Orange

1305(ヒトサンマルゴ)、そのトラブルは起こった。
焔の錬金術師と呼ばれる一人の男が、イーストシティからセントラルに赴任した数日後のことだった。
 
トラブル、と言っても大した事ではない。
ある会議室で彼と別の佐官の出した二件の使用申請がオーバーブッキングしていたのだ。
単純な事務方の見落としが原因だったが、間の悪い事にそんな日に限って他の会議室は全て埋まっている。
双方共に忙しい佐官同士としては譲り合いの精神を発揮する余裕はなく、何より代替えの会議場所の迅速な確保が求められる状況だった。
 
トラブル発覚後の事務官の狼狽を余所に、マスタング大佐の副官の対応は素早かった。
セントラルでの勤務を始めて数日の筈なのに、泰然と構える上官を置いて彼女は各所に連絡を取りに行ったかと思うと、あっという間に部署の壁を飛び越えて中央図書館の分室を会議室代わりに確保して戻ってきたのだった。
相手の佐官にも事務方にも小さな貸しを作ったマスタング大佐は、優秀な副官を従え悠然とその場を去った。
その時刻、1318(ヒトサンヒトハチ)。
スケジュールの遅れは誤差の範囲内と言って差し支えない、実に迅速な解決だった。
 
     *
 
ガチャリ
扉を開けたリザは、家の中に入ると軽く肩を回した。
パンパンに張った肩はゴリリと音をたて、彼女の1日の緊張と疲れを声高に主張する。
セントラル勤務になったからには、しばらくは休みもあまり取れない事は覚悟していた。
慣れない環境での通常の仕事の上に、会議室のオーバーブッキングの処理などのイレギュラーな仕事の発生。
上手く自分を宥めてやり過ごし、『慣れるまでの辛抱だ。東部にいた頃と勤務内容がそれ程大きく変わった訳ではないのだから』と呪文のように胸の中で唱えていれば、いつしか全ては当たり前の日常になっていく。
仕事なんて、そんなものだ。
そう思ってはいても、澱のように溜まった疲れが時折酷く重たくのしかかってくるように感じるのも、また事実だった。
おまけに今日は、帰り際の廊下で最後の最後にとどめを食らってしまった。
リザは小さく溜め息をついてウンと伸びをすると、気持ちを切り替えようと先に帰った男が待っている筈のリビングへと向かった。
 
「お帰り、遅かったな」
淡い暖色のライトの下、ソファに掛けた男は読んでいる本から目も上げず、リザを出迎える。
穏やかな闇に包まれた部屋の中は、ロイのいる一角だけが柔らかなオレンジ色の光に満ちていて、リザはまるで誘蛾灯に吸い寄せられる小虫のごとくフワフワとした足取りでロイの元へと歩み寄った。
分厚い錬金術の専門書を片手に、夜間の読書の時にだけ使う銀縁の眼鏡をかけたロイは、近付いてくるリザをフレーム越しに見て小さな笑みを浮かべてみせる。
再び書物に視線を落としたロイは、ページを繰っていた手で小さくリザを手招いた。
 
パラリ
ロイの指がページをめくる。
ペタリ
リザはロイに背を向け、その足元のラグマットに座り込んだ。
 
文字を目で追いながら再度上げられたロイの手がリザの後ろ頭を優しく撫で、そしてまた、ふわりと書物のページへと向かう。
 
パラリ
ロイの指がページをめくった。
ピタリ
リザはロイの腿に己の頬を押し当てる。
 
「どうした?」
リザの頭上から、ゆったりと男の声が降る。
リザは黙ってロイの膝に頭を預け、そっと目を閉じた。
ページを繰る指が途中で止まる。温かな手が本を離れ、リザの頭にのせられた。しばらくリザの頭を撫でていた掌は、やがて頭頂からゆっくりと滑り、リザの後頭部で止まるとパチンと彼女の髪留めを外した。
>金の髪を散らし戦闘体勢を解かれたリザは、ロイの手が自分の髪を梳くように撫でるに任せる。
自分を甘やかす心地好い刺激に、リザは彼に背を向けたまま、ポロリと言わないでおこうと思っていた愚痴をこぼしてしまう。

