1811 On the sofa

彼は満ち足りていた。
何故ならそこには、彼が穏やかに休日の午後を過ごすための全てが揃っていたからだ。
お気に入りのソファー。
うず高く積み上げられた書籍の山。
愛用の万年筆。
贔屓の珈琲屋のオリジナルブレンド
そして、同じ屋根の下には彼女がいる。
これ以上、彼が望む物は他になかった。
手の届く範囲に彼が必要とするものは全て揃っている。
彼は深夜まで、このソファーから一歩も動かずに過ごすことさえ可能だった。

傾きかけた午後の穏やかな陽射しが窓から差しこみ、吹き込む風が心地好い。
ロイは深くソファーに腰掛け直すと、飲みかけの珈琲を目の前のローテーブルに置いた。
ふっと視線を上げれば、ダイニングで床の埃たちと格闘している彼女の姿が見える。
ハウスキーパーを頼むからと言っても聞かない彼女の頑固さに、改めて苦笑しながら、ロイは視線を再び机上の構築式に戻した。

この日は朝から、彼は一つの構築式を組み直す事に時間を費やしていたが、どうにも途中で行き詰ってしまっていた。
そんな彼が丁度気分転換に珈琲を淹れに立ったところで彼女の訪問があり、ロイは快く彼女を迎え入れ、そして今に至る。
午後も遅い時間になっていたというのに昼食を食べていなかった彼は、こっ酷く彼女に叱られはしたが、それを口実に彼女の手料理を楽しむことも出来た。
千切っただけのレタスに半熟のサニーサイドアップ、それだけでも彼にはご馳走だった。
錬金術に夢中になっていれば、一日中食事をとることも忘れるほどの彼である。
実は、朝食も林檎一個で済ませた事は、彼女には内緒だった。
その辺に隠してあるレーションが一日の栄養源になり兼ねない彼の食糧事情は、彼女によって人間らしさを保っていると言っても過言ではない。

食事の後片付けを終えた彼女は、彼の人間的生活の復旧に努めるべく、彼をソファーの上へと追放し、さっさと掃除機をかけ始めた。
彼が構わないと言ったところで、彼女は聞き入れはしない。
まぁ、実際のところ、彼女の言うとおり、放っておけば彼の家が足の踏み場もない魔窟になってしまうのは、時間の問題なのである。
結局のところ、彼は彼女に甘え自分のテリトリーに踏み込む権利を彼女に与えるしかないのだ。
幼い頃から、『あの』師匠の娘として錬金術師の家という、一風変わった環境で生きてきた彼女にとって、過去と今の違いは面倒を見る相手が父親からロイに変わった、というだけのものであるのだろう。
というよりも、錬金術師という生き物が放っておけば研究以外の事が眼中になくなってしまう、とんでもない社会生活不適合者であることを、彼女は身をもって知っているのだろう。
否定できないのが、なんとも情けないことであるのだが。
勤勉な彼女は、昔と変わらず私生活においても勤勉で、甲斐甲斐しく彼の世話を焼いてくれている。
きっとこのまま放っておけば、彼女は彼のバスルームのタイルから、玄関の姿見までピカピカに磨き上げてしまうだろう。
いくら彼にとってそれが幸福な午後であっても、彼女一人を働かせるのは彼の本意ではない。
そう。例え、それが彼女の性分だとしても。

さて、どうしたものだろう。
いい加減、日も暮れてきたし、このままでは彼女は夕食の支度に突入し、折角の休みを『仕事』で終わらせてしまいかねない。
ロイは打開策を考えながらペンを持ち、構築式の続きを描き掛けて、途中で手を止めた。
何かを思いついたように、ロイは再びペンを紙の上に走らせると、さっき置いた珈琲カップを手に取り、その中身を飲み干し彼女を呼んだ。
「リザ」
 ひょこりと金の頭がダイニングの入り口から覗く。
「何でしょう。大佐」
「すまないが、珈琲をもう一杯」
「承りました」
休日とは思えない彼女の堅苦しい返事に苦笑し、ロイは歩み寄ってくる彼女に珈琲カップを差し出した。
「手を煩わせてすまないが、ミルクを少し入れてくれるかな」
「珍しいですね、いつもブラック一辺倒でいらっしゃいますのに」
「何、カフェインの摂り過ぎで、胃が重くなってきたものでね」
「でしたら珈琲をお止めになればよろしいのに」
「だからと言って、紅茶を飲んでもカフェインを摂る事に変わりはないだろう」
理屈っぽいロイの言葉に苦笑し、リザは彼の手からカップを受け取る。
「では、お好きにどうぞ」
「何も言わないのか?」
「申し上げても聞かれませんのは、いつものことですから」
「耳が痛いね」
そう言いながら、ロイは彼女の手の中に幾つかの紙片を滑り込ませる。
「何ですか?」
「掃除のついでといっては何だが、すまないが君に頼んでおきたい事が幾つかある。ここにメモしておいた。急がないから、後で目を通しておいてくれないか」
「承りました。何か買っておくものでも?」
「まぁ、そんな所だ。それより先に、珈琲を」
「まったく、人使いが荒いですね。少しお待ち下さい」
そう言いながら、リザはさっさとまたダイニングに立ち去っていった。
ロイはその背を見送って、再び描き掛けの構築式に視線を落としたのだった。

