お気に召すまま 5

重い閂をガチャリと下ろし、屋敷の戸締まりを終えたマスタングは、オーク材の扉に手をかけたまま、小さく溜め息をこぼした。
まったく、この屋敷にはお節介が多すぎる、人の気も知らないで。
半ば恨み言になる愚痴をブツブツと口の中で転がしながら、マスタングは平静を取り戻そうと、頭の中のTo doリストのページををめくる。
後はいつも通り己の一日を終える最後の仕事として、ワイン庫を確認し、銀食器を磨き、それで執事としての仕事は終わり。
少しの私事を片づけ、この煙草の臭いと共に今日一日の些事を洗い流してしまえば、明日はまた厳格な執事としてのリセットされた一日が始まる。
いつもと変わらぬ一日が。
マスタングは自分にそう言い聞かせると、気を取り直し食器庫に向かうべく扉から手を離し、流れるような身のこなしで振り向いた。
 
「何を考えていらしたのですか?」
「!」
マスタングは振り向いた姿勢そのままで、その場に凍り付いた。
彼の視線の先には白い部屋着に身を包んだリザが、闇にぽつりと咲く花のように儚げな様子で彼を見つめていた。
マスタングの沈黙を誤解したらしく、リザは言い訳のように呟いた。
「考えごとの最中に声をおかけしては悪いかと」
階段の中段に立つリザは、そう言いながら手燭のおぼろな灯りを頼りにゆっくりと階段を下りてくる。
近づいてくる令嬢の姿に我に返ったマスタングは、思いもよらぬ人物の登場に激しく動揺しながらも、それを隠すべく、わざとらしく眉を潜めてきつい声音を作る。
「お嬢様、既に就寝のお時間はとっくに過ぎている筈です。こんな時間に何をなさっておいでですか!」
いつも通りの己の役割を演じるマスタングのお小言が聞こえないかのように、リザは思い詰めた表情で彼の方へと近付いてくる。
その表情は、昼間フェンシングの授業の終わりに彼女が見せたものとそっくり変わらず、マスタングは彼女の次の言葉に対して身構えた。
だが、リザはまるで彼の言葉を無視するかのように、硬い表情で同じ問いを繰り返す。
「何を考えていらしたのですか?」
近付いてくる彼女のふわふわと透ける部屋着に、マスタングは目のやり場に困りながら、仕方なく答えを返す。
「本日中に済ませておかねばならぬ事を確認しておりました」
「本当に生真面目でいらっしゃるのね」
「執事は使用人の箍(たが)でありますから、当然の事かと。私が緩めば、他の者に示しがつきません」
「貴方らしいお言葉ですね」
「当然のことです」
「そうでしょうか」
そう言いながらもまるで彼の言葉が耳に届いていないかのように、リザは歩を進め、いつの間にか彼の目の前に立っていた。
よく見ればリザは微かに息を切らしているようで、その豊かな胸が息をする度に大きく上下し、彼女が階段をかけ下りてきたであろう事を物語っていた。
いや、部屋着のまま、こんな場所にまで来ているということは、彼女はおそらく彼の姿を追っていたのだろう。
いったいどうすれば。
状況を把握し頭を抱えるマスタングは、理性の声とは裏腹に、改めて間近に見る彼女の姿から目が離せなくなってしまう。
 
それは、良家の子女としてあるまじき姿だった。
否、それ以前に妙齢の女性が、たとえ相手が使用人であろうと、異性の前にさらけ出して良い姿ではなかった。
だいたいが、薄い部屋着姿など、基本的に女中くらいにしか見せていいものではないのだ。
彼女のしなやかな肢体が手に取るように分かる服の上に、昼間は高く結い上げているリザの金の髪が緩やかに肩から胸へとうねり、普段のかっちりと襟の詰まったドレスとは対照的な開いた胸元から、夜目にも白い磁器のように滑らかな素肌がのぞいていた。
その肌の白さに弾かれマスタングは自身の不躾な視線に気付き、はっと我に返ると、見てはいけないものを見てしまった動揺に目を伏せた。
 
マスタングはあまりに無防備な令嬢の姿にぐらりとよろめく己の理性に蓋をし、辛うじていつもの無表情を保つ。
彼女の表情と様子から鑑みて、おそらく何かを思い詰めたあまり、自身の身なりが彼女は思考が回っていないに違いない。
暗闇の中、相変わらずもの言いたげな柔らかな唇が、彼の目の前で震えている。
マスタングはとりあえず応急の策として、己の黒のジャケットから袖を抜くと、なるべく彼女の姿を見ないように視線を逸らしながら、その細い肩にそっとそれを着せかけた。
ぼんやりと彼を見上げる榛色の瞳を正視出来ず、マスタングはあさっての方向を向いたまま、彼女を叱責する。
「お嬢様、そのような格好で何をしておいでですか。部屋着でこんな所までお出でになるとは、レディのなさることではございませんでしょう。なんと破廉恥な」
大仰なマスタングの言葉に、リザはまるでたった今ぱちんと夢から覚めたかの如く目をしばたたかせ、はっと赤面すると彼に着せかけられたジャケットの前をかきあわせた。
「ご、ごめんなさい!」
どうやらいつもの自分のペースに持ち込めそうだと、マスタングは内心で安堵し、いつも通りの彼女の教育を一任された執事の顔で、彼女と相対する。
「立派なレディとしてお育て申し上げましたのに、まったく、嘆かわしいことです。たとえ執事とはいえ、貴女にとっては私も異性なのですから、もう少し慎みを持って」
そう言いさした彼の言葉を、リザは普段の彼女からは考えられない驚くほどの不躾さで奪った。
「そうおっしゃるのでしたら、貴方にとって私は……」
わななく唇が言葉を探し、形のよい眉が潜められる。
リザはマスタングのジャケットごと自分を抱きしめるように自身の肩を抱き、小さな拳を震わせた。
「私は、貴方に女性として見ていただけるのでしょうか?」
「お嬢様!? いったい何を」
淑女らしからぬ彼女の言葉を咎めマスタングの言葉は、しかし、直ぐにまた彼女の言葉で遮られた。
「私は」
マスタングは焦燥に駆られ、更に強引に彼女の言葉を遮った。
「いけません! お嬢様」
これ以上彼女に何か言われては、彼の努力が全て無駄になってしまいそうだった。
彼女の幸福だけを願い、彼女の行く末を思う、彼の想いが。
マスタングは覚悟を決めた。
 
