ソファーのある風景 サンプル1

  所有権 サンプル



 主のいないベッドは、夜の海ほどに広く冷たかった。
 深夜も近い寝室はひっそりと静まり返り、リザの呼吸音だけが規則正しく聞こえている。彼女はそっと息を潜め、シーツの中で膝を抱えた。小さく身を丸めると、ベッドはますます広くなったように感じられた。
 どこまでも続くように思える広いベッドの片隅で、リザは頭に上っていた血がシーツの温度に徐々に冷えていくのを感じながら、ひとり胸の内で自問する。
 何故自分はこんな所で、こんな事をしているのだろう?
 当然のことながら彼女の問いに答える声はなく、リザはころりと寝返りを打つと、白いシーツの狭間でひとり、何かを確認するようにそっと手を伸ばす。
 伸ばした手の先に触れるものは、何もなかった。
 リザは指先を伸ばしシーツの端を掴むと、胸元でぎゅっと小さな握りこぶしを作った。いつもなら、もうひとり分の体温がある筈のベッドの中で、リザはくしゅくしゅと白いシーツを抱え込む。
 冷たいシーツを胸に抱き、リザはぼんやりとほんの数時間前の出来事を反芻する。
 珍しく早めに仕事が終わったこの夜、彼女がロイの誘いにオーケイを出したのは一九三〇のことだった。
 彼らは行きつけのデリカテッセンで適当に買い物をしてから、ロイの部屋へと帰りついた。美味しい食事と少しのアルコール、そして何よりも二人だけの穏やかな時間は、張り詰めていた彼らの心をゆっくりと解してくれた。だから、彼女は彼にバスルームでの戯れを許し、その後ソファーに並んで座り、更にワインを一本空けたのだった。
 そう。そこまでは、何の問題もなかったのだ。
 夕食の時に飲んだペリエの泡沫のように、先程までの幸福感が浮かんでは消え、彼女の手の届かないところにいってしまう。さっき、バスルームでロイが彼女の素肌につけた紅い印に無意識に触れながら、リザはベッドの中でまたころりと寝返りを打った。
 どこで自分は、臍を曲げたのだろう。
 まるで、記憶を確認するかのようにシーツを握ったこぶしをそっと開き、リザは考える。
 どこで彼は、機嫌を損ねたのだろう。
 きっかけなど思い出せない程に、彼らの決裂の理由は些細なことであった筈だった。それがここまで拗れたのは、過ぎたアルコールのせいか、蓄積した疲労のせいか、それとも折れることを潔しとしない意地っ張りな互いの性格のせいなのか、リザには分からなかった。
 否、分からないのではなかった。その全てが少しずつ絡み合って解せなくなったのが原因であり、一つに絞ることが出来ないだけだった。
 ただはっきりしていることは、彼女が怒りながらソファーを立ち彼の寝室を占拠したこと。そして、同様に腹を立てた彼が立ち去る彼女を追ってくることなく、ソファーを今夜の寝床と決めたらしいこと。それだけが、今のリザが把握している事実だった。
 どうすればいいのだろう。
 リザはまた自問し、大きな溜め息をつきながら、シーツの中に顔を埋めた。
 シーツの中で息を吸い込めば、否応もなく彼の匂いが彼女の鼻腔を満たす。彼の家の洗剤の匂い。微かな男の体臭。シャンプーの匂い。さっき二人で飲んだワインの匂い。その他の彼を形作る様々な匂いが染み付いた布に、リザは彼の事しか考えていない自分に気付かされる。
 どうしたって自分を解放してくれない傲慢な男の気配から逃れようと、リザはシーツの中から身を起こすとベッドの上に起き上がった。だが、彼女が身にまとった男のシャツは、彼女が彼のテリトリーから逃げ出すことを許してはくれなかった。
 シーツよりも更に濃厚に彼と密着する衣服は、彼女の身体を包み込んでしまっている。だからと言って、それを脱いでしまえば、彼女に着るものはない。着るものがないどころか、今の彼女は彼のシャツ以外、何も身につけていないのだ。先刻のバスルームでのロイの悪戯のせいで、彼女の着ていたものは皆びしょ濡れになってしまった。だから彼女は、彼が貸してくれたワイシャツに身を包むしかなく、それがまた彼女に堂々巡りの思考をもたらしていた。
 シーツから抜け出した寝室の夜の空気は寒々しく、リザはすっかり困り果て、彼のシャツごと自分の身体を抱き締める。握った肩に感じる彼女自身の掌の温もりは、男の高い体温には及びもつかないものであった。彼女の肉体はシーツの傍らにあって然るべきの男の体温を、否、男の存在を懐かしんでいる。だが、リザの小さな矜持は、彼女が自分から男に対して折れる事を許さない。
 リザは自分の肩を抱いたまま、自分を納得させる為の言い訳を考える。
 彼の洋服ダンスは寝室に置いてあるから、先程の状況のままであるのなら、彼は上半身は何も着ていないことになる。こんな冷え込む夜に、彼から服を取り上げた上にソファーの上で眠らせて、万が一にも風邪など引かせてしまっては、明日以降の仕事に差し障りが出てしまう。副官である彼女が、そんな事態を看過するわけにはいかない。
 ならば、彼に着替える場所を明け渡しこのベッドできちんと眠って貰い、彼女がソファーで眠るべきなのだ。
 リザはそう考えて自分を納得させる。そして、思い切ってベッドから立ち上がって、リビングへと続く寝室の扉を細く開けたのだった。