「帰りに、今日の会議室の二重予約をしてしまった事務官に再び会ってしまいました」
「あの、君と同年代くらいの使えないアレか」
「ええ、まぁ、使えないかどうかは存じませんが。丁寧なお礼を言われた後」
「どうした?」
「皆が騒いでいる中、冷静沈着で格好良かったと誉められました」
心外だと言わんばかりのリザの言葉に、ロイは小さく声を漏らして笑った。
「君、あの時、かなり慌てていて余裕がなかったのにな」
「御存知でしたか」
少し驚いたリザに、当然だとロイはクシャクシャとリザの髪を乱す。
「切羽詰まった時の君は、恐ろしい程の無表情になるからね。その後小鼻が膨らんでヒクヒクしていたから、これはエキサイトしてるなと思って見ていた」
リザは憮然とする。
「兎じゃありません」
「ああ、兎より可愛い」
からかいを含んだ甘い言葉に、リザは彼に背を向けたままで良かったと思いながら、頬を染めた。

「で?それから?」
「何がです?」
「他にも何か言われたんじゃないのか? お姉様になってくれ、だとか」
冗談めかした言葉が“続きも吐き出してしまえ”と、更にリザを甘やかす。
「バカ仰らないで下さい」
一応の抵抗を見せながらも、自分の気持ちを解す優しいからかいの言葉にリザは甘えた。
「……『初日の挨拶の時から如何にも“出来る女”って感じで近寄りにくかったけれど、やっぱり凄い。格好いい』と言われました」
「出来る女、か」
リザの頭上で、パタンとロイが本を閉じた音がした。
片手でリザの髪をいじりながら、ロイはクツクツと笑っている。
「全く。表情に出ない、と言うのは損だな。人は何でも見た目で判断を下すのだから」
リザは黙って、ロイの掌に自分の頭をすり寄せた。
リザの思いを察したロイは、その髪から手を離し、彼女の頭を撫でてくれた。
「同じ状況に置かれ同じように焦っていても、必死の形相で走り回っていれば同情され、冷静沈着に事態に取り組んでいれば出来て当たり前だと思われてしまう。“出来る女”がそうである為に水面下でしている努力は見えず、涼しい顔で何でもこなしていると思われたりもな」
 
オレンジ色の光の中、リザはロイの膝の温もりに安心しながら、心をチクチクと刺していた今日の出来事を溶かして行くロイの言葉と頭を撫でる彼の手に、ひとときの間だけ己の全てを委ねた。
“出来る女”という評価は、賞賛と同様に敬遠と嫉妬を表す事が多い。
自分では必死でギリギリの状況で片付けた仕事すら、余裕で出来ていると思われ特に評価されなかった事もあった。
おまけに口数が少ないせいで、お高くとまっていると言われたことすらある。
それにヘコむことも多々あれど、職場は仕事だけの付き合いだから、上官へのマイナスにさえならなければ何と思われても良いと思う。
こうやって、自分を理解し、労ってくれる人がいるのだから。

リザがそう思っていると、頭を撫でてくれていたロイの手が、ツと彼女の顎を持ちあげ上を向かせた。
「いつまでも背中ばかりじゃなくて、顔を見せてくれても良いだろう?」
背後から黒髪をたらして逆さまにリザの顔を覗き込む男の顔が、悪戯っぽくリザの上で笑っている。
リザは微笑み返して、下から両手でロイの眼鏡を取り上げた。
「眼鏡なんてなくても、私の顔は見えますでしょう?」
「どんな書物を読むより、君の気持ちを読むのは難しいからね。眼鏡だって必要にもなるさ」
莫迦なことを」
ロイのふざけた言い種に、リザはクスクスと笑った。
その笑顔の額に逆さまのキスを一つ押し付けて、ロイは両手をリザの脇にいれヒョイと彼女の身体を持ち上げ自分の膝の上に乗せると恭しくリザの手をとった。

「今日は角のデリでミートローフとハーブサラダを買ってある。そろそろ夕食にしないか?」
「今日の仕事のご褒美ですか?」
「感謝だよ、リザ。今はプライベートだ」
二人は笑みを浮かべて視線を交わすと、どちらからともなく口付けを交わした。

「ところで、サラダのドレッシングは」
「勿論、君の好きなブルーチーズを選んできたぞ。私を誰だと思っている?」
ロイの言葉に二人は顔を見合わせる。
そして起こった小さな二つの忍び笑いは、静かに夜の闇の中に溶けていった。
 
Fin.

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【後書きの様なもの】
眼鏡萌えです、実は。

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