彼は、彼のジャケットの襟元を握りしめるリザの切なげな視線を真っ向から受け止め、毅然と彼女への言葉を綴った。
「私にとってお嬢様は、どんな社交場にも胸を張って送り出せる美しいレディであり、また勉学においては優秀な生徒であり、お小さい頃から大切に見守らせていただいた存在です。時折、よくもあのポニーで出奔してしまわれる程きかん気の強いお嬢様が、ここまで立派な淑女に成長して下さったものだと感嘆いたします程に」
マスタングがわざと彼女の過去をつつくと、リザは僅かに不満顔を作り頬を膨らます。
マスタングは彼女の悲嘆の表情を崩せた事に安堵し、穏やかに言葉を続けた。
「それも今となっては、良き思い出です。私のお嬢様への忠誠は未だに変わりませんが」
彼は遂に己の心の扉を少しだけ、彼女の為だけに開いてみせた。
彼女の想いに応えるために。
マスタングは生涯初めて、この屋敷の中で執事としての己の仮面を外し、今まで誰にも見せたことのない心からの優しい微笑と共に、己に許すことの出来る最大限の言葉を彼女に捧げた。
「私にとって何者にも代え難い、大切な存在が貴女様なのです。貴女が幸福になって下さることだけが、私の心からの願いです。ですから、どうぞ、そんなお顔はなさらないで下さい」
彼と彼女とでは、余りに身分が違いすぎる。
それでも想いは同じであった、それだけで彼には十分であった。
後は、彼女が良家の子女として最良の幸福を手に入れることが、彼の唯一つの願いであり、彼の幸福であった。
自分にはなし得ぬそれを叶える男の元へ彼女をきちんと送り出すこと、それが今の彼が彼女にしてやれる事の限界なのだ。
マスタングは万感の想いを込め、リザを優しく見つめた。
リザは何かに縋るように彼のジャケットを握りしめたまま、今にも泣き出しそうな顔でマスタングを見つめ返している。
 
ジリジリと手燭の蝋燭が燃える音だけが辺りを満たし、二人は月のない夜の暗いエントランスで言葉もなく立ち尽くす。
沈黙の中、言葉の代わりにリザの頬をほたりと一筋の涙が流れ落ちた。
マスタングは執事の証である白い手袋をはめた指先で、そっとその哀しみの痕跡を拭い、もう一度柔らかに微笑んだ。
「どうか、これでご容赦下さいませんでしょうか。お嬢様」
リザは彼の言葉に無理矢理に小さな笑みを浮かべてみせると、そっと恨めしげに言葉を紡ぐ。
「こんな時でも手袋はお外しになって下さらないのですね」
「私は、執事でございます故」
おどけたようなマスタングの言葉は、彼らの間に改めて身分の違いという壁を認識させるものだった。
再び表情を歪めるリザにマスタングは微かに首を横に振り、再び執事の顔を取り戻すと彼女の前にひざまずいた。
「大切な旅行の前に、お風邪を召されてはいけません。どうぞ、お部屋にお戻り下さい、お嬢様」
それは、深夜の魔法が解ける合図だった。
静寂が二人を包み込み、令嬢と執事という本来の身分の壁が彼らの間を引き裂いた。
 
リザは彼の言葉にしばらく立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと踵を返した。
しかし、数歩進んだところで彼女の足音は止まる。
沈黙の中、リザの葛藤がマスタングを苦しめる。
やがて、堪えきれなくなったリザの言葉が、膝を折り頭を垂れたマスタングの頭上に落とされた。
「明後日、同じ時間にこちらで」
ハッと顔を上げるマスタングに、リザの背中が震えながら言い訳を紡ぐ。
「上衣をお返しいたしますから」
否やをいう暇はなかった。
マスタングの返事を待たず、リザは音もなく階段を駆け上がっていく。
そんな令嬢の後ろ姿を見送りながら、マスタングは体中の力が抜ける思いで彼女に聞こえないように小さく溜め息をこぼした。
喜びと哀しみが同時に彼の胸を満たし、彼は令嬢の涙を吸い込んだ手袋をそっと己の心臓の上に当てた。
跳ね回る鼓動を掌に抑え、マスタングは己の心を無にする銀食器を磨く作業に没頭する為、のろのろと立ち上がったのだった。
 
To be continued...