サルベージ

今日はもう、来ないのだろうか。
放課後の生物学準備室で一人、梨紗は両手に一匹ずつ蛙を鷲掴みにしたまま、ぼんやりと視線を扉の方へとさまよわせる。
彼女の記憶が確かなら、日曜日に陸上部の予選会があるので、今日は部活が休みだと彼は言っていた筈だ。
だから今日の放課後はきっとここに来ると思っていたのに、それは梨紗の希望的観測にすぎなかったのだろうか。
「来る? 来ない?」
彼女は両手の中で緩慢に暴れる蛙たちを見つめるが、勿論彼らが答えをくれるわけもない。
ギョロギョロと鳴く彼らを移動用の小さな水槽に放り込むと、梨紗はもう一度扉の方を眺め、小さな溜め息をつくと手を洗うために水道の蛇口をひねった。
 
梨紗とは犬猿の仲と噂される数学教師・増田英雄と彼女との関係は、この春休みを出発点に何とも予想外の方向へと転がり始めていた。
会議で討論ばかりしていた二人が一緒に食事に行きデートとも呼べないデートをしようとは、半年前の彼女は想像だに出来ないことだったというのに、今や彼女は彼の訪れをこうやって待ちわびるようになっているのだ。
しかも、ある昼休みの「等価交換」を機に増田からの急接近を梨紗が許した事から、彼らの距離は曖昧で微妙なものとなっていて、梨紗は彼の一挙手一投足に胸をかき乱されている。
単なる職場の同僚と言うには互いに強い好意を抱きあいながらも、恋人と言う程にはまだ互いのことに深くは踏み込めず、自分の想いと相手の出方を探るように微妙な間合いを計りあっている状態は、なんとももどかしく、それでいて奇妙な幸福を伴う不思議な気持ちを梨紗にもたらす。
梨紗ははっきりと掴めぬ淡い恋の尻尾に振り回され、知らぬ間に毎日黒髪の男の姿を探している自分を持て余している。
 
「等価交換」の日から時折彼が放課後にこの生物学準備室を訪れるようになって、梨紗はますます自分のペースが乱される事に頭にきながらも、それを喜んでいる自分に困惑し、いつしか彼の訪問を待ちわびている自分に気付いていた。
今日も今日とて増田が来る前に翌日の実験の準備を済ませてしまおうと、梨紗はさっきから急いで実験の手順や記録項目をまとめたレジュメや備品の準備に追われている。
それなのに、こんな日に限って彼は姿を現さないのだ。
梨紗は休憩の為に自分の分だけ珈琲を淹れようと、ポットの横の琺瑯カップを手に取った。
いつでも珈琲が淹れられるよう用意されたもう一つの琺瑯カップが待ちぼうけをくらった自分の分身のようで、梨紗はわざと乱暴に棚の中にカップを収納してしまう。
インスタント珈琲の瓶の隣に増田の為のカップを放り込んだ彼女は、その横にある赤いビスケットの箱に気付く。
彼の為にちょっとした甘いものまで用意している自分が恥ずかしくなり、梨紗は誰か生徒が遊びに来たらやってしまおうと、小さな箱を白衣のポケットの中にしまいこんだ。
 
実験のような手付きで珈琲を淹れながら、梨紗はまた溜め息をつく。
彼だって、忙しい身なのは分かっている。
『職員室以外に机がないから、避難場所を提供してくれないか?』
そう言って梨紗の淹れる珈琲を飲みにこの部屋にやってくる男は、その軟派な外見や口振りからは想像も出来ないほどに青臭い夢を抱えた教師であることを、今の彼女は知っているのだから。
部活動の顧問がない日だって、あの熱血莫迦は担任を持つ特進クラスの受験対策やら、数学から落ちこぼれた生徒たちの救済の為の補習や、様々な問題に真正面から取り組んでいるに違いない。
そんな妙なところ真面目で優しい男だから、梨紗は彼の事が気になるようになってしまったのだ。
仕方がない。
そう思いながら、それでも諦めきれず梨紗はまた開かない廊下側の扉を眺める。
少し粉を多く入れすぎただろうか。
珈琲が奇妙に苦く感じられ、梨紗はカップを置くと明日の実験の準備を終えてしまおうと生物室に続く扉を開いた。
 