ことり。
しばらくして、彼の前に見慣れた珈琲カップが置かれた。
それと同時に、彼女の体重がソファーの彼の隣の席を揺らす。
ロイはふっと口元で微笑みながら、目線を上げずに構築式を綴り続ける。
笑いを含んだ彼女の言葉が、隣から聞こえる。
「大佐」
「ん?」
「なんですか、これ」
「だから、君に頼みごとだ」
リザは、くすりと笑って彼が渡した紙を手の中で広げた。

『1811 On the sofa』

「君との待ち合わせの時間と場所の指定だよ。ああ、ちなみに3分の遅刻だ」
ロイはズボンのポケットから銀時計を取り出すと、ぱちりと蓋を開けわざとらしく眉を顰めてみせた。
「キッチンの時計は、まだ一七四三を指しておりましたが」
澄ました顔で返すリザに、ロイは顰めた眉を解き笑った。
「これは、してやられたな。電池切れか。後で直しておく事にしよう」
「では、こちらは何ですか?」
リザは手の中の紙を捲って、次の紙片を指差す。

『1840 Country of the dusk』

「家から歩いて一〇分ほどのところに、最近見つけた美味いワインの揃った店だ。この時期、鴨が美味いらしい。夕食にどうかと思ってね」
「では、こちらは?」

『2100 Dandelion wine』

「食事の後は、バーでのんびりするのもいいだろう?」
「まさか本当にタンポポのお酒が出るわけじゃないでしょうね?」
「それは、行ってみてのお楽しみさ」
そう言ってリザを煙に巻くと、ロイは万年筆の蓋を閉め、彼女の腰を抱いた。
「君も私も同じ屋根の下に半日一緒にいるというのに、相手の顔をまともに見ていないなんて、おかしいと思わないか?」
「お仕事中に嫌というほど拝見しておりますが」
「君ね」
ロイが呆れ顔を作ると、リザはまた微笑んだ。
「こんな、子供の謎々みたいな事をなさらなくても、直接おっしゃってくださればよろしいのに」
「何、この方が面白じゃないか。それに、子供みたいな謎々ではないぞ?」
そう言って、ロイは隠し持っていたもう一つの紙片を彼女に渡す。
リザは彼の目の前で紙片を開き、微かに頬を朱に染めた。
「大佐!」
「さっき、君は私の頼みごとを引き受けてくれたな? 今更、撤回するとは言わせんぞ」
ロイはそう言って、ニヤリと笑うと彼女の手の中の紙片を全て取り上げた。
「さて、ではまず一八四〇の予定から順にこなしていこうか。着替えて、予約の電話を入れてくるから、君はその珈琲でも飲んで、そこで待っていたまえ」
「大佐が飲まれるのでは、なかったのですか?」
「君、食後の珈琲を飲む間もなく、働きづめだったのだから、そのくらい飲んでおきたまえ。それに、私がミルクを淹れた珈琲など滅多に飲まないのを知っているだろう?」
用意周到なロイに圧倒され、言葉を失ったりザを尻目に、ロイはさっさとソファーから立ち上がる。
「さて、最後まで予定をしっかりこなしてくれたまえ」
「大佐!」
リザの抗議を背中に聞きながら、ロイは幸福な午後を締め括る準備を始めるべく、リビングを後にした。
机上に残された最後の紙片には、こう書かれていた。

『2200 Between the sheet』

今夜は眠りに落ちる瞬間まで、彼の幸福は続くことは間違いなかった。

 Fin.

  *********************

【後書きのような物】
 せっかくのロイアイの日なので、珍しく甘め(当社比)に仕上げてみました。静かな優しい午後、といったところでしょうか。じゃれ合う平和な一時が、彼らの上にありますように。

 本当は、別館に「2200 Between the sheet」を書きたかったのですが、時間切れでした。別館、もう3年も更新してないことに自分が吃驚です。オフで書いてるから、そんな気がしないだけなのですが。

 Blog開設から6度目の611を迎えることが出来ました。お付き合い下さる皆様、どうもありがとうございます。
 ロイアイ、大好きです。今年もいっぱい書きたいです。手が追いつかないんですが。
 また暫く、お付き合いの程、よろしくお願いいたします。

お気に召しましたなら。

Web拍手