 キィ。
 闇の中に扉の開く音が響く。リザは自分の立てた音にびくりとしながら、その隙間からリビングを覗き込んだ。
 果たして彼は、彼女がリビングを後にした時のままに、ソファーの上に座っていた。部屋の電気はすっかり落としてあり、ソファーの傍らの読書灯だけが、ピンスポットのように彼の姿を照らし出していた。
 よくよく闇に目を凝らせば、何処から引っ張り出してきたものか彼はブランケットに包まっていて、やはり彼女の予測どおり、彼がそこで夜を明かすつもりであるらしいことが分かった。
 きっと彼は、自分の背後で寝室の扉が開いた事に気付いている。しかし、彼は振り向きもせず、カラリと手元で冷たい音を鳴らしている。それは、ウィスキーグラスに触れる氷の音だった。
 彼女と同じ眠れぬ夜を過ごす男は、アルコールに夜の長さを紛らわすことを決めたに違いない。その事実は彼も独りの夜を持て余している事を示していて、リザは少しだけ安堵して彼の後ろ姿を見つめた。
 だが、だからと言って彼に対するリザの態度が軟化するわけではなく、彼女は先程の言い訳を胸に抱えたまま、緊張に頬を強張らせ、するりと寝室を滑り出た。ゆっくりと彼の背後に近付きながら、リザは彼になんと声を掛けようか考える。
 彼が通うバーにいる女たちなら、「ごめんなさい、私が悪かったわ」だとか、「貴方の優しいところに甘えてしまったの。許してくださる?」などと甘えた声で謝罪をし、後ろから彼に抱きついたりするものなのかもしれない。だが、謹厳実直、裏表のない性格の彼女に、そんな背中のむず痒くなる様な台詞が吐けるわけもない。
 結局リザは木で鼻を括ったような口調で、彼の背中に向かってこう言ったのだった。
「大佐。そんなところで夜明かしをされて、お風邪でも引かれたら、どうなさるおつもりですか」
 当然のように彼の返事はなかった。
 その代わりにグラスの氷が鳴り、彼の頭が傾いた。彼女を無視し、ゆっくりとウィスキーを舐めるロイの後頭部を見つめながら、リザは彼の沈黙に負けないようにもう一度声を上げた。
「感情に任せて寝室を占拠しましたことは、謝罪いたします。ですが、ここは元々大佐のご自宅であるのですから、私がそちらで夜明かしをさせていただくのが道理かと」
 精一杯の詭弁で自分を鎧い、リザはなるべく冷静な声で、あくまでも副官としての態度で話を続けようとする。彼の手の中で、ウィスキーグラスが返事の代わりにまたカラリと音を立てた。リザは尚も言い募ろうと口を開いた。だが、彼女が次の言葉を発するより先に、闇に男の低い声が響いた。
「謝るのは、そこなのかね」
 ベルベットの闇を撫でるような柔らかな声にぞくりとしながら、リザは敢えて硬質の声のままで答える。
「他に何が?」
「可愛くない女だね、君も」
 あくまでも自分から折れることのない彼女の言い種に、ロイは振り向きもせずに呆れたようにそう言うと、また手の中のグラスを傾けた。
「可愛い女性をご所望でしたら、行きつけのバーにでも足を運ばれてはいかがですか?」
「ああ、確かに君の言うとおりだな」
「お出かけになるのでしたら、私はここでお暇させていただきますが」
「その格好でかね?」
「アイロンをお借りすれば、いつでも帰ることは可能です」
「こんな時間から出かけても、店なんて皆閉まっているさ。無意味な事をする必要はない」
 売り言葉に買い言葉、とはよく言ったものである。彼女はこの手に触れる体温を求めてリビングに来たというのに、結局こんなやりとりしか彼とすることが出来ないでいる。
 謝罪をするにしても、原因も分からなくなってしまった諍いにどう謝罪をすればいいのかリザには分からなかったし、悪いと思ってもいないのに謝ることはもっと出来ないことだった。そして、多分ロイも、彼女と似たようなことを考えているに違いない。
 これが職務上のことであったなら、彼らはどちらかが大人になって一つ頭を下げて話を済ませてしまうことだろう。だが、二人きりだとこれがどうにも拗れてしまう。それはプライベートだからこその、互いへの甘えと意地であった。
 莫迦莫迦しいほどに、二人は二人である時に己の我が儘を隠さない。それは、喜ばしいことであると同時に、非常に厄介なことでもあった。
 リザはこれ以上事態を悪化させないように、大きく一つ深呼吸すると、一歩ソファーの方へと近付いた。リザは彼が座る反対側の背もたれの角に手をかけると、慎重に話を振り出しに戻す。
「でしたら、ベッドをお返し致しますので、きちんと寝室でお休み下さい。あちらは大佐の寝室なのですから、大佐にお使いいただかねばなりません。勝手に寝室を使わせていただいた事は、重ねて謝罪いたします」
「君は私が女性をソファーで眠らせるような酷い男だと言いたいのかね? 失敬だな」
「女性ではなく、副官として扱っていただければ結構です」
「副官、ね」
「それに、いつまでもそんな格好でいらっしゃっては、本当に風邪を引かれますよ?」
 ロイは低い声で笑うと、遂に彼女の方を振り向いた。