分水嶺

笑わない女だな。
 
彼女の第一印象は、その一言に尽きた。
別にお高くとまっているとか、表情に乏しいだとかいうのではない。
ただ文字通り、笑った顔を見たことがなかった。
多くの女を見てきた増田の目からしてもかなりの美人の部類に入る彼女に興味を持てないのは、その辺りが理由なのだろう。
生徒達と話している時は柔らかな表情も見せるし、職員会議の時に見せるキリリとした表情は“出来る女”以外の何ものでもない。
実際、いつかの会議で増田と彼女の間で意見の相違があった時に繰り広げた舌戦における彼女の舌鋒の鋭さには、流石の増田も辟易した。確かに聡明なのは認めるが、本当に可愛げのない女だと思った。
女性を差別する気はないが、どうせ親しくなるなら可愛い女の方がいい。
だからあの一件以来、増田は鷹目とあまり関わりを持たないようにしている。
 
退屈な会議の暇つぶしに、向かいの席に座る同期の生物教師・鷹目を見るともなく眺めて、増田は考える。
スタイルはいい、A。
顔、俺好みな方だがもうちょっと唇は厚い方がいい、B+。
性格はなぁ……D−。女は従順な方がいい。
表面上は真面目に学年主任の話を聞いている風を装いながら、増田がそんな品定めをしていると当の本人と目があった。
慌てず騒がず増田は小さな愛想笑いを彼女に送ってみせるが、相手は特に表情も変えず再び書類に視線を落とす。
まったく、本当に可愛げのない女だな。
増田はくるりとペンを回すと、最低限せねばならない仕事の為に書類に書き込みを始める。
あっと言う間に彼の思考から生物教師の姿は消え去り、学年末考査の日程と数学の補習の予定がその隙間を埋め尽くす。
こうして、教師たちの静かな冬の日の午後は過ぎていく。
これから始まる物語も知らずに。
 
     *
 
数日後、増田は放課後の廊下をぶらぶら歩いていた。
試験問題は作り終えたし、増田が顧問をつとめる陸上部の練習も試験が終わるまでは休みだ。
採点という面倒な仕事に取り掛かるまでは、しばらくのんびり出来る。
そう考えてご機嫌な増田が廊下の角を曲がると、そこには彼の少々苦手とする鷹目が何か両手に余る巨大な物体を相手に格闘している背中が見えた。
ひょいと立ち止まって見てみるに、どうやらそれは大きな水槽のようだ。
そういえば生物室には、やたら沢山水槽があったっけ。
あんな大きな物、業者に生物室まで直で納品させればいいものを。
そう思いながら、増田はその場を立ち去ろうと踵を返す。
わざわざ自分から苦手な相手に関わって、己の気分を損ねる原因を作ることもあるまい。
 
数歩歩いたところで、背後からガシャリと大きな音がした。
思わず増田の足が止まる。
続いて物を引き摺る音がし、どうやら重い荷物によろめいたらしい踏鞴(たたら)を踏むヒールの音が静かな廊下に響く。
立ち止まって腰に手を当て俯いた増田は、眉間に皺を寄せ舌打ちをする。
流石にこのまま見て見ぬふりをするのは、増田の良心が咎めた。
まったく俺もお人好しだ。
増田は胸の内でそう呟くと、回れ右をして鷹目のいる方に向かって歩いて行った。
 
「鷹目先生、お持ちしましょう」
後ろから一言かけた増田は、鷹目の手からパッと水槽を取り上げた。
突然の増田の出現に、水槽を運ぶことに気を取られていた鷹目は相当驚いたらしい。
「あ」
と、増田の方を見て一瞬立ち尽くし、慌てたように、
「すみません、ありがとうございます」
と言い足し、さっさと歩き出した増田の後を追い掛けて来た。
 
両手でようやく抱えられる程の大きな水槽は思った以上に重量があり、これを鷹目が一人で運ぼうとしていた事に増田は驚く。
「こんな重いもの、一人で運ぼうなんて無茶ですよ」
思ったままを口に出せば、彼女の反論が来るかと思いきや、
「……確かに仰る通りです、軽率でした」
意外に素直な鷹目の返事に、増田は更に驚く。
明日は雨が降るかもな。
「ただ」
「何ですか」
増田の内心の声も知らず、鷹目はポツリと言い訳のように言った。
「今の亀の水槽が窮屈で可哀想なので、早く移してやりたいと思ったものですから」
思わぬ鷹目の言葉に、子供のようだと増田は思わず笑ってしまう。
が、下手な返事をするとからかいの言葉ととられてしまいそうな気がして、増田はそのまま黙って生物室に向かって歩を進めた。
 
試験直前の校内には生徒たちの姿はなく、静かな廊下に二人の足音だけが響く。
鷹目は黙って増田の後をついて来ている。
二人の足音は重なっては離れ、増田に彼女の歩幅の小ささを感じさせた。
ああ、結構華奢なんだな。
先ほど鷹目が見せた意外な一面と相まって、その事実は増田の心のわだかまりを少しばかり溶かしたらしい。
職務を離れて素の表情を見れば案外印象なんて簡単に変わるのか、それとも単純に第一印象が悪過ぎただけだったのか、どちらにしろ今の鷹目に苦手意識を感じる要素は増田には微塵もなくなっていた。
 
