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チン。
静かな夜の静寂に、受話器を置く音がやけに大きく響いた。
ロイは電話の内容を噛みしめながら、微かな溜め息を飲み込み、再び傍らのソファにドンと勢いをつけて座り込んだ。
傍らに置かれた新聞の一面の見出しには、グラマン将軍が大総統の地位につく式典の日程が一面に、そして先の大総統を悼む新大総統の追悼文がその下段に掲載されている。
ロイはさっきまで読んでいたその文章の内容を反芻し、フッと苦笑した。
 
「どうかなさいましたか?」
電話の終わるタイミングを見計らっていたらしいリザが、ノックの音とともに登場し、彼の苦い笑みを見咎める。
ロイは彼女を振り向き、読書灯の淡いオレンジ色の光に輝く短い髪を眩しげに見つめた。
あの『約束の日』からずっと入院していたリザがようやくこの日の午後退院し、ロイはようやく自分の日常が再び元通りに回り始めるのを感じていた。
彼女の問いに、ロイはしみじみと答えた。
 
「いや何、私はまだまだ修行が足りないと思ってね」
歩み寄ってきたリザは、ソファの上に広げられた新聞に視線を落とし黙って文章を追っていたかと思うと、ロイと同じようにフッと少しだけ笑った。
「大佐も昔に比べれば、ポーカーフェイスもお上手になられたかと思いますが」
「いや、それを読むと私などまだまだ青いと痛感させられるよ。海千山千の古くからの幹部を相手にこの国の基盤を築き直すには、経験も何もかも足りんねグラマン将軍の足元にも及ばない」
そう言ったロイは、己の傍らで俯くリザを見上げ、まだ包帯のとれないその首筋に視線を注ぐ。
治ってきたとは言え、瘢痕化した傷痕はおそらく生涯消えないだろう。
ロイは滑らかな首筋の稜線を一直線に断裂する刀傷を想像し、白い包帯を視線でなぞりながら思う。
それでも、その傷が自分の責任だ、と思うことは止めた。
あの戦闘において二人とも生きて帰れただけでも奇跡だったし、何よりリザがそれを嫌がるからだった。
リザは病院にいた時と同じ何も気付かない素振りで、彼の視線から首筋の傷痕が見えないように何気ない風を装って半身を巡らせた。
 
ロイも彼女に倣い、それに気付かない振りでリザに問う。
「具合は?」
「血液検査の結果では、貧血も改善されてきています。もう感染症の心配もないそうですから、いつでも出発できます。今後の予定は、どうなっているのでしょう?」
「そう急ぐこともあるまい。どうせこれから、一生かけて取り組まねばならないのだからな。で、傷痕は?」
リザは折角逸らそうとした話題が元に戻ってしまったことに苦笑し、仕方ないというように肩を竦めた。
「首の傷はシン国のあの少女のおかげで縫合痕は出来ませんでしたし、鋭利な刃物での傷でしたから、それほど目立たなくなるということです。ただ、エンヴィーに付けられた肩の傷は肉が抉られた部分に肉芽組織がのってしまったので……」
そこでリザは言葉を濁し、ソファの上の新聞を片付ける振りで視線を逸らし言葉を続けた。
「どうせ昔からタートルネックがトレードマークですから、何を今更と言ったところです。それより大佐の方こそ、掌の傷は完治されたのですか?」
上手く話の矛先を自分の方へと向けられたロイは、やっぱり彼女には敵わないと苦笑する。
そして彼女が新聞へと伸ばした手を絡め取り、そっと自分の方へ引き寄せるようにソファへと彼女を誘った。
「傷は中手骨の間を抜けていたのでね、君よりは余程マシだ。それに直ぐに働けるように、ドクターマルコーに少しばかり治癒スピードを底上げしてもらった」
そう答えながら、ロイは彼女を引き寄せた掌をそっと開いて見せた。
うっすらと残る刀痕は、人外の化け物と戦った恐怖を微かに呼び起こし、ロイはふっと身震いしながら己の掌からリザへと視線を移した。
彼女は眩しげにロイの視線を受け止め、その深淵を覗き込むように確認する。
「眼の方は」
「全く問題ない」
そう言ってしっかりと彼女の視線を受け止めたロイの様子に、ようやく安堵したようにリザはソファに沈み込んだ。
 