「え?」
扉を開けた瞬間、梨紗は驚きに立ちすくんだ。
生物室の教卓のまん前の机に、彼女が待ちわびていた黒髪の男が突っ伏していたのだ。
彼女の足音に気付いていないのだろうか、増田はぴくりとも動かない。
眠っているのだろうか?
梨紗は足音を忍ばせて、彼の傍へと近寄っていった。
「増田先生?」
彼女の呼びかけに返事はない。
やっぱり眠っているのかしら? それともサボリ?
梨紗は待ちぼうけをくらった事に少し腹を立てながら、それでも溢れる気持ちを抑えきれずそっと増田の傍らに立ち、恐る恐る彼に向かって指を伸ばした。
癖のない黒い髪が、彼女の白い指先に柔らかく絡む。
梨紗はそっとその髪を指先で撫で、柔らかな表情で彼の姿を見つめた。
 
触れたい。
そう思う心が止められない。
会いたい。
そう思う心は確かにこの胸にある。
それでも、意地っ張りな彼女は普段は彼にそんな素振りを見せることも出来ないのだ。
莫迦は、私だわ。
梨紗は苦笑し、彼の頭に触れた指先をそっと動かす。
すると、不意に増田の手が動いた。
 
あっと思う間もなかった。
増田は彼女の手を掴むと自分の頭の上に押さえつけるように、固定してしまう。
「ひっ!」
驚きのあまり思わず小さな叫び声をあげる彼女に、増田はいつもの調子で言った。
「そんな声出さないでくれ。心外だな」
顔を上げない彼の不可解な行動に梨紗は驚き、からかわれているのかと憤りを露にしようとした。
ところが。
「少しの間でいい、こうしててくれないか?」
増田は驚くほど静かな声でそう言った。
そのあまりの静かさと真摯な声音に、彼女は唇を閉ざさざるを得なくなってしまう。
何かあったのだろうか。
訝しむ梨紗の思いを他所に、増田はそれっきり口を閉ざすときゅっと彼女の手を己の頭の上で握り締めてしまう。
どうするべきかと考えながら、梨紗は彼の頭に置いた手を動かすことも出来ず、されるがままに彼に手を握られていた。
抵抗しようだとか、抗議しようだとかいう考えは、不思議と彼女の頭に浮かんでは来なかった。
 
人に弱みを見せたがらないこの男は生物学準備室まで来たは良いものの、何らかの事情で梨紗の前でいつもの優男面を保つことが出来ない自分を持て余し、こうして生物室で独りで何かを抱え込んでうずくまっていたのだろうか。
彼女は普段の増田の行動原理を鑑みて、そのような推論を展開する。
避難場所にはなりきれない梨紗と、弱った姿を隠そうとして隠し切れない増田。
不器用な二人には、どこか似たもの同士の一面があるのかもしれない。
奇妙な親近感と愛しさに、梨紗は黙って彼の手の温もりと黒髪の柔らかさを受け止めてやった。
きっと、事情を聞いても彼は彼女に心配をかけまいと何も言わないだろう。
だから、梨紗も何も聞かず、ただこうして彼の傍に誰かがいる事実を伝えることだけを自分に課した。
優しい沈黙が、夕暮れに染まる部屋に満ちていく。
 
どのくらいそうしていただろうか。
不意に触れられたのと同じ唐突さで、増田の手が離れた。
「ありがとう」
そう言った増田は、やはり顔を上げなかった。
情けない顔は見せたくないと言うことか。
梨紗は何も言わず、もう一度わしわしと彼の頭をかき混ぜるように撫で、そっとその頭から手を離した。
明日の実験の準備の残りは、明日の朝にしても間に合うから。
梨紗はそう自分に言い訳し、増田から離れるとぱたりと生物室と生物学準備室を繋ぐ扉を閉じた。
 
きっと、明日になれば彼は何もなかった顔をして、この部屋を訪れてくるに違いない。
だから、梨紗も何もなかった顔で彼に珈琲を出すことだろう。
そう考えて彼女は、棚にしまいこんだ琺瑯カップをもう一度取り出し、ポットの横に待機させたのだった。
 
Fin.
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【後書きの様なもの】
 えー、pomeraのご臨終に際し辛うじてmicroSDのデータが救済できたので、ネタ帳より。
 オフ本「分水嶺」のヤ○○○○ン事件と○田○男登場との間に入る予定だったのですが、このネタ入れると微妙にバランスが崩れるので没に。でも、完全に消してしまうのは辛いなと仕舞っておいたネタです。サルベージ記念にきちんと書いてみました。(笑)なので、タイトルはダブル・ミーニングです。(増田のサルベージとSSのサルベージ)
 
■今回、更に短すぎてどうにもならなかった増田視点のオチ(?)をWeb拍手に収納しました。よろしければ。(PCのみ対応)

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