ソファーのある風景 サンプル2

  陸の孤島の5分間 サンプル



 休日の朝というものは、彼にとって様々な幸福の要素を隠し持っている。
 うるさい目覚まし時計に穏やかな眠りを強制的に中断されることなく、誰かが自分の為に用意してくれる朝食の匂いに起こされる幸福。
 あるいは、何者にも邪魔されることなく、好きなだけベッドの中で惰眠を貪る幸福。
 あるいは、書斎に籠もり、しらしらと明ける東の空を見るまで時間を忘れて錬金術の研究に没頭する幸福。
 あるいは、シーツの狭間に己のものではない金の髪を見つけ、その持ち主が己の腕の中にいる幸福。
 そのどれもが、彼にとっては等分に魅力的なものであり、そのどれもが軍人としてではなく一市民としての彼の性分にあった日常であった。
 特にその中でも、彼の隣にいる彼女が軍人の顔ではなく女の顔で彼の傍らにいる幸福。これだけは本当に休日にしか味わえぬ貴重な現象であり、ただその一事の為だけにも、彼は休日の朝を愛している。

 この日の彼は彼女の手製の朝食を食べた後、ダイニングに置いたテーブルで優雅に新聞を読んでいた。
 当たり前に思えるこの風景でさえ、彼にとっては特別なものであった。
 まず、根本的なことから触れるなら、普段の彼は自宅で朝食を取らない。だいたいが芋を剥く筈が自分の指を剥いているような男が、自分で朝食の用意などする訳がない。平日の彼の朝食は、いつも角のコーヒースタンドで調達されるものと相場が決まっている。
 故に朝から自宅で、グリーンサラダを添えた肉汁たっぷりのボイル・ソーセージ、キャベツとベーコンのコンソメスープ、オリーブオイルでトマトとバジルをあえたものをバゲットに載せ焼いたブルスケッタ、などという豪勢な食事をとることは、彼にとっては大変に特別なことであった。
 そして、普段家で食事をとらない男がキッチンの片隅に置かれたダイニングテーブルなど使うわけもなく、彼が今座っている椅子は二週間ぶりの貴重な出番を与えられ、彼の重量を久方ぶりに受け止めている。
 更に、普段ならざっと見出しに目を通し、気になった記事を彼女にスクラップさせるだけの新聞にも、彼は隅から隅までゆっくりと目を通す余裕を持っていた。
 その上、鏡の中に無精髭を見つけても、面倒くさいからというただそれだけの理由で、『髭は……、今日は剃らなくてもいいか』と頬を一つ撫でて洗顔を終わらせても、何の問題も生じない。
 彼にとっては特別尽くしの、だが、一般人にとっては当たり前の日常の朝は、穏やかに彼を包み込む。
 食後の珈琲はいい加減手の中でぬるくなり、酸味が強くなってしまった。食事の後片付けの為に席を立った彼女はそのままキッチンを出てしまい、彼はひとり向かい合う者もなく、キッチンの片隅で新聞を読んでいる。それでも彼の至福は目減りすることなく、静寂と共に朝の空気に満ち溢れていた。
 彼が新聞のページをめくる音だけが、キッチンの平和な空気にリズムを添えていた。

 だが、そんな彼の幸福な静寂は、ばたんと扉の開く音と共に破られてしまう。モップで床を掃きながらダイニングに入ってきたリザは、目の前に座ってのんびり新聞を読んでいる彼の姿に、まなじりを吊り上げた。
「大佐!」
 呆れた彼女の声が彼を呼ぶ。否、呼ぶと言うには、その口調には非難の成分が多分に含まれていた。
 彼女は彼の階級を呼ぶだけで、その中に様々な意味を含ませそれを彼に悟らせるのだから、まったく大したものだとしか言い様がない。ロイは苦笑して新聞紙から視線を上げ、彼女のお小言を受け止めるべく、身構えた。
「どうしたね? 中尉」
「どうしたもこうしたも、ありません。さっき、あれほどお願い致しましたでしょう?」
 明らかに不機嫌な顔をしたリザは、モップを片手に彼の元へと歩み寄ってくる。
 さて、自分は彼女に何をお願いされただろうか?
 本気で頭を捻る彼は思案顔になり、リザはそんな彼に大きな溜め息をついてみせる。
「また読み物に夢中になって、生返事をしていらしたのですね。専門書をお読みでないからと、油断していた私が莫迦でした」
「すまない、私は何を頼まれた?」
 ここは何も反論せずに、彼女に聞いてしまった方が傷は浅くて済む。今までの経験則からそう判断し、ロイは素直に彼女に謝罪すると、新聞をくしゃりと畳んでテーブルに置いた。きちんと彼女の話を聞くポーズを示したロイに、リザは少しの厭味を込めて、子供に言い聞かせるように文節で言葉を区切りながら言った。
「掃除を済ませておきたいので、三十分ほど散歩にでも出ていらしてください、と申し上げたと思うのですが」
 ああ。そう言えば言われた。
 確かに片付けをしにテーブルを立つ際、彼女がそう言い置いていったのを彼は聞いていた。だが、彼の脳はそれを不要のことと判断し、さっさと彼の記憶領域から彼女の要請を排除していたのだ。
「私の家の掃除など、ハウスキーパーを頼めばいい。君も折角の休みなのだから、そこまで甘えるわけにはいかない」
 真顔で彼女の言葉に答えたロイに、リザは更に呆れた顔を作ると足下のフローリングの床を指さした。
「その、ハウスキーピングすら頼む暇もないほどお忙しい国軍大佐は、どこのどなたでいらっしゃいますか? この床をご覧になってから、そういうことはおっしゃって下さい」
 確かに彼女の言うとおり、床の上にはタンブル・ウィードならぬ、タンブル・ダストがふわりと彼女の動きにあわせて揺れている。だが、そんなことを言われても、彼がハウスキーパーの依頼をし損なったのは今週末に限っての話であったし、その前の数週間は滅多に家にも帰れぬ状況が続いていた。その事実は、毎日共に残業をした彼女が一番良く知っている筈だった。そこまで考えて、ロイはようやくこの事態を招いた状況に思い至る。