「大佐?」
「なんだね? リザ」
久しぶりに、そう、あの『約束の日』以来本当に久しぶりに、二人で落ち着いて過ごす夜に、いつに似合わずリザの声が甘く感じる。
ロイは少しの間、当面の悩みをを脇に押しやろうと、彼女の短くなってしまった金の髪を弄ぶ。
「先ほどのお電話ですが」
リザの全く甘くない言葉に、ロイはがくりと脱力する。
「君ね、退院してきた日くらい仕事のことを考えるのは止めたまえ」
「ですが」
リザの反論を封じようと、ロイは静かに彼女に言い聞かせる。
「君のいない間に、既に向こうにはブレダに入ってもらっている。引継事項も山積している筈だ。明日からは、こんな時間もしばらくは取れない。だから」
「だからこそ、お教え下さい。今、どこまでイシュヴァール入りの準備が進んでいるのか。現地の対応はどうなのか。私はその為に、ここに戻ってきたのですから」
勢い込んで言うリザの言葉を遮るように、ロイは彼女の手を握り直し、あやすように軽く振ってみせた。
入院中、まったく身動きのとれない彼女が、どれほど歯がゆい思いで進捗していくマスタング組の報告を聞いていたか、彼には痛いほど分かっていた。
だが、どれほど急いたところで、これからは慎重な対応の必要な相手と長期戦を構えていかねばならないのだから、彼女の焦りは全く不要のものなのだ。
 
「分かった。分かったよ、リザ」
リザの真剣な眼差しに、ロイはお手上げのポーズを取ってみせる。
「君が職務熱心なのは、非常によく分かった」
「大佐、茶化さないで下さい」
「茶化してなどいないさ」
ロイは諦めの溜め息をつくと、少し表情を引き締めて彼女の問いに答えた。
「さっきの電話はブレダからだ。私のイシュヴァール地区への就任が決まって、既に不穏分子が動き始めているとの報告が続いていてね。既にテロの予告が七件、脅迫状は数えるのがイヤになる程舞い込んできているらしい。治安の悪化が懸念されるということで、ここしばらく毎日のように対策の指示を出していた」
ロイは言葉を切り、表情を堅くしたリザを見つめ少しだけ笑った。
「その甲斐もなく、今日はちょっとした事件が起こってしまったようでね。何というか自己嫌悪と反省に身を投じつつ、先達を見習うべきだと今更ながらグラマン将軍の手腕に感服していた次第さ」
リザはじっと黙ってロイの言葉を聞いていたが、やがてそっと口を開いた。
「申し訳ありません。状況も知らぬくせに、先走りました。ですが、それでしたら尚更私は、早急に現状の把握に努めるべきかと」
予測通りの彼女の生真面目な謝罪と性急な言葉に、ロイは懐かしさすら感じて少し笑った。
そして、慎重に彼女の傷に触れぬよう、その肩を抱くと彼女の耳元に囁きを落とした。
「そんなに早く働きたいのなら、君にしか出来ない任務を与えよう」
「大佐?」
「まず手始めに、私を労って貰おうか」
そう言うが早いか、ロイはぎゅっと彼女を抱きしめた。
「大佐!」
ロイがふざけていると思っているリザの予想通りの少し窘めるような声音さえ、久しぶりに聞くと懐かしい思いがした。
プライベートで会う時間がどれほど久しぶりか考えるのも嫌になり、ロイはリザの左の肩口に顔を埋め、面白くもなさそうに訂正した。
「ああ、訂正しておくが書類の上ではもう私は准将だ。正式には明日からだが」
「では、准将」
律儀なリザの呼びかけに微かな笑みを浮かべ、ロイは彼女を抱きしめたまま時を止めた。
久しぶりに感じる彼女の体温に安堵し、ロイは短くなった彼女の髪を撫でた。
 
