overanxious

コツコツと遠慮がちなノックの音と、遠慮なく扉を開く音がほぼ同時に狭いバスルームに響いた。
「どうかなさいましたか?」
リザはシャワーカーテンの陰でわずかに身構えながら、カーテンに映る男のシルエットに問いかける。
だが、彼女の問いかけに返事はなく、その代わりにカーテンの隙間からにゅっと大きな手が差し込まれた。
「忘れ物だ」
そう言ったロイの手の中には、彼女の化粧石鹸が握られていた。

彼は彼女の返事を待たず、言葉を続ける。
「新しいものをおろすと言って、リビングに忘れていっただろう? 困っているかと思ってね」
「お気遣い、ありがとうございます」
そう言って石鹸を受け取ったリザは、男の律儀さにくすりと笑った。
「何だね?」
彼のいぶかしげな声と共に、シャワーカーテンの向こうに引っ込んだロイの手が洗面台の蛇口をひねった音がした。
リザは包み隠さず正直に、己の思うところを彼に伝えた。
「いえ、ご本をお読みでしたから、お気付きにならないと思っていました」
「ああ。たまたま珈琲を取ろうと手を伸ばしたら、握ったのがそれだった」
彼女の言葉に彼は気を悪くする様子も見せず、そう答えた。読書に集中している時、他のことが全ておざなりになってしまう自身の悪癖には、彼自身も自覚があるらしい。
手についた石鹸を洗うロイの言い様にリザはまた笑い、手渡された石鹸を所定の場所に置くと湯船に身を沈めた。
「流石に、口はお付けになられませんでした?」
「失礼だな、君。持った時点で気付いたぞ?」
「今日はあまり集中できるほど、興味深いご本ではなかったのですか?」
「そうでもない。そこそこ面白い」
そんな言葉と共に、カーテンの向こうでぱらりとページをめくる音がした。
「こんなところまで、本をお持ちになったのですか?」
驚くリザに、ロイは笑った。
「石鹸を掴んだから、そのままバスルームに来たんだ。仕方あるまい」
あまりに正直なロイに、彼女はまた笑った。
「大佐らしいと申しますか」
莫迦だと言いたいのかね?」
「いいえ」
彼女と会話を続けながら、ぎしりとロイがバスタブの隣の便座に腰掛けた気配がした。
「まぁ、読書に時間を忘れるのはいつものことだ」
「そうですね。いつも、そこで読書をなさって、なかなかバスルームを空けてくださいませんし」
「それは悪いと思っている。だが、落ち着くのだよ、ここは」
「分からないでもないですが」
そう言いながら、リザはぴちゃりと湯を跳ねた。
彼女がふっと湯煙に大きな息を吐くと、カーテンの向こうでぱらりとまたページをめくる音がした。
「大佐? こんなところで腰を落ち着けないでください」
「バスルームに入るのに裸足になってしまった。靴を履くのが面倒くさい」
そう言って、また書物のページを繰る男にリザは呆れて言う。
「まったく、また横着を」
「君の為にせっかく石鹸を届けてやったというのに、つれないな」
「顔なんて、一度くらい普通の石鹸で洗っても死にやしません」
素っ気ないリザの言いように、またロイは笑った。
「君のそう言う男前なところ、好きだよ」
さらりとそんな風に言ってのけるロイに、リザは反応に困り、ちゃぷりと湯に顔を半分沈める。
彼女のたてる水音に、男は彼女の反応を察したらしく、ふっと吐息と笑みを一緒にこぼした。
また、彼がページをめくる音がして、リザはそれを反論の材料に何とか体勢を立て直す。
「本を読む片手間にそんなことを言われても、信用出来ません」
「これは心外だな、本心だというのに」
彼女の抵抗を受け流し、ロイはまたページを繰りながら笑う。
「だいたい、ご本をお読みの時は生返事ばかりなさるじゃないですか」
「うむ、まぁ、否定は出来ないな。すまない」
「分かっておいででしたら、結構です」
リザはそう言って話を締めると、また湯に沈んだ。

カーテンの向こうでは、規則正しい間隔でページをめくる音がする。
ぴちゃんと天井からバスタブに、雫の落ちる音がする。
心地好い静けさの中で、リザは黙って湯船の中でうんと伸びをした。
彼女の指先から滴る雫が湯面に落ちる音と、彼のページを繰る音が重なる。
湯気の中の静寂と、手の届く場所にロイがいる幸福、そして眠ってしまいそうなぬるま湯が彼女を包み込む。
穏やかで、満ち足りた、ささやかな幸福のひと時をリザは噛みしめる。
静かに、静かに、リザは男がページを繰る音だけを耳に、バスタブに至福の時を求める。

どれくらい、そうしていただろうか。
不意に彼女の幸福な空間を破る、生真面目な声がカーテン越しに届いた。
「眠って溺れてくれるなよ?」
先程までの穏やかさを忘れた心配げな男の声が、ふざけた物言いに真剣さを隠して彼女の安否を問う。
リザは心配される幸福に、また笑った。
「ご本をお読みの時は、他のことはお留守になってしまわれるのに珍しいですね」
「君のこととなると、話は別だ」
また臆面もなくそう言う男に、リザは小さな逆襲をすることにした。
「なら、溺れても大佐が助けてくださいますでしょう?」
彼女の言葉に、ロイは大げさに嘆息する。
「勘弁してくれ、心臓に良くない。今だって急に君が静かになるから、冷や冷やしていたというのに。まったく!」
「子供じゃないんですから」
「そうは言うがね、君! 風呂で溺死する人間は少なくないんだ。特に疲れている時はだな」
ロイはムキになって、彼女に対し言い募ってくる。
彼女とまっすぐに向き合う彼の手元では、もうページを繰る音は聞こえない。
リザは満足してシャワーカーテンの隙間から顔を出すと、雫を鼻先からぱたりと落としながら、彼女に対しては心配性な優しい男ににっこりと微笑んでみせたのだった。

 Fin.

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【後書きのような物】
 すみません、色々書き散らして「後編」とか「おまけ」とかたどり着けてません。とりあえず、書けたものから順番に。
 大佐のお家の間取りを考えた時に発展した、ユニットバス萌え。シルエットの力は偉大でした。ふっふ−。

お気に召しましたなら。

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