鷹目が開けた扉をくぐり、増田は漸く辿り着いた生物室に水槽を運び込んだ。
手近な机に水槽を置き、その重みに痺れた手を擦りながら、増田は彼女のテリトリーをそっと眺める。
余分なものは何もない、ただ水槽がやたら並ぶ不思議な空間は何となく彼女に似合っていた。
笑わない女の住む部屋は、爬虫類と両生類に守られた硝子のお城のようだった。
どうやら、異分子は早々に退散した方が無難だな。
そう思って増田は、何も言わずに生物室を後にする。
後ろで鷹目が何か言おうとしている気配を感じ、ああ、そう言えば礼を言われていなかったかと増田は立ち止まろうとした。
とその時、壁にかかった小さな白いものが彼の視界に入った。
『火元取扱責任者 鷹目梨紗』
それを見て、増田は初めて彼女のフルネームを知る。
何の変哲もない、学校の様々な場所に掛けられたプレートの一つに過ぎないそれに記された彼女の名は、厳つい名字と対照的に可憐な響きをもち、抜ける様な柔らかな語感が背後に立つ女の印象を更に柔らかくした。
発音すれば、さぞや綺麗な名前だろう。
思わず増田は振り向いて、呟いた。
 
「梨紗」
 
言ってしまってから、目の前に立つ鷹目を確認し、増田はしまった! と思う。
親しくもない男にいきなり名を呼び捨てにされる行為は、女に取っては不愉快なものだろう。
案の定、鷹目の無表情が一瞬びくりと揺らぎ、その視線がキュッと増田を捉えた。
鷹目が怒り出すと感じ、増田は急いで謝罪しようと口を開きかけた。
が、その後の鷹目の反応は彼の想定外のものだった。
 
増田を捉えた彼女の視線は不意に力なく宙を彷徨い、地に落ちた。
そして、酷くきまり悪そうに床を見ていたかと思うと、うっすらとその頬が桜色に染まった。
言葉をなくしたらしい唇は少し開き、艶かしい女の顔がちらりと無表情の下に透けて見えた。
 
まさか、こんな反応をされるとは。フェイントにも程がある!
天地がひっくり返るほど増田は驚き、莫迦のように「良い名前ですね」と何の芸もない言葉をようよう吐き出した。
周囲を取り囲む様な水槽が彼の驚きを反射し、増田は慌ててそれに背を向ける。
逃げるようにその場を立ち去る増田を、鷹目は追ってこなかった。
 
増田は呆然としながら、ホタホタと廊下を歩いていく。
暮れ時の紅い夕陽を浴び、彼はぼんやりと思った。
俺、ツンデレ属性無かった筈だよなぁ。
しかし、彼のそんな思いとは裏腹に、彼の脳裏には鷹目が一瞬見せた思いもかけぬ表情が焼き付いて、離れぬものとなってしまったのだった。
 
    *
 
一月後。
定例の職員会議で、増田はいつもの席に陣取って適当にメモを取っていた。
向かいの席には、やはりいつもの指定席に鷹目が座っている。
増田は視線を上げて、ちらりと鷹目を見た。
どうやら増田を凝視していたらしい鷹目が慌てて視線を逸らすのを感じ、増田は思わず頬を緩める。
 
手元の書類に視線を落とし頑にこちらを見ようとしない鷹目を眺めて、増田は考える。
スタイルはいい、A。
顔、俺好みな方だがもうちょっと唇は厚い方がいい、A-。
性格はなぁ……女は従順な方がいい……のだけれど、ああ参った。
あんな反応されたら、総合成績A+を付けざるを得ないじゃないか。
 
増田の向かいに座る『笑わない女』は、いつしか彼の中で『笑顔を見てみたい女』に変わっていた。
増田はくるりとペンを回すと、メモ書きの端に小さく書き付けた。
『会議の後、食事に誘う事』
その時、彼女はどんな表情を見せてくれるだろう。
あっと言う間に彼の思考から会議の内容は消え去り、その頭の中は、可愛げのない、その実驚くほどの可憐さを秘めた女の事で埋め尽くされていったのだった。
 
Fin.
 
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【後書きのようなもの】
お待たせいたしました、30万回転御礼フリー第一弾でした。(配布期間は終了いたしました)
以前いただいたリクエスト『Angel Voice』増田サイドのお話ですね。
ま、ウチのお決まりの展開ではありますが、パラレルでも一度はやっておきたいツンデレ萌え。大人になってから出逢うロイアイというのは、原作設定では適わないのでパラレルで補充しておきます。
 
辺境Blogに遊びに来て下さって、ありがとうございます。
心からのお礼と愛を込めて。青井拝
 
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