせるわけには参りません」
「そのような事はいたしません」
リザは微かに微笑んだ。
「分家のホーエンハイムのおじさまにお願いしてあるの。おじさまの息子のアルフォンスを、将来うちの養子に下さいと」
「!」
あの手紙は、そういうことだったのか。
もう返す言葉もないマスタングに、リザは当然のことのように話し続ける。
「おじさまの所くらいの領土なら、あちらの長男のエドワードのような素直な方のほうが治めやすいでしょう。でも、男爵領となるとアルフォンスのような少し人の裏を見るようなタイプの方が向いていると思うの。ちょうど彼は次男ですから、どちらにしろお婿入りの先を探さなくてはならない筈。どちらにとっても悪い話ではないと思うの」
忠実に彼が教えた座学を実学として応用してみせる令嬢に、ついにマスタングは白旗を掲げる。

マスタングは膝を払い、ゆっくりと立ち上がった。
愛しい令嬢にここまでの事をさせておいて、彼に否やを言う理由がどこにあろうか。
美しく、強かに成長した手塩にかけて育て上げた令嬢を、マスタングはじっと見つめた。
何も言わないマスタングに、不安そうな令嬢の瞳が揺れている。
彼はリザに向かって手をさしのべ、自然なエスコートで彼女を立ち上がらせた。
そして自分は再び彼女の足元に跪くと、丁重に彼女に向かって言った。
「お嬢様、お手をどうぞ」
見上げる彼の目と彼女の目があった。
リザはしばらく何も言わないままに彼を見つめていたが、意を決したように差し出された彼の指先から、そっとその白い手袋を抜き去った。
マスタングは何も言わず、彼女にされるがままに己の執事の証を彼女の手に委ねる。
しばしの間があり、リザは改めて彼の裸の手に己の白い指先を重ねて言った。

「生涯、私の傍らにいて下さいますか?」
「お望みのままに」

その言葉と共に、マスタングはその指先にそっと口付けを落とす。
白い月だけが、静かに彼らの生涯の誓いを見守っていた。

Fin.

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【後書きの様なもの】
  大変大変お待たせいたしました。
 かめ様からのリクエスト「じゃじゃ馬慣らしの続編」ひなた様からのリクエスト「じゃじゃ馬ならしの設定で甘酸っぱい話」FuFu様からのリクエスト「パラレルで身分違いの恋。リザ高、ロイ低で」の合体です。
 お気に召しましたら嬉しいのですが。ああ、パラレル、本当にもう終わらないかと思いました。頑張った!<自分。

 えーと、聞かれる前に書いておきますが、この二人は身分の差がありますので、公的な意味では生涯結ばれる事はありません。三十路近い後ろ盾のない男の身分を上げる方法を見つける事が、私には出来ませんでした。
 でも一生、一緒にいるのは確かなようです。

 50万回転リクエスト、これでようやく全て完成いたしました。長々のお付き合いに感謝いたします。
 どうも、ありがとうございました!

お気に召しましたなら

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