入院中に治療の邪魔になるからと髪を切ってしまった彼女は、まるで十年ほど時を遡ったかのようで、未だその姿にロイは慣れないでいる。
だが、その髪型のリザが彼の人生に一番馴染んでいることもまた事実で、そこに何とはない懐かしさを感じることもあり、髪型がどうであろうと彼女は彼女だとロイは彼女の匂いを感じながら、自分の心を解いていった。
だが彼の頭上では、完全に黙り込んだロイの雰囲気に飲まれたリザが彼に倣って口を噤み、沈黙の意味を探ろうと彼の様子を伺っている気配が伝わってくる。
まったく、こんな日くらい全てを忘れさせてくれないものかね、この女(ひと)は。
彼は苦笑して、明日までは黙っておこうと思っていた現実を彼女に突きつける為に、おもむろに口を開いた。
 
「ちょっとした事件というのはだね。イシュヴァール閉鎖地区周辺で、今日、小規模な自爆テロがあったのだよ。職務質問にあたった軍関係者が数人死亡。イシュヴァール人を名乗る犯行声明もあがった。『偽善に満ちたイシュヴァールの英雄が、イシュヴァラの神の地を汚す事を、我らは断固阻止する』とね」
一息にそう言ったロイは、ふっと息を継いだ。
言葉にすると全ての事実が、疲労感と重圧をもってのし掛かってくるようだった。
リザは言葉もなく、彼の話に耳を傾けている。
「虐げられた民は、イシュヴァール政策を殲滅の仕上げだと思い込んでいるらしい。掲げた政策は建前で、私が閉鎖地区を文字通り更地にして、イシュヴァールの痕跡を全て消し去ってしまうものだとね」
「それは」
「人間はね、自分が見たいものを真実だと思い込むのだよ」
「和平の真実は、希望にはなり得ないのでしょうか?」
「彼らはそう思い込んで憎む相手を見つけなければ、生きていけない程に深い傷を負っているのだろう、おそらく」
話し続けるロイの背に、静かにリザの腕が回された。
退院後、初の任務を素直に遂行してくれる優しい部下にロイは甘え、表情を隠したまま言葉を続けた。
「だから、逸らないでくれ。中尉」
リザの返事はなかった。
先ほどの自分を軽率だと責めているのだろう。
ロイはくしゃりと彼女の髪を撫でる。
「我々に必要なのは、時間だ。我々が壊したものを忍耐強く修復する為の時間だ。憎しみの連鎖を断ち切るために。我々の持てる全てを捧げる覚悟でね。おそらく、こんな夜は明日からはしばらく持てなくなるだろう。だから」
そう言ったロイの頭を、彼女の細い指が抱いた。
ロイはそれ以上言葉を綴るのを止め、瞳を閉じた。
 
セントラルでの最後の夜。
彼が大佐と呼ばれる最後の夜。
髪を切り、先にイシュヴァールの当時の姿を取り戻したリザを腕に抱き、ロイは束の間の休息に溺れる。
ドクターマルコーとの約束を、否、己の生涯に誓った彼女との約束を、ついに叶える茨の一歩を踏み出す前の、束の間の休息に。
それは、彼女が入院して以降長らく彼の手から遠ざかっていたものだった。
その休息を許す最後の安息の地が己の手に残ったことをようやくその腕の中に実感したロイは、夕焼けを映す砂漠の色に似た金の髪に明日からの日々を想い、顔を上げるとこの夜初めてのキスを彼女と交わした。
 
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【後書きのようなもの】
 ようやく最終回後のSSが自分の中で熟してきて、吐き出せるようになってきた感じです。まだまだ、こなれてない気もしますが